お便りシリーズ№57 師走だより




= H27・早稲田/

       教育学部古漢問題の分析 =



【 再びプラグマティズムのすすめ・

             実験と検証 】
 

 果たして勝っているのか負けているのか、それがよくわからないような領域で――つまりよく見えないものと見えない領域で戦うのは、無益であり、かつ不毛なことであろうと私は思います。プラグマティズムのよいところは、すべての概念は自然環境や社会に対する働きかけの実験に過ぎないと割り切った上で、形而上学的な真理の探求や本質の追究を最終目標としないことです。

 現代のプラグマティストであったリチャード・ローティー(1931~2007)は、その著書「文化政治としての哲学」の中で、こんなことを言っています。
「真実であるというのは、物事や信念がうまくいき、採算がとれ、役に立つとわかり、そのために容認された社会的実践の中に組み込まれたとき、それらに対して我々がかける褒(ほ)め言葉であって、これらの実践が相争うとき、根源的な真理性がどちらの側に与(くみ)するか、と問うても無駄である。」といっています。

 また、アメリカ建国の父ジェファーソンによって開拓されたアメリカの「自由」の精神は、ジョン・デューイ(1859~1952)の〝プラグマティズム〟哲学に最もよく継承されているとして、以下のようにも述べています。

 「ジェファーソンとデューイはどちらも、アメリカを一つの「実験」と考えた。もしその実験が失敗すれば、我々の子孫は大切なことを学ぶであろう。だが、その場合、彼らは宗教的真理を学ぶわけではない。それと同じように、彼らは哲学的真理を学ぶわけでもない。彼らは、次の実験を行うときに何に注意しなければならないかということについて、ヒントを得るだけである。」(哲学に対する民主主義の優先)

 つまりすべては実験による検証の帰結的有効性いかんによってのみ価値付けられ、改善されていくということは、そもそも実験・検証のできない領域については、最初から問いを立てないということです。

 たとえば、究極の「社会的善」とは何か?というような問いを立てないということです。それは伝統的なヨーロッパの哲学――たとえ現実がどうであれ、超越的なすべてを支配する枠組みへと上昇し、信念の無謬(むびゅう)性を追求しようとする普遍主義的メタファーへの希求を意図的に絶とうとする立場です。観念の無謬性に固執しない態度とも言えます。

 この「実験・検証」という発想のない人々の言説は、ややもすると、どこまで行っても自己の属する側に絶対的な真理性があると思い込むイデオロギー的傾向になりがちですが、プラグマティストの自覚は、むしろ自身の主張が実験と検証によっていつか失敗することもある得るという了解のうえに成り立っています。

 よく、ひと昔前の日本の左翼は、このようなプラグマティズムの考え方を相対主義であり日和見(ひよりみ)主義だと批判していましたが、私にはそうは思えません。実験と検証の結果にどこまでも忠実であろうとする態度は、自らを変えざるを得ない局面をも招き得る点で、保身(ほしん)目的の日和見主義とは明らかに違っています。



 私は以前に、そのような心的構えを一種の自由さだと書きました。たとえば、お便り№54には次のように書きました。
民主主義とは制度上の問題ではなく、民のエートスの問題だと思うのは、いつも頭の中でこのようなブラグマティズム的な観念の無謬(むびゅう)性に固執しない自由さを備えた人たち、他者との意見の交換の中で、あらたに正しいと認知したことに対しては、素朴といえるほど正直であり誠実であろうとする人々の行為態度を見出してハッとした体験を思い出すからです。
それは言い換えれば、討議の大切さを認識し、討議では自分の考えを訴えつつも、理に適ったことであれば『相手に説得されてもよい』という心的構えを持つ人々が有する、ある種の自由さとでもいうべきものです。




 ところで、帰結的結果の有効性を評価するといった場合、何をもって「よい結果」とするのか、その基準はどのように決まるのか、といった指摘はつねにあると思います。

 たとえば、功利主義的に試すとはいっても、それはどのような時間的・社会的スパンで評価するのか、その措定の仕方いかんによっては評価も変わってくるのではないかといった類の指摘です。

 プラグマティズムは現実を形而上学的な〝真理〟で割り切ろうとする体質は受け継いでいませんから、何が真理なのかといった規範的定義の議論には深入りしない立場です。つまり問題の本質があって、それを解決しなければ何もできないといった発想ではなく、解決という形でその実現が目指される目標自体もアプリオリに決まっているわけではなく、あくまで仮説的なものであり、探究の過程で修正されることもあり得るという立場です。(プラグマティズム入門講義 仲正昌樹 作品社 P71)

 ですから、結局、自分に与えられた環境的・社会的・政治的・宗教的・その他諸々の文脈の中で、当面の問題に対して、できる限りスムーズに解決していける方法を功利主義的に探っていけばよいという立場だと思います。

 たとえば、第二次世界大戦中のアメリカ軍の戦術思想は、一貫して極めてプラグマティズム的であり、有用性と非有用性との割り切り方が、非常に徹底していました。

 一例を挙げれば、太平洋戦争中のアメリカ海軍は、性能的には凡庸な、ほぼ一種類のガトー級潜水艦のみを造り続け、一切の改修や新型艦の建造を認めませんでした。改修や新型艦の投入による量産効果の阻害を懸念したからです。

 しかも建造された大量のガトー級潜水艦(終戦までに185隻)を、日本海軍との艦隊決戦ではなく、その多くは日本のシーレーンの遮断、つまり商船や輸送艦の撃沈を目的とする作戦の方に投入しています。

 同時期の日本海軍が、何種類もの新型潜水艦を造り続け、かつ最後まで艦隊決戦にこだわり続けていたこととは全く対照的です。

 戦後、日本の戦争指導者の多くが、敗戦第一の原因として、シーレーン遮断による南方戦略資源の途絶を証言していますから、アメリカ海軍のこの戦略は非常に有効であったと言えます。




 また、実際上の事柄だけでなく、有用であるとわかれば、如何なる普遍概念でも受け入れるのがプラグマティズムですから、宗教的な観念も例外ではありません。

 アメリカの近代史において、プラグマティズム的キリスト教信仰とは何かといえば、それはたとえばアダムの堕落に起因する原罪的ペシミズムの翳(かげ)りとも違いますし、かといって、完全な予定調和を信じきるオプティミズムでもありません。むしろヨーロッパの伝統的な、カソリックやプロテスタントの神学的想定のあれこれをそぎ落としたうえで神に対するよりシンプルで素朴な信仰のもとで、自己の生きる世界をよりよく改善していくといった信仰のあり方になると思います。

 18C末期から19C初頭にかけてアメリカ・ニューイングランド諸州を中心に起こった宗教復興運動(第二のグレート・アウェークニング=大覚醒運動)の中から生まれた末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS)は、のちに〝西部開拓者の宗教〟とも呼ばれ、西部を中心に信者の数を伸ばしましたが、このLDSの教えなどは、原罪の否定や三身一体論の否定、自己の改善主義による神の領域への接近など、プラグマティズム的傾向が強く、いかにもアメリカ生まれのキリスト教信仰だと私は思います。

 話がやや大きくなりすぎました。ここで受験古典対策のプラグマティズムを考えてみましょう。
 受験対策の功利主義的な検証とは、詰まるところ、対策に費やした内容がどれほど実際の本番入試に直接ダイレクトに得点寄与したか、――それはたとえば歌論対策をしたところ本番入試にも同じ歌論が出たといった、あまりに大雑把すぎて意味をなさないレベルではなく――、個別な設問の解法において、どのような知識がどのように直接具体的に得点寄与をなしたのか、それについて個別的に調べていくことだと思います。しかも受験の諸教科の中でこのような有効性の検証が古典ほどクリアに調べられる教科は他にありません。

 その一番の理由は、現代文のような、日常的にも蓄積されていく経験的・教養的国語力が生きる分野とは違い、また英語や数学のように中高6年間の知識量の総体の上に成り立つ分野とも違い、古典分野においては、漢語も含めた古典語の習得や文法的知識の網羅といったものが、前提的に所与のものとして与えられているわけではないという事実があるからです。

 私の経験からいえば、ほとんどの場合、それは大学入試に携わるようになる1年間から数ヶ月間において初めて与えられる知識です。

 誤解がないように具体的に書きますが、私がここで言っているのは、問われる問題の解法の決め手となるような知識を、受験対策をスタートする以前の学生はほとんど持っていないということです。

 たとえばH27年東大古典において、点差が開きそうないくつかの設問の決め手となった知識、たとえば古文の「行ひさして」の「~さす」(~さす=動作を途中でやめる)や、漢文問題の「何 乃 爾 耶 」(なんぞすなはち
しかせんや)「爾」(=しかス…そのようにする)などの知識を、あらかじめ受験対策以前に備えていて、かつ応用でき、東大の解答をすらすらと書き始めることのできる学生など私は今までに見たことがありません。

 Yサピックスの場合、新年度はその年の1月上旬からスタートしますが(つまりその時点では高校二年生)、のちに東大・京大・国立医学部などに現役合格していくような優秀な学生であっても、スタート時点での古典知識の充足度は、先に述べたようなレベルにおいては、ほぼゼロに近い学生がほとんどです。

 ですから、受験対策の数ヶ月間に教師が何を教えたか、何を教えなかったか、――それは実効性のある資料の有無といった問題も含めて――ダイレクトに本番入試の得点寄与に影響するわけです。





【 H27・早稲田/教育学部古漢問題の
  
           木山方式における検証 】


 次の文章は『とはずがたり』の一部である。作者二条はかつて後深草院に仕える女房であったが、宮廷を退き尼となって17年ほどが過ぎた。これを読んで後の問いに答えよ。

弥生の初めつ方、いつも年の初めには参りならひたるも忘られねば、八幡(=都の南にある石清水八幡宮)に参りぬ。
睦月のころより奈良にはべり、鹿のほか便なかりしかば、御幸(D基49院・女院のお出まし)とも誰かは知らむ。
例の猪鼻より参れば、馬場殿開きたるにも、過ぎにしこと
(=作者は十三年前に石清水八幡宮で後深草院に偶然再会した、そのことが)思ひ出でられて、宝前を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。
「いづれの御幸にか」と尋ねまゐらすれば、「遊義門院(
D基42女院)の御幸(=後深草院皇女)」といふ。
いとあはれに、参り会いまゐらせぬる御契りも、去年見し御面影さへ思ひ出でまゐらせて、今宵は通夜して、明日もいまだ夜に、官めきたる女房
おとなしきが所作するあり。
「誰ならむ」とあひしらふ。
得選おとらぬ(=女房名)といふものなり。
いとあはれにて、何となく御所ざまのこと尋ね聞けば、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」と言へば、いかにしてか誰とも知られたてまつらむとて、御宮巡りばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせむとて、したため(=食事)にだにも宿へも行かぬに、「なりぬ」と言へば、片方に忍びつつ、よに御輿(みこし)さま気高くて、宝前に入らせおはします。
御幣(ごへい)の役を西園寺の春宮権大夫勤めらるるにも、太政入道殿左衛門督など申ししころ面影も通ひ給ふ心地して、それさへあはれなるに、今日は八日とて、狩尾(とがのを)へ如法(にょほう)御参りといふ。
網代輿(あじろこし)二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られたてまつらむとて、よそながらも、ちと御姿をもや見まゐらする、と思ひて参るに、また徒歩(かち)より参る若き人二、三人行き連れたる。
 御社に参りたれば、さにやと覚えさせおはします御後ろを見まゐらするより(公51⑥即時~やいなや)、袖の涙は包まれず、立ち退くべき心地もせではべるに、御所作果てぬるにや、立たせおはしまして、「いづくより参りたる者ぞ」と仰せあれば、過ぎにし昔より語り申さまほしけれど、「奈良方よりにてさぶらふ」と申す。
「法華寺よりか」など仰せあれども、涙のこぼるるも、あやしとやおぼしめされむと思ひて、言葉ずくなにて立ち帰りはべらむとするも、なほ悲しくおぼえてさぶらふに、すでに還御なる。


〈 現代語訳 〉

 弥生の初めごろ、いつも年の初めにはお参りする習いであったのも忘れることができないので、石清水八幡に参詣した。睦月のころより奈良におりまして、鹿の声より他には訪れがなかったので、御幸(=みゆき→院・女院のお出まし 外出)があるとも誰が知ろうか。いつものように猪鼻から参詣すると、馬場殿が開いているのも、過ぎてしまった昔のことが自然と思い出されて、宝前を見申し上げると、御幸のご用意がしてある。「どなたの御幸か」と尋ね申し上げると、「遊義門院(=女院→以前作者が仕えていた後深草院の皇女)の御幸」と言う。

 たいそうしみじみとして、こうして参り会い申し上げた前世のご因縁も、去年見た夢の面影までも思い出し申し上げて、今宵は通夜して、翌朝もまだ夜のうちに、女官めいた女房で年配で落ち着いた感じの女房が所作をする者がいる。「誰であろう」とあしらふ。〝得選おとらぬ〟(女房名)という者である。

 たいそうしみじみとして、何となく御所ざまのことを尋ね聞くと、「みな昔の人は亡くなり果てて、若い人のみ(お仕えしています)」と言うので、(それでは)どうして私を誰とも知られ申し上げよう(=若い人ばかりでは私がその昔後深草院にお仕えしていた女房であることなど知っていただけるだろうか、いや、そんなはずもない)と思って、(せめて)御宮巡りだけでも遠くからそれとなく拝見しようと思って、食事にさえも宿へ行かないでいると、「事なりぬ」と言うので、片隅に人目を避けつつ(見申し上げると)、実に御輿の様子は気高くて、宝前へお入りになる。

 御幣の役を西園寺の春宮権大夫がお勤めになるのも、太政入道が左衛門督と申し上げたころの面影も似通いなさる心地がして、そのことまでもしみじみとあわれであるのを、今日は八日ということで、狩尾へお参りであるという。網代輿二つばかりで、格別に質素で目立たない様子であるけれども、もしお忍びのお参りであるならば、私が誰であるとも知られ申し上げようか(いや知られるはずもない、せめて)よそながらちょっとお姿をも拝見しようかと思って参上すると、また徒歩で参詣する若い女房二、三人と行き連れになった。

 御社に参上したところ、「そうであろうか」と(私から)思われなさる御後ろ姿を拝見するやいなや、袖の涙は包み隠すことができず、立ち退く心地もしないでお仕えしていると、御所作が果てたのだろうか、(女院は)お立ちになって、(私に)「いづくより参上した者か」と仰せになるので、過ぎ去った昔のことから語り申し上げたいけれども(それもできず)、「奈良の方からでございます」と申し上げる。
「法華寺からか」などと仰せがあるけれど、涙ばかりがこぼれるのも不思議にお思いになるだろうかと思って、言葉少なに立ちかえろうといたしますのも、やはり悲しく思われてお仕えしていると、すでに(女院は)お帰りになる。



問十七 本文冒頭の波線部「弥生」「睦月」は陰暦の月の呼称である。睦月と弥生の間に位置する月の陰暦の呼称(漢字二字)を記せ。

答=如月(きさらぎ)

 教師にとって常識であることと、学生が得点化できるかどうかは、まったく次元の違う問題です。私の経験では学生は一度旧暦の呼称を覚えても、時間を空けてしまうとすぐにまた忘れてしまいます。何度も暗記チェックをしなければ正確には覚えてくれません。

 木山方式では公式に載せられた旧暦の表が、掛詞と同ページにあることから、通常、掛詞をチェックする際にそのまま旧暦チェックもしています。チェックの回数は昨年度の進度ノートに記された掛詞チェックの項目を数えてみますと、大体年間で7~8回程度になります。

 実は公式冊子が常に学生の手元にあることの最大のメリットは、こうした暗記の回数と時間の確保を、十分かつ計画的にやれるという点です。

 単元的過去問演習を年間で40~50題消化するやり方で、かつ教師が黒板に板書しながら説明し、学生がそれを書き写していくようなやり方で、旧暦呼称のチェックを抜かりなく計画的に、年7~8回程度施行することができるかどうか、虚心に想像してみて下さい。

 過去問演習のみの積上げ方式は、問題内容の偶然性に左右される点で、あくまで場当たり的なものでしかありません。守備範囲のシフトとしてはどうしても疎(そ)なるものになりがちです。

問十八 傍線部A~Eの「の」意味・用法として最も適切なものを一つ選べ。

○ 官めきたる女房
おとなしきが所作するあり。

○ よに御輿
さま気高くて

○ 太政入道殿
左衛門督など申ししころ面影も通ひ給ふ心地して

答=イ  A 同格  B 連体修飾格  C 主格  D 連体修飾格  

 格助詞「の」の識別については古文公式41①~⑤に載せられており、これに関する音声ガイドは、私のホームページの助動詞・敬語法・文法チェックリスト(63~75)の、レベル表示で3分の2あたり――出だしから22分経過したあたりに解説があります。初見の人はぜひ聴いてみて下さい。聴けばこの早稲田の答も十分不納得できるはずです。

 では一つ応用問題を。

○ 年久しく住み荒らしたる宿のものさびしげなる
、撥(ばち)音気高く青

海波(せいがいは)をぞ調べたる。(2005年度センター追試)

問い 二重傍線部eの「に」は、センターの解答によれば接続助詞ではなく格助詞となっています。一見して接続助詞(公42⑤)のように見えるのに、なぜ格助詞になるのか、その理由を説明してみて下さい。(答は末尾に)



問十九 傍線部1「いかにしてか誰とも知られたてまつらむ」の解釈として適切なものを一つ選べ。

ア どうにかして遊義門院に私が誰であるかをおわかりいただきたいものだ。

イ どうにかして若い女房たちに私が誰であるかを知っていただきたいものだ。

ウ どうにかして遊義門院に私が誰であるかを女房から伝えてもらいたいものだ。

エ どうすれば若い女房たちを通して遊義門院にお会いできるだろうか、いや無理だ。

オ どうすれば遊義門院に私が誰であるかわかっていただけるだろうか、いや無理だ。

代ゼミ・河合塾・東進の解答速報及び赤本・旺文社入試正解の諸解答はすべてアを正解としていますが、私はこれに疑念があります。おそらく諸解答の作成者は、新潮日本古典集成「とはずがたり」(福田秀一校注)のP323の補注十七『この一句、まったく逆に、「それならば到底私が誰であるか知られ申すことはあるまいと思って」ととる説もあるが、以下の〈社殿から前庭へ降りようとする女院に作者が肩を貸しつつ往事を語りかける〉状況などから疑問。』とあるのを参考にしたのではないでしょうか。

 しかし、私はこの補注そのものに不審を感じています。まず直前の女房の会話「古い女房は誰もいなくなり、昔の行状を知る人もいない」という発言は、「そうであれば、今さら私が名乗ったところで、どうして私を誰とも知られ申そうか」と解釈するのにつながりがよく、したがってせめて「よそながら」(=遠く離れてそれとなく間接的に)女院のお姿を拝見しようとする筆者の言動を極めて自然に説明します。

 またそう思っていればこそ、女院の最初の語りかけ「いづくより参上した者か」という問いに対しても、あえて自分の素性を明らかにしようとはしなかったと解釈できます。

 のちに女院に肩を貸したのは、女院が社殿から降りわずらって困っているのを見かねたからで、またその時の女院の不審を払おうとして、作者は自分の素性と往事を語ったととるのが自然ではないでしょうか。

 これより以前に、作者が石清水八幡で後深草院に偶然再会した場面にも、「苔の袂、苔の衣、霜雪霰(あられ)にしおれ果てたる身の有様は、誰かは見知らむと思ひつるに」とあって、尼となった身の有様を誰に知られようかと同じような表現が書かれています。

 総じて院との再会であれ、院の皇女たる女院との再会であれ、作者は自ら進んで再会を申し出るといった差し出がましい行為、出家した尼としては似つかわしくない行為を自らなしたわけではないことの強調、または作者の慎み深さを担保するための伏線として「誰かは見知らむ」「いかにして誰とも知られたてまつらむ」などといった同類の反語表現が反復するのだと私は思います。

 つまり院や女院との再会は、ともに作者にとって結果的には喜ばしい邂逅であったものの、あくまで図らずも会ってしまったのであり、図らずしも行きがかり上語りかけてしまったといった体裁で書かれているわけです。

 ですから作者が自ら女院に語りかけたことのみを根拠に、「いかにしてか誰とも知られたてまつらむ」を、「どうにかして女院に私が誰であるかをおわかりいただきたいものだ」と積極の意に解してしまうのは、あまりに杓子定規な解釈であり、文学的読み方ではありません。

 そうとる場合、即座に二つの疑問がわきます。まず、狩尾(とがのお)へのお忍びのお参りの際に、「誰とかは知られたてまつらむとて(=私を誰ともおわかりにはなるまいと思って、せめて)よそながらも、ちと御姿を見まゐらする」と、ここでも明らかな反語表現による作者の気後れした気分が書かれていますが、それは前述の「いかにしてか誰とも知られたてまつらむ」を同じ気後れの気分と解すればこそ、前後相整合しますが、前者のみ積極の気分と解すれば、前後の心情のふり幅が大きく真逆になってしまい、落ち着きません。

 またもう一つの疑問はそれほど意気込んでいるのならば、どうして最初の女院の語りかけ「いづくより参りたる者ぞ」という問いに対し、自分が誰であるかを積極的には語ろうとしないのでしょうか?

赤本の解説では、この矛盾を避けるために、狩尾(とがのお)参りの際の「誰とかは知られたてまつらむ」を、「私が誰であるかをわかっていただこう」と前後ともに積極の気分で一貫させていますが、この解釈には納得できません。狩尾(とがのお)参りの場面の一句は、どの注釈書においても反語の訳であり、「私を誰ともおわかりにはなるまい」とする解釈は動かないものと思います。おそらく解説をわかり易くするために、意図的に変えたのでしょう。


 講談社学術文庫「とはずがたり(下)」全訳注 次田香澄P433には、当該部分の訳として「それではどうして私を誰とも知っていただけようと思い」とあり、私はこの解釈の方に賛成です。したがって問十九の答は方向性としては(あくまで方向性としてですが)
ヲ どうすれば遊義門院に私が誰であるかわかっていただけるだろうか、いや無理だ。
の方が適当ではないかと考えます。

 ただし、ヲの選択肢にもややしっくりこない部分があることも確かです。一般に「いかにして」の用法には、
①手段を疑う意を表す〈どのようにして・どんなふうにして~〉 ②行為・状態の実現を願う意を表す〈どうにかして・何とかして~〉 ③反語に用いられる〈どうして~〉

【③の例】くひなだに驚かさずはいかにして荒れたる宿に月を入れまし
                         〔源氏・澪標(みをつくし)〕

 この三つの用法がありますが、一般に反語に解するのであれば「どうして~だろうか」とするのが普通であり、選択肢ヲのような「どうすれば~」といった手段を疑う意にも取れるような書き出しで訳出するのは、反語の訳としてはややしっくりきません。

 しかし、早稲田の選択肢の場合、ぴったりの正答とは言えなくても、つまりいささか不審を含む選択肢であったとしても、文脈の方向性から他の選択肢が消去される限りにおいて、それを正答とせざるを得ないといった選択肢の例はこれまでも数多く目にしてきました。私が受験生であれば、やはりヲを正答として選ぶだろうと思います。

 仮に早稲田の問題作成者がアを正解として作問しているのならば、作品解釈の上からも、入試問題の適切さという観点からも、ふさわしくないと私は思います。





問二十 傍線部2「」が指すものを本文から抜き出し記せ。

答=御幸

 前後の文脈を見てみましょう。『女院様の宮巡りだけでもよそながら拝見しようと食事にさえも宿へ行かずにいると、「事なりぬ(=事が成就した)」と誰かが言うので、片隅で人目をさけつつ(見ると)たいそう御輿(みこし)の様子も気高くて宝前にお入りになった』とありますから、「事が成就した」とは「女院様がお出ましになった(=女院様が石清水八幡宮にお着きになった)」の意であろうと推察できます。

 だとすれば、本文中を探すまでもなく、木山の直単の知識に十分習熟している学生であれば、
D基49*「御幸=院・女院のお出まし」しか答は考えられないはずです。

 ちなみにお便り№36【H24早稲田・法学部 古漢問題の分析】には、この「御幸」の説明がきちんと載せられている市販の単語集が、調査した21冊中たった1冊しかなかったという事案が書かれています。どんな単語集でもその効果は同じだとは言えないことの証左であろうと思います。

問二十一 傍線部3「さにや」の解釈として最も適切なものを一つ選べ。

答=イ あれが遊義門院であろうか。

 「さにやと覚えさせおはします御後ろ(姿)を見まゐらするより」の「覚ゆ」の「ゆ」は、上代には受身・自発の助動詞として使われていました。それが平安中古になるとわずかに「聞こ
」「覚」「見」などの動詞の一部となって残ります。この文脈でも「そうであろうかと私から思われなさっている女院の後姿を~」といった具合に、受身+尊敬(最高敬語)の形に用いられており、一般にこのような形を「受身尊敬」と言います。

 公式61*(受身尊敬)の欄に載せている例文「宮のお姿(がそれを見る私から)いといみじきものに覚えさせ給ふ。」(スバラシイモノニオモワレナサル)と、今回の早稲田の「さにやと覚えさせおはします」(ソウデアロウカトワタシカラオモワレナサル)は、構造的にはまったく同じものだといえます。

 高貴な対象者に対し「私がナニナニト思ひたてまつる=思い申し上げる」という場合と、高貴な対象者が私から「ナニナニト覚えさせ給ふ=思われなさっている」という場合の、現象としての内実は同じことです。



 たとえば、教室でいま私は木山先生を見たてまつる(=見申し上げている)という場合と、木山先生はいま私から見えさせ給ふ(=見られなさっている)という場合の、現象としての実態は同じことです。

 しかし、自己の行為に謙譲の補助動詞を添えて、間接的に客体への敬意を表すよりも、客体である貴人自身を(無理やりにも)受身の文脈に取り込んで、そこに最高敬語を添える方が、より敬意の度合いが高いと考えられていたようで、平安中古から中世にかけての王朝的文章の中では、特に最高敬語の該当者に対し、この用法をしばしば目にします。

 対策としてはとにかく客体である貴人が(私から、または他の人々から)ナニナニト(見られなさっている/思われなさっている/Vされなさっている)といった、もってまわった言い方に慣れることです。かつその表現が実態としては私が貴人に対しナニナニト見申し上げている/思い申し上げている/Vし申しあげている、といった状態と状況的には同じであるということを理解することです。

 応用問題を2題紹介します。

○ 家の栄えは極めてき。かばかり天下(あめのした)祈り願は
aれさせ給へる

今上一の宮(今の帝の第一皇子が)生まれおはしまして、思ひのごとく君の御

幸ありき。

a「れ」

①自発の助動詞  ②可能の助動詞  ③尊敬の助動詞

④受身の助動詞  ⑤完了の助動詞    
               〔H12センター・追 国語ⅠⅡ〕

〈ヒント〉今上一の宮(皇子)の誕生が天下の人々から「祈り願はさせ給ふ」と考える。実質的には天下の人々が皇子誕生を祈り願い申し上げた、ということと同じ。

○ 次の文章は『讃岐典侍日記』の一節で、筆者が久しく仕えた先帝の墓に詣でた折の記である。

 十月十日余日のほどに里にゐて、よろづのことにつけても、(亡き先帝が

)おはしまさましかばと、常よりもしのばれされたまへば、御姿にこそ見えさ

せたまはねど、おはしますところ(墓)ぞかしといへば、香隆寺に参る。

 「しのばれさせたまへば」について、主語は誰か。
                        〔東京大学〕

〈ヒント〉受身尊敬の主語は受身の主体です。

2題とも答は末尾に。






御なごりもせん方なきに、おりさせおはします所の高きとて、えおりさ

せおはしまさじりしついでにて
、「肩を踏ませおはしまして、おりさせおはしま

せ」とて、御そば近く参りたるを、あやしげに御覧ぜられしかば、「いまだ御

幼くはべりし昔は、馴れ
つかうまつりしに、御覧じ忘れにけるにや」と申し

出でしかば、いとど涙も所せくはべりしかば、御所ざまにもねんごろに御尋ね

ありて、「今は常に
申せ」など仰せありしかば、見し夢も思ひ合せられ、過

ぎにし御所に参り会ひまししもこの御社ぞかし、と思ひ出づれば、隠れたる

信のむなし
からぬを喜びても、ただ心を知るものは涙ばかりなり。


〈 現代語訳〉

 名残惜しさはどうしようもないが、(女院が)お降りになる所が高いといって降りることがおできにならなかった機会に、私が「私の肩をお踏みになってお降り下さいませ」と言って、お側近くに参上したのを不思議そうにご覧になったので、「まだ幼くていらっしゃった昔は慣れてお仕え申し上げていたのに、見忘れなさったのでしょうか」と申し出たところ、ますます涙も溢れましたので、女院様の方でも丁寧にお尋ねがあって、「これからはつねに申せ=いつでも私に声を掛けよ」などと仰せがあったので、見た夢も自然と思い合わせられ、過ぎにし御所に参り会い申し上げたのも、この御社であったよと思い出すと、隠れたる信心が無駄でないのを喜ぶにつけても、ただ心を知るものは涙ばかりである。

問二十二 次の空欄a~fに入る組み合せとして適切なものを次のア~オの中から一つ選べ。(a~dは敬意の方向としてはいたって簡単なので省略します。e・fのみを取り上げます。)

○ 傍線部7「申せ」は、〔 
 〕 から 〔  〕 への敬意を表す。

答e=遊義門院  f=遊義門院


 古文公式60の自敬表現の中ほどには、「尊大表現」の定義について次のように書かれています。
*尊大表現=相手の動作に謙譲語を用い、間接的に自己を高める〈院から院への敬意などとなる〉
【例】 (大臣が侍に)「一首つかうまつれ」(←尊大な命令口調で訳す=一首歌を詠んでみよ)

 また、木山方式の資料№2〝助動詞・敬語法・文法チェックリスト〟の敬語27には、「尊大表現の定義と訳し方の注意は?」という一問一答があり、内容についてはホームページで音声解説を聴くこともできます。

 Yサピックスの場合、文法チェックリストのチェックの回数は年間で20回から25回程度になります。尊大表現における敬意の方向については「帝から帝/院から院/女院から女院」といった正しい答に対して、逆に違和感を覚える学生も多いので、暗記的に処理できる人は、初見の人がその場で理屈を考えるよりも、時間的内容的に優位になります。

 尊大表現の敬意の方向問題はめったに出題されません。おそらく早稲田の問題演習を年間40~50題消化しても、出てくる可能性は限りなくゼロだと思います。したがって、この点も全網羅的暗記チェックと、そのチェックのくり返しを可能とする公式資料の利点だと私は考えます。





徒歩なる女房のなかに、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛佐

といふ人なり。次の日御還御とて、その夜は御神楽、御手遊び、さまざまあ

りしに、暮るるほどに、桜の枝を折りて兵衛佐のもとへ、この花散らざらむ先

に、都の御所へたづね申すべしと申して、つとめて還御より先に出ではべる

べき心地せしを、かかる御幸に参り会ふも大菩薩の御心ざしなりと思ひしか

ば、喜びも申さむと思ひて、三日留まりて、御社にさぶらひて後、京へ上りて

、御文を参らすとて、「さても、花はいかがならむ」とて、

 花はさてもあだにや風のさそひけむ
契りしほどの日数ならねば

御返し、

 その花は風にもいかがさそはせむ契りしほどは隔てゆくとも(
)


〈 現代語訳 〉

 徒歩である女房の中に、特に初めから(私に)もの申す者がいる。尋ねると兵衛佐という人である。次の日、女院が還御というので、その夜は御神楽、御手遊びなどさまざまあったが、日が暮れるころに、桜の枝を折って、兵衛佐のもとへ〝この花を散らせる前に、都の御所へお訪ね申し上げましょう〟と申し上げて、翌朝は還御より先に(社を)出るべきという心地がしたが、このような御幸に参り会うのも大菩薩の御心ざしであると思ったので、(大菩薩に)お礼も申し上げようなどと思って、三日留まって、御社に参籠したのち、京へ上って、(兵衛佐に)御手紙を差し上げるということで、「さて、桜の花はどうなっているのでしょうか」といって、

 桜の花はそれにしてもむなしく風が誘ったのでしょうか(=風が散らしてしまったのでしょうか)、約束したほどの日数ではないので(=約束の日数を過ぎてしまったので)。

(兵衛佐からの)御返し、

 その花は風にもどうして誘わせたことでしょうか(=散らせたことでしょうか、いや、散らせはしない)。約束した日数は隔ててゆくとも(=過ぎてしまったとしても)Ⅲ

問二十五 傍線部8「契りし」の内容を示すものを、本文中から十五字以内で抜き出し記せ。

探してみて下さい。文脈がすでに判明している状態ではしごく簡単だと思います。答は末尾に。



 菅原道真の撰といわれる『新撰万葉集』には、次に示す〔和歌〕と〔漢詩〕を一対にして収載する。その〔漢詩〕には、『袖の涙』(甲の二重傍線部)に相当する「袖涙」(乙〔漢詩〕の二重傍線部)の語が含まれている。よく読んで、後の問いに答えよ。

〔和歌〕

の色には出でじ隠れ沼(ぬ)の下に通ひて恋ひは死ぬとも

〔漢詩〕

閨 房 ノ 怨 緒 惣(すべ)テ 無 シ


万 事 呑 心 不 表 肝

胸 火 燃 エ 来 リテ 誰 敢 滅

 
紅 深 袖 涙 不  

注 隠れ沼…枕詞

 まず和歌の解釈ですが、二句目の「色には出でじ」は、「色」の下に「出づ」がありますから、直単A名4の③のルールに従って「
顔色・表情」の意ととれます。

 また「紅の色」という表現はA名36「
血の涙」(=深く嘆き悲しんで流す涙・紅涙)を想起させますし、かつ、あとで紹介する問三十一では、この「紅」の説明として選択肢の二ヶ所に「血の涙」とか「涙が赤い」とありますから、これも間違いなく解法上の一つのポイントになるだろうと判断できます。

 さらに下句の「下に通ひて」に注目しましょう。私のホームページ上に載せられている古文背景知識№4〝男女の和歌の贈答〟の解説中には、「
忍ぶ恋(しのぶこひ)」の定義として『表面に表れない恋心をじっと耐える』とあります。またその慣用表現として「言はでのみ」(口に出して言わないだけで)/「下ゆく水の・下にのみ」(水の表面には表れないけれど水面下に激しく逆巻く水のように)/「色見えで」(顔色表情に表さないけれど、実は)/「くちなしなれば」(くちなしの花ではないが私には口がないから恋の思いを伝えることができませんが)などが紹介されています。

 この古文背景知識の内容チェックについては、単語ほど頻繁にはやれませんが、それでも年間で5~6回程度はやっています。口頭諮問の形で「忍ぶ恋の定義を言ってみて下さい」と質問し、学生には〝表面に表れない恋心をじっと耐える〟と正確に答えてもらっています。具体的な慣用表現についても同様です。
 したがって木山方式に習熟した学生で、歌の下句「下に通ひて恋ひは死すとも」に、忍ぶ恋のニュアンスをくみ取れなかった学生は、まずいないだろうと私は思います。

 以上の要点を踏まえて歌の解釈をしてみますと、次のようになります。

*紅の血の涙を流すといった深い悲しみの思いを、顔色表情に出すことはするまい。表面には表れない恋心をじっと耐えて、そのために恋に焦がれて死んでしまうとしても。


問二十八 傍線部1「万 事 呑 心 不 表 肝」(ばんじこころをのみてかんをあらわさず)の意味を最も端的に表している和歌の句はどれか。次のア~オの中から一つ選べ。

ア 初句  イ 二句  ウ 三句  エ 四句  オ 五句

 漢文の意味は「万事すべてを心の中に呑みこんで肝(きも=心)をおもてに表さない」というわけですから、まさに忍ぶ恋のニュアンスに符合します。というか、本来は逆に言うべきであって、そもそも和歌と漢詩を一対に並べるアンソロジーの制作意図は、こうした主題の同一性によるわけです。

 さて、それでは最も端的に漢文の意を表しているのは、二句目の「色には出でじ」でしょうか、それとも忍ぶ恋系の代表フレーズである四句目の「下に通ひて」でしょうか?慌てずに考えてみましょう。

「下ゆく水の/下にのみ/下に通ひて」等のフレーズは、先にも説明したように、水の表面には表れないけれど水面下に激しく逆巻く水のように、秘められた激しい恋心の比喩としてあるわけです。つまり表面上は穏やかに流れているように見えて、実は水面下では激しく逆巻いて流れている水、その水を〝秘められた激しい恋情〟のたとえとして用いているわけですから、端的な表現とは言えません。

 したがって
答はイ=二句となります。


問三十 空欄Xに入れるのに最も適切な語はどれか。次のア~オの中から一つ選べ。

ア 却   イ 流  ウ 払  エ 干  オ 対

 七言絶句において韻を踏むのは、一句目末・二句目末・四句目末ですから、この漢詩の場合、「端 TAN」「肝 KAN」で韻が揃います。したがって韻は「AN」です。(理解できない人は、漢文公式チェックリスト音声解説・漢詩①~⑨を聴いて下さい。)

 各選択肢の音読みは「却 KYAKU」「流 RYU」「払 FUTU」「干 KAN」「対 TAI」ですから、答はそれだけですぐに
の「干」に決まります。

 しかも古文公式23にあるように、上一段動詞「干(ひ)る」の意は「乾く」ですから、「袖涙応(まさ)に干(ひ)るべからず」=「袖の涙はきっと乾くはずもない」(漢文公式7③)と、文脈上もうまく整合します。


問三十一 〔和歌〕の傍線部a「紅」と〔漢詩〕の傍線部b「紅深」の説明として最も適切なものを選べ。(「血の涙=紅涙」の知識から選択肢は二つに絞られます。)

ウ 「紅」は「くれなゐ」と読み、a「紅」は鮮明な赤い色をあらわす。b「紅深」は、
袖が血の涙で染まることで、深い悲しみをあらわす。

エ 「紅」は「べにいろ」と読み、a「紅」は深い赤色のベニバナをあらわす。b「紅深」は、
袖に染みた涙が赤いことで、深い苦しみをあらわす。

 さて、どちらが正解でしょうか?ここで迷ってしまうとしたら、それは直単の「血の涙」の暗記が正確にしっかりとなされていない証拠です。つまり暗記の不徹底さの故です。「
血の涙」の定義は「深い悲しみ」であって、「深い苦しみ」ではありません。

 したがって答は
です。

 赤本や旺文社などの解説では、選択肢の選びにおいて、実に隔靴掻痒(かっかそうよう)なもどかしさを感じます。直単暗記の効果はこの問いにおいては一瞬です!


問三十二 次の文の空欄Zに入る語として最も適切なものを選べ。

 甲の二重傍線部「袖の涙」は追憶して流される涙であるのに対し、乙の二重傍線部「袖涙」は  Z  の思いに関わる涙である。

ア 離別  イ 怨恨  ウ 旅路  エ 望郷  オ 恋慕

 先に、和歌と漢詩を一対に並べるアンソロジーの制作意図は主題の同一性によると書きました。和歌のモチーフが〝
忍ぶ恋〟である以上、漢詩のモチーフもまた〝忍ぶ恋〟であるはずです。

 つまりそれだけで答は
オ=恋慕に決まります。

 極めて時間を切り詰めなければならない早稲田の実戦的な解法としては、これでよいというか、むしろ最も適切な解法だと思います。諸解説が「閨房(けいぼう=夫婦の寝室)の怨(えん=恨み)」の表現から、独り寝の女性が男性を恨んで流す涙といった説明をしていますが、閨房の知識を持つ学生などほとんどおらず、実効性のない迂遠(うえん)な説明というべきです。




【 結 語 】

 以上、H27早稲田・教育学部の古典問題における木山方式の直接ダイレクトな得点寄与率は、

【17問中9問!】(53%)


となります。

 漢文問題の解法が、古文的な知識で解けてしまう点に注目すべきです。漢文の設問数はわずか6問ですが、点差がつきやすいという点では、設問数以上の価値があります。早稲田対策の古典授業で漢文を忌避する学生が少なからずいますが、木山方式のような有効な資料さえあれば、むしろ積極的に得点源として対策化すべきです。


【本文中の問題の答】
 
※同格の文構造であり、「年久しく住み荒らした宿で、物寂しい様子の宿
」と訳出上、格助詞に解釈できるから。

※④

※先帝

※問二十五 都の御所へたずね申すべし(12)







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