《 古文の背景知識 bQ 》


出家・遁世・隠者について教えてくださ〜い!
 

  出家の理念は空の概念で(背景知識bP)で分かったと思いますが、具体的な出家の動機となるとさまざまな要因があげられます。

 もっとも多いパターンは、やはり肉親の死というつらい体験を通して
世の無常を悟り、出家を決意する、といったものです。(やはり肉親の死というものは、この世の悲しみの中でももっとも最たるものです。ただし、失恋もまた人生における一つの死と言えますから、失恋が出家の動機となることもあります。) 

 このような出家を決意するきっかけとなる体験や導きを
善知識(ぜんちしき)といい表わしたりもます。本来は人を仏道へ導く高僧の意なのですが、ある体験そのものが自らを出家へと導いてくれたといった文脈では、そうした体験そのものを「これもまた善知識なり」などと言ったりするのです。つらい体験ではあったけれども、そのことによって世の無常を悟り発心できたのだから結果的にはよい体験だったのだ、といったニュアンスでよく語られます。

 また、上流貴族の権勢家に多いパターンは、功なり名を遂げて
この世の栄華の極みを達成し俗世に対するこれ以上の執着がなくなった時点で心静かに一線から身を引く、といった出家パターンもあります。この際、もっとも気がかりなのは肉親(娘の姫君や息子の公達)の行く末の見通しであって、特に父親などはその見通しがつかないと、そのことが気がかりで出家もままならない、といった状況に陥ります。

 これをほだし(絆)=仏道の妨げといいますが、こういったほだし概念が基本になっている王朝物語の一場面は多いものです。登場人物が出家をためらっているような場合、何がほだしとなっているのか、特に肉親との関係にそって読み解いてください。たとえば「振り捨てむこといとかなしけれ」などのように肉親を振り捨てる事の苦悩が描かれます。

 たとえば平成12年センター国語TU追試には、出家を決意した太政大臣が、娘の姫君の心細げな様子を見て振り捨てがたく思う心情が描かれています。「寄る方なう世を心細しとおぼしたるに待ちつけてうれしげに思ひたまへるを振り捨てむ、またかなしけれど」、こんな文章が出てきたら、すぐにほだし概念を思い出して、「待ちつけてうれしげに思ひたまへる姫君が」太政大臣にとってほだし対象となる肉親であろう、と見当をつけください。

 また、このことは逆に応用すれば、出家を決意した人を引きとどめようとする周りの人々の言動に応用することができます。たいてい出家者は密かに出家を決意していることが多いので、それを打ち明けられた周囲の人々は驚きます。そんな時に翻意をせまるフレーズの代表がやはり
ほだしです。

 つまり、「あなたにはまだ歳若い若君がいらっしゃるではありませんか、この若君の行方が定まってから出家なさいませ」とか、「おなたはこんな素敵な恋人がいらっしゃるのに歳若い身で…」などといった感じで出家を引きとめようとします。
 その際、出家を思いとどまるかどうかはケースバイケースですが、多くの場合、出家の意思は変わりません。出家者は善知識的なつらい体験を盾に自らの出家を認めてほしいと訴えます。


 
 さて、出家した人は
俗世から離れた心静かな生活をこころがけ、現世での功徳(くどく)(極楽往生するための現世でのよ行い)をつんで、ひたすら来世の極楽往生(ごくらくおうじょう)を願います。

 仏教には
六道輪廻(ろくどうりんね)という生死観があって、極楽往生して自ら仏にならないかぎり、人間は永久に生まれ変わり生き変わりしつつ、この苦しみの世界から逃れられないという認識があります。
 つまり、極楽往生というのはそのような六道輪廻の苦から離れて極楽に生まれ変わり、自ら一切の煩悩を離れた仏となることをいいます。

 愛を誓い合った夫婦が極楽で生まれ変わり、同じ
蓮(はちす=はす)の上で仏となる、といったフレーズもよく見かけられますが、そうした希望をもつ二人であっても、現世においては互いへの愛着をいさめ「峰をへだてて」互いに相見ることなく仏道修行に専念するといった態度が貫かれます。(現世での肉親の情を断ち切ることが出家の理念ですから、夫婦で一緒に仏道修行などということはあり得ません。)

 現世で夫婦の愛着を離れることによって、来世で永遠の愛が約束されるというのは、何か言葉の矛盾のようにも感じられますが、すべての煩悩からとき放れたのが仏ですから、仏になれば、同じ蓮の上で仲良く暮らしても、それは煩悩にあたらないという解釈なのでしょうか。
 
 さて、上流貴族ですと、自ら造営した寺やまたは別荘などで写経をしたり、読経をしたりの日々を送ります。それより下の階級ですと、都を離れ奥深い山の中に分け入って小さな庵
(いおり)に暮らす隠者(いんじゃ)となることが多いようです。

 隠者のイデオロギーというのは、拝物主義や拝金主義の対極ですから、
簡素・簡潔な生活を心がけ、俗を離れた清澄な精神の中に生きます。たとえば、『杉の庵・松の柱・竹のまがき・竹の網戸・しのすだれ・筧(かけい)のみず』などといったアイテムは、簡素な隠者の侘び住まいを象徴するものとして情景描写にさりげなく表現されます。
 
 また、出家した僧侶はさまざまな戒律を守らなければならず、中でも
殺生(せっしょう)を諫める殺生戒(せっしょうかい)は有名です。これには、狩猟や漁労も含まれますから、出家した僧の身の上で魚を捕って食べたりすることは、戒律を破る行為として禁じられていました。

 また、僧が
不邪淫戒(ふじゃいんかい)を犯して女性と交合することを女犯(にょぼん)と称し、これをやぶれば当然のことながら破戒僧(はかいそう)と見なされました。
 
 ところで、日本では
極楽浄土は西にあるといった西方浄土思想が一般的です。本来、原始仏教では東西南北すべてに浄土があると考えますが、その中でも特に阿弥陀如来がおさめる西方浄土をご浄土の方角とするという信仰が日本では発達しました。
 
 高徳の遁世者・出家者が臨終に際して西に向かって死ぬ≠ネどといった文章は、その人物が極楽往生したことを暗にほのめかす働きがあります。西イコール浄土の方角といった発想は、古典ではよく出てくるポイントですから、この点もしっかりおさえてください。



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