= 初秋・秋風だより

 シリーズ№48 =

【 H25早稲田・商学部・古漢問題における木山方式の検証 】



 出典は『浜松中納言物語』巻一の一節。リード文には「中納言は、亡き父が唐土の皇子に転生していることを知って、唐土=中国に渡った。」と書かれており、場面は中国という設定。その中納言が唐土の皇子を訪ねた際に、皇子の母后の絶世の美しさに心奪われるといった場面でした。

 以下、適時現代語訳しつつ、問いの内容を紹介していきます。

○ 母后がいらっしゃるのだと思って、ほかのことは頭になく一心に見ている

と、御年は二十歳ぐらいでいらっしゃるのだろうかと思われて、御顔の様子

は細くもなくふっくらともしておらず、ちょうどよい程度で、中ほどが少し

盛り上がっている感じがして、その御顔の色の白さは、あの「はりせらむ」

が色白であったとはいっても、このお方には勝らなかっただろうと思われる

上に、
あいぎやう、いみじくにほひかをりて、眉の感じが誰よりも気高い

と中納言はご覧になる。唇は丹(に)というものを塗ったように、いささかも

ねじけたところもなく、あたりにまで照り映えるようで、髪を結い上げて端

正なご様子で、のどかに何か物思いにふけるように琴をお弾きになっている。

この国でこのような美しいお方を目にすることになろうとは、(中納言にとって

は)驚きあきれるほどに思われる。

 日本の女性は、髪がただ垂れ下がり、額髪(ひたひがみ)も縒(よ)りかけたり

しているのが、「我方ざまで」(=日本風で)親しみやすく優美であったのを

思い出すにつけても、(それに比べて唐后の様子は)
うるはしくて(B形23

=きちんとした美しさで・端正で)、かんざしをして髪を結い上げているの

も、唐后のお人柄だからだであろうか、
これ(この唐后のお姿)こそ素晴ら

しく、ご様子が格別であるなぁと見るにつけても、琴の音色までもが世に知

らず素晴らしく聞こえてくる。

若い女房が七、八人ばかりいて、天降(あまくだ)った乙女たちの姿もまこと

にこうであったかと見えて、菊の花をもて遊びつつ、「蘭薫苑(らんけいえん)

の嵐の」と若やかな声を合わせて誦(ずん)じているのが、素晴らしく聞こえ

る。

御簾(みす)の内側の女房たちも「
この花開けて後」と口ずさんで誦じている

のであった。

ことに唐土の男は日本の和歌を詠むようなのに、女は日本の和歌を詠まな

いのであろうか、花を見ても文(ふみ A名43=漢詩)を誦じあっていることよと

、(どうであるのか)「知らまほしきに」、后は御簾(みす)を降ろして中にお入り

になってしまった。(中納言のお気持ちとしては) 〔 
 〕で「なかなかに」(C

形動20=かえって・中途半端で)、半ばなる月を見るような気持ちがして、

堪えることがおできにならず、花が咲いているところへあゆみ出でなさるのを

、女房たちはひどく驚く様子もない。少しばかり隠れるように座っている女房

たちのところに、中納言は花を取って立ち寄りなさる。

ふるさとを恋ふる心を忘るるはこの花見つる夕べなりけり

 (古いなじみの土地である○×△を恋しく思う心をしばし忘れるのは、この花を見た夕べであるなぁ)

 と、試しに日本の和歌を詠みかけてみると、女房たちは団扇(うちは)を差し

出して、ただ待って花を受け取る様子は、我が国(日本)の女性と少しも異な

らない。

○ 枯れでさはこの花やがてにほは
むふるさと恋ふる人あるまじく

 (花が枯れないでそれではこの花がそのまま美しい色つやを保って咲いてほしいものです。ふるさと=○×△を恋しく思う人がいませんように)

 と返歌を返した様子は、
言はぬにはあらざりけり(=言わないわけではな

かったのだなぁ/公4◆気づきの
けり)と、おもしろくお思いになる。

 唐土の皇子が出で給ひ
ぬれば(=お出ましになったので)、中納言は居ず

まいを正しなさった。皇子は「おもしろき夕べなり」と言って、琴などを取り

出して中納言に「賜はせたる」(公56ソ⑥=お与えになった)。中納言は「あ

りつる」(D連4*=先ほどの)唐后の面影の素晴らしさや、名残り惜しかっ

た色つやの美しさまでも、我が身に染み入るような心地がして、唐后の弾い

た琴の音色のおもしろさまでもが耳に残って、ご自分に与えられた琴をどう

弾いたらよいかもおわかりにならない。

 一方、唐后も御簾(みす)のもとにて、つくづくとこの中納言をご覧になるに

てつけも、すべてにおいて素晴らしく優れたお方であるなぁ、この中納言が

日本へ帰ってしまったのちには、「見ずなり
む」→きっとお目にかかる

ことはないだろう、そのことを思えば物悲しいことよと、人知れず涙を落と

してお思いになった。




問一 傍線部1「あいぎやう、いみじくにほひかをりて」はどのような様子を述べているのか。最も適当なものを選べ。

イ たきしめた香りが部屋中に漂っている魅力的な様子。

ロ 愛らしい顔が高貴で、いかにも后にふさわしい様子。

ハ 理想的な女性が可愛らしい声をあげて笑っている様子。

ニ こぼれるばかりの魅力が照り映えるように表れている様子。

ホ 美しい女房たちの香りが混じりあい、すばらしい香りとなった様子。

 「あいぎやう」は「愛敬」の字をあてて、(性格・言動などが)温和で優しく魅力的なことを言います。簡単に「あいぎやう=魅力」と覚えても結構です。ただし、仮に「あいぎやう」の意がわからなかったとしても、A名44「にほひ(匂ひ)」→色つやの美しさの知識から選択肢は選べます。

 とにかく「にほひ」が訳文に反映される場合、本物の匂い(香り)でないかぎり、色彩的な表現を選ぶことがポイントです。たとえば、H7年のセンター本試「桂園遺文」中にも、「(夕日に照らされた)愛宕(あたご)や嵐山の山々が、
にほひやかに横ほれり。」とあって、答は「美しく照り映えて」となっていましたが、夕日の色彩的な表現としては、これしかないと思います。

 同様に、姫君の魅力があたりに「にほひかをりて」の解釈も、〝
照り映えるように〟の表現が入っている選択肢のニが正解です。
 同類の表現には、たとえば「姫君の愛敬あたりにところせきほどなり」などいったものもあり、C形55「ところせし」の③「充満してあふれるほど」の訳をあてれば「姫君の魅力があたりにも満ちあふれるほどだ」といった訳になります。

問三 傍線部3「うるはしくて」の意味として最も適当なものを選べ。

イ 気高くて   ロ 若々しくて   ハ 輝いていて

ニ 可愛らしくて   ホ きちんとしていて

 直単B形23「うるはし」→「きちんとした美しさ・端正」の知識から、答は瞬殺でホです。


問五 空欄 〔  〕  に入るものとして、最も適当なものを選べ。

 イ あかず   ロ うれしく   ハ あはれに

ニ なつかしく   ホつきづきしく

 仮にこの問いに対し、現段階で30秒以内に確信をもって正答が選べない人は、木山方式の単語の暗記をぜひともやるべきです!

 イの「あかず(飽かず)」はD連1で「①不満だ ②名残り惜しい(=別れの場面) ③飽きることがない」の三つの意味のいずれか。
 ロはそのまま「嬉しく」の意。ハの「あはれに」はC形動5で「①しみじみと趣深い ②もの悲しい ③かわいそう ④いとしい(恋愛・親子の情)」のいずれか。ニの「なつかしく」はC形57で「①親しみやすい ②心ひかれる」で、これはどちらにしても同じようなニュアンス。
 ホの「つきづきしく」はC形52で「似つかわしい・ふさわしい」の意。

 空欄Xの場面は、唐后が御簾(みす)を下して邸内にお入りになってしまう場面であり、いつまでも唐后の美しい姿を眺めていたい中納言にとっては、一種の別れの場面ともとれますから、答はイの「あかず」で即決です。
 つまり、「あかずなかなかに、半ばなる月を見る心地する」の訳は「(唐后の姿が)
名残り惜しくてかえって半ばなる月を見る心地がして」となります。ここでいう「半ばなる月」とは、雲間に半ば隠れた月のことで、中途半端に唐后の姿を垣間見たことを、まるで雲間から出る美しい月を中途半端に見てしまったような気分だとたとえているわけです。

問六 傍線部6「ふるさと」が具体的に指す語を本文から抜き出して記せ。

 A名48「ふるさと」の意味は「古いなじみの土地」ですから、中納言にとった古いなじみの土地とはどこかと考えます。中納言が女房たちに詠みかけた歌の主旨は、〝花のように美しいあなた方を見ていると、自分にとっての古いなじみの土地である○×△を恋しく思う気持ちもしばし忘れるほどですよ〟といった趣意。リード文の内容からも、中納言は亡き父が唐土の皇子に転生していることを知って、唐土に渡ったとあるので、答の方向はすでに明らかだと思います。中納言にとって望郷の思いを寄せる、その対象となる場所はどこか、あとは本文中からこの語を探すことになります。答は「日本」。

問八 傍線部8「言はぬにはあらざりけり」はどういうことを述べているか。最も適当なものを選べ。

イ 唐土の女性は和歌を詠むのだった。

ロ 唐土の女性は漢詩が不得意だった。

ハ 唐土の女性は口でいうほど積極的ではなかった。

ニ 唐土の女性は不吉なことを口にしないわけではなかった。

ホ 唐土の女性は声に出さず書き記すことで和歌を詠むのだった。

 すでに文脈的には答が見えていると思いますが、ここではとくに古文公式4◆気づきの「けり」=「これまで気づかなかったことに今はじめて気づいて~であったのだなぁ/~そうだったのだなぁ」と詠嘆する用法に注意してみたいと思います。この用法は「~なりけり」の形が多いのですが、今回のように文末の「けり」単独でも、文脈によっては気づきの「けり」となります。

 中納言は若き女房たちと和歌の贈答をする、その数行前に「ことに男子は歌詠むめるを、女はえ詠まぬにや、花を見ても文(ふみ)を誦じ合へるはと、(どうであるのか)知らまほしきに」とあって、そのことが気がかりで、実際にはどうなのか知りたく思っていることがうかがわれます。

 したがって、答はイの「唐土の女性は和歌を詠むのだった」ですが、気づきの「けり」の目線でこの選択肢を見る人は「唐土の女性は実は和歌を詠むのだなぁ、そうであったのだなぁ、今はじめてわかった!」といったニュアンスで見えていたはずです。

問九 傍線部a~fについて、文法的に正しい組み合せを次のイ~ホの中から一つ選べ。

 イ a「に」とc「に」が同じ。   ロ b「ぬ」とd「な」が同じ。

 ハ b「ぬ」とe「ぬれ」が同じ。  ニ d「な」とf「な」が同じ。

 ホ e「ぬれ」とf「な」が同じ。

 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・

 a 人がらなりければ
や、

 b 女はえ詠ま
にや、

 c なかなか
、半ばなる月を見る心地する

 d この花やがてにほは


 e 皇子む出で給ひ
ぬれ

 f 見ずなり
むこそあはれなれ

 aは公式7黒傘マークにある断定の「なり」の連用形。bは公式20打消し「ず」の連体形。cは直単C形動20「なかなかなり」の連用形語尾。dは公式37①他者への願望の終助詞の一部。eは公式5完了「ぬ」の已然形。fは公式5強意の10パターンの一つで完了・強意「ぬ」の未然形。
したがって、答はホ。

問十 二重傍線部「この花開けて後」は『和漢朗詠集』からの引用であるが、元々、唐の漢詩人元禛が作った、次の漢詩をふまえている。この漢詩を詠んで、後の(1)~(3)の問いに答えよ。(初句・二句は補注も含めて木山が書き下し文にしました。)

○ 〔 
 〕 舎(いへ)を回(めぐ)りて陶家・陶淵明の家に似たり。

  遍(あまね)く籠辺=垣根のあたりをめぐれば日漸(ようや)くかたぶく。

 
10 不  是  花  中  偏  愛  菊

 
11 此  花  開  尽  更  無  花

(1)空欄Yに入る語として最も適当なものを選べ。

 イ 春宵   ロ 夏虫   ハ 夏花   ニ 秋空   ホ 秋叢

 この七言絶句の初句・二句の文意は、Yが家をめぐって、まるで陶淵明の家のようだ(漢単C42「似」~(ニ)にタリ/~のようである/「~(ノ)ごとシ」とよむこともある)。遍く(漢単A3→広くすべてにわたって)垣根のあたりをめぐれば日が漸く(漢単D36→だんだんと・次第に)西の山の方へ傾いていく、といった感じ。

 ところで、御簾(みす)の内なる女房たちも口ずさむ「この花開けて後」の「この花」とは何の花でしょうか?本文中には「天降りけむ乙女の姿かくやと見えて、菊の花もてあそびつつ」とあり、それを受けて「御簾のうちなる人々
」と続きますから、菊の花のことを言っていると考えて間違いありません。

 さて、菊が咲く季節はいつでしょうか?

 木山方式の学生は、直単E他26重陽「旧暦九月九日・菊の節句。*菊に託して長寿を祈る=九重」の知識から、菊が咲くのは旧暦の九月ごろとわかります。さらに旧暦の季節は一・二・三月が春、四・五・六月が夏、七・八・九月が秋ですから、九月(=長月)は秋の終わり、つまり晩秋のころとなります。

 これだけでも選択肢はニの「秋空」か、ホの「秋叢(しゅうぎょう)」の二つにしぼられますが、「叢」の字義がわからないので、ホの意味内容がはっきりしないのがネックです。しかし、「秋空」は天高くあるものですから、「秋空」が「舎=家をめぐるように~」という表現は、どう考えてもおかしく、消去法でいけば、やはりホにするしかないと思います。

 じつは「叢」の字義は「集まり生える草むら」の意で、秋の草花が家の周りを回るように咲いて、まるで陶淵明の家のようだ、といっているわけです。
 したがって、答はホ。

(2)傍線部10「不 是 花 中 偏 愛 菊」の白文をすべて平仮名で書き下すとどのようになるか。最も適当なものを選べ。

 イ このはなならざるなかのきくをひとへにあいす。

ロ このはなのなかにあいするきくをへだてんとせず。

ハ これはなのなかにひとへにきくをあいするにはあらず。

ニ はなのなかにひとへにきくをあいすることをもとめず。

ホ これはなにあらざるはひとへにきくをあいするにあたれり。

 この白文には二つのポイントがあります。

 一つは、文末の三文字「偏 愛 菊」の訓み方が、「偏(ひとへ)ニ菊ヲ愛ス」と確定すること。漢単A41「偏」の副詞訓みは「ひとへニ」であり、副詞が修飾するのは用言ですから、「愛」は「愛ス」とサ変動詞化して訓むしかなく(公式1②)、その「愛ス」の下が目的語の位置なので、「偏(ひとへ)ニ菊ヲ愛ス」となります。
 この「ひとへにきくをあいす」を一体として含んでいる選択肢は、ハとニとホの三つにしぼられます。

 ところで、もう一つのポイントは、漢文公式12A②「非(あら)ズ
――ニ」の変形バージョンの知識です。一般に「非(あら)ズ――ニ」の句形は、「不」と「是」の組み合わせで「不是――ニ」(こレ~ニあらズ)の形に置き換えられて訓まれる場合があります。訳はどちらの形でも「~ではない」です。

 公式12Aのコーナーには、印刷するスペースに余裕がなく、「不是――ニ」(こレ――ニあらズ)の変形バージョンを載せていませんが、個人的に漢文句形チェックリストなどのチェックをする際には、必ず説明した上で各自書き込んでもらっています。(この記事を読でいる人で、いまだ書き込んでいない人は書き込んで下さい。)
 この知識がないと、本来、「ず」の活用でしか訓まない「不」を、なぜ「~ニあらズ」と訓めるのか、学生はいぶかしむことになるでしょう。

 さて、「~ニあらズ」の訓み含むのは、ハとホですが、ホの「~ひとへにきくをあいするにあたれり」の「あたる」は、漢単A9「中」→「あたる・的中する・合致する」の意であり、「菊を愛することに的中・合致する」では文意がまったく通じません。
 答はハの「是れ花の中に偏に菊を愛するにあらず」です。漢詩の三・四句の文意とのつながりを見ても、『花の中に偏に菊の花だけを愛しているというわけではない。この菊の花が咲き尽くせば(晩秋から初冬となり)まったく咲く花がなくなってしまうからだ』といった具合に、文脈上もうまく整合します。

(3)傍線部11「此 花 開 尽 更 無 花」の白文の意味として最も適当なものを選べ。

 イ この花ほど美しい花は、他に存在しないということ。

ロ この花が咲き終われば、当面咲く花がないということ。

ハ この花の咲く時期は短いので、大切に見なければならないということ。

ニ この花が一番好きなので、愛する人もその前では色あせるということ。

ホ この花を好きとはいえないのは、同じ時期に咲く花がないためだということ。

 漢単B14「尽」の訓み方は、副詞訓みが「ことごとク」、動詞訓みが「つくス」であり、「つくス」の意味は「終わりまで~する・きわめる」ですから、「つくス」の字義を含む選択肢ロ「この花が咲き終われば、当面咲く花がないということ」が正解です。

 木山方式の直接ダイレクトな得点寄与率は、

【14問中9問!】
 

となります。



 木山先生被害者の会の皆さん、私木山は早稲田合格という目標に対し、何か余計なことをしているでしょうか?

 中には「確かに先生の資料から入試の本番によく出されているのは認めますが、それだけで読解力がつくのでしょうか?」という学生さんもいます。このH25早稲田・商学部の「
にほひ」「うるはし」「あかず」「ふるさと」「気づきのけり」「菊→長月→秋」「偏(ひとへ)ニ」「不是=こレ~ニあらズ」「尽す」の計8問の問いに対して、本義的知識を持たずに、たとえば、前後の関係性とか文脈とか――つまり一般に読解力といわれているようなもので解答をつむぎ出す場合と、最初からは本義的な知識を持って解く場合と、どちらが時間的に早く処理できるでしょうか?

 また、そうした読解のテクニックなるもので受験の一年間を学んだとして、それが翌年の早稲田の各問題に対して、どう解法に寄与したかの証明――つまり私が毎年ホームページ上に開示し、世間の批判にさらしているような恣意性のない証明など一体可能なのでしょうか。

 私の目には、本義的な知識に依拠しない皮相なレベルの読解のテクニックなるものは、ほとんどの場合、解答を先に承知した上での事後的な説明のように感じます。
 プラスとかマイナスとか、対比の構造とか、目のとばしとか、読解力とか言っているうちに、不思議に正答に行き着くことができるように感じるのは、そもそも正答がどれになるかを、あらかじめ承知した上での事後的な誘導があるからに過ぎません。したがって、本番入試に役立つという意味での未来への解法の投影にはなり得ないというのが私の考えです。

 それにしても、京大クラスや国立医学部クラス、またはYサピックス東大クラスなどの高偏差値の学生さんたちからは、この読解力の希求なる要請はまったく一言も出てこないのに、中堅から下位の学生さんにおいて、この要求が多いのはどのような理由によるのか不思議です。

 木山方式では、まず
直単ABCDEの単語の暗記を完成させる→次に古文公式1~64の知識をそらで答えられるように訓練する→さらに木山ホームページ上の古文背景知識№1~12をチェックする→以上のチェックをくり返しつつ、仕上げとして〝読解力をつけるための秋のチェックシート〟で本文の大意をとる練習を重ねる。

 これらの一連の流れで、必要な知識や背景常識は充分に充足されるので、これらの目標が達成されたクラスでは、直接その場で入試問題を解いてもらい、その後すぐに答え合わせ、といったじつに直截な授業をしています。本文の逐語訳などもほとんどしません。それでも8割以上の正答率を維持しています。
 ですから、読解力というのは、確かに涵養(かんよう)されるわけですが、それはあくまで必要とされる正確な知識に依拠しながら個々の学生さんの内面において自発的に涵養されるものだと思います。

 たとえば、今年京大古文を受講しているある学生は、すでに秋の京大プレでA判定が出ていますが、〝
読解力をつけるための秋のチェックシート・黄色いシート・お便り№39〟の古文の欄を60本以上も埋めています。

 代ゼミの学期のテキストの演習量は12題程度ですから、十全な知識の充足さえ済んでしまえば、その5倍の演習量も自力でこなせるようになるわけです。それをたった12題の本文に対し、ことさらに読解力をつけるためと称して、プラスとかマイナスといった面妖な論理をあやつるのは、どう考えても有効な方法論だとは思えません。

 中堅から下位の学生さんにとっては、そうやってゆっくりと文脈をたどってくれる授業の方が、よくわかったと感じられる点で安心感があることは理解できます。しかし、
果たしてそうした学生の顧客満足度の向上が、そのまま入試の合否の向上にもつながるのでしょうか?その点に関して私はまったく懐疑的です。

 なぜなら12題程度の過去問演習解説に終始するようなやり方では、本番入試の得点寄与率がきわめて低いか、ほとんどゼロになってしまうからです。たとえば、2013年二学期(今学期)の早大上智大古文テキストに載せられている12題を調べてみますと、このH25年早稲田・商学部に得点寄与した
「にほひ」「うるはし」「あかず」「ふるさと」「気づきのけり」「菊→長月→秋」を教える機会はまったくどこにもありません。本文であれ、設問であれ、どこにも出てきません。

 また漢文において得点寄与した
「偏(ひとへ)ニ」「不是=こレ~ニあらズ」「尽す」の意味・用法を教える機会が2013年二学期のセンター私大漢文に載せられている12題中に登場するかといえば、これもまったく出てきません。49ページの問一は「偏」=「かたよリ」の字義で出題されており、「ことへニ」ではありません。学期のテキスト1冊分の知識の網羅など、まことに疎(そ)なるものです。

 もともと高偏差値の学生背さんで、国語的センスのよい学生ならば、それでもなんとか行間の推察力を働かせて、早稲田・商学部に合格していくということもあるのかもしれませんし、実際そういうクラスから合格者も出ていることでしょう。しかし、そうした情報を安心材料にして、中堅から下位の学生さんが本義的知識の訓練を一切受けずに12題程度の読解力の養成だけでH25年の早稲田・商学部を受験したとしたら、結果は悲惨なものになると思います。

 どうか〝読解力〝という言葉だけが独り歩きしているような幻想や、目先の授業の個別な満足度だけにとらわれずに、地道に十全な知識の習得と網羅をこつこつと続けて下さい。
 個人的な公式の15分チェックなど、いつでも申し受けます。どうぞ木山を利用して下さい。






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