《 漢 文 背 景 知 識 》


― №3 遇 不遇・左遷・流謫(るたく) ―






 「
遇(ぐう)」とは、本来『時に遇(あ)ふ』の意です。
天命としての好機に遇(あ)い、幸運に恵まれ、位人臣(くらいじんしん)を極めることを言います。
この逆が「
不遇(ふぐう)」。つまり天命としての好機に遇わず、運悪く才能にふさわしい地位や境遇を得ていない状態が「不遇(ふぐう)」です。

 
漢文に於ける仕官をめぐる処世観というのは、人生は天から与えられた運命によって決まるという「天命思想」がとても強いわけですが、それは決して仏教的な無常観のような、現世の営みを全否定するような諦観(ていかん)として語られるのではなく、もっとポジティブな処世観として語られることが多いようです。

 
天命による巡り合わせの遇・不遇に翻弄(ほんろう)されるのはおろかだ。すべては天の好機に遇うか遇わないかの問題なのだから、あくせくしても仕方がない。天命に従って正しく生きる者は、目先の利を求めず、泰然として時が来るのを待つ、といった態度が良しとされます。





 例えば
H23年の上智大学・文/総合/法には『荀子』宥坐篇の次のような一節が出題されました。

○ 孔子曰く、夫(そ)れ遇・不遇なる者は時なり。

賢・不肖(ふしょう=おろか者)なる者は材(=人材)なり。

君子博学深謀(はくがくしんぼう)にして、時に遇はざる者衆(おほ)し。

是れに由りて之を観れば、世に遇はざる者衆(おほ)し。

何ぞ独り丘(きゅう=孔子)のみならんや。

〈中略〉

遇・不遇なる者は時なり。死・生なる者は命(めい=運命)なり。

今其の人有りて、其の時に遇はずんば、賢(=賢者)と雖(いへど)も

其れ能(よ)く行はんや。

苟(いやしく)も其の時に遇はば、何ぞ難きこと之れ有らんや。

故(ゆえ)に君子は博学深謀し、身を修め行ひを端(たん=

きちんと整える)して、以て其の時を俟(ま)つ。

 
孔子はもちろん儒教の祖。名前を丘(きゅう)と言いました。晩年の十余年、魯の国を去って諸国を歴遊し理想の政治を説きましたが、結局どの国にも用いられませんでした。「何ぞ独り丘のみならんや」とは、時に遇わずふさわしい境遇を得ていない人物はどうして私丘だけであろうか、いや、私だけではない、世に不遇な者は多いのだと言っているわけです。

 しかし、だからといって、仏教的無常観のように現世の名利や栄達に背を向けるというのではなく、いつか時がくれば用いられる日が来ると考えて、じっとその時を待つというわけですから、
ポジティブな処世観と言えるでしょう。

 ところで、このような天命思想に "
左遷(させん)=官位を下げられ遠隔の地に赴任させられること " の話がからむ場合は、やはり隠忍自重(いんにんじちょう)して、じっと時がくるのを待つといった文脈になる事が多いようです。左遷され、政治の中心から疎外(そがい)されたことへの悲嘆を述べながらも、すべては時に遇わなかったのだと大局的にとらえ自己を慰めたりもします。





 以下、その『不遇にたえ、じっと時を待つ』といったポジティブ処世観のやや高等な応用パターンを紹介しましょう。
2013年度(H25)のセンター本試・漢文『張耒集(ちょうらいしゅう)』の本文を訳文と書き下しで載せます。

○ かつて、私は苑丘(えんきゅう)の町の南門にある霊通寺(りょうつうじ)の西堂に仮住まいを始めた。その年の冬に、私は自分の手で、西堂の傍に二株の海堂を植えた。春雨が幾度も降り、海堂は盛んにしげり成長していった。
わたしはいつも一緒に酒を飲むと人たちと宴(うたげ)の約束をし、その時には酒を出し海堂の木の下で少しばかり酔いたいと思った。
ところが、その月の六日、左遷を命じる文章を受け、旅支度をして黄州に下って行った。世の中は騒がしく、私も黄州に居を移したので、もう二度と西堂の傍に植えた海堂の花を目の当たり見ることなどはなかった。

〈中略〉

今思えば、あの海堂を植えた場所は私の寝所から十歩と離れておらず、人々と一杯の酒を酌み交わして海堂の花を楽しみたいと思えば、きっと何の苦もなく出来るだろうと思っていた。
ところがいよいよ花見だというところで機会を逃してしまった。

■ 事の知るべからざること此(か)くのごとし。

今棠(だう)を去ること且(まさ)に千里ならんとし、

又た身は罪籍(ざいせき)に在りて、其の行止(かうし)は

未だ自ら期すること能はざれば、其の棠に于(お)いては

未だ遽(にはか)には見るを得ざるなり。

然れども均(ひと)しく知るべからざるに于(お)いては、

則ち亦た安(いづ)くんぞ此の花の忽然(こつぜん)として

吾が目前に在らざるを知らんや。


この文章全体から読み取れる筆者の心境を説明したものとして適当なものを選べ。(選択肢の前半部は省略しています)

① 無心の存在である海堂と対照的に花への執着を捨てられない自分を嫌悪し、将来に対して悲観的になっている。

② 自分の不遇な状況には変化がなく、現状からはやく脱出したいと思いながらも何もできないと、焦燥感に駆られている。

③ 今は不遇な状況にある自分だが、悲しみに没入することなく運命を大局的にとらえ、乗り越えようとしている。

答えは③です。

本文書き下し部分をどう解釈すれば③の説明に至るのか、少し自分なりに考えてみて下さい。


《しばし閑》


 書き下し部分の主旨は、(人生において何が起こるか)予測出来ない事はかくの如しである。だから、等しく将来を予測出来ないという点では、どうしてこの海堂の花が忽然として私の眼前に存在することがないとわかるだろうか、いや、わからない。→つまり、いつか罪が許されて、あの海堂の花を思いがけず眼前に見る日が来るかもしれない、と言っているわけです。

 少なくとも、左遷に於ける遇・不遇を話題とする漢文問題を読むとき、
『遇・不遇は時の運であり、君子は泰然として時を待つ』といった大局的でポジティブな処世観をあらかじめ知っていれば、正答を得る上で有効だと思います。

 ただし、漢詩に於ける『左遷もの』は韻文の常として
悲嘆・悲憤・哀切・感傷・自己憐憫の度合いが強い内容が多いようようです。以下に近年の東大漢文の出題例を2題紹介します。





(2011年度)

旅雁を放つ 元和十年冬の作

〈この年、作者白居易は江十州司馬の職に左遷された〉

九江(きゅうこう)十年大いに雪ふり

江水(こうすい)は氷を生じ樹枝は折る

百鳥(ひゃくちょう)食無くして東西に飛び

中に旅雁(りょがん)有りて声最も飢えたり

雪中に草を啄(ついば)みて氷上に宿り

翅(はね)は冷えて空に謄(のぼ)れども飛動すること遅し

江童網を持して捕らへて将(も)ち去り

手に携えて市に入りて生きながらにして之を売る

我は本北人(もとほくじん)にして今は譴謫(けんたく)せらる。

人と鳥と殊(こと)なると雖も 同ジク是レ客ナリ

此の客鳥(かくてう)を見るは客人を傷(いた)ましむ

(以下省略)


『同 是 客』(傍線部)とは作者のどのような心情を表しているか、わかりやすく説明せよ。

 作者は左遷されて異郷の地にあり、旅雁もまた遠方の地へ向かう渡り鳥ですから、両者は共に
" 客 "→旅人というわけです。つまり、罪を得て左遷された我が身を、市場で売られる旅雁になぞらえて(または重ねて)、いわば同類相哀れむといった同情共感の思いを抱いていると解釈できます。

答え市場で売られる旅雁に、左遷された我が身を重ねて同情する心情。





○(2016年度)

寓居(ぐうきょ)定恵院(じょうえいん)の東、雑花山に満つ、

海堂一株有り、土人は貴(たっと)きを知らざるなり

〈作者は朝廷を誹謗した罪で黄州に流されている〉

江城地は瘴(しょう)にして草木繁(しげ)し

只だ名花の苦(はなは)だ幽独なる有り

嫣然(えんぜん)として一笑す竹籬(ちくり)の間

桃李(とうり)山に満つるも総て粗俗

也(ま)た知る造物深意有るを

故(ことさら)に佳人(美人=海堂の花)をして空谷(くうこう)に有らしむ

〈中略〉

陋邦(ろうほう=辺境の人々)いづれの処にか此の花を得たる

無乃(むしろ)好事(こうず=好事家)の西蜀(せいしょく=

海堂の原産地)より移せるか

寸根千里致(いた)し易(やす)からず

子(し=種子)をふくみて飛来せるは定めし鴻鵠

(こうこく=大きな渡り鳥)ならん

天 涯 流 落 倶ニ 可シ
念(おも)フ

為に一樽(いっそん)を飲み此の曲を歌ふ


『為に一樽を飲み此の曲を歌ふ』とあるが、なぜそうするのか、説明せよ。

 直前の一文は、「天涯(天の果て)の地に流れ落ちて来た境遇について作者も海堂もともに思うことがあるに違いない」の意です。(
木山の漢単C35『倶(とも)ニ』の理解が決め手)

 流された作者の境遇を、原産地から遠く運ばれて独り咲く海堂の花になぞらえて(または重ねて)、いわば
同類相哀れむといった感慨を覚えている点では、まったく2011年度の出題主旨と同様です。

答え天涯の地に独り咲く海堂に、流されて来た孤独な我が身を重ね合わせて共感を覚えたから。

 漢詩の左遷ものでは、自然の事物を我が身の不遇になぞらえて(または重ねて)、共感・同情の感慨を述べることが多いと言えるようです。







 


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