= 晩秋だより =
          シリーズ№26



【 第1回早大プレ・全学部共通古文問題の分析 】


 遅くなりましたが、夏に行われた
第1回早大プレの問題分析です。
出典は『増鏡』の第十六「久米のさら山」の一節であり、おおむね近年の早稲田の出題傾向をよく再現した良問であったと思います。

 木山方式に精通した学生さんからの報告では、ほぼ「よくできた!」という感想が多く、私大中堅クラスのLGクラスの学生さんでも、問四・Bの適切な形容詞を挿入せよ、という問いを1問を失点したのみで、9問中8問の得点率を達成したとのことでした。

 やはり近年の早稲田の傾向が基礎力重視であり、単語・文法・文学史などの精密な網羅を第一義とする木山方式の効果が、こうした模試レベルの問題においても、実証されつつあるといった感じです。

 内容は、鎌倉幕府打倒の計画が失敗し、後醍醐天皇をはじめとして多くの公家たちが流罪になる中で、源中納言具行(ともゆき)が都から鎌倉に護送される顛末(てんまつ)を描くものでした。
 入試にもよく出題される場面であり、冒頭からの数行は今年のH22年京大・文系古文とも重なっています。

(正妻である匂当の内侍〔こうとうのないし〕は、夫の具行が)同じ都にありと聞く程は、吹きかふ風のたよりにも、さすがこととふ慰めもありつるを、つひにさるべきこととは、人の上を見聞くにつけても、思ひまうけながら、なほ今はと聞く心地、たとへんかたなし。この春、君(後醍醐天皇)の都別れ給ひしに、そこら尽きぬと思ひし涙も、げに残りありけり、と今ひとしほ
身も流れ出でぬべく覚ゆ。

問一 傍線部1「思ひまうけ」とはどういうことか。適切なものを一つ選べ。

 「思ひまうけ」の「まうけ」は、直単B動52「まうく」の①「準備する・用意する」の意であり、かつ、1学期中にレギュラー授業で単語チェックを受けている学生さんであれば、B動52の枠外に〝
思ひまうく(あらかじめ思い用意するの意から転じて)=覚悟する〟といった書き込みをしているはずですから、この問題における前後の文脈は「(夫が)ついに流罪になるはずであることは人の身の上を見たり聞いたりするにつけても、あらかじめ覚悟していたものの、今は(いよいよ)と聞く心地は例えようもない」といった文脈が容易に見えたはずです。
 
 答えは、選択肢ハの「具行が流罪に処せられることを、妻である匂当の内侍が
覚悟していた、ということ」

問二 傍線部2「身も流れ出でぬべく」とはどういうことか。適切なものを一つ選べ。

イ  悲しいのでどこへでもさまよいたいということ。
ロ  泣きながら同じ流罪地におもむきたいということ。
ハ  自分も都を離れなければならないということ。
ニ  あふれる涙で体が押し流されそうだということ。

 古文公式5日の丸マーク③にあるように、「ぬべし」の訳出には、(1)何かが起きる直前の状態の意で、または(2)
現実には起こり得ない比喩的表現を言い表す意で「今にも~してしまう」の訳し方があります。
 ここでは、〝涙の川に身も流れ出る〟といった比喩的表現を「ぬべし」によって「
(今にも)涙の川で体ごと流れ出てしまいそうだ」といってるわけです。

 したがって、答えは、ニが正解。

問三 「かへるべき時なければこれやこの行くを限りの逢坂の関」の「し」と文法的に同じものはどれか。次の中から一つ選べ。

 これも定番の「し」の識別問題です。公式43③にあるように、文脈に関係なく、「し」を取っても文意が通じるものを強意の副助詞の「し」と言います。(この場合、歌の冒頭は「かへるべき時なければ」でも十分に文意は通じます。)

 ところで、〝その強意の副助詞の「し」が二文字になったらどうなりますか?〟と授業中何度もくり返し当てて、学生が「しも」と答えていたことを思い出して下さい。つまり、「しも」でも強意の副助詞になるわけです。(公式43◆)

 ところで、この早大プレの場合、文中にはその「しも」に当たるものが二箇所認められ、「御身一つに
もあらぬ乱れは」と、「預かりがほのめかしも、」とあって、一見、一つ選べという設問の条件に合いません。しかしよく見ればの方は「しも」を排除して「御身一つにあらぬ乱れは(御身一人ではない乱れは)」とすんなり読めるのに対して、bの方は「預かりの者がほのめかしたのも」と読めますから、結局、の「し」は公式3過去の助動詞「き」の連体形であることがわかります。
 したがって、答えはa。

(具行の処罰の決議をたずさえた)東よりの使ひ、帰り来たる気色しるけれど、ことさらにいひ出づることもなし。いかならんと胸うちつぶれて覚ゆるも、かつはいと心弱しかし。いづくの島守(しまもり=流罪によって島に流されること)となれらんも 〔   〕 、誰も千年(ちとせ)の松ならぬ世に、なかなか心づくしこそまさらめ、つひに逃るまじき道は、とてもかくても同じ事、その際の心乱れなくだにあらば、すずしき方にも赴きなん。
【中略】
(自分の処刑が行われるのは)今日なめり、と気色見知りぬ。思ひまうけながらも、なほためしなかりける報いの程、いかが浅くはおぼえん。
 消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞ 〔 
 〕
なほも思ふ心のあるなめりと、にくき口つきなりかし。その日の暮れつかた、つひにそこにて失はれにけり。

問四 空欄A・Bに入る最も適切な語を、次の中からそれぞれ一つずつ選べ。

 イ  ゆかし     ロ  うるはし
 ハ  さかし     ニ  心とし   
 ホ  あぢきなし

 早稲田のすべての学部においてよく出題される形容詞の空所補充問題です。
の「心とし」以外、すべて木山の直単中に載せられており、かつ木山方式に熟達した学生さんたちであれば、それらの正確な意味を瞬時にそらんじられるという点が強みです。

 こうした単語補充問題においては、正確な意味の把握が、解法の上でも、時間短縮の上でも、非常に重要なポイントとなります。(文脈の読解力というものは、単語の正確な意味規定の上に成り立つものであって、文脈から逆に単語の意味を推察すればよいといった方法論は、ベクトルの方向性としては誤った考え方だと、木山は常々主張してきましたが、右の問いなどは、そのよき証左ともいうべきもので、正確な単語の意味規定を持たない学生がこれを解いた場合、かなりあやふやな、かつ時間を労するものになってしまうはずです。)


 さて前半では、具行は自分の処罰がいかなるものに決したのか、胸つぶれる思いで気にかけていながらも、しかし一方では気丈にも、どこかの島に流されて島守となるくらいなら、いっそのこと死罪になりたいと願っている、といった内容は、〝誰も千年(ちとせ)の松ならぬ世〟といった無常観的表現によっても推察できたのではないかと思います。

 
の「ゆかし」(C形79)は「見たい・聞きたい・知りたい・心ひかれる」。の「うるはし」(B形23)は「きちんとした端正な美しさ」。の「さかし」(B形48)で、ねらわれる訳はネガティブな意で「利口ぶる・こざかしい」。の「心とし」は直単にはありませんが、「疾し」=「早い」の意から察して「心疾し」=「気ぜわしい」などの意味でしょうか? の「あぢきなし」(B形4)は「つまらない・情けない」ですから、島守となることへの否定的な表現としては、ホの「あぢきなし」=「つまらない」しかありません。

 つまり、「いづくの島守となるようなことも
つまらなく、誰も千年の寿命をまっとうすることのない無常なこの世に、かえってそれでは物思いが増すことであろう」といった文意です。

 後半では、いよいよ具行の処刑が決まり、彼は辞世の歌を詠むわけですが、「露」(A名41)=「はかない命」の果てを見つ、と自らの生を観念しつつも、下の句では、それにしても
あづま(E軍2)=鎌倉幕府の行く末がどうなるものか、それを 〔   〕 、とあって、ここに残りの選択肢の「ゆかし」、「うるはし」、「さかし」、「心とし」のいずれかの形容詞が入ることになります。

 直後の「なおも思う心があるようだと、憎らしき口つきであるよ」の一文から推察するに、下の句の内容は、鎌倉幕府の顛末(てんまつ)がどうなるものか
見てみたいものだといった、死に際してもなおも消えることのない倒幕への執念とか、幕府への強烈な皮肉といったふうに解釈すれば、前後の文意が一貫します。
 したがって、答えはイの「ゆかし」が正解です。死を前にしても消えることのない幕府への反骨心といったニュアンスが読み取れたかどうかが解法のカギです。

「いとあはれなることにこそ。東の聞こえやいかがと思ひ〔    〕 ど、何でふことかは」とて(具行の出家を)許しつ。

問七 空欄には「たまふ」が適当に活用した語が入る。それを答えよ。

 必ず得点できる問題であるにも関わらず、十分なリピテーションや間を置いた再チェックのくり返しをしっかりとやっていなければ、つい失点してしまうのが、
謙譲の「たまふ」の用法です。

 木山の古文公式では、公式54④/公式55でおなじみですが、特にこうした活用を問う問題の場合、謙譲の「たまふ」が
文章中に出現する際の活用の形が三つしかないこと、つまり「たまへ」「たまふる」「たまふれ」の三つであることをしっかりと暗記しておくことが肝要です。

 その三つをそらで言える程度に暗記している人にとっては、いとも簡単な問題だったと思います。
 正解は「たまふれ」です。

 以上、木山方式に熟達している学生さんが即決で正答できる問題比率は、9問中の6問。得点寄与率は64%となります。

〔9問中6問!〕  (64%)





【 第1回早大プレ・文学部漢文問題の分析 】

 長文であり、設問は4問とはいえ、文章全体のプロットを把握するのに時間がかかるという点で、やや難レベルの問題であったと思います。

人を観るに明(めい)、己(おのれ)を見るに暗し。此れ天下の公患(こうかん)なり。【中略】人皆己を以て己を観るの難(かた)きを知りて、人を以て己を知るの易(やす)きを知らず。人の善に因りて己の悪を見、人の悪に因りて己の善を見ば、観 孰 切 於 此 者 乎

問一 傍線部「観 孰 切 於 此 者 乎」の意味として適当なものを一つ選べ。

 主観に因らず他者視点からの客観的自己認識が大切だといった論調であることは、一目瞭然(いちもくりょうぜん)だと思います。

 白文中のポイントとしては、「孰」が「孰(たれ)カ」・「孰(いづ)レカ」の二通りに読めること(漢文公式14B①②)。また置き字の「於」が、例によって単に下の補語を示しているのか、または比較を表わしているのか、または受身の用法になるのかを考えるべきところですが(漢文公式10①A・C・D)、選択肢のニとホの中に「~より」と比較を暗示する表現が2回出てくることから推察して、おそらくは置き字を使った比較の句形ではないかと見当をつけるべきです。

自分と他人とのいずれがより自分のすることについて真剣に見ているのだろうか。

自分自身を知る方法に他人の言動を参考にするより適切な方法があるだろうか。

 しかも、そう考えれば、「於」の上は形容詞か形容動詞であるというのが、この句形の基本ルールですから(漢文公式10①C)、「切」は古文の直単C形動16「切なり」の知識からも、形容動詞ではないかと考えられます。

 すると、白文全体の文意は「自分自身を観察するのに、いずれがこれより切なるものがあるだろうか、いや、これ
より切なるものはない」(反語)となって、他者による自己認識以上に適切な自己確認の方法はいずれにおいても存在しないといった文意になりますから、前述の内容とうまく整合します。

 選択肢の
は、「自分と他人とのいずれがより自分のすることについて真剣に見ているのだろう」と文末が単純な推量形になっている点が不適です。

 ここは比較の句形からも「これより切なるものがあるだろうか、いや、ない」と反語にしなければ文意が通じないところです。したがって、その反語の意に最も近い選択肢ホの「自分自身を知る方法に他人の言動を参考にするより適切な方法があるだろうか(いや、他には存在しない、の意を含むものと考えて)」が正解です。

問三 傍線部2「使 其 舎 重 耳 而 従 懐 公」は、「もしその者たちをして重耳(ちょうじ=人名)から舎(す)て(去ら)て懐公に仕えさせるならば」という意味である。この意味に合うよう返り点のふられた文を一つ選べ。

 これはセンター試験にも近年数回出題されている使役形の
連用中止法の問題です。(漢文公式11Bを参照)連用中止の詳しい解説は木山のホームページ上でも読むことができますから、まだその解法をしっかりと把握していない人は、一度しっかり説明文を読んでみて、納得した上で次の選択肢のイ~ニの中から正解を選んでみてはどうでしょうか。よい練習問題になると思います。

 答えはこのお便りの末尾に載せておきます。もちろん普段から木山の漢文公式に熟達している学生が、すでにこの模試が行われた8月下旬の段階で正解を即答できたことは言うまでもありません。「連用中止を知っていれば一瞬で解けるんですね!」といった学生さんの報告を聞きました。

 使 其 舎 重 耳 而 従 懐 公

 使 其 舎重 耳 而 従 懐 公

 使 其 舎 重 耳 而 従 懐 公

 使 其 舎 重 耳 而 従 懐 公

 使 其 舎 重 耳 而 従 懐 公

 使 其 舎 一レ 重 耳 而 従 懐 公

 以上、漢文における得点比率は4問中の2問。得点寄与率は54%でした。仮に早稲田の文学部を志望する学生さんが木山方式に習熟していると仮定すれば、古漢合わせた古典の得点40点中の24点(60%)が、ほぼ即決できる得点率となるわけです。

〔13問中8問!〕 (60%)
   

 H21年の早稲田の教育学部の最低合格得点率は65%ですから(合格者の得点開示情報による、文学部は入手できず)、これに準拠すれば、即答できる前述の60%に、あと5%の得点を上乗せすれば合格ラインとなるわけです。約6割の設問を時間をかけずに即決できれば、その他の解釈問題に時間的余裕をもって取り組むことができるという点で、この点は非常に有益なポイントだと思います。

※H21早稲田大学・教育学部 合格最低点
《 教育学部 》
  英語50点 … 平均点23点 (46%)
  国語50点 … 平均点25点 (50%)
  政経50点 … 平均点22点 (44%)
  *合格最低点97点 (65%の得点率
)

 夏の終わりの模試に、どの程度の出題率があり、それかいかに対策化され得るか、といったことは、夏期の講座を選ぶ際の一つの指標になるのではないでしょうか?その意味では、この記事は、2011年度の1学期の学生に向けたられたものだとも言えます。

 結論を先走って言ってしまえば、5日間で大問を5~6題消化する単元的過去問演習のくり返しでは、網羅すべき単語の絶対量がはるかに足りず、古文問四のような空欄補充問題に対し、十全な対策とはなり得ません。

 また、漢文語彙や句形の充足度は、晩秋(11月上旬)のこの時期にあっても単元的な過去問演習のみをくり返してきた学生さんの場合、極めて低調です。「孰」の字義を「(たれ)カ」か「(いず)レカ」と即座に言えるのは、やはり漢文公式で常にチェックし続けていればこそだと思います。

 まして、今回の早大プレで出題された連用中止法のテクニックは、木山が創案し句形化したものですから、木山以外のどのような講座でも触れられることはありません。

 したがって、夏の講座を選ぶに際しては、実証的視点または労力対効果(Cost performance)の視点を、決して忘れないように強くアドバイスしたいと思います。前年度の夏の各古文テキストをよく吟味し、実際に夏の終わりの模試にどの程度の得点寄与率があったかを、実証的にしっかりと検証してみて下さい。(これは今年度の学生さんが冬期を受けるに際しても気をつけてほしい点です!)

 講座の選択いかんによっては、本番での得点寄与率が極めて低くなってしまうことは、去年の冬期の各古典講座の分析を通して実証済みです。(お便りシリーズ
№15 検証!H21年度冬期においてセンター関連の講座がどの程度本番に寄与したか?

 根拠のない空気やノリや、衆の勝ち馬に乗るといった気分で、講座を選んでしまっては、あなた自身が結果として、相対的な意味で、夏の終わりの模試やこれから始まる本番入試などで不利益を被る危険性があります。




【 第1回 全国総合模試・古漢問題の分析



 これも夏の終わりに行われた私大国立共に受ける総合模試です。古文は「
上達部」・「御簾」・「二月」・「直衣」の古語の読み、A「さらに見えたまはず」・B「をさをさなし」の現代語訳、C「うき世をもえ背きやりたまはず」の傍線部解釈、「わりなくて」・「さうざうし」・「ものし(形容詞)」の語釈問題、「無紋(むもん)を 奉れり」の敬語の種類と敬意の方向などが出題されました。

 これらはすべて木山の古文公式からの出題であり、かつ何度も何度もくり返しくり返し学生に当ててはチェックし続けてきたポイントでした。秋のこの時期であれば、公式番号を示さなくても、木山方式に習熟した学生のほとんどは、何を出題の意図としているかが瞬時にわかるはずです。(たとえば、傍線部Zの「奉れ」の出題の意図するところがわかるはずです。)

 漢文は文末の「
何也 。」と副詞の「」の読み、白文「雖 嗜(たしなム)魚 不 能 自 給(きゅうス) 魚」の書き下し問題の3問が、木山漢文公式からの出題でした。

 全体として古漢を合わせた得点寄与率の総計は、100点中の63点。これも悪くない得点寄与率だと思います。




【 ポピュリズムと反知性主義 】

 ポピュリズム(Populism)は人民主義とも呼ばれ、19世紀末のアメリカで生まれました。ポピュリズムはその出発点においては、当時の圧倒的な社会格差や不平等を是正する民衆政治参画運動ともいうべきものでした。

 本来、農民や労働者こそがアメリカ社会の多数派であるはずなのに、そうした人々が政治から排除され、富裕な資本家や知識階級のエリート層が、自分たちに都合のよい政治ばかりをやっているといったことへの不満が背景となって、民衆が政治参加の平等性を強く求めていくといった構図が、本来のポピュリズムの姿であったと言えます。

 ですから、そうした運動がアメリカの民主主義を実質化していく過程で非常に重要な役割を担ったことは、紛れもない歴史的な事実です。

 今日の日本でも見られる住民投票によるリコール権やレファレンダム(国民投票)といった直接民主制的な制度や、司法に市民が直接参加する権利を担保する陪審員制度なども、20世紀初頭のアメリカのポピュリズムの政治運動の中で生まれました。

 しかし、そうしたポピュリズムの運動が一方では極めて非寛容な民衆レベルの反知性主義を助長していったという負の側面もあったことを、多くの歴史学者が指摘しています。

 山口二郎著『ポピュリズムへの反撃』(角川oneテーマ21)のP21に書かれた記事を紹介しますと、次のように書かれています。

 
「アメリカの場合、ポピュリズム的な平等運動をもたらしていった庶民のエネルギーというのは、別の面で言えば、反エリートから、さらに反知性主義みたいなものにも展開していくという特徴があります。
  このへんの話はリチャード・ホフスタッターというアメリカの有名な歴史家が『アメリカの反知性主義』(みすず書房)という書物で書いています。
  平等を求める庶民の運動が、ちょっと軌道を踏み外すと、すごく非寛容ですごく狂信的な反知性主義にも動き得るということを、非常に詳細に追跡し分析しています。
  この話は、アメリカの政治においては、今でも結構大きな痕跡を残しています。学校で進化論を教えてはならないというような類いの話を聞いた方は多いことでしょう。
  つまり、理性とか科学とかいうものを、あまり信用しないのです。まさにそれはエリートの言葉であり、またエリートが庶民を支配するための道具だというような感覚が、特に南部に多いキリスト教原理主義者の中に強く存在しています。
  むしろポピュリズムが宗教的なものと結び付けば、これは反近代というか、反知性という方向に向かうこともあるのです。」


とあって、木山も6年間のアメリカ滞在の体験から、右に言われているようなアメリカの反知性主義の傾向に思い当たる経験が少なからずあります。

 
ポピュリズムという言葉は、今日の日本語でもそのまま使われるようになりましたが、その定義としては、どちらかといえばやや否定的なニュアンスが強いように思います。大衆迎合主義とか、民衆の理性というよりは、感情を煽ることによって、ある種の政治的な目的を達成していくような政治手法という意味で使われているような気がします。

 参院選が終わったあとに、ある週刊誌が〝我ら衆愚の選択〟と題した特集記事を載せていましたが、国民の審判を「衆愚の選択」と自嘲してしまうところに、否定的な意味でのポピュリズムの意味合いが込められているようです。

 ところで、今なぜポピュリズムの話をするのかといえば、現代の若者の間にも理性や実証性に対して、あえて目をつぶるというか、背を向けてしまうような一種の反知性主義といった傾向があるのではないかと考えるからです。

 そもそも若者の反知性・反教養主義といった傾向は、たとえば、戦後の現代日本思想史の中においても確かに存在しました。ある時は世代間の対立として、またある時は左派的な立場からの体制擁護批判として語られたように記憶しています。

 たとえば、教養や知性を価値基準とするかぎり、若者は学識を積んだ年長者の劣位に置かれ、年長者への跪拝(きはい=膝まづき身をかがめて礼拝すること)をもたらすものとして作用するがゆえに、教養主義は、結局のところ学識ある年長者を頂点としたヒエラルヒーを不断に生産し続けるものに他ならないといった批判は、世代間の対立の中で若者側の主張としてよく見られる論調でした。

 また、左派的な人々からは、知性主義や教養主義がブルジョア的であり、プロレタリア革命や平和実現を疎外するものと考えられ、したがって左派の人々から厳しく攻撃されたというのも、戦後の現代思想史の一面であった思います。

 しかし、現代の若者に見る反知性的傾向とは、旧来の確固として内在化された主義・主張といったものではなく、もっと空気のような、場の雰囲気としての、いわゆる空気を読むといった文脈から導かれるような〝
論ずることへの忌避〟といった印象を木山は持ってしまいます。

 現代の若者は、物を消費するのではなく、人間関係の消費に多くの時間と労力を費やしているとよく言われます。

 様々な情報ツールを常時接続させては、仲間内の個人的な周辺情報を核として情動的な盛り上がりを求めようとする傾向や、まわりの空気を読みすぎて、思っていることを率直に言ってはならないといった言論規制を自分自身に課している点や、他から突出するのを慎重に避けるがゆえに、一生懸命何かを論じたり語ったりしてはならない、それではさむい人になってしまう?、といった過剰な自己意識の傾向や、それがさらに発展すると、まわりの流れや文脈に合わせることこそが第一の優先であって、コアな真偽や実証性にこだわる人は、むしろ心の狭い人間だといった批判のあり方まで、これらはやはり現代の若者気質における反知性的傾向の一形態だと言えるのではないでしょうか?

 それは今という時代の若者のポーズ(見せかけの姿)なのかもしれませんが、たとえポーズであっても、そこには危険な落とし穴があるような気がしてなりません。


漢文の答→ロ
                  
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