= 大晦日だより・一年を振り返って =
               シリーズ№34


【 パーソナリティーの市場的構え 】



 ドイツ生まれの精神分析学者・社会学者にエンリッヒ・フロム(1900~1980)という人がいます。「自由からの逃走」という本が、一時日本でもベストセラーになりました。

 そのフロムの言葉の中に『パーソナリティーの市場的構え』というおもしろい用語があります。それによると、本来、物の価値はそれがどれだけ役に立つかという使用価値によって決まるものであったが、高度に発展した現代の市場経済の原理では、モノ本来の使用価値ではなく、それがいくらで売れるかという交換価値によって決まるようになった。

 それと同様に人間の価値もどんな能力がありどんな人格を有しているかということよりも、どれだけ多くの人々に受け入れられているかによってその価値が決まるといった市場原理の投影が行われるようになり、結果として多くの現代人はまるで人気商売のように、より多くの人から認められ、好感を持たれることを求めるようになった。

 そこでフロムは、人々が自分自身を商品と見なし、自己の価値をより多くの人に受け入れられているかどうかといった交換価値として認識するパーソナリティーのあり方を市場的構えとして、こうした市場的構えによるエートスが急速に人々の間で育ちつつあると指摘しました。
(エートスethos=ある社会集団に行き渡っている情動的・倫理的な雰囲気)

 フロムの指摘を待つまでもなく、そしてフロムの死後30年以上も経過した今日ではなおさらのこと、人間のパーソナリティーを含めた物の価値が、モノそれ自体の価値によって決まるのではなく、より多く売れたかどうか、より多く受け入れられたかどうかといった交換価値で決まるという原則は、もはや常識以前のものとして、ことさら相対化されることもないほどに人々の思考に深く浸透しているように思われます。

 それはつまり、役に立つ商品を価値ありとするのではなく、
売れる商品こそが結果として価値があるのだとする点で、価値判断のベクトルを逆向きにしてしまうエートスと言えるわけです。

 たとえば、内容が充実した本が価値があるのではなく、より多く売れて広く読まれている本が価値があるのだという考え方の台頭であり、そのような見方にいくら異議を唱えたところで、市場経済のもとでは、所詮、負け犬の遠吠えにすぎないといった、そんな捨てぜりふが堂々とまかり通る社会の出現といったものを意味するわけです。(エーリッヒ・フロム「人間における自由」東京創元社)

 理性的に考えれば、多数者による支持が必ずしも結果の正しさを保証しないことは、歴史の大局をみても、日常卑近な例を取り上げても、理屈の上では誰もがよくわかっていながら、そして度々警鐘されていながらも、なぜ人々は市場的交換価値という、ある種の権威付けの前では「自発的な服従」とでもいうべき盲目状態になるのでしょうか。

 木山は以前、現代の若者の動向を表わす言葉として『個人の周縁的情報を核としたサブカル的「ノリ」による「小さな村社会=同調的コミュニティー」に身を置こうとする態度』という表現を使ったことがあります。(お頼り№29)
 原初的な意味において、村落共同体というのは、理念の絶対性や実証性という見地から見れば、極めて文脈依存的・状況依存的で、曖昧模糊(あいまいもこ)としたものです。

 しかし、一方で、内向きにはそうした曖昧模糊とした、いわば阿吽(あうん)の呼吸のようなもので物事が決められていきながら、他方、外向きには異質なものに対して徹底してそれを排除するといったような逆の一面もあるわけです。その意味では「村落共同体の曖昧さ」と「排除の徹底性」は表裏一体なものだと言えます。

 今日、若い世代になるほど一般的に「自らを恃(たの)む」度合いが低く、いろいろな統計調査が示すように、同調圧力に極めて弱いといった傾向が指摘されています。「みんな同じ」というモードでないとコミュニケーションを先に進められないので、たとえば女子高生言葉のようなジャーゴンをわざわざ仲間同士で作ってみたり、または内面の自己を封印してキャラを演じたりして、「みんなと同じらしさ」(?)を作り出す規約(プロトコル)に従うといった傾向があると言われています。

 そこでは「同じらしさ」を演出するために、実に些細な差異が、共感や同調性といった「ウチラ意識」を喚起させるか、はたまた差別や蔑視や敵対性といった潔癖なまでの「排除の論理」につながるかが、重大な違いとして作用するわけです。

 予備校の講師室での講師と学生の会話を聞いていても、実に些細な共通点だけでも話が異様に盛り上がったりします。そのことは裏を返せば、何が自分たちにとっての同一性や差異性の証明になるかについての、極めて神経質な――疑心暗鬼といっていいほどの――観察があるわけです。

 木山はこうした村落共同体的内向きの親密性が、時に排除の論理としてモノそのものの検証性を厳しく抑圧したり、制限したりするのではないかと思うことがあります。それは平たく言えば、「仲間内の空気を読む」といった文脈で、あえて物事の白黒を突き詰めず無難に流してしまうといった態度ですが、逆向きに言えば、仮に物事の白黒に決着つけようとすれば、一度は同調的村落共同体の外側に立って、敵対性の構えをしなければならないから、そのことが躊躇されるといった心理です。

 そうした局面に立たされたとき、誰も否定せず、全体の流れの中に乗って上手に流れていくといった処世的態度が、今の若い人たちの中に
ある種の洗練された振る舞いとして認識されるような感受性が広がり始めているのかもしれません。

 そうした状況の中でも、なおかつ言説に影響力を持たせようとすれば、――以前にも書いたことですが――、分析や実証性などはむしろ必要なものではなく、語り手の「すごい自己」を認めさせること、語り手の自己の影響力を強めることの方が最も効果的な方法だと言えるでしょう。「実証はしないけど、オレが思っていることはこういうことだ」といったメッセージの形式で、その「オレ」自体に説得力があれば、むしろその方が大衆に主張が通用したり、聞き手の共感を呼ぶといったことが確かにあると思います。

 予備校におけるプチ・カリスマイズムも、言い換えれば語り手の「自己」に何らかの説得力を持たせることで、迂回的(うかいてき)にその言説の影響力を強めていく方法論に拠っていると言えるのかもしれません。「あの人の言うことだから、私は信じたいと思う」といった意識の領域には、もはや客観的な実証性など入り込む余地もありません。

 しかしながら、他方、入試問題においては、やはり厳然と正誤の判断というものがあるわけです。当然ながらそこでは個々人の学究的態度が要求されます。仮に、衆によって圧倒的に支持された権威づけの中に、明らかな誤謬性や疑念を見出した場合、学生は
市場的交換価値の重さ自己の真実性の追求とのどちらを優先しようとするのか、木山はその点に深く興味があります。





【 Yサピックス東大国語・代ゼミ国公立大古文テキストの検証を木山が引き受けるに至った経緯 】


 12月上旬、2学期の最終週に、代ゼミ国語科の担当の方と面談をしました。今学期の国公立大古文の、主にオリジナル問題の中に、解法・解釈上の間違いが多く、改善すべき旨の要望を申し上げました。(その際、具体的に各設問の当否を論じた文章を添えました。)

 担当の方も問題の所在は十分に認識しており――というのも、他の講師からも様々な指摘があるとのことでしたが――しかしながら、それによってテキスト作成者を変えるというようなことは現状では難しく、現行のままで行きたい、ついては先生に(=私木山に)新学期のテキスト原稿があがる段階で、設問の是非についてそっと検証していただければ助かるとのことでした。私としても事前に訂正できればそれに越したことなく、引き受けることにしました。

 実は同様のテキスト検証については、Yサピックスの東大国語テキストに
ついても、今年度の2学期以降、とくにオリジナル問題について検証をしてき
ました。これも度々の私からの指摘に対し、サピックスの担当の方から印刷前の検証を依頼されたのでした。(ただし、私の提言が完全に反映されるというのではなく、ほぼおおむね活かされるといった程度です。)
 
 ここで入試問題の模範解答の是非や、創作問題における設問自体の是非というのは、どのように検証されるかについて考えてみますと、実は、入試問題における古文漢文の解釈上の当否については、英語などの一過性の題材に比べて、意外に客観的な資料に基づいて決することができるという一面があるのです。

 というもの、入試問題に利用されるような主要な古文作品というのは、明治
書院の入試分類法によっても、おおよそ約200作品~250作品程度であっ
て、しかもその多くには複数の注釈書・解説書の類い・研究論文などが存在します。

 また、ある作品のある場面が過去45年間の間に(というのも木山が所蔵する明治書院の入試問題総覧は、昭和44年以降現在に至るまで45年分あります。)くり返しくり返し出題され、問題化されてきた、いわば『入試問題化の履歴(りれき)』のようなものが、資料をたどることによって見えてきます。

 たとえば、旧帝大系の過去問の場合、少なくとも複数の権威ある学者が、学部内の討議を経たうえで、入試古典問題を作成しているはずですから、そこでの設問の立て方や問いのあり方が、解釈上の当否をめぐる間接的な証左ともなり得るわけです。

 これらの注釈書、特に体系本などの学界の権威を代表するものや、比較的最近の研究を反映した他の出版物などの資料と、その同一場面を扱った入試問題化の履歴といった2系列の資料を丹念に調べていけば、かなりの割合で、設問の当否について判断を下せるような客観的な知見に達することができます。
(仮に、上に挙げたような客観的な資料を提示できない場合は、講師は沈黙すべきです。恣意的な議論だけでは建設的な議論にはならないからです。)

 これまでの私からの指摘も、すべてはそうした第三者的客観資料の提示に主眼を置くことによって、問題の矛盾点や誤謬性に気付いてもらうといった姿勢でやってきました。これまでの20数回の指摘に対し、おおむね反論はありません。こちらの指摘の正しさが国語科の方には充分認知されているといった印象です。


【 学生はその時どう対処しているのか 】

 一例を挙げてみましょう。2011年2学期・国公立大古文テキストの30ページ本文22行目には、次のような和歌が載せられています。

○ かきつめて見るもかひなし藻潮草同じ雲居の煙とをなれ

 これは『源氏物語』幻の巻において、翌年の出家を決意した光源氏が身辺の整理をするくだりで、先に亡くなった紫の上の手紙を焼き捨てるに際し詠んだ歌です。
 訳は〝かき集めて見たところで何の甲斐もないことだ、藻潮草=手紙よ、亡き人と同じ空の煙となるがよい。〟

 源氏は出家を前にして肉親への執着を断ち切り、紫の上との三十余年の生活に強いて区切りをつけようとしていると読めます。

 設問は問五・Bに〝この歌には光源氏のどのような心情が表れているか説明せよ〟とあって、直前に書いた文章がそのまま解答として応用できますから、「
源氏の、出家を前にして肉親への執着を断ち切り、紫の上との思い出に区切りをつけようとする心情」といった感じでしょうか。

 ところで、テキストに付せられた教授資料の模範解答には、「出家を前にして紫の上との
愛憎関係を清算するたるめに~」といった驚くべき表現が使われていて、木山はまったく苦笑してしまいました。アマチュアリズムもここに極われりといった感じです。

 紫の上を追慕し世の無常をしみじみと観じている源氏の胸中に、どのような紫の上に対する愛と
憎しみの葛藤がアンヴィバレンス(=同一の対象に対し相反する感情を同時に抱くこと)なものとして去来するのでしょうか?

 そもそも幻の巻の、いたってしみじみとした感慨に満たされた、あの場面の問題文中の、一体どこに源氏の紫の上に対する
憎しみの気分というものを見出せるのか、極めて珍妙な答案であると言わざるを得ません。

 「出家を前にして、源氏が紫の上への
愛執を断つために~」などと書くべきところを、「紫の上との愛憎関係を清算するために~」といった表現でも、ほぼ同義の内容ではないかと考えるような凡庸(ぼんよう)な言語センスでは、とうてい難関校は望めないでしょう。

 木山が深く興味を引かれるのは、こうした珍妙な答案が、衆によって圧倒的に支持された権威づけの中で(いわく、東大合格者続出の最強の講師陣による最高の授業などといった中で)示された場合、知的レベルの高い学生層はどのように反応しているのか、という点です。

 東大や京大に合格するレベルの学生が、上に書いたような用語の珍妙さに気付かないわけがなく、しかしながら、気付きながらも、あくまでそうした権威的なものに寄り添っていこうとする場合、その心中にあるのは、どのような心的メカニズムなのか、その点に深く興味があります。

 会社と一体化し、職場同調的であり、異論を唱えない人間が実は望ましいという日本社会の本音の部分を先取りして、黙って状況をすくい上げ、なおかつその中で突出しない程度にベストな選択をする人材になろうと努めるといった、そうしたクールな処世観によっているのでしょうか。

 それとも、もっと根本的に――木山は以前、今日的な予備校の空気が講師も含めて、予備校がいわば
仲間作りの場と化していると書いたことがありますが、――仲間内である講師を批判せず、そのためには物事の真偽にもそれほどこだわらず、自分たちの帰属する世界を守ろうとする若者特有の「やさしさ」とか「ジモト」といったメンタリティーが、間違いを間違いと認めながらも、やんわりと受け流せるほどの寛容さへと学生を導くのでしょうか。

 それとも講師と学生が一緒に盛り上がることによってもたらされる「内的に幸福な状態(=カーニヴァル)」、たとえば「絶対合格するそぉぉぉ~!」みたいな空気も含めて、そうした高揚した一体感を最も重視する人々にとって、真偽の一貫性などどうでもよいといった倒錯した開き直りのようなものがあるのでしょうか。

 木山がこの一年間で指摘し続けてきたテキストの模範解答の誤謬性や、設問自体の噴飯(ふんぱん)ものの度合いは、どれもこれと似たようなレベルです。

 しかしながら、そういう珍妙さに対して(裏側では密かに苦笑しているのかもしれませんが)、少なくとも表面的にはみなが唯々諾々(いいだくだく)と従って、とくに波風を立てることもないというのは(学生のみならず講師も含めて)、やはり何らかの心理的処理がなされているのではないかと思えてなりません。

 そうした局面に立たされたとき、誰も否定せず(入試問題の真偽でさえもあまり目くじらを立てることなく)、全体の流れの中に乗って上手に流れていくといった処世的態度が、今の若い人たちの中にある種の洗練された振る舞いとして認識されるような感受性が広がり始めているのではないかと先に書いた私の予想は、果たして当たっているのでしょうか?


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 そこでフロムは、人々が自分自身を商品と見なし、自己の価値をより多くの人に受け入れられているかどうかといった交換価値として認識するパーソナリティーのあり方を市場的構えとして、こうした市場的構えによるエートスが急速に人々の間で育ちつつあると指摘しました。

 フロムの指摘を待つまでもなく、そしてフロムの死後30年以上も経過した今日ではなおさらのこと、人間のパーソナリティーを含めた物の価値が、モノそれ自体の価値によって決まるのではなく、より多く売れたかどうか、より多く受け入れられたかどうかといった交換価値で決まるという原則は、もはや常識以前のものとして、ことさら相対化されることもないほどに人々の思考に深く浸透しているように思われます。
 それはつまり、役に立つ商品を価値ありとするのではなく、売れる商品こそが結果として価値があるのだとする点で、価値判断のベクトルを逆向きにしてしまうエートスと言えるわけです。

 たとえば、内容が充実した本が価値があるのではなく、より多く売れて広く読まれている本が価値があるのだという考え方の台頭であり、そのような見方にいくら異議を唱えたところで、市場経済のもとでは、所詮、負け犬の遠吠えにすぎないといった、そんな捨てぜりふが堂々とまかり通る社会の出現といったものを意味するわけです。(エーリッヒ・フロム「人間における自由」東京創元社
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