《 古文の背景知識 bS 》


男女の和歌の贈答について教えてくださ〜い!

  
 まず、ここでいう男女の和歌の贈答というのは恋愛関係を土台としたものです。

 男女間の和歌のやり取りにおいては、それが真実なものであれ、擬似的なものであれ、多少ともそうした恋愛的なものが土台にあると考えるべきです。

 基本的に求愛時の男性の歌はストレートな愛情表現や、嘆いたり、愛を誓ったり、
女の信頼を勝ち得ようとひたすら低姿勢で、自分の愛情の深さを訴えます。

 これに対して、女はすぐに返事をせず、無視したり、代筆させたり、「私、困るわ。こんな文をもらうなんて思いもよらないこと」みたいなポーズを作ることが多いものです。でも、女の方にもそれなりに気があれば、相手の男の詠んだ歌の
あげ足を取ったり、からかったり、切り返したり皮肉を言ったり、言葉じりをとらえたりして、男の愛の頼みがたさを訴えます。

 ただし、たとえば男が「
女への変らぬ愛」を歌に詠み、それに対して女は「男の愛の頼みがたさや不安」を歌に詠んで切り返すといった場合もありますから、常に上から目線≠フ高飛車な態度というわけでもありません。恋愛気分の中で「本当に信じていいの?」と優しくすねてみせるといった切り返しの歌も、女の返歌としては有りうることです。
 そういう場合の女の返しの歌は婉曲な拒絶でもあり、またさらに男がどう切り返してくるかを期待しつつ、男の本心をさぐっていく態度ともとれます。

 このようなあ〜いえばこ〜いう≠ンたいなあげ足取り合戦の歌の応酬を重ねつつ、男女の想いは次第に高まっていくのです。
 現代人の目から見れば女の態度が慎重でありすぎて、時には高飛車で意地悪な態度のようにも見えますが、王朝物語では、むしろそのような
手ごたえのある言い返しができる女を色好みとして評価します。

 このことは、たとえば在原業平
(ありわらなりひら)と九十九髪(つくもがみ)おばあちやん(老女)といった組合せであっても、男と女である以上、いわば擬似恋愛的に男は求愛的な歌を詠みかけ、女は(ここではお婆ちゃんですが)それにあらがうような言い返しの返歌を贈るというのが当時の貴族社会のたしなみであったようです。これはたとえば、友達以上恋人未満といった微妙な男女間の間柄においても同様です。

 一般にこうした手ごたえのある歌のやりとりができるということが、当時としては教養やセンスのある
『あらまほしき行為』と思われていたようです。

 ですから、ただただ男の言うままになってしまうような心優しいばかりの女では、男の方も手ごたえがなかったり、物語作者がそうした手ごたえのなさを、地の文であきれたりすることもあります。
 たとえば、平成13年センター国語TU追試『浜松中納言物語』の問6の選択肢のEは、「中納言に責められても、はじらうばかりで何もいえない大弐(だいに)の娘に対して、語り手は、少し恨み返せばよいのに、と評している」とあります。これも先に述べたような考え方が前提となっているわけです。




 ところで、こういう場合の男の求愛の歌は、現代語に訳すと歯が浮くような大げさなフレーズが多くて、たとえば「何年たっても私のあなたに対する心の色は変わらない」とか(直前に女を裏切っていても、いけしゃあしゃあと真顔で女に訴えます。この場面は平成16年センター国語TU追試『白露』の一節に出てきます)。

 さらに言い訳がましいフレーズの代表が「我が身はあなたのもとを去って(違う女のもとへ)いくけれども、
心だけはいつまでもあなたのもとにとどまっています」なんていう詠み方もあります。

 「身」と「心」が分離する二元論的な言い訳で、「身」は他の女性のもとに行くけれども、「心」はお前のもとにあるんだよ!みたいな感じです。

 さらに男の求愛の代表的フレーズを紹介すると、「自分の、想い人に対する深い思いは、とても口に出して言い表せない、
表面に現れない恋心をじっと耐えているのです」といった忍ぶ恋系。(チェックの際、忍ぶ恋の定義を言って下さいと言われたら、表面に表れない恋心をじっと耐える≠ニ答えて下さい。)

 この場合、よく
「言はでのみ」(口に出して言わないだけで)とか「したゆく水の」(水面下に逆巻く水のように)とか「下にのみ」とか「色見えで」(顔色・表情には表れませんが実は〜)など等のフレーズが使われます。

 あと植物のアイテムにかけて
忍ぶ草(じっと恋の思いに耐え忍んでいます)とかくちなし(私には口がないから恋の思いを伝えられません)などと詠んだりして、ご丁寧に歌にその該当の植物を添えて贈ったりもします。

 つまり、「下にのみ〜」とか「下ゆく水の〜」とか「言はでのみ〜」「色見えで〜」「くちなしの〜」などといったフレーズからは、表面にあらわれない恋心として、ひそかに相手に想いを募らせているといったニュアンスがかもし出されるわけで、こうした表現は男の側から詠まれるだけでなく、時には女の側の秘めた恋心として詠まれることもあります。

 男の求愛時の口説き文句をもう一つ紹介しておきましょう。名付けて「(こんなに人を好きになったのは)
君が初めてなんだぁ系フレーズ」!
 たとえば『夕闇に雪さへかきくれて降るを、うち払いつつ』通ってこられた男君の発言の中に、「かやうの心まよひは、身にとりておぼえぬことかな」などとあれば、それは=恋しい人に逢いたい一心で雪降りの中を人を訪ねるなどという心まよいは、これまで経験がないというわけですから、それは要するに君が初めてなんだぁと言っているわけです。

 よく見る他の表現としては、「
○○○○ならはねど」(〜ということについて私は慣れておりませんけれど)というのがあり、これなども敢えて慣れていないことをやっているわけですから、=こんな行為をするのは君が初めてなんだぁと言ってるわけです。
 さらにわかりやすいものでは「
暁の別れのつらさを今朝初めて知りました」などとよむ場合もあり、これなどは女の側から詠まれてもおかしくない表現です。

 話を戻しますが、衣を重ねて共寝した男女が翌朝めいめいの着物を着て別れることを「
衣衣・後朝」(きぬぎぬ)の別れと言います。別れた男君はできるだけ早く女君のもとに昨夜の想いを込めて歌を送るのが当時のならわしです。これを「後朝(きぬぎぬ)の文」といい、その文の使いのことを「後朝(きぬぎぬ)の使ひ」と言います。

 後朝(きぬぎぬ)の別れにおいて男が女に期待させる睦言(むつごと)の中で、一番多いのはやはり再会の約束です。大きくいえば、男の側の愛の不変・変らぬ愛の誓いということになりますが、観念的なものというよりも、実際に男が女のもとを次に訪れるかどうかが、一夫多妻制と通い婚制度にさらされた女の側にはより切実な問題であったようで、男は何かとひたすら後の
逢瀬(D基2→男女が密かに逢う機会)を確約しては、女の側の不安の払拭に努めるというのが常です。

 ですから、「
のちの逢瀬を頼めて」(B動38A頼みに思わせて・あてにさせて。・期待させて)などというフレーズを見たら、かつそれが男女関係上の一文であれば、男君が暁の別れに涙する女君の肩を抱きしめて「大丈夫だよ、僕は君のことを忘れたりしないからね。必ず次の逢瀬の機会をつくるからね。心配しないで待っていてくれ。愛しているからね。」などと言って、頼みに思わせている¥齧ハを想像してみて下さい。

 最後に、恋の贈答や男女の睦言(むつごと)の中で多用されるのが
引き歌のテクニックです。引き歌とはある有名な古歌の一部を引用することで婉曲に自分の思いを相手に伝える技法であり、遠回しな物言いが上品とされた王朝的作品の中ではかなりよく見かける技法です。

 たとえば、昔の恋人から「契りしを心ひとつに忘れねどいかがはすべき
しづのおだまき」(平成13年センター国語TU追試)という歌が詠みかけられた場合、「しづのおだまき」が引き歌で、こういう場合、センター試験では必ず補注に本歌(もとうた)が載せられます。この場合、補注には「古(いにしへ)のしづのおだまきくりかへし昔を今になすよしもがな」という古歌が載せられていて、その歌の下の句の意を汲んで、「あなたとの約束を忘れてないけれど、昔を今に取り戻すことができたらなぁ(でもそれはもうできません)」というメッセージになるわけです。

 男女の和歌の贈答も上流階級になればなるほど、こうした引き歌や引用だらけになってきますから、よく補注を見ていかないと何を言っているのか全く分からない、ということになってしまいます。

 補足ですが、こうした引き歌的なフレーズは、詠み手の思いを雅びな和歌の伝統をもって相手に伝えるといった効果をねらって、恋愛以外の贈答歌においてもよく見受けられますから、引き歌が使われていればすぐに恋愛の歌だとは必ずしも言えません。文脈をよく見てください。

 こうして男女は結ばれるのですが、現代でいう結婚という状態が成り立ってしまったあとでは(平安時代は男が女のもとへ通う通い婚ですが)、
求愛の時期の男の低姿勢、女の高姿勢という関係が一転します。
 女が一転して
男の訪れをひたすら待ち続ける歌を詠み、可愛くすねたり嘆いたりして男の来訪を促します。
 
 それに対して、男は女の不安を払拭することにつとめ、変わらぬ愛を誓うというのが一般的なパターンです。しかし男は表面上は歯が浮くような愛のセリフを並べつつも、その切実な愛情の度合いは求愛時代とは比ぶべくもなく、なんだかんだと言い訳に始終しています。
                                        


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