=  梅の花だより  

       シリーズ№44 =



       


【 センターで10点以上の得点差が生じることを知っていたら、
東大クラスの学生は木山方式を希求しただろうか、という
思考実験に対する答え】


 結論的には、東大志望者であれば、たとえ得点差の情報を耳にしたとしても、最終的にはやはり東大クラスに行くのではないでしょうか。(10点差についての記事は、№43を参照)

 というのも、予備校や塾のクラス所属の問題は、結局のところ、自分がどこに身を置けば快適で居心地がよいか、またはやる気が起きるかといった居場所の問題――それはたとえば気の合う先生との関係性や自分と同じようなレベルの学生と過ごす安心感や快適感といったことも含めた居場所の問題――として機能する側面が高いと思われるからです。

 木山は以前、お便りシリーズ№33において【
なぜ学生は実証的な言説に感応しないのか?】という小見出しで次のような文章を書きました。

 『学生がなぜ聞く耳を持たないのかと言えば、「お互いに無視し合う自由」というニヒリズムを懐(ふところ)に隠し持っているからで、これらを盾にすれば大抵の批評は〝余計なお説教〟として無視できます。

 あるいは木山方式のような分析的な手法が、他の方法論への間接的な批判につながってしまうことへの、何かしら感覚的な忌避(きひ)の感受性、あるいは鼻白むような感じ、というものがあるのかもしれません。
〔中略〕
 そうした状況の中でも、なおかつ言説に影響力を持たせようとすれば、分析も実証性も、むしろ必要なものではなく、語り手の「
すごい自己」を認めさせること、語り手の自己(じこ)の影響力を強めることが、一番効果的な方法であろうと思います。「実証はしないけれど、オレが思ってることはこういうことだ」といったメッセージの形式で、その「オレ」自体に説得力があれば、むしろそちらのほうが大衆に主張が通用したり、聞き手の共感を呼ぶといったことが確かにあると思います。

 予備校におけるプチ・カリスマイズムも、言い換えれば語り手の「自己」に何らかの説得力を持たせることで、迂回的(うかいてき)にその言説の影響力を強めていく方法論に拠っていると言えるのかもしれません。「あの人の言うことだから、私は
信じたいと思う」といった意識の領域には、もはや客観的な実証性などは入り込む余地もありません。

 かくて、カリスマイズムやある種のムーブメントは、実証的な基盤がないにも関わらず、人々を強く惹き付けてしまいます。
あるいはそうした情動は、結局のところ、それに結び付いていたいと願う人の、居場所の問題であると言い換えることもできるのです。』

とあって、つまり快適な居場所の提供者であるということが期待される点で、今日的な予備校講師の役割は、効率的な知識の伝達というよりも、感情面でのケアという意味での社会学でいうところの「感情労働」になりつつあるのだと思います。

 「感情労働」(emotional labour)とは、肉体や頭脳を使うだけでなく、感情の持ち方や感情表現の仕方それ自体が職務の重要な一部であるような労働のことを言います。顧客に快適感や安心感を与えなくてはならないサービス業に多く、とりわけ看護士や飛行機の客室乗務員などがその典型とされています。
 今日の予備校・塾の顧客重視の傾向の中では、予備校講師もまたそうした感情労働にたずさわる職業の一つといえるわけです。

 ところで、こうした学生をめぐる居場所の問題を「スクールカースト」という、ちょっとおもしろい造語を使って考察する論評を最近よく見かけるようになりました。「スクールカースト」という言葉は、主に中学校や高校のクラス内で発生するヒエラルキーのことで、同学年の学生たちが集団内でお互いがお互いを値踏みし、ランク付けし、グループ化していく、といった一連の現象を指して使われる言葉だそうです。

 鈴木翔著 光文社新書『教室内カースト』によれば、「スクールカースト」で上位に位置づけられる学生たちには、いくつかの共通項があると言います。
たとえば「にぎやかで声が大きい」とか「みんなでわいわいやっているような感じがある」とか「異性からの評価が高い/または学業での評価が高い」とか「コミュニケーション能力が高い」とか「若者文化へのコミットメントが高い」などといった特徴が見い出されるそうです。

 その本の147ページに載せられているインタビュー記事には、次のような興味深い証言があります。

 
たいてい固定してて、一番騒いでる人たちっているんですよ、どのクラスにも。そういう人たちが大体決まっているから、たぶんあのグループが上かな、みたいな。」
 わいわいやっている方が『イケてるグループ』って感じですかね。目立ってわいわいやっているって感じで。『目立たないグループ』でわいわいやっててもしようがないですから(笑)。

 (文化祭の出し物の練習のときに)その『目立たないグループ』でダンス踊って、あっちがわいわいやっているのを見てると、むこうの方が『イケてるグループ』みたいな感じで楽しいみたいなんですよ。目立ってるし。先輩とも仲良くしゃべったりしてて。こっちは別に普通に練習してて、なんか別にそんな楽しくないというか。」

―なんでだろう。ダンス自体が楽しくないってこと?

「一生懸命やってるんですけどね。だんだん気持ちがマイナスの方に……。目立たないがゆえにマイナスの方向に行ってしまうというか。むこうの『イケてるグループ』の方がアピールの仕方がうまいっていうか……。また気持ちがどんどん下がっていって、それでまたどんどん差が開いてしまう。」

―それは何の差?

「その目立たない立場っていうか、その力の差みたいなものがどんどん明確になっていくみたいな。」


とあって、所属意識や帰属意識がそのままダイレクトに集団内の上下のランク付けに結びついてしまうという構造は、さぞかしシビアで息苦しいものであろうと木山も心底同情します。

 ポスト団塊世代の私の時代にも、そうした集団内の力関係の意識というものはたしかに存在したと思いますが、しかし、現在の若者社会の方が、そうしたコミュニケーションに関わるファクターがより一層敏感に意識されやすい現状にさらされているのだと言えそうです。

 つまり集団内の人間関係の中で、どれだけ自分が承認されているかと実感できるか、感情的な安全が保障されるかについては、それに見合うだけの居場所の存在によって決まるといった考え方や感受性が、現在の若者の中に強くあるのだと思います。
 たとえば、ランチメイト症候群などの過剰なまでの居場所へのこだわりというような現象は、私の時代にはまったくありませんでした。

 そうした若者の現象を、予備校という大学進学における偏差値ヒエラルキーを前提とした世界に置き換えてみると、内実はどうであれ、東大志望の学生はやはり同じモードの、かつ、予備校という世界の中では最高位のカーストに位置する東大志望者同士で自然と居場所づくりをしてしまう傾向が強くあるように思われます。

 たとえば、「今年の文Ⅰの入試は○×△らしいよ」とか「東大現代文であれば○×△先生のあの参考書が絶対おすすめ!」などといった東大入試の周縁的情報でつねに盛り上がりつつ「みんな同じ」という同調モードの中にいることで安心感を得ているといった背景があるのではないかと思います。

 こうした同調モードの規約に従い続けたいという、いわば予備校高位者カースト意識が前提にある以上、たとえ客観的な分析を耳にしても、しかもそれが現状をネガティブにとらえるものであったとしても、現実的にそれによって学生が動くかといえば、結局動かないのではないのではないでしょうか。

 耳に入ってくる異質な情報に対しては、多少疑心暗鬼になることはあるとしても、「やっぱりみんなと同じゲームをやってます!」という同調モードから離れられない不自由さというものは、――それは不自由どころか、時として受験において不利益にさえなってしまうんですけども――長年古典に関する東大受験指導などやっていますと、ときとして超進学校の極めて利発聡明な学生たちの中にも、いくらか滑稽な形で見い出したりすることがあります。

 彼らは時として木山方式のような泥臭い暗記のくり返しを、何かしら東大受験という
高みにはそぐわないものととらえる傾向があり、では一方彼らは何を希求しているかといえば、もっと深遠で高尚な何か、あっと目からウロコが落ちるような解法の妙味を披瀝してくれるような何か、超進学校の学生をしてなるほどこれはすごい!と思わせてくれるような、知的な昂ぶりを覚えるような何かを求めていたりもします。

 そういうけれん味(俗受けをねらったいやらしさ・はったり・ごまかし)たっぷりな、いかにもな東大受験対策にコロリとまいってしまうという点では、一見利発聡明に見える超進学校の学生さんたちも、やはり根は素直で純情な18歳なのだなあとしみじみと思ってしまいます。

 本当にそのような深遠な何か――木山方式ではカバーできないような何かが――東大古文の解法には必要なのでしょうか?





【 H24年東大古文における木山方式の得点寄与率の分析 】

 出典は『俊頼髄脳』の一節で、冒頭の和歌についての筆者の見解を踏まえた上で設問に答えよ、といったものでした。

○ 岩橋(いわばし)の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城(かづらぎ)の神

 この歌は、葛城の山、吉野山とのはざまの、はるかなる程をめぐれば、

事のわづらひのあれば、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)といへる修行者の、こ

の山の峰よりかの吉野山の峰に橋を渡したらば、事のわづらひなく人は通ひ

なむとて、その所におはする一言主(ひとことぬし)と申す神に祈り申しけるや

うは、「神の神通(じんつう)は、仏に劣ること無し。
凡夫(ぽんぷ)のえせぬこ

とをするを、神力(じんりき)とせり
。願はくは、この葛城の山のいただきより、

かの吉野山のいただきまで、岩をもちて橋を渡し給へ。この願ひをかたじけ

なくも受け給はば、
たふるにしたがひて法施(ほふせ)をたてまつらむ」と申

しければ、空に声ありて、「我この事を受けつ。あひかまへて渡すべし。ただ

し、我がかたち醜くして、見る人おぢ恐りをなす。夜な夜な渡さむ」とのたまへ

り。「願はくは、すみやかに渡し給へ」とて、心経(しんぎょう)をよみて祈り申し

しに、その夜のうちに少し渡して、昼渡さず。役の行者それを見ておほきに

怒りて、「しからば護法(ごほう)、この神を縛り給へ」と申す。護法たちまちに

、葛(かづら)をもちて神を縛りつ。その神おほきなる巌(いはほ)にて見え給へ

ば、葛のまつはれて、掛け袋などに物を入れたるやうに、
ひまはざまもなく

まつはれて、今はおはすなり


〔注〕○役の行者…奈良時代の山岳呪術者。葛城山に住んで修行し、吉野の金峰山・大峰などを開いた。
   ○一言主と申す神…葛城山に住む女神。
   ○護法…仏法修行のために使役される鬼神。
   ○掛け袋…紐をつけて首に掛ける袋。

設問(一) 傍線部ア・イ・ウを現代語訳せよ。

 アの「事のわづらひ」は、役の行者が葛城山や吉野山を巡り歩くうえでの「いろいろなわずらい・苦労・難儀」の意で、訳出は難しくなく、むしろ、あまり
に変哲なさすぎてどう書いたらよいかと、戸惑うような設問です。

 実は東大古文というのは、こうした重要単語を含むでもなく、格別な構文も見当たらないような、単なる意訳のセンスのみを問うような変哲ない設問がけっこう多いものです。
 答は「いろいろと難儀なことがあるので」

 イの「凡夫のえせぬ事をするを、神力とせり」も同様にいかにも変哲ない。有名な○×先生の講義を受けて東大古典の真髄を知りました!とか目からウロコが落ちました!などと「けれん味」たっぷりな東大受験対策に心酔したり感応したりすることが、気恥ずかしくなるほどの変哲の無さです。

 「凡夫」は「ただの人・ふつうの人」であり、「えせぬ」は「~できない」ですから、答は「普通の人ができないことをするのを、神通力というのだ」です。

 傍線部ウの「
たふるにしたがひて法施(はふせ)をたてまつらむ」は、木山方式の旨みが生きる設問です。直単B動38「たふ(堪ふ)」は、受験の10ヶ月間①の「能力がある・能力を発揮する」の意でくり返しくり返し何度も練習してきましたし、この文脈上での「たふるにしたがひて」が「能力を発揮するにしたがって」であることは明白だと思います。
 答は「能力を発揮するに応じて」

設問(四)「ひまはざまもなくまつはれて、今におはすなり」とあるが、どのような状況を示しているのか、主語を補って簡潔に説明せよ。

 まず直単A名47「ひま」=(隙間)と、E他33「まつはる」=(まとわりつく)の意をあてれば直訳的には「隙間もなくまとわりついて、現在もいらっしゃる」といった感じになります。(公56ソ①おはす=いらっしゃる)

 さらに傍線部カの直前には「護法たちまちに葛(かずら)をもちて神を縛りつ」とありますから、この点を説明的に肉付けしてまとめれば、
答は「一言主の神が護法によって葛に隙間なくからみつかれて、現在も存在している状況」となります。

設問(五)冒頭の和歌は、ある女房が詠んだものだが、この和歌は、通ってきた男性に対して、どういうことを告げようとしているか、わかりやすく説明せよ。

 さて、この設問の解答の方向性をすぐに思いつくことができるでしょうか?

正解を聞いてしまえば、
コロンブスの卵のような設問ですが、試験場で時間をかけずに、解答の方向性を発想できるかどうかは別問題です。
(コロンブスの卵…コロンブスが大陸発見など誰でもできると評された時、それならば卵を立てることができるかと応じ、衆人が試みてできなかったあとで、卵の尻を潰して立ててみせた、という話から、
誰にも可能なことでも、最初にあえてそれをすることの難しさ、又は、それに気付くことの難しさをいう語)

 または、こうした深みのある設問こそ、木山方式のような知識の積上げ方式では到底カバーできない、まさに〝行間を読む〟読解問題の領域だと、アンチ木山方式派の人たちは意気込むのでしょうか?
 ためしに、この文章の先を読む前に、どのような解答の方向性が考えられるのか、少し時間をかけて考えてみて下さい。

(しばし閑)

 では解説しましょう。

○ 岩橋(いわばし)の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城(かづらぎ)の神

 「契り」は直単A名37で「①前世からの因縁 ②約束・夫婦の約束」の二つの取り方が考えられますが、①では文意が通じず、また設問にあるように、この歌は「ある女房が通ってきた男性に対して詠んだもの」という設定なので、②の「夫婦の約束」の方をとるのがよく、さらにここでは夫婦であるかどうか定かではないので、便宜的に「男女の約束」と解釈しておきます。

 「絶えぬべし」の「ぬべし」は、公式5日の丸印③「(今にも)~してしまう」の訳をあてて、上句は「岩橋の夜の契りではないが、男女の約束も今にも絶えてしまいそうです」の意となります。

 下句の「明くるわびしき」の「わびしき」はC形86「(思うようにいかず)やりきれない」の意。直単でくり返しくり返し説明したように、「わびし」は動詞の「わぶ」(B動62=困る・嘆く)の意が形容詞化したものですから、何か思うようにならず「困ったなぁ」といった感覚が「わびしき」という言葉には込められているわけです。

 木山が授業中、電車の中で定期券をなくして『いとわびし!』などと叫んでいたことを思い出して下さい。これは現代語のような「秋の夕暮れはわびしい」などというときの〝寂しさや物悲しさ〟とは微妙に言葉のニュアンスが違っています。電車の中で定期券をなくした場合、寂しいのではなく、むしろ『困ってしまってやりきれない』といった感覚であろうと思います。

 この「わびし」の、現代語と異なる用法については、とくに平安時代の作品の中では気をつけるように幾度も注意しましたし、この『俊頼髄脳』はまさにその平安後期の作品です。

 したがって、和歌全体の直訳は「岩橋の夜の契りではないが、男女の約束も今にも絶えてしまいそうです。夜が明けてしまうのが
やりきれない(困ってしまうなぁ)葛城の神である私は」といった感じになります。

 ここで補注を見ると、「一言主の神…葛城山に住む女神」となっていて、つまり葛城の神というのは女の立場を表わしていることがわかります。したがって葛城の神に自らを仮託した女は――つまりこの歌を詠んだ女房は――どういうことに対して『困ってしまう、やりきれないなぁ、男女の仲も今にも途絶えてしまうそう』と通ってくる男性に訴えているのか、その点を考えてみることになります。

 そもそも男女の逢瀬において、なぜ女は夜が明けてしまうことが「わびし」なのでしょうか。夜が明けて男と別れることがつらいというのであれば、D連1の「あかず=②名残り惜しい」とか、C形動5「あはれなり=②物悲しい」とかB形17「憂し=つらい」とでも詠むべきところを、ここでは夜が明けるのが『つらく悲しい』といっているのではなく、夜が明けると『困ってしまうなぁ、やりきれないなぁ』と嘆じているわけです。
 一言主の神=葛城の女神が
どのような存在であったのかを思い合わせて下さい。

 ここまでのヒントで解答の方向性が思いついた人は、もう自力で解答を書けると思います。またわからない人は木山のホームページ上につねに公開している〝
古文背景知識№3『王朝物の求愛と結婚』〟の後半部に、こんな文章が載せられていることを紹介しましょう。

 さて、基本的に求愛時の男は夜になって人目をしのびつつ女のもとに通い、夜明け前に帰るというのが原則です。したがって、夜明け前に鳴く鳥(鶏=にわとり)は男女の朝の別れを暗喩しますし、一方、夜のはじまりの頃、女が男の訪れをひたすらに待つ時間帯のことを「待宵(まつよい)」といったりします。
 暁(あかつき=夜明け前)の鶏の声を聞くつらさ(=男との別れのつらさ)と、ひたすら男の訪れを待ちつづける待宵のつらさの、どちらが女にとって余計につらいものであるかといったモチーフの和歌もよく詠まれます。
また、男が女のもとを立ち去るときに、西の山の端に白々とかかって見えるのが「有明の月」で、この有明の月に託して別れのつらさを歌に詠むといった例もよくみられます。

 男が夜だけ通うということは、女の顔をまじまじと明るい場所で見ているわけではありません。闇の中での女の気配、話し声、髪の手触り、しめやかな香の匂いなどを通して女の存在を知るわけです。

 したがって、だんだん通い慣れてきた男が、あたりが明るくなっても帰らない時など、初めて女の顔を見て感動したり(または失望したり)といったことが起きます。一般に女の側は明るい日の光のもとで男に顔を見られることをひどく恥らいます。(王朝女性の顔は、とくに姫君のような高貴な女性の場合、今でいえば裸体に近いといった感覚があったようです。)
 これは新参の女房などの場合も同様で、貴人に顔を見られるのを恥じて、夜だけ参上しお仕えするなどといった話もよくみかけます。

と書かれていて、毎年古漢公式の充足がかなり進んだ秋の半ば以降、この背景知識の内容チェックも、通常の暗記チェックにおりまぜてくり返し行っています。

 「わびし」という言葉の持つ原義的なニュアンス、それから暁の別れにまつわる王朝女性の対応についての知識、さらに一言主の補注との関連を考えれば、答の方向性はただ一つしかありません。(この年度の木山方式受講者で、東大受験をした学生ならば、必ず正答できたものと思います。)

 答は「夜が明けて自分の醜い顔を見られるのが
やりきれないので、夜明け前に帰ってほしいと訴えている」です。

 正解を見てしまうと、なんだそんなことでいいのか、という気がする点で、実にコロンブスの卵的設問ですが、試験場の重圧の中で自信を持って書けるかどうかといえば、おぼつかない人も多いのではないでしょうか?

 結局、H24年東大古文における木山方式の得点寄与率は、

【7問中3問!】


 まあまあの得点寄与率ですが、解説した5設問以外の2設問については、例によって変哲ない平易な内容であったので、とくに点差が開きそうなのは、傍線部ウの「たふるにしたがひて」の訳出と、設問(五)の説明問題の記述答案の正答の度合いによるのだと思います。





【 H24東大受験をした学生からの報告 】

★ 記憶力に自信があり、古典では基礎知識を重視すべきだと考えていた自分にとって、木山方式に対しては絶対の信頼がありました。模試だけでなく入試の本番でも複数の的中があり、東大二次試験が近付くにつれて自信が深まりました。
  後輩へのアドバイスとしては、少しでも役立つと感じたら途中で投げ出さずに是非継続してみて下さい。
〔東京大学 文科三類 合格/早稲田大学 文学部・慶応大学 文学部・明治大学 文学部 合格〕

 この男子学生は代ゼミ大船校でたまたま国公立古文のクラスに在籍したことがきっかけで、木山方式に習熟するようになった学生の一人です。一般に真性の東大志望者と木山方式との接点は、代ゼミのコース設定では生じないようになっています。なぜなのかその理由はよくわかりませんが、私が京大古文の担当者であることや、代ゼミのコンセプトとして〝東大志望者にはより人気の高い講師をあてる〟といった経営上の戦略があるのではいなかと思います。
 この学生も当初はコース設定の〝東大古文〟に力を入れていたようですが、模試での的中の度合いなどから、次第に木山方式に力点を移すようになりました。

 私としてはコース設定上、接点がないのは仕方がないとしても、講師室などで行われる個別な指導を通してでも、真性の東大志望者に木山方式の利点を資料なども含めてぜひ伝えたいと切望しています。

 ところで、先にあげた私の問い「本当にそのような何かが――木山方式ではカバーできないような何かが――東大古文の解法には必要なのでしょうか?」といった問いかけに相対するような問いを立ててみましょう。

「東大対策と称する過去問中心の単元的な授業の積み重ね方式の中に、このH24東大古文に直接得点寄与するような何かがあったのでしょうか?」




【 各種東大古文テキストにおいて、H24東大古文に得点寄与する割合を調べた結果 】

 調査の方法は以下のとおりです。

H23年度1・2学期東大古文テキスト全27題(自習用確認テストも含む)の中に、及びH23年度Yサピックス東大国語春期→冬期講習会までの古文問題全22題の中に

① 「たふ(堪ふ)=能力を発揮する」

② 「ひま=隙間」

③ 「まつはる=まとわりつく」

④ 「わびし=(思うようにならず)やりきれない・困ってしまう」

の各訳出が、設問及び本文中に一度でも登場するか?

⑤ 男女の暁の別れにまつわる〝朝顔を見られることの恥ずかしさ〟を教える可能性がある箇所が、設問及び本文中に一度でも登場するか?

の、以上、5項目で調べてみました。

 結果は、H23年度1学期東大古文第3・4回文法語法のC2の小設問に「小松の大臣は日ごろ悩み給ふと聞こえしに、御心地のひまおはしけるにや、み熊野に詣で給ふ」とあり、「ひま」を「隙間・絶え間」と教える可能性があります。(ただし、この小設問では「絶え間」の意)

 またH23年度1学期東大古文第9回「うつほ物語」の本文中に「いとせむ方なくわびしきこと限りなし」と出ており、「わびし」の現代語と異なる訳出を教えるチャンスではあるのですが、問題文のあとに掲載される【重要単語6】の説明によると、「わびし→人しれぬ思ひのみこそわびしけれ我が嘆きを誰のみぞ知る(古今和歌集)…つらい、山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ(古今和歌集)…寂しい」となっており、現代語と同じであり、よく入試などに問われる「(思うようにいかず)やりきれない・困ってしまう」の訳出の紹介がない点で、得点寄与のポイントとはなり得ないと判断しました。(一般的な単語集でも、「わびし」の現代語と異なる意味が載せられているものは僅少です。)

 それ以外の項目でH23年度1・2学期の全27題中にヒットするものは皆無です。
 したがって、
一年間東大テキストの単元的な過去問と小テストをくり返した場合の直接的な得点寄与率は、「ひま」の訳出が傍線カの半分に寄与すると考えて、

【7問中0.5問】
(H25年度1学期の国公立古文のテキストの末尾に付けられて単語200にも「たふ(耐ふ)」は「我慢する・持続する」と言わずもがなな訳が載せられており、H24年東大の問題が反映されていないのは実に心許ない限りです。)

 一方、H23年度Yサピックス春期→冬期講習会までの東大国語テキスト中の古文問題全22題中に、先の5項目がヒットするものは、1学期第4講「発心集」の本文中に「かく世の常ならぬ有様をばわびしくもや思ふ」とあり、内容的にも〝妻帯僧の妻としての暮らしのやりきれなさ〟を言っているので(かつ設問化もされているので)、「わびし」の現代語と異なる用法を教師は必ず教えたと思われます。

 また夏期講習会第5講「栄華物語」中に「このひまにいかでか一の宮を見奉らむ」とあり、かつ設問化もされているので、年間の得点寄与率は、「ひま」の訳出に0.5問分と、設問5の正答の発想に「わびし=やりきれない・困ってしまう」の知識が寄与する点で0.5問とすれば、合計で、

【7問中1問】


といった結果になります。

 それ以外の項目でヒットするものは、春3月から冬12月までのYサピックス東大国語テキスト中の古文問題のどこにも登場しません。

 ところで、平均的な木山方式のクラスでは、たとえば10名の学生がいたとして、1人20~25単語を当てられてチェックするとすれば、10名で200~250単語となり、さらに10名を2巡するとすれば(というのも、約一時間程度はさまざまな公式チェックを当てて、残りの20~30分間で大問を1題解く、というのが基本的なスタイルですから)、それだけで延べで400~500単語となります。

 それがたとえば、年間1学期12回、2学期12回、夏期講習会5回の、計29回木山方式を受講した場合、400~500単語×29回ですから、延べ数で1万1600回~1万4500回程度直接当てていることになります。

 この延べ回数は古単のみでなく、漢単や文学史・句形のチェック、背景チェックなども含みますから、古単のみで言えば、ざっと目分量で6割程度と考えられます。つまり古単のみのチェックの延べ回数は6960回~8700回ぐらいとなります。

 この延べ回数の中に「わびし」の平安時代特有の訳「(思うようにいかず)やりきれない・困ってしまう」や、「たふ(堪ふ)=能力を発揮する」などが、それぞれ幾度出てくるのか、その延べ回数を直単の総数の450で割ってみますと、15回~19回ぐらいとなります。

 つまり、1クラスの学生に間をおきながら、4月から12月の約8ヶ月間に、同じ単語を15回~19回ぐらい当て続けるといった計算になるわけでが、直単チェックの各単語の重要度合いの差を考慮すれば、先の2単語のような重要単語の場合はもう少し頻度的に多く20回~25回程度ではないかと思います。

 木山方式のH24東大古文への得点寄与率が7問中3問であったことの背景には、実はこうした重層的な知識の定着を目指す、くどいほどのリピテーションが存在しているわけです。その点でテキスト中でたった一回しか触れない単元的な方法論とは、実は単純に比較できるものではありません。





【 受験のための個別な対策法・教授法を選ぶ際に、その方法論にどれほどの効果があるのかを、東大合格実績や東大合格者の声から実証的に証明できるかという問いに対する、そう簡単ではない答 】

 これは以前に〝お便りシリーズ№25〟に書いたことですが、個別な教授システムや受験対策法、または有名講師による指導法の真性の成果といったものを、合格実績や合格者の声から実証的に推し量ろうとする場合、その成果の証明は実はそれほど簡単ではありません。

 まず第一に、東京や大阪の都市部を中心とした中学受験の隆盛によって、すでに12歳の段階でかなりの割合で高学力保持者が、私立・国立などの中高一貫校に囲い込まれているという現状があります。

 そうした学生さんたちが、将来の難関大合格者予備軍としてプールされ、6年間の一貫教育ののちに現役合格していくといった場合、予備校に通ってくる段階で、すでにかなりの学力資産を備えていると考えられます。

 したがって、受験の約1年間の関わりしかない予備校側が、そうした学生たちの合格実績を根拠として、自らの指導の有効性を主張することへの評価というものは、そう簡単には下させないという点があります。

 都市部の早期教育は、それにかかる費用の高額化と歩調を合わせて、バベルの塔のように学力を高く伸ばしており、中学受験の12歳の段階で驚くほどの学力格差が広がっているという事実は、やはり厳然とした事実として認めざるを得ません。

 ですから、こうした中高一貫校の元来「地アタマ」の良い成績優秀者を予備校に招聘(しょうへい)したことの当然の結果として合格実績が上がっているのであれば、特に予備校の受験指導自体が素晴らしいというわけではないといった「地アタマ」基準の予備校・塾批判といった意見は根強くあるわけです。

 たとえば、毎年出版される「天才たちのメッセージ 東大理Ⅲ合格の秘訣」の末尾に紹介される「理Ⅲ生御用達塾」の解説には、東京渋谷区にある「○×会」が次のように紹介されています。

 
中高一貫の大学受験専門塾。中一から東大合格に的を絞ったカリキュラムを組むことで、確実に東大に合格する実力を身に付けさせる。開成・桜蔭をはじめとする六年一貫の一流校16校を指定し、その在校生のうちさらに厳しい入塾テストに合格した者のみを受け入れている。レベルの高い環境にあり、なおかつ○×会の指導についていける高い学力を持っていることを確認したうえで受け入れるための制度だ。
 講師は東大在学生及び、その卒業生のみ。自らの経験に基づいた指導が可能となる。また、その半数近くは理Ⅲ生及びその出身者。医学部を目指す学生にとっては具体的な相談相手となり、目標ともなる。また近年は、多くの○×会出身者が講師になっている。


 とあって、
これほどの逆指定をしたうえでの、超進学校のさらに最上層の上澄みのようなエリート学生ばかりを集めた塾であれば、東大理Ⅲに毎年二桁の合格者が出ているのも、むべなるかなと納得されると同時に、こうした成功の最大の要因は、受験指導や教授法にあるのではなく、もともと入塾してくる学生の極めて高い優秀さにあるのではないかとも思われてきます。

 しかも、こうした現象は決して一部の進学塾の特異な現象というわけではなく、いわゆる世間で超進学校と言われているような有名高校の内実も、実はこれと相似形なのではないでしょうか。

 たとえば、東大進学者数を卒業生との比率で評価するとすれば、おそらく日本一の高校は国立の筑波大附属駒場高校、通称「筑駒=
つっこま」であろうと思います。わずか一学年160名の生徒しかいない中高一貫校ですが、そのうちの半数ないし半数以上が東大に進学しています。

 しかしながら、よく知られているように、校風は極めてリベラルで自由な雰囲気であり、学校側もそれほど特別な受験対策をしているわけでもありません。しかも他の中高一貫校のような学習進度が格別に速いというわけでもないので、やはり筑駒の東大進学率の非常な高さの一番の要因は、もともと入学してくる学生の優秀さにあると言えそうです。

 では、なぜ進学指導の内実において、特に際立っているというわけでもない筑駒に「筑駒人気」が生じるのかといえば、「そもそも最初からそこにある種の学生層が集まっているという現実があるがゆえに集まってくる」といった居場所の問題、または学校間スクールカーストとでも言うべき意識によるのではないかと私は思います。

 したがって、同様に、特定の予備校や進学塾の特定のクラスに、高偏差値の学生が多数集まって、その結果として華々しい合格実績が出たとしても、それがそのまま個別な対策法や指導法の有効性を証明するものではないこと――少なくともこの記事で木山が論じたようなH24東大古文の得点化に
何が具体的に得点寄与したのかといった細目にわたる個別な実証を経なければ、何事も言えないということを、木山はくり返し強調したいと思います。

 心酔した、明確な解法を示して下さった!すごい!ふつうの問題集をやる暇があったら、この先生の授業を1コマでもいいから受けてみて下さい!解法とはこういうものかと心底わかります!などといった上ずった感嘆符を並べる人は、どうぞその教授法と本番入試の問題への得点寄与率の関連を、私が示したのと同じ密度で示せるかどうか検証してみて下さい。

 その上で木山方式を上回るものがあれば、私も素直に脱帽します。(ただし、授業でやった同文・同主旨の古漢問題がぴったり的中などといった偶然性の強いものは、狙ってできるものではなく、ここでいう論証のポイントにはなりませんので、あしからず)





【 4月時点での東大クラス在籍者への提言 】

 東大志望者といっても上から下まで実に様々です。また実際にセンター終了後の出願で東大を受験する実力を有する学生に限って言っても、10名受けて実際の東大合格者は3~4名といったところが現実です。

 極めて余裕のある学生なら別ですが、センター古典の10点の得失点差に敏感にならざるを得ない学生であれば、4月スタート時から木山方式に習熟することをおすすめします。

 近いうちに2013年度の木山のスケジュール・時間割等をホームページ上にアップしますので、木山方式について相談したい人は、どうぞ直接私のもとに来るか、または代ゼミ本部校に手紙でも下さい。





                     
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