=青葉だより =
         シリーズ№30





【 学びからの逃走 ・
       H22第3回全国センター模試の分析】


 ドイツ生まれの社会学者エーリッヒ・フロムの著書に『自由からの逃走』という本があります。フロイトの精神分析学とマルクス主義理論を結び付けて、社会的性格論を展開した社会学の古典的名著とされる本です。

 その本の中でフロムは、長い歴史的苦闘の成果として獲得された市民社会的自由の権利を、二十世紀の先進国の市民たちが捨て値(ね)でやすやすと手放し、全体主義や独裁政権や画一的市民社会の機械化に屈服していく過程を、実に詳しく分析しています。

 このフロムの「自由からの逃走」をもじって、「学びからの逃走」という言葉が使われ始めたのは、90年代後半から2000年代にかけての劇的な学力低下の原因を探っていく過程で、子供たちが積極的に学びから逃走して始めているのではないかといった主張が、複数の社会学者の中から問題提起されるようになってからのことです。

 とくに、2007年に講談社から刊行された内田 樹(たつる)著『下流思考―学ばない子供たち・働かない若者たち』(2009年には講談社文庫からも刊行)は、衝撃的な内容とともに、その分析理論の大胆なまでの明快さによって、一躍時のベストセラーともなりました。

 その内田 樹(たつる)氏(現在は神戸女学院大学文学部教授)の言葉を借りれば、「教師との対面的状況において自らを消費主体として位置付ける」現代の若者は、「教育サービスの買い手というポジションを無意識のうちに先取りし」、自らの「価値基準に合致する商品だけを適当な対価を払って買い入れる」。そしてその逆に、自分にとって「満足のいく商品が得られなければ、
自信たっぷりに」学びの現場から逃走し、「それらをいとも簡単に打ち捨ててしまう」。「有用であると私が決定したものが有用であり、無用であると私が決定したものは無用である」といった未熟な自己決定の切れ味の良さが、実は彼らの成長を妨げているという事実は、しかしながら決して自覚されることなく、
むしろ彼らはこの「逃走」のうちに「学びの現場からのがれ出ることの喜びと、ある種の達成感すら感じているようにも見える」とあって、この胸がすくような(?)圧倒的な倒錯(とうさく)の論理に、木山も一瞬めまいを覚えたものでした。

 しかしながら、こうした学びからの逃走現象は、決して一部の学者の飛躍した論理ではなく、他のさまざまな意識調査を通しても次第に裏づけられてきているように思われます。

 たとえば、「高校中退に関する生徒の意識―尺度の構成と基礎的分析」(中等教育研究センター紀要二)の中で、筆者の村上 孝(たかし)氏は、高校中退に関する意識調査を行っていますが、中退率の高さと強い関係があったのは、「将来への不安の低さ・根拠のない楽天主義」であったと指摘しています。

 具体的には「今の社会は生活しやすいと思う」、「何をしてでも生きていけるという自信はある」、「自分には他の人と違った才能があると思う」といった項目に対する高い肯定の数値であり、調査対象となった若者たちは、中退したことに対して極めて楽観的であり、むしろ平然と堂々としている点に特徴があると分析しています。

 ところで、予備校の新学期におけるクラス移動の傾向や、新学期早々の出席率の急激な低下現象なども、こうした「学びからの逃走」現象と相似形ではないかと木山は考えています。
 次の数字は本部校・他校舎・Yサピックスの、それぞれの4月第1週から第3週までの出席率の変化を表わしたものです。(Yサピックスの場合は第5週から第7週)



*初回を100%とする本部校5クラスの出席率の平均値

  
第1週 100% ⇒第2週 56.9% ⇒第3週 48.8%
  (51.2%の減少!!)

*初回を100%とする柏校・湘南校6クラスの出席率の
  平均値


 
第1週 100% ⇒第2週 95.3% ⇒第3週 92.8%


*初回を100%とする本部校・湘南校・横浜校Yサピックス
  現役生3クラスの出席率の平均値


 
第5週100% ⇒ 第6週 100% ⇒第7週 100%



 一見してわかるように、本部校の減少率が最も際立っていることは一目瞭然です。昨年2010年度の本部校の3週目の減少率66.7%と比べても、それをさらに上回る減少率であり、木山の28年間の予備校生活の中でも極めて破格のレベルだと感じています。

 柏校や湘南校の本科浪人生の出席率92.8%や、Yサピックスの現役生の100%と並べて比較してみると、本部校の浪人生の際立った特徴が明らかになるといった感じです。

 なぜ、このような違いが生じるのでしょうか?

 社会学者の鈴木謙介は、今後起こる日本社会の分極化の中で、若者が「瞬間的な盛り上がり」(共感感情)によってもたらされる「内的に幸福」な状態(=カーニヴァル)を持ちつつ、「客観的には搾取され、使い捨てられる」危険性を指摘していますが(『カーニヴァル化する社会』)、木山もこの指摘には同感です。

 同感というのは、若者を批難する意図をもって言っているのではなく、今の若い人たちの行動に対して純粋に心配しています。

 というのも、高い授業料を払いながらも、効果的な方法論をわずか数回の授業で切り捨ててしまうのは、どう考えても、自ら不利益な状況に身をゆだねているように見えてしまいます。

 もしかしたらそうした若者の多くは、客観的には不利益な状況に陥ることを多少は自覚しつつも、しかし、それをどうしようもないために、不利益を被ることは承知の上で、他方では、その程度の不利益ならば、瞬間的な他者との盛り上がりや何やらを介して適当にやり過ごすことができるほどにタフで楽観的であるのかもしれません。考えてみると、弱いのか強いのか、わからないような人たちです。

 毎年、予備校でくり返されるカリスマリズムへの強い傾倒・憧憬・強烈なシンパシー、教室の前列の席取り合戦、質問の長い行列、そして熱が冷める秋から冬にかけては、潮が引くようにぱったりと姿を消していく若者たち
の群れを見ていると(毎年見るんですけど―そしてそれは決して全員がそうだというのではなくごく一部の人たちなんですけど)、木山は「おお、若者よ、君たちは大丈夫か?!」と、つい声を掛けたくなります。

 資本の要請は、何であれ消費してくれることです。現代社会において若者に消費を促すマーケティング戦略としてカーニヴァル的なノリ、または学園祭的な盛り上がりというのは不可欠な要素なのだそうです。昨今のビジネス用語では、若者向けの商品戦略として〝学園祭ビジネス〟なんていう言葉までも登場しているほどです。



 しかし、それが本当に対価を払うのに十分な価値をもったものであるかどうかを見分けるリテラシーがなければ、単にのせられやすい若者として
消費戦略のよきかもとなってしまうことでしょう。(かも=利用しやすい好人物)

 とにかく、出席し続けている学生たちが、こうした本部校の風潮に幻惑されて木山方式から離れることがないようと、真に願っています。木山自身が年間を通して行われる代ゼミ模試やテストゼミの作成者または校正者の一人であることを勘案すべきです。

 市販の単語集や漢文句形集、または代ゼミの古漢付録などではカバーできない単語や句形や文法や文学史、和歌修辞などが、実際毎年代ゼミの各模試に出題されているという事実は、何度繰り返しても言い過ぎることはありません。

 古文公式や漢文公式を利用し、それをしっかりと暗記していくのでなければ、他の方法論ではどうしようもないといった一面があることは、動かしがたい事実です!

 また、大学入試の合否というものは、クラスの人数の多寡(たか)とは、まったく無関係です。たとえば、去年の本部校の古文文法は、2学期の中盤以降には、ほぼ15人程度にまで減少しましたが、現在までに判明している合格実績は決して悪いものではありません。

 早稲田大学・政経学部一人、早稲田大学・商学部一人、早稲田大学・教育学部一人、明治大学・政経学部一人、千葉大学・教育学部一人、日本大学・芸術学部一人、国学院大学・経済学部一人、創価大学(第一志望)一人、立命館大学・国際経営学部一人、の9名です。

 また、柏校の早大クラスも2学期の中盤以降は、ほぼ6名の小規模クラスとなりましたが、現在まで判明している合格実績は、早稲田大学・文化構想学部一人、お茶の水女子大学一人、中央大学・法学部一人、法政大学・法学部一人、立教大学・経営学部一人、日本大学(学部不明)一人です。

 また、湘南校の去年のセンター私大漢文クラスは、なぜか早上狙いの男子学生ばかりのクラスとなり、2学期の中盤以降はほぼ6名で推移しましたが、現在までに判明している合格者は、早稲田大学・教育学部成績優秀者特待生一人、立教大学・経営学部一人、青山学院大学・総合政策一人、法政大学・経営学部一人の4名です。

 本部校のサテライン京大クラスの去年の2学期以降は、約6名の受講者でしたが、現在までに判明している合格者は、京都大学・理学部2名であり(これはもう少し増えるのではないかと期待していますが、ともかく)、各クラスとも人数比に占める合格実績の密度は、かなり高いものであると言えます。

また、今年東京工業大学第四類(東工大最難関学類)に合格したK君も、最後まで木山方式を続けてくれた一人です。〝理系だから木山方式まではちょっと…〟と敬遠するような人に、木山はこれまで東工大合格者を見たことがありません。


【 H22 9/26 第3回全国センター模試 】

 出典は、鎌倉時代成立の擬古物語
『住吉物語』の一節。右大臣の息子の少将が、嵯峨野で美しい姫君を見初め、姫君の侍女の侍従(じじゅう)に姫君への手紙を託し、姫君からの返事をもらおうとするといった場面でした。

○(少将は)侍従にまづ会ひて、「世に心憂きものは、人の心こそあさましきものなれ。(注2)たばかられて、かく物を思ふ口惜しさよ。そこよりはじめて、をこがましきことにおぼすらん。消えも失せばやと思へども、さすがに捨てがたくて過ごしはべる。
(ア)人の命はつれなきものなり。されば、たびたび申しはべりしかども、一度(ひとたび)の御返りこともうけたまはらず。絶えてあるべしともおぼえはべらず。なほなほ、よきさまに聞こえなしたまへ。」とて、文をた賜びければ、侍従、「今やいかに申すとも、(イ)よもとこそ」と申せば、なほあながちにのたまへば、心苦しくて、取りてひき広げ、「かく」と申しつつ、(姫君の)御そばに置きければ、「あらむつかしや。こは何ごとぞ」とて、
(注3)もて離れたる御気色(けしき)なり。
 〔中略〕
 また、内裏(うち)より出でたまひても、侍従に会ひて、よろづ恨みたまへば、「
(ウ)侍従はおろかならず思ひはべれども、(姫君は)『世に聞こえなば、よしなきこともはべる』などのたまへば、ことわりにこそさぶらへ。今はただ、名残なくおぼしとどまりなん」と申せば、少将、〔中略〕直衣の袖も絞るばかりにて、うちしをれたまひて、泣く泣くのたまひけるは、「いでや、見たてまつらざりしその前ならば、いかがせん、今は絶えてあるべしともおぼえず」とのたまへば、姫君聞きたまひて、さすがに岩木(いわき)ならねば、あはれと聞きたまへり。「侍従に少将殿は、このことかなはずは、世を逃(のが)れんまでにのたまふも、いとほしく」などと申せば、姫君、「何ごとをさまで思ひたまへる。けしからずや」とのたまへば、~
〔中略〕
卯月(うづき)にもなりぬ。卯の花挿して、少将殿の文あり。
 
つれなさを思ひしらねの心にて身をうの花といふばかりなり

(注) 2 たばかられて――これ以前に、少将は、姫君の継母にだまされて、                継母の娘(三の君)と結婚させられていた。
   3 もて離れたる御気色なり――姫君は関心のないご様子である。

問1 傍線部(ア)「人の命はつれなきものなり」、(イ)「よもとこそ」、(ウ)「侍従はおろかならず思ひはべれども」の解釈として、最も適当なものを選べ。

 (ア)の「人の命はつれなきものなり」の「つれなし」の意味は、木山の直単C形54①にあるように「
平然として何事もないさま」。

 したがって、答はそのまま選択肢④の「人の命は自分の意思に関係なく
平然としたものだ」(5点)

 
(イ)の「よもとこそ」は、「よも」が公式39の呼応陳述の副詞で、下に打消しの「じ」を伴って、「よもや、まさか、決して~(まい)」の形になることは、これも再三古文公式39でチェックしたとおりです。本来は「よも~じとこそ(思ひはべれ)=よもやまさか~まいと思います。」などの形になるべきもので、それの省略形と考えられます。
 答は選択肢②の「
まさかご返事を下さることはあるまいと思います」が正解。

 (ウ)の「侍従はおろかならず思ひはべれども」のポイントは、形容動詞「おろかなり」を含む連語「おろかならず」の訳出を知っているか否かです。直単C形動10*「おろかならず=並み一通りではない」とあるように、この表現は相手への思いの強さや、時には愛情の程度などを表わす際の慣用的表現として用いられます。
 答は選択肢④の「わたくし侍従は少将殿のお気持ちを
並大抵でなく思いますが」が正解。

 以上、三つの単語の意味が完璧に理解されていれば、すでにこれだけで時間をかけずに15点の得点化が達成できます。(1学期から夏期講習会にかけて一貫して単語の暗記の練習を続けてきた学生さんが、ほとんど時間をかけずに即答したことは言うまでもありません。)

問3 傍線部「侍従に少将殿は、このことかなはずは、世を逃れんまでにのたまふも、いとほしく」とあるが、これは侍従のどのような心情が表れているか。次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 ポイントは公式29*「~
ずは」の形が仮定条件となり「~ないならば」となる点、また「かなふ」「世を逃(のが)る」と「いとほし」などの単語の意味がしっかりと理解されているか否かです。「かなふ」はA動20①で「思いどおりになる」。「世をのがる」はD連31の出家関係の語句「世を背(そむ)く・世を厭(いと)ふ・世を捨つ・世を出(い)づ」などをそらで暗記しているレベルの学生にとって、「世を逃(のが)る」が出家して俗世をのがれるといった意味であることは簡単に類推できたことと思います。

 「いとほし」の意味は、B形11で「気の毒だ」ですから、これらの理解によって、正解の選択肢は⑤「少将には姫君のことをあきらめるように勧めたが、少将は姫君から返事をもらえなければ
出家するつもりだと言うので、少将のことが気の毒だという心情」(8点)

問5 A~Eの少将の歌に関する説明として適当でないものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 答は、選択肢③の〝
Cの歌では、姫君の薄情さを思い知ってあきらめたくもなるが、「うの花」の「う」に「美し」の意を掛けて、姫君の容姿を卯の花のように美しいと賞賛している〟が、適当ではない説明として正解となります。
 ちなみにCの歌は「つれなさを思ひしらねの心にて身をうの花といふばかりなり」でした。
 なぜ、この選択肢がCの歌の説明として不適当であるのか(正しくないのか)、これを読む皆さんは、現時点で即座に判断できるでしょうか?

 木山方式の知識充足の順番は、毎年、

①古文公式、直単ABCDEの暗記において、隠して直接意味を当てられる状態で8割以上の正答ができること。(1学期の中盤まで)

②古文公式約60項目の意味と用法について、それを隠した状態で8割以上の正答ができること。(1学期の終盤まで)

③古文公式の公式62~64の枕詞・序詞・掛詞50パターン、代表縁語などの知識について、隠して直接当てられる状態で8割以上の正答ができること。(夏期から2学期の序盤まで)


といったプロセスで進みますので、①②の一応の達成を見たのちに、③の和歌修辞の暗記演習となります。(この間、単語・文法のチェックで個別に当てられることを嫌って、毎年ある一定量の学生さんたちが木山方式を離れていくことは残念でなりません。彼らは結局、以下に説明するような和歌修辞のポイントや知識系の暗記の訓練を受けることなく、こうした2学期以降の模試に直面することになってしまいます。)

 まず、説明としては、古文公式の文学史年表(近世)の左ページにある陰暦月齢表の隣りの《公式64掛詞のつづき》の左下にある、マル注〝述部であるはずの部分が不自然に他の品詞に転化するパターンにも注意〟とあるところを見て下さい。

 和歌を解釈する際に、〝何が(主語)どうした(述部)〟の「どうした(述部)」の部分が、一瞬うまく上の記述とつながらない、
あるいは述部が消えてしまうように感じられることが、ままあります。実はそうした部分に意味の二重性が要請され、そこに掛詞が隠れていることが多いのです。

 たとえば、例にあるように、「蛍の光」という曲の「いつしか年も杉の戸を開けてぞ今朝はわかれいく」の「いつしか年も杉の戸を」のつながりは不自然です。「いつしか」は公式39下段の「はやくも~する」ですから、早くも年月が→どうなったのか、に当たる部分が、いきなり名詞の「杉の戸」となるのはうまく意味がつながりません。
 ここは、はやくも年月が「過ぎ(て)」と「杉の戸」が掛詞になっていて、ちょうどバトンをリレーするように、上からの意味のつながりと、
そこから始まる下の意味のつながりが、掛詞を仲立ちにしてジョイントしていると考えればうまくつながります。

 こうした和歌中で述部が消える部分に着眼することで、掛詞の所在を見いだすことができます。近年の千葉大の出題に

○ 思ひ出づる都のことはおほゐ川いく瀬の石の数もおよばじ

とあって、これなどは述部が消えるパターンの比較的簡単なレベルと言えるでしょう。

 では、H23年の大阪大学・法・経・人間科学に出題された次の和歌の掛詞はどこに隠れているのでしょうか。(正答とまでいかなくても、どこで述部が消えるように感じられるか、ためしてみて下さい。)

○ いにしへの跡とみかはの八橋にその名ばかりを恋ひやわたらむ

 ところで、もう一つ、
和歌中の形容詞の語幹用法は、語幹のみでも意味を持つといったルールがあります。古文公式26②にあるように、そもそも形容詞が語幹の部分で止まるといった現象は、一種の感動的表現としての意味を有するわけで、今でも若者言葉の中に「はや!」(=早いの語幹)などというのと同じ現象です。

 たとえば、「憂し(B形18)」の語幹は「憂(う)」ですから、「あなう」は「ああつらい」となり、「疾し(C形56)」の語幹は「疾(と)」ですから、「あなと」は「ああ早い」といった具合です。

 では、H19年に出題された京大文系の次の和歌の掛詞はどこであるか、わかるでしょうか。

○ まだちらぬ花しありともけふ見ずは明日やなごりも夏の木(こ)のもと
 答は「無(し)」の語幹と「夏」です。

 さて、ここまでくれば和歌中で述部が不自然に消える部分への着眼といった視点と、和歌中の形容詞の語幹用法は語幹のみでも意味を持つという二つの視点を持って、さきほどのCの歌の下の句「身をうの花といふばかりなり」がどうなっているのかがわかるはずです。「我が身を卯の花」では意味がつながりませんから、ここは「我が身を憂(う)し=つらいというばかりなり」と、わが身のつらさを嘆いていると考えられます。

選択肢の③は、〝「うの花」の「う」に「美し」の意をかけている〟とありますから、この点が誤りです。「美し」の語幹は「美し」であり、語幹が「う」一字で意味を持つものは「憂し」しかありません。


夏期講習会の
『サクセス!最強古文漢文』でも詳しい資料を載せながら、さらに解説・演習をしていくつもりです。


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