= 白梅だより =
          シリーズ№28


【 予備校における自己決定と実証性と実利の問題 】


 
 『不自由論―「何でも自己決定」の限界』(ちくま新書・仲正昌樹)の第四章の一節に、概略こんなことが書かれています。



 アメリカの法哲学者ドゥルシラ・コーネルが提案する概念に、「イマジナリーな領域に対する権利 right to the imaginary domain」という概念がある。「イマジナリーな領域」とは、他者との相互関係の中で、他者を鏡としながら自己が形成されていく領域である。乳幼児が周囲の大人たちの言動や振る舞いを目にし、彼らをモデルとすることによって自己を徐々にイメージしていくといったプロセスがあるが、そうした心理的空間領域のことである。

 各自がイメージする自己は、このプロセスの中で遭遇する他者たちの共同体的な要素に応じて文化的な規定を受け、鏡としての役割を果たす具体的な他者を媒体として、様々な共同体が各自のイメージする自己の内側に入り込んで、現在の「私」というものが形成される。

 そういった意味において、
人はどのような文化的背景を持っていても、外的強制力から自由になりさえすれば、その都度、自らの主体的意思によって、自由に判断し自己決定ができるといった、近代自由主義の大前提は修正されなければならない。

 というのも、現実にある「イマジナリーな領域」の中に存在している「我々」は、既存の共同体的文脈から全く自由に判断することはできず、自己決定に先立つ様々な選択の枠組みは、結局は既存の共同体的文脈に委(ゆだ)ねられてしまうからである。

 一方、通常のリベラリズムの考えでは、「そうした自己決定の領域に他者は介入すべきではない」として、本人の主体性にまかせられるので、こうした自己決定上の問題は、いわば、個人の責任という名のもとに放置されてしまっている。

 しかし、そうなると、自己のあり方について相当な違和感を感じていても、イマジナリーな領域を形成する他者からの助けがないので、現状を受け入れざるを得なくなるケースが圧倒的に多くなってしまう。

 この弊害を乗り越えるには、主体的な決定を行使するための
前段階の土台として、自分一人だけではどうすることもできない新たな「イマジナリーな領域」をもう一度作り直し、徐々に「自己」を相対化していく作業を、周囲の他者から助けてもらう必要がある。それは必要であると同時に、健全な個人主義としての自己決定を行使する能力を獲得するための権利でもある。



 おおよそこんな内容でした。この評論はH22年の第2回早大プレにも問題文として使われており、実は木山もその時の問題文に触発されて、出典の新書を読み始めたのでした。

 これまで木山は、実証性を前面に出しさえすれば―つまり十分に説得的でありさえすれば―、受験という客観性が重視される領域において、学生は純粋に個人の判断で、その当否を含めた自己決定をしてくれるはずだと単純に考えていました。

 しかし、そうしたリベラルな個人主義的な態度が、理念としてでなく、イマジナリーな領域としての、人々の間で共有される心的空間領域をもって経験されるのでなければ、人は
そうしたくてもなかなかそうすることができず、結局は既存の選択の枠組みに依拠してしまうという、このコーネルの主張は、ずっと考え続けてきた木山方式の学生の皆さんへの浸透という問題において、何か深い示唆を与えているような気がします。

       
 ところで、ここで言う個人主義とは、日本で俗に言う自己中心的人物像(ジコチュー)とは全く別物です。個人主義とは、社会集団を個人としてとらえ、その個人を立脚点として、個々人の思想・言論・信仰などの自由を擁護する考え方です。

 実際の社会においては、これら個々人の立場を優先させ、その意義を認めると同時に、確立された自立的自己を土台として、他者への積極的な関わりや社交を実践し、自らの立場を主張することが望まれる点で、利己主義(エゴイズム)や没交渉的な生き方(たとえば引きこもりなど)とは明確に区別されます。

 自己の「個」が尊重されるためには、他者の「個」も尊重されなければならないといった対等の原理が働くので、自分の意見を主張すると同時に、他者の意見にも真摯(しんし)に耳を傾けるといった態度が要請される点からも、自由主義(リベラリズム)の土台ともなっています。

 しかも、この個人主義の理念の奥底には、ヨーロッパの伝統と相まって、二つの大きな要素があると言われています。一つは交換によって支配される経済システムの中で、
自己利益の最大限の追求と、それにまつわる他者との調整がなされるという側面。もう一つは、個々人の〈対話〉は、他者との対立から生まれるのであるから、対立を消去ないし回避するのではなく、〈大切にする〉といった側面です。

 自己利益の最大限の追求というと、何か功利主義的な俗臭めいたものを感じるかもしれませんが、事実は逆で、最大多数の最大幸福の実現のためには、むしろ個人的な欲望はある程度抑制されるわけです。(というか、ある程度抑制された利益の追求こそが、他者のとの関係性において最大限の利益を期待できると言い替えた方がいいのかもしれません。)

 また、個人主義は、他者は自分の拡大形態ではなく、自分と異質な存在であるという認識に立ちますから、他の個人を尊重し〈対話〉によって理解しようと努めます。しかし、他者との対立を消去したり回避したりするのではなく、
「対立を大切にする」ところに、個人主義の理解のカギがあるように思います。

 たとえば、インド独立の父マハトマ・ガンディーや、アメリカの公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キングの非暴力運動は、それ自体は少しも「ピースフル」なものではありません。非暴力ではあるけれども、決して対立を消去したり回避しないという点でそうです。

 日本では、非暴力といえば、たとえばデモ中に嫌がらせをする官憲に対しても、微笑みながらお花を渡す人みたいなイメージがあって、緊張や対立を忌避することに意味があるといったとらえ方ですが、そのような発想はキングともガンディーとも全く無縁のものです。

 つまり、個人主義的態度とは、他者としての個々人を尊重すると同時に、だからこそ対立を含んだ他者の重みをしっかりと受け止める覚悟をすることでもあるわけです。

 そこで大切なのが、他者との「対話」なんですが、その「対話」のあり方にも前提とすべきものがあるように思います。それはたとえば、論理に対する素直さとか率直さ。または、場面や空気や感情などに左右されない文字通りの言葉の意味が通用する低文脈な言語への信頼。または議論における素朴なこだわりの無さ。または相手を理解しようと努力する謙遜で誠実な態度といったものです。

 言いたいことがよくわからないかもしれませんが、要するに、相手の言うことが理に適っていれば、つまり正しいと思われたならば、たとえそれまで自分が反対の立場であったとしても、素直にその考えを受け入れるといった、一種の理性的な謙虚さが、個人主義のベースには、ぜひとも必要なものだと思います。

 それは、言い替えれば、「対話」における「勝ち」「負け」にこだわらない態度とも言えます。

 ところで、これまで木山は、実証性を前面に出しさえすれば―つまり十分に説得的でありさえすれば―、受験という客観性が重視される領域において、学生は純粋に個人の判断で、その当否を含めた自己決定をしてくれるはずだと単純に考えていた、と先に書いたのは、こうしたリベラルな個人主義的態度を前提にしていたからです。

 しかし、コーネルは少し違うことを言っています。イマジナリーな領域として人々の間で共有される心的領域をもって経験されなければ、人はそうしたくてもなかなかそうすることができず、結局は自己の帰属する共同体の文脈に、自らの自己決定を委(ゆだ)ねてしまうというわけです。

 このことを予備校という一つの社会空間に置きかえてみると、どういうことになるのでしょうか。
 木山はこれまでにも、現代の若者が属する「イマジナリーな領域」について、いくつかの記事を、―それと意識することなく―書いてきました。

 たとえば、
お便りシリーズ№26【 ポピュリズムと反知性主義 】の中では、

 しかし、現代の若者に見る反知性的傾向とは、旧来の確固として内在化された主義・主張といったものではなく、もっと空気のような、場の雰囲気としての、いわゆる空気を読むといった文脈から導かれるような〝論ずることへの忌避〟といった印象を木山は持ってしまいます。

 現代の若者は、物を消費するのではなく、人間関係の消費に多くの時間と労力を費やしているとよく言われます。様々な情報ツールを常時接続させては、仲間内の個人的な周辺情報を核として情動的な盛り上がりを求めようとする傾向や、まわりの空気を読みすぎて、思っていることを率直に言ってはならないといった言論規制を自分自身に課している点や、他から突出するのを慎重に避けるがゆえに、一生懸命何かを論じたり語ったりしてはならない、それでは寒い人になってしまう?といった過剰な自己意識の傾向や、それがさらに発展すると、まわりの流れや文脈に合わせることこそが第一の優先であって、コアな真偽や実証性にこだわる人は、むしろ心の狭い人間だといった批判のあり方まで、これらはやはり現代の若者気質における反知性的傾向の一形態だと言えるのではないでしょうか?

と書きましたし、また、
お便りシリーズ№24【予備校における「左」と「右」の随想 】では、

 予備校における「右」的なもの、保守とは何かと、たわいもないことを考えてみると、これは予備校のカラーによっても違いますから一概には言えませんが、こと代々木ゼミナール本部校に限定して言えば、やはりカリスマイズムへの傾倒といった点が「右」的ロマンチシズム(ロマン主義)に最も近似した情動ではないかと木山は考えます。

 というのも、ロマン主義とは絶対的なものや権威あるものに憧れて、それらとの一体感の中に自己の高揚感や存在の意義を見出そうとする立場ですから、カリスマ・スーパー講師に憧れる学生の思考様式や行動様式とはよく似ています。〔中略〕

さらに別の側面を言えば、アマチュアリズムが受け入れられる現象の根底には、若者の極端なまでの
親密性志向が関係しているのではないかと思います。現代の若者は電子メディアの扱いに通暁(つうぎょう)し、高度な情報化社会に生きていながらも、実はその一方で他者との親密なコミュニケーションを展開することに極端なまでに気を遣っているという側面があります。
〔中略〕
 キャンパスで友人を作れないと大学に行く価値がないとまで考える若者や、昼食を一人でとるのが恐いといったランチメイト症候群の女子の問題や、身近な例では質問にかこつけて実は好きな講師の先生との新密度を高めることに腐心する学生の行動様式まで、すべてはこうした感受性の延長線上にあるものと思われます。

 ところで、こうしたよるべなく浮遊する若者たちのある階層の人々を、予備校の「右」的カリスマロマン主義、またはもっと気軽に接することのできるアマチュア感漂うプチ・カリスマ主義が、上手にすくい上げて若者の親密性志向を満足させ、一種のアジール(避難所)としての居心地のいい居場所を提供しているのではないかと思われることがあります。

 そこでは、講師も含めて、予備校がいわば〝仲間作りの場〟と化しているわけで、そうした現象は、木山が予備校で教え始めた約四半世紀前(28年前)の予備校の空気とは随分異なったものです。

と書き、また、
お便りシリーズ№20【若者のムラ社会的ノリの文化と閉鎖的ウチラ意識】では、

この、相手の心の本音に踏み込まないという点は、逆に言えば〝通じない〟人とはあえてコミュニケーションをとらないというか、さらりと無視するというか、波長の合わない人とは、たとえ学校で同じクラスで近くの席でも、まったく話さないという状況が普通であるといった一面も見えてきます。
〝共振〟が「ノリ」だとすれば、〝コミュニケーション無視〟は「ひく」という言葉に集約されるわけです。(しかも、そうした状況判断の手立ては、「空気を読む」といった言葉によって表現されます。)

 こうした現代の若者気質は、一方では日本的共同体原理への回帰のように見受けられます。日本的共同体原理とは、急速な近代化が推し進められる以前の日本は、およそ9割が農民階層であり、そこでは閉鎖的な小集団に属する同質的な村社会の体質が共同体を形成する原理として働いていたことを意味する言葉です。
 自分だけがまわりから浮いてしまうことを極度に恐れ、いわば衆の中に埋もれようと努める現代の若者の姿は、たとえば、村八分になることを極度に恐れた近世の農民の姿と重なります。〔中略〕
こうした、仲間内の共振的な盛り上がりやノリに対して、若者が強く心を惹きつけられて行動してしまう点や、またその対極として、少しでも鼻白むものや仲間内の同質性を持たないものやナイーブな内容については、すぐに引いてしまう点、木山はこれを『若者のノリの文化』『若者のひきの文化』と勝手に命名していますが、そうした風潮の中で実証性や検証性といった機能が不全になってしまうのではないかと、実は真面目に危惧しています。

とあって、こうした同調思考の強さ、いわば「ノリの文化」、または内向きの同調思考といった傾向は、大きな蓋然性(がいぜんせい)としては、やはり現代の若者の心的傾向を表わしているのではないかと、木山は考えています。

 しかし、結論を先走って言えば、そうした傾向が受験における実利に結び付くかどうか、おおいに疑問です。

 確かに、口コミといった個人の周縁的情報を核にして、「へぇ~、そうなの。すごいね!」とか「あの授業やばいよ~!」とか、言葉を交わしているうちに、「そうだよね!いいよね!」と情動的な盛り上がりが上乗せられて、そこに
〝共振〟現象が生まれてくるプロセスというのは、お受験業界の最も期待するムーブメントではありましょう。

 いわく、〝目からウロコの授業!〟とか、〝知的好奇心あふれるスリリングな授業展開!〟とか、〝毎年締切りを出す超人気講座!〟とか、〝東大京大に何人合格しました!〟とか。(注=難関大の合格実績は、結局のところ、超進学校の学生の囲い込みの要素が大きく、予備校の内実の評価には、必ずしも直結するものでないことは、
お便り№25で詳しく分析しました。)

 こうしたセールストークに乗せられ幻惑されてしまう学生は、偏差値の高低に関わらず存在します。しかし、実際の難関大合格者(木山の担当で言えば、京都大学や早稲田の合格者たち)が、受験の10ヶ月間にやったことの大半は、―少なくとも木山の授業においては―きわめて地味な、または泥臭い方法論であり、知的にスリリングな要素などほとんどありません。

 声が大きくて、話がおもしろくて、印象的であり、進学校の高偏差値の学生たちをアッと言わせたかどうかといった要素は、
具体的な入試問題の解法に、何がどうダイレクトに寄与したかを厳密に実証するのでなければ、つまりその効果の裏づけが実証されなければ、単なる印象操作に過ぎません。

 先日、2月1日に早稲田教育学部の直前リハーサルゼミがありましたが、その予想問題に、〝問二十二 傍線部⑤「さうざうしかりつる」を現代語訳し、記せ。〟といった短い記述問題が出ていました。最重要単語の「さうざうし」の訳出など、当然できるはずだとこちらは予想していましたが、意に反して、ほとんどの学生が「さうざうし」の訳し方を知りませんでした。(もちろんその時の受講生は木山方式の学生ではありません。)

 授業後、4~5人の学生が講師室にやってきて、「自分は古文単語の理解が弱いようです。どうしたらよいでしょうか?」と真剣な面持ちで問うてくるわけです。(彼らはなぜ受験の10ヶ月間、単語の暗記といった泥臭い努力を積み重ねてこなかったのでしょうか?また、そうするように指導されなかったのでしょうか?)

 ですから、結局のところ、煎じ詰めれば、こうした入試直前期の切迫した、合否におののく、追い詰められた、必死の眼差しの中でも、なおかつ有意味であるものだけが受験において真に有意味なのだと木山は思うのです。

 そういう意味では、アッと言わせる解法も、目からウロコの授業も、印象的な講師の話し振りも、
受験の真実の実相からは、はるかに遠いもの、美しく好ましいものではあるけれども、自分のよって立つ土台に何ら影響を及ぼさないという点では、遠くの花火のようなものだと、木山は思うのです。


                  
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