= 入道雲だより =
      シリーズ№24
        
   
【7/18東大プレの分析と
          予備校における「左」と「右」の随想 】



 幻冬舎新書の浅羽通明(あさばみちあき)著『右翼と左翼』の43ページには、「左」的なものと「右」的なものが、どのような点で価値対立の両極なのかをいろいろと挙げていて興味を惹かれます。

 それによれば、「左」的なものは=理性・知性主義・合理主義・啓蒙(けいもう)主義といった言葉で示されており、それに対する「右」的なものは=反知性主義・非合理主義・ロマン主義・伝統的権威主義・反知識人主義といった言葉で示されています。

 この分類法でいけば、入試古典対策の実証性とその効率化を第一とし、しかもそこから得られた知見を、こうしたお便りを通して学生に啓蒙しようとする木山の立場は、さしずめ予備校左翼(よびこうさよく)の筆頭といった感じでしょうか。

 一方、これに対する「右」的な人々の考えは、「伝統」や「人間の感性・情緒」を重視し、理性や知性がさかしらにも生み出した実証主義などでは人は割り切れないと考えますから、たとえ非合理的なものであっても決してそれを変えるべきではないと結論する点で、つまりは保守なわけです。

 予備校における「右」的なもの、保守とは何かと、たわいもないことを考えてみると、これは予備校のカラーによっても違いますから一概には言えませんが、こと代々木ゼミナール本部校に限定して言えば、やはりカリスマイズムへの傾倒といった点が「右」的ロマンチシズム(ロマン主義)に最も近似した情動ではないかと木山は考えます。

 というのも、ロマン主義とは絶対的なものや権威あるものに憧れて、それらとの一体感の中に自己の高揚感や存在の意義を見出そうとする立場ですから、カリスマ・スーパー講師に憧れる学生の思考様式や行動様式とはよく似ています。

 しかし、この「右」的カリスマロマン主義の中身も一様ではありませんし、時代とともに変遷してきたと言えます。ひと昔前のような(ふた昔前か?)その道の研ぎ澄まされた最も深い教科上の知見を持つ実力派講師の深遠さに、畏敬の念をもって接するといった方向の人気のあり方というものは、昨今ではほとんど見受けられません。

 むしろ今日的に強く見られる傾向は、「アマチュアリズム」の優位性ともいうべき現象です。実力派講師の言説が、どうしても知識の過多(かた)によって晦渋(かいじゅう)なものにならざるを得ないときに、知識量の薄いアマチュアリズムの言説の方が事実がより単純化されるという点で、学生にとってはそちらの方が理解が容易であるように感じられるといった傾向があるように思います。(もちろんその言説が学問的にも正しく、入試に対しても有効なものであるかどうかは、また別問題ですが…。確かにアマチュアリズムであればこそ、の言説の明快さというものはあると思います。)

 それはプロ的なものの裏側にほの見える商業主義へのアンチ(anti)なのかもしれませんし、また何らバイアスのないアマチュアだからこそ、プロ的なものにはない率直な真実性がそこにはあるという期待の反映なのかもしれません。

 ベテラン講師の言説よりも、たとえばカリスマ東大生の対策本などの方に若い人の関心が向きがちなのも、こうしたアマチュアリズムの優位性の一例ではないかと、木山は考えています。

 さらに別の側面を言えば、アマチュアリズムが受け入れられる現象の根底には、若者の極端なまでの親密性志向が関係しているのではないかと思います。現代の若者は電子メディアの扱いに通暁(つうぎょう)し、高度な情報化社会に生きていながらも、実はその一方で他者との親密なコミュニケーションを展開することに極端なまでに気を遣っているという側面があります。

 たとえば、メールの返事を即座に返すのでなければ相手に対して失礼であるという若者のマナー規範は、それではメールの便宜性が無きに等しいではないか、と古いタイプの人間には感じられますが、若者の間では一般的なマナーとして共有されているようです。

 また、仲間から浮いた存在にならないように、携帯でつねに連絡を取り合い、数百もの携帯番号を登録し、朝・夜の挨拶から日常会話まで交換するといった例もあると聞きます

 生(なま)に触れ合う社会的文化が希薄化していく中で、その空白を埋め戻そうとする反動なのでしょうか、身近なコミュニケーションに対しては逆に極端なまでに親密性を希求する、これは裏から言えば、一人でいることを非常に恐れる、または恥に思うという感情と表裏一体です。

 その意味では、「ひきこもり」も「過度な親密性志向」も、根っこは同根と言えるのかもしれません。(というのも、集団からオミットされることを極度に怖れるが恐れるがゆえに、先に集団の方を自らオミットしてしまうのが「ひきこもり」だと考えられるからです。)

 キャンパスで友人を作れないと大学に行く価値がないとまで考える若者や、昼食を一人でとるのが恐いといったランチメイト症候群の女子の問題や、身近な例では質問にかこつけて実は好きな講師の先生との新密度を高めることに腐心する学生の行動様式まで、すべてはこうした感受性の延長線上にあるものと思われます。



 ところで、こうしたよるべなく浮遊する若者たちのある階層の人々を、予備校の「右」的カリスマロマン主義、またはもっと気軽に接することのできるアマチュア感漂うプチ・カリスマ主義が、上手にすくい上げて若者の親密性志向を満足させ、一種のアジール(避難所)としての居心地のいい居場所を提供しているのではないかと思われることがあります。

 そこでは、講師も含めて、予備校がいわば〝仲間作りの場〟と化しているわけで、そうした現象は、木山が予備校で教え始めた約四半世紀前(27年前)の予備校の空気とは随分異なったものです。
 あのころの予備校生は、もっと平気で孤独であり、したがってもっとガランとした自由な空気の中にいたように思います。

 とにかく、「左」的な合理主義では見落とされてしまうような、当事者が直面している実存的問題やリアリティの領域があって(右の例では「孤独に対する恐怖感」)、そこにコミットすることで「右」的なものが伸長するといった構図は、政治や思想の領域にまで敷衍(ふえん)しても言えることで、おもしろい現象だと思います。(敷衍=意義を広く押し広げて説明すること)

 たとえば、例は悪いかもしれませんが、論理的にはどう考えても尋常ではないネオナチズム(極「右」思想)が、ヨーロッパの政治領域において一定の支持を得ているのは、移民の増加などによって職を追われてしまった底辺層の人々のやり場のない怒りみたいなものを、民族主義の問題やナショナリズムに置き換えることによって、実存的に癒(い)やしているととれないこともありません。

 とかく「左」的な言説は、理詰めで相手を説得することに向かってしまって、相手が直面している実存的な問題やリアリティを見落としてしまいがちなのは、確かに「左」的な人々の反省しなければならない点だと思います。
 「何があっても生きてろよ」と言ってあげなければ、現実に生きているのが苦しいと感じる悩み多き青年もいるはずですし、「右」的カリスマロマン主義の効用も、確かにそうした人々にとっては必要不可欠なものだと思います。

 かくいう木山の立場も、実は理念としての「左」を標榜しているわけではありません。私の立場はジョン・デューイ(john dewey 1859~1952)のプラグマティズム(pragmatism)の考え方に近いものです。(プラグマティズム=観念の意味と真理性は、それを行動に移した結果の有効性いかんによって明らかにされるとする実用主義的な哲学)

 といって、木山が特にジョン・デューイを研究したというのではなく(何冊か本は読みましたが)、私の感想では、こうした考え方はアメリカの、特にクリスチャニティーの世界においては、どこにでも空気のように遍在する哲学なのだと思っています。

 1994年にアメリカのユタ州で白人女性と結婚し、ニューヨークやカリフォルニアで暮らした木山には、いつの間にかそうしたアメリカ的な実用主義の哲学が浸透したのだと思います。それが結果としての実証主義につながっているのに過ぎません。

 というのも、プラグマティズムの定義を受験対策上に置き換えてみると、こんなふうになります。
 「受験対策の価値と有効性は、それを実際の行動に移した結果の有効性いかん、つまり本番の入試や模試の結果において、どれほど有効性があったかによって明らかにされる」
 したがって、そこから帰納的に得られた知見や方法論が、たとえどれほど通常の常識や理念からかけ離れたものであれ、結果の有効性が証明されるのではあれば、それを真として認めようという立場です。

 
 今年の夏の講習会においても、木山のオリジナル講座は、ともに初日から3日間は古文公式・漢文公式の徹底した暗記に努めました。(本部校では2クラスで約90名の受講者があり、柏校では約30名の受講者がありました。)

 一般的な他の古典講座は、いかにも夏の予備校風景らしく、教師が問題を解説し、学生は熱心にそれをノートに書き写すといったスタイルを基調とするわけですが、そうした標準から見れば、学生にメモを取らせることもなく、ただひたすら一人一人に当てて重要知識の暗記の定着度をチェックし続ける木山方式というものは(しかも3日間!)、かなり奇異なものに見えるはずです。

 しかし、どれほど標準から離れていても、結果の有効性が証明されている以上、やはり(そうした単元的講義調スタイルの学習方式との比較において)、木山方式の優位性を疑うことができません。

 そのことは、これまでの20数通のお便りシリーズの中でもたびたび具体的に分析・解説してきたとおりです。
 ちなみに、そうした資料の裏づけのあるものを、もう一度ここに列挙してみますので、どうぞ虚心に眺めてみて下さい。他の方式に比べてより価値があるかどうかの判断を下すには、すでに十分なサンプル数だと思います。

 ちなみに、「効果あり」とする基準は、以下の4項目です。
 
模試や本番入試の問題の解法に、直接ダイレクトにつながる語彙や知識や方法論や資料を、教師は的確に教えているか。
 
それがしっかりと学生に理解されるほどの心迫力とくり返しのもとでなされているか。
 
狙われる語彙や文法や文学史や古典常識の全体を常に網羅しようとしているか。
 
それらを具体的に実証できる資料が存在するか。(資料的に実証できないものは「効果あり」としないということ)

◎8/15 第1回早大プレ
《 全学部共通古文問題 》

 9問中6問!

《 文学部 漢文 》

 
4問中3問!

*第1回早大プレの詳しい分析・解説は、次のお便り№25に載せる予定です。

◎7/18 第1回東大プレ
《 古文 》

 

*第1回東大プレは、このあと詳しく説明いたします。

◎5/30 第1回国公立記述模試(お便りシリーズ№21に詳しい解説あり)
《 古文 》

 
50点中33点!

《 漢文 》

 
50点中20点!

 古漢合計で

 
100点中53点!

◎2月下旬 H22年 京都大学入試(お便りシリーズ№20に詳しい解説あり)
《 文系 》

 
5問中4問!

《 理系 》

 
5問中3問!

◎2月中旬 H22年 早稲田大学入試(お便りシリーズ№18に法学部のみ詳しい解説あり。他学部は結果のみ。)

《 法学部 》

 
10問中7問!

《 政治経済学部 》

 
14問中6問!

《 教育学部 》

 
18問中8問!

《 人間科学部 》

 
11問中6問!

《 国際教養学部 》

 
8問中5問!

《 文学部 》

 
15問中5問!

《 スポ科 》

 
12問中6問!

◎2月4日 H22年 上智大学入試(お便りシリーズ№17に詳しい解説あり)
《 文学部・総合人間学部・外国語学部 古文 》

 
10問中4問!

◎2月上旬 H22年 立教大学入試(お便りシリーズ№17に詳しい解説あり)
《 全学部 古文問題 》

 
15問中8問!

《 法・経済・異文化コミュニケーション 古文問題 》

 
13問中6問!

◎1月21・22日 H22年センター試験(お便り№15に詳しい解説あり)
《 古文 》

 
50点中29点!

《 漢文 》

 
50点中14点!

 古漢合計で
 
 
100点中43点!

◎去年の12月 第2回東大プレ(お便りシリーズ№16に詳しい解説あり)
《 古文 》
                  
 
8問中5問!(8割の得点率!)

◎去年の11月 第2回早大プレ(お便りシリーズ№14に詳しい解説あり)
《 古文 》

 
8問中5問!

◎去年の11月 第2回京大プレ(以下は、お便り№13に詳しい解説あり。ただし、名大プレは結果のみ。)
《 文系 》

 
5問中3問!

《 理系 》

 
3問中1問!

◎去年の10月 大阪大学プレ

 
9問中7問!

◎去年の10月 名古屋大学プレ

《 古文 》

 
10問中6問!

《 漢文 》

 
9問中5問!

 上に挙げた木山方式の模試や本番入試との相関関係が、かなり恣意(しい)的で牽強付会(けんきょうふかい=自分の都合のよいように理屈をこじつけること)なものではないかと疑念を感じる人がいたら、どうぞホームページの記事を一つ一つ読んで検証してみて下さい。木山としてはできるだけ公正に分析しているつもりです。

 そもそも反証可能性のないムードやノリといった感覚的なものに、多くの学生が諄々(じゅんじゅん)と従っていると現状に比べれば、木山の言説に反証の可能性があることは、まだしも健全なものものではないかと思います。。

【 第1回 東大プレ 古文問題の分析】 

 説話集の『宇治拾遺物語』が出題され、設問は極めてオーソドックス、かつ平易なものでした。東大志望者で、実際に東大に合格していくようなレベルの学生さんが、この程度のレベルの答案づくりに完答しないとは考えにくく、とにかくミスをしないためにも、重要単語の正確な意味、用いるべき訳語の選択などを確実にやること、また文法事項の基礎をしっかり身に付けることが肝要です。

 東大対策というと、担当する講師もやたらと「東大古文の本質は…」とか「東大の本当の狙いは…」とか、
肩に力の入り過ぎた解説になりやすいので、あっさり無視して、木山の直単450の暗記や古文公式60項目などの網羅に精通する方が、労力対効果(コストパフォーマンス Cost performance)の上でも有効であると思われます。

 その一例を挙げるとすれば、たとえば2010年度1学期のレギュラー東大古文テキストの中に、今回の東大プレで出題された設問(4)〝「さればよ」とあるが、どういうことか説明せよ〟の、「さればよ」(=(予想通りの結果になって)思ったとおりだ)という慣用句の用法についての使用例はなく、したがって東大古文のテキストの問題のみをしっかりと演習・消化していけば、やがて得点アップにつながっていくといった、一般的になんとなく信じられている認識も、実はそう単純なものではないということがわかります。

注=(1学期東大古文テキストP20・L13の「さればこそ、つかひにははからひつれ」は、「だからこそ、お前を使いとして取り立てたのだ」という通常の意味であって、ここに挙げた慣用句の用法ではありません。)

 東大古文の答案の書き方といった個別な問題の解法のみに没入するよりも、必要とされる単語や文法の全体を広く精密に網羅する方が、この手の問題の対策としてはより有効です。

昔、博士にて大学頭(だいがくのかみ)明衡(あきひら)といふ人ありき。若かりける時、さるべき所に宮仕へける女房かたらひて、その所に入り臥さん事便なかりければ、その傍らにありける下種(げす)の家を借りて、

(夫は)妻には、「遠く物へ行きて、今四五日帰るまじき」といひて、そら行きをして窺(うかが)ふ夜にてぞありける

(夫の)声を聞きて、妻の、下なる所に臥して、「我が男の気色のあやしかりつる。それがみそかに来て、人違へなどするにや」と覚えける程に、
 〔中略〕
 (出かけて行ったはずの夫が)走り出でて妻がもとに行きて、「いかなる事ぞ」と問ひければ、妻、
さればよと思ひて、

(男が出て来て言うことには)、「ほとほと過ちをなん仕(つかまつ)るべく候ひつるに、稀有(けう)に御指貫(さしぬき)のくくりを見つけて、
しかじか思ひ給へてなん」と、いみじうわびける。

 傍線
「さるべき所に宮仕へける女房をかたらひて」の「さるべき」は、D連21②の「それ相応な」の意。文脈上、何がどう、それ相応なのかといえば、その「さるべき」所に明衡(あきひら)が入り臥すことが便なし=不都合である点や、その傍らにある下種(げす)の家との対比から、「それ相応に高貴な所」と考えて、答えは「それ相応に高貴な所に宮仕えしていた女房と、男女の関係として親しくなって」(3点中の1点)

 この文脈での「かたらふ(語らふ)」は、「(男女の関係として)親しくする」の意です。残念ながら木山の直単にも載せられていません。古文公式を持っている学生の皆さんは、Eその他の重要語の32以降の空白枠に、この単語を書き込んでおくことをお勧めします。

 傍線
「そら行きをして窺(うかが)ふ夜にてぞありける」は、直単A名33「そらごと」(=嘘 うそ)の応用で、直訳すれば「嘘(うそ)行きをして様子をうかがう夜であった」ですから、「出掛けたふりをして」といった意訳が簡単に思い浮かんだことと思います。
 答えは「出掛けたふりをして様子をうかがう夜のことであった」
(3点)

 傍線
「我が男の気色のあやしかりつる」は、直単A名19「気色」の①「様子」、B形7「あやし」の①「不思議だ・妙だ」から、答えは「遠出で四五日帰らないと言って出掛けた我が夫の様子が妙であったということ」(5点)

 傍線
「さればよ」は、D連22で「(予想通りの結果になって)やっぱり思ったとおりだ」の意なので、答えは「やはり思ったとおり夫がこっそり帰って来て、人違い(=人違へ)などしでかしそうな状態であったということ」(5点)

 傍線
「ほとほと過ちをなん仕(つかまつ)るべく候ひつるに」の「つかうまつる」は古文公式56ケ⑨にある「お仕えする・~し申し上げる(歌を詠む)・いたします」の「いたします」の訳が適当であり、一見オーバーワークにも感じられる訳語のくり返しの暗記も、こうした場面では実に安定した効果を発揮することのよい例証だと思います。
 「べく」を公式10当然の訳で「~はず」とし、最後の「に」を接続助詞「に」の逆接とみれば(公式45⑤)、答えは「もうちょっとで過ちをいたしますはずでございましたが」
(3点中の2点)

 ちなみに、直後の「稀有(けう)」は、Eその他の9で「めったにない」。「指貫(さしぬき)」はD基礎24で「男子の袴」の意で、それを見て自分の過ちに気付いたといった文脈が見えてきると思います。

 傍線
「しかじか思ひ給へてなん」は、「思ひ給へ」の「給へ」が謙譲の補助動詞であり、訳が「~ます」となることが理解されているかがポイントです。試験場で瞬時に気付くかどうかの精度の度合いは、結局、リピテーション(Repetition)の回数の多さに比例するというのが、木山方式の考え方です。
(2学期以降も何度も何度もチェックをくり返しましょう!)

 「しかじか」の具体的な内容は不問とした上で、ここでの得点化は、謙譲の「給ふ」の2点分のみと考えれば、木山方式でペーシックに即答できる得点率は、
30点中の18点、設問的には傍線アの1点と傍線カの2点を合わせて1設問分(3点)と考えれば、7問中の4問の得点率となります。

 全体としては、極めて平易であり、解説の必要を感じないほどですが、それはあくまで木山方式に慣れている人の視点であって、実際には「さればよ」の慣用句の意味さえも知らず、そもそも重要単語の精密な暗記と網羅という視点そのものを持たずに、個別な東大古文の答案の書き方といったテクニック論にのみ目を奪われている東大志望者も結構大勢いるのではないかと推察しています。


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