=  2013年一月センター試験だより

                   シリーズ№43=




【 古文・松陰中納言物語の全文訳 】

 (リード文 東国にくだった右衛門督(うえもんのかみ)は下総守(しもうさのかみ)の家に滞在中、浦風に乗って聞こえてきた琴の音を頼りに守の娘のもとを訪れ、一夜を過ごした。以下の文章はそれに続くものである。)

 その翌朝、右衛門督から娘のもとへお手紙をお遣りになるのも、その方法もおありにならなかったので、右衛門督は
(ア)たいそうじれったくてお過ごしになっていたが、そこへ主人の下総守が参上なさって「昨日の浦風はあなた様の身には心にお染みにならなかったのでしょうか。たいそう気がかりでして」と申し上げなさると、(浦風に乗って聞こえてきた守の娘の)琴の音のことであろうかとお思いになって、「すばらしい色香でございました。唐琴でありましょうか。心ひかれまして」とおっしゃったので、下総守は思いがけないことながら、その唐琴を取り寄せた。

 右衛門督は調べをお弾きになって「波の音にも立ちまさっていたのももっともなことであるようだ」と言って、(弾き終えた)琴を箱にお入れになるといって、お手紙を琴の緒(を)に結びつけなさって、「これを、以前あった方へ返せ」といって差し置きなさったので、(使いの者が守の娘である女君のもとに)持って入った。

女君は右衛門督が琴をお取り寄せになったのを、妙なこととお思いになって、箱を開けてご覧になると、右衛門督が
(イ)名残惜しかった昨夜の別れを歌にお詠みになって

 
男と女として逢った後の方が、あなたのことがいとおしかった。人目を遠慮する私の心の習いなので(昼間会うことはできませんが…)
 今宵はたいそう早く人を寝静めて。

と書いてあったけれど、女君はどうしたらよいかとも判断なさることもおできにならない。
 幼い弟君が「客人の右衛門督の方へ参上するのに、扇を昨日海へ落としてしまいました。(かわりの扇を)いただきたいのです」とおっしゃりにいらっしゃる。

 (女君は)何とよきこと(好都合なこと)とお思いになって、扇の端に小さくお書きになって、「この絵はおもしろく書きなしたので、殿(右衛門督)にお見せ下さい。そうすれば、小さい犬をきっと(あなたに)お与えになるはずです」とうち笑みなさると、弟君は喜んで、母君の方へ参上なさって、「(姉君から)扇をいただきました」といってお見せになると、(母君は扇の端に書かれた)歌を見つけなさって、妙なことだとお思いになる。

 やはり様子を見ていたいと思って、弟君の後(しり)に立って屏風の隠れからのぞきなさった。弟君が「この扇の絵をご覧下さい。姉君がこのように」とおっしゃるので、右衛門督はまことに
(ウ)たいそうすばらしく書きなしていることよと思って、ご覧になると、(女君の歌が書かれてある。)

 
(あなたが歌に詠んだ)悲しさも、人目をさけることも、私は考えることもできません。別れた時のままの心の戸惑いのために。

 今朝の、琴に付けた歌の返しであろうと右衛門督はお思いになって、「この扇は私にきっとお与えになるのがよいでしょう。(そのかわり)犬を差し上げることにしましょう。京にたくさんあったので(いたので)、取り寄せてその時に…」といって、黄金で作った犬の香箱を弟君にお与えになって、「姉君にお見せ下さいよ」とおっしゃったので、弟君はそれを持って、女君のもとへお入りになるのを、母君はますます妙だとお思いになって、「私にもお見せなさいよ」といって、弟君から取ってご覧になると、母君は
(予想通りの結果になって)やっぱり思ったとおりだ、昨日の琴の音を道しるべにしていらっしゃるのだろうとお思いになるけれど、こちらの意向を見せまいと、もて隠していらっしゃった。

 弟君が姉君の方へいらっしゃってお見せになったところ、(姉君は)「これを私のものにしよう」といってお取りになって、(弟君が)「この犬を」とおっしゃると、「(犬を下さるといった)私の言葉はまちがいなかったので」といって、箱の蓋(ふた)を取ってご覧になると、内側に(右衛門督の歌が書いてある)

 
別れてしまった今朝はあなたの心が戸惑うとしても、今宵といった私の言葉を忘れないで下さい。
(女君は)惜しくは思ったけれど、人が見たら困ると思って、その歌をかき消しなさった。

 母君は女君が人目をさけ申し上げるのも気の毒だろうと思って、侍女の右近をお呼びになって、
「今宵、右衛門督がお渡りになるだろうよ。よくしつらいなさい。将来も頼もしいことであるようなので」とおっしゃるので、(右近は)やっぱり思った通りだ、今朝からのご様子も昨日の楽(がく)を弾き替えなさったのも、じれったくお思いであったからであろうと思って、こうだとも言わずに几帳をかけ渡したり、すみずみまで塵(ちり)を払っていると、(女君が)「荒れ果てて訪れる人もない私のもとなのに、そのようにしなくてもきっとよいでしょう」とおっしゃるので、(右近は)「蓬(よもぎ)の露は払わなくても、あなた様の胸の露は今宵きっと晴れることでしょうよ」といってうち笑うので、女君はひどく恥ずかしいとお思いになる。

【古文問題の解説 】

 出典は中世の擬古物語『松陰中納言物語』の巻二の一節。中世擬古物語といえば例によって中世王朝物語全集(笠間書院)からの出題であり、予備校の模試も含めて、このシリーズからの出題は極めて多い。
 ちなみに、今年ちまたに流布したZ会の問題集の中に、同一場面を問題化したものが載せられている。

 本文は東国に下った右衛門督と、下総守の娘が、契りを結んだ翌朝の和歌贈答の場面である。昨年同様、和歌が三首あり、それぞれの和歌の内容が問われた。各予備校ともに〝やや難化〟との評であるが、木山方式の直接ダイレクトな得点寄与率は50点中35点もあり、私の目には標準レベルのように見える。

問1 (ア)「いと心もとなくて過ぐし給ひける」は、直単B形42「心もとなし」の①「待ち遠しい・じれったい」の意をあてれば選択肢に迷うものはなく、答は「たいそう気をもんで時を過ごしていらっしゃった」で決まり。

 前後の文脈も契りを結んだ翌朝、文を女君に遣わしたいのだが、その手段・方法もなく、「心もとなし」とあって、思うようにいかず/じれったく/気をもんでいる様子がうかがわれる。→(5点)

問1 (イ)「飽かざりし名残りをあそばして」は、D連1「飽かず」の②で〝別れの場面では名残惜しいと訳す!〟と受験の10ヶ月間で何回もくり返したとおり、「名残惜しかった女君との今朝の別れ」といたニュアンスで選択肢を吟味する。別れというポイントを含む選択肢は一つしかなく、答は「満ち足りないまま別れた思いをお書きになって」が正解。
 「あそばす」は詩歌・管弦などの行為をするという意の尊敬語で、ここでは歌をお書きになったことをさす。→(5点)

問1(ウ)「いみじくこそ書きなしつれ」は、B形17「いみじ」の(+)「すばらしい」か(程度)の「たいそう~」をあてる。文脈上、肯定的評価であることは疑いようもなく、直訳すれば「たいそうすばらしく書きなしていることよ」
 答は「ことさらに美しく書きあげてある」が正解。
他の選択肢に「いかにも愛情深く書き表わしてある」とあるのは×(バツ)。女君の弟君への発言中にも「この絵は
おもしろう書きなしたれば、殿に見せさせ給へ」とあって、あくまで扇に書かれた絵のおもしろさ(趣深さ)に焦点が当たっているので、「愛情深く」ととれる論拠は文中に見い出せない。→(5点)

問2 文法問題の答は選択肢の①
a打消の助動詞    b断定の助動詞 
c形容動詞の活用語尾 d完了(強意)の助動詞が正解。

○ 御身には染(し)ませ給はaにや。
○ 琴の音bやあるらん
○ むべcこそあなれ
○ 小さき犬をこそ、賜ひdべけれ

 ポイントはcを断定の助動詞「なり」の連用形ととらないこと。木山の漢単A27「宜」おいて、再読文字の訓み方と、形容動詞の読み方をくり返しチェックしたように、「
むべナリ・うべナリ」は「もっともなことである」の意の形容動詞。したがって「むべ」の「に」は形容動詞の連用形の語尾。

 木山方式の学生は、古文公式・漢文公式を併用して暗記するので、同一の知識を漢単・直単の両方に載せることはしない。したがって直単Cの形容動詞のコーナーには「むべなり」は載せられていないが、古漢公式の双方に充分に熟達した学生なら、間違いなく解けたはず。→(5点)

問3 傍線部X「さればよ」とあるが、誰が、どのようなことを思ったのか。最も適当なものを選べ。

 直単D連24「さればよ」=〝(予想した通りの結果になって)やっぱり思った通りだ〟のチェックは、さまざまな出題例を示しつつ、この一年間十分にくり返した。その正確な意味と用法がわかっていれば、選択肢の⑤
  「母君が、弟君が持っていた扇に書き添えてあった和歌を読んで不審に
   思っていた通り、右衛門督と女君がすでに心を通わせていて、今夜再び  会おうとしていることがわかり、喜ばしいことだと思った」
が最初からかなり正解に見える。

 また、本文中で母君の思いとして「歌を見つけ給ひて、
あやしきことに思す」「持て入れ給へるを、母君、いとどあやしと思して」と二ヶ所に「あやし」(B形7①=不思議だ・妙だ)と書かれており、母君は一連の二人の行為を不思議で妙なことだと思っていたわけであるから、選択肢⑤の「不審に思っていた通り」の「不審に」という表現とも整合する。

 さらに、最後の「喜ばしいことだと思った」も、二人の関係に気付いた母君の後半での配慮と整合する。

 迷う選択肢に④
  「母君が、沈み込んでいた娘の様子を見て
心配していた通り、案の定、   女君が右衛門督の洗練された様子に心を奪われて、何も手につかなくな  っているのだとわかり、大変なことになってしまったと思った」
とあるが、「あやし」の訳出から「心配する」の意は出てこず、また「大変なことになってしまった」と母君が思ったわけでもない。

問4 傍線部Y「蓬(よもぎ)の露は払はずとも、御胸の露は今宵晴れなんものを」とあるが、この言葉には右近のどのような気持ちが込められているか。最も適当なものを選べ。

 「蓬(よもぎ)」は直単D基52にあるように、荒れ果てた庭や家を象徴する雑草であり、この場合は、まず女君自身が人の訪れもない自らの「おはしどころ」を自己謙遜的に「蓬生(よもぎふ)」と発言したことを受けている。

 「蓬(よもぎ)」はあくまで荒れて人の訪れもないことの
象徴表現であり、女君の居場所も同じ下総守の邸内であるのだから、選択肢②の「踏み分けられないほど蓬が茂った庭」とか、⑤の「露に濡れた蓬を分けて訪れる人もない」といった、リアルに蓬が生い茂った家という解釈は×(バツ)
 残った選択肢の
① ~明るく励ます気持ち
③ ~安心させる気持ち
④ 誰も来るはずはないから掃除の必要もないのにと言う女君に対して、右衛門督の訪れをひそかに待っている女君の心はわかっているとからかう気持ち
の三つで迷うが、右近の最後の発言「蓬の露は払わなくても、あなた様の胸の露は今宵きっと晴れることでしょうよ」とうち笑って言ったことと、また女君が恥ずかしく思ったことから、からかっていると解釈するのが適当。よって④が正解。

問5 A~Cの歌の説明として最も適当なものを一つ選べ。
 答は②。
Aは右衛門督の歌で、会って愛情は深まったのに、人目を気にするために昼間は会いに行けず、恋が成就した今になって、さらに募る恋情を詠んでいる。Bは女君の歌で、別れた後の心の乱れのために、右衛門督とは違って悲しみに浸ったり人目を気にしたりする心の余裕がないと訴えている。

 Aの歌の下句「人目をつつむ」の「つつむ」はB形39=遠慮する・気おくれするの意。つまり、右衛門督は
人目を遠慮し気おくれして女君に会うこともできず、男女として逢った(B動56=見る)後の方が、余計に女君のことがいとしい(B形35=かなし)と詠んでいる点で選択肢②の前半の内容と整合する。

 これに対してBの歌の上句「忍ばんことも」の「忍ぶ」は、「我慢する・こらえる」の意ではなく、B動31①の「人目をさける」の意ととるべき。というのも、相手の詠んだ歌の一部の語句(または同内容な表現)をそのまま返歌中に詠み込んで返すのが贈答歌の原則であるから、右衛門督の詠んだ「人目を遠慮し気おくれする」の句を受けて、女君が
  (あなたの詠んだ)悲しさも、
人目をさけることも、私には考えることもでき  ません。別れたときのままの心の戸惑いのために
と応じたものとみれば、②の内容と完全に一致する。

 選択肢④の「恋心を押さえねばならない」
     ⑤の「悲しみに堪え続けることの苦しさ」
はともに「忍ぶ」を「我慢する・こらえる」の意でとらえており×(バツ)
選択肢③の「一向に進展しない二人の仲」は、すでに男女の契りを結んだ事実に異なっており×(バツ)→(8点)

問6は近年よく出題される「表現の特徴と内容についての説明」という設問。

選択肢①の「蓬などの自然の描写」、②の「身分違いの恋」、③の「周囲の人に認めてもらうことを恋の成就の重要な条件と考える」、④の「少しずつ心を通わせていく二人の心情の変化」などが不適当。

答えは⑤。
  女君と右衛門督のやりとりに敏感に反応し行動する母君や右近の様子と は対照的に、右衛門督に求められて「思はずながら」琴を取り寄せてしまう 下総守や、「小さき犬をこそ、賜ひぬべけれ」「犬をこそ、まゐらすべかめれ 」などの言葉に喜んで知らないうちに文の使いをさせられている弟君の様  子が、巧みに描かれている。→(8点)


 全体としてねらい通りの中世擬古物語であり、問1の15点、問2文法の5点、問3の「さればよ」の解説での7点、問5のA・Bの和歌解釈での8点、以上35点分は、木山方式であれば必ず得点できる問題である。





【 漢文・張来(ちょうらい)『張来集』によるの全文訳 】

 始め私は、丙子(へいし)の年の秋に、宛丘(えんきゅう)という地の南門の近くにある霊通という禅宗の寺の西の堂に仮りに身を寄せていた。

 この年の季節は冬、私は
(1)手(て)づから=自分の手で直接、バラ科の花樹である「海棠(かいどう)」を堂下に植えた。翌年の丁丑(ていちゅう)の年の春に時宜を得て降る雨がしばしばおとずれて、「海棠」の花樹は喜んでいるように盛んに茂り成長していく。春の半ばになり海棠の花はまさに咲こうとしていた。
私は常に共に酒を飲む者と約束して、かつ、うまい酒を
(2)まねき寄せて(引き寄せて)、まさに海棠の樹の間で一献(いっこん)の盃をかたむけようとした。

 (ところが)この月の六日に、私は左遷を命じる文章を受け取って、旅支度して黄州におもむくこととなった。世の中はこのたびの政変で騒然としていて、私もまた(処罰された同類の一人として)住居を移し、それによって、
海棠の花をふたたび省(かへり)みることがなかった

 さて、私は黄州に到着して、まさに周歳(しゅうさい)→一年ひとまわり時が過ぎようとしていた。その時、
かつての禅宗の寺の僧の手紙が届いて、その手紙が言うことには(書かれていたことには)、私が植えた海棠の花は以前と同じように自如(じじょ)として花を咲かせているということであった。

 私がそこで心に思ったことには、この海棠を植えた場所は私の寝室を去ること十歩もないほどすぐ近くであり、(花の下で一献を約束した風流人を待つまでもなく)
隣近所の者や親戚などと一飲してこの花を楽しもうと思えば、きっと難しいこともなかったであろうことである。しかし、ことがまさにそうなろうとして、この機会を失ったのである。

 
ものごとがどうなるかを知ることができないのは―人生において将来の予測が困難であることは―かくのごとしである。(何が起こるかわからない)。

 今、あの海棠の花樹から去ることはまさに数千里になろうとしている(我が身は遠く黄州の地にある)。また我が身は罪に処せられた身であり、その出処進退はいまだ自(みずか)ら期待することはできないので、あの海棠については、いまだすぐに見ることはできない。

 しかし、均(ひと)しく知ることができない(つまり人生において将来の予測がつかない)という点においては、またどうしてこの海棠の花が忽然(こつぜん)として私の目前に存在しないということを知ることができようか。いや、知ることはできない。
 →つまり人生は何が起こるかわからないのであるから、いつの日か罪を許されて海棠の花が私の目前に忽然として存在する、そんな日が来るかもしれないのだ。

【 漢文問題の解説 】

問1 傍線部(1)「手」、(2)「致」と同じ意味を含む熟語を選べ。

 全文訳にあるように、傍線部(1)の文中での訓み方は「手(て)ヅカラ」。意味は〝自分の手で直接に〟。答は「
記」で「手(て)ヅカラ記(しる)ス」の意。「名」はある技能に長ずる人のことをさす。「挙」は文字通りの「手」、つまり手を挙げるの意。「腕」は手と腕を表わし「腕前」とか「働き」を意味する。「法」はてだて・やり方・手段の意。

 傍線部(2)の文中での訓み方は「致(いた)ス」。意味は「まねく・まねき寄せる・引き寄せる」。現代語でも〝東京にオリンピックを招致する〟などといったフレーズで使われる。
 答はそのまま「招
」が正解。酒をまねき寄せて海棠樹の花かげの一献を期待するといった文脈。「筆」は筆の趣(おもむき)。「極」は極める・尽くすの意。「風」は趣(おもむき)。「一」は同じ趣(おもむき)の意。→(各4点)

問2 傍線部A「時 沢 屢 至 、棠 茂 悦 也」から読み取れる筆者の心情として最も適当なものを選べ。

① 恵みの雨を得て海棠が
喜んでいるように、筆者自身も寺院の中で心静かな生活に満足を感じている。
③ 恵みの雨を得て茂る海棠の成長を
喜びつつも、宛丘での変化のない生活に退屈を覚え初めている。
⑤ 恵みの雨を得て茂る海棠を
喜びながらも、雨天の続く毎日に筆者は前途への不安を募られている。

 漢単D40「悦=よろこブ」の字義に着目して、この三つの選択肢にしぼる。
注7茂悦―盛んにしげり成長しているの意も加味すれば、「海棠の花樹は
喜んでいるかのように盛んにしげり成長してゆく」と解釈できる。海棠の花樹そのものが喜んでいるととれるので、③・⑤のように「海棠~喜びつつ」と海棠を客体化してしまう表現は×(バツ)。したがって答は①。→(6点)

問3 傍線部B「不 復 省 一レ 花 」から読み取れる筆者の状況を説明したものとして最も適当なものを選べ。

 答は③。筆者は政変に際して黄州に左遷され、それきり海棠の花を見ることがなかった。

 「省」を「(かへり)ミル」と訓むのは常識のレベル。「顧みる・省みる」などの字をあてる。とにかく「(かへり)
見る」であり上一段動詞の「見る」の複合動詞なのだから、正答のように「~を見ることがなかった」とあるべきで、それ以外のものはすべて×(バツ)。→(6点)

問4 傍線部C「寺 僧 書 来」について、このことがあったのはいつか。最も適当なものを選べ。

 答は③。筆者が左遷された翌年の春。
 全文訳に書いたとおり、「周歳(しゅうさい)」は一年ひとまわり時が経過することを意味するから、翌年であり、また海棠の花が咲くのは春であるから③。→(6点)

問5 傍線部D「欲 与 隣 里 親 戚 一 飲 而 楽 之」について、返り点のつけ方と書き下し文の組み合せとして最も適当なものを選べ。
 
 答は②。欲
隣 里 親 戚 一 飲 而 楽 上レ 之 

      隣里親戚と一飲して之を楽しまんと欲せば

 全文訳に書いたとおり、あくまで文脈的なアプローチだが、推察は容易であり、そう難しくない。→(6点)

問6 傍線部E「事 之 不 知 如 此 」の解釈として最も適当なものを選べ。

 全文訳に書いたとおり。人生における将来の予測が困難であるという一般論をさして「かくのごとし」といったものであり、これも文脈上のアプローチ。答は④。これから先に起こることを予測できないのは、このようである。→(6点)

問7 傍線部F「安 知 此 花 不 忽 然 在 吾 目 前 乎」について、書き下し文と解釈との組み合せとして最も適当なものを選べ。

 漢単B14「忽然(こつぜん)=たちまち・突然・思いがけず」の意を知っていれば、選択肢②や④の「ぼんやりとでも~」が不適であることはすぐわかる。残った選択肢を並べると〈解釈のみ〉

① どこにこの花が
思いがけず私の目の前に存在することがないと分かる人がいるのか。
③ どうしてこの花が
思いがけず私の目の前に存在することがないと分かるだろうか。
⑤ どうしてここで花が私の目の前から
不意に存在しなくなるとわかるだろうか。
の三つになるが、まず選択肢⑤の「私の目の前
から」という起点表現は×(バツ)。

 木山方式の学生であれば、白文問題における起点用法は、漢文公式4⑥*「より」は自由に従う(この三字!)に返読する場合か、または公式10①Bの前置詞の〝於 于 乎〟の下の補語に「~ヨリ」と送るかの二パターンしか認めない立場であるから、すぐにおかしいと気付くはず。

 選択肢の①は「安」を「いづクニカ(=どこに)」とよんでおり、選択肢③の「いづクンゾ(=どうして)」と、両方のよみ方は論理的には可能である。(漢文公式14B④とC①)
 
 ただし、①の文末の「目の前に存在することがないと分かる
がいるのか」は、白文中に「者」とか「人」の字がなく、「知」の送りを「知ル(モノ)アランカ」と準体法(古文公式52)的によんでいるのだが、白文問題において「者」「人」を記載せず、送りに含意された意味として「~トイウヒトガ」という解答を要求するセンターでの出題例を木山は過去に見たことがなく、学生も自然とちゅうちょしたのではないかと思われる。

 ともかく最終的には文脈の理解であり、筆者本人がいつの日か許されて海棠の花を思いがけず目前にする日もあるのではないかと詠嘆しているわけであるから、それをわざわざ遠回しに「どこにそんな人がいるだろうか」と他者に仮託する必然性はどこにも見い出せない。
 また①では筆者自身の詠嘆の焦点も微妙にずれてしまう。答は③。→(6点)

問8 この文章全体から読み取れる筆者の心情を説明したものとして最も適当なものを選べ。

 答は⑤。今は不遇な状況にある自分だが、いつの日か罪を許されて再び海棠の花を愛でるときが来るかもしれないと、悲しみに没入することなく運命を大局的にとらえ、乗り越えようとしている。→(6点)

 あくまで文脈によるものだが、参考になる資料は存在する。木山のホームページ上につねに公開している〝
漢文背景知識――出世処世観・天命思想――〟には、次のように書かれている。

 
漢文における仕官をめぐる処世観というのは、人生は天から与えられた運命=遇・不遇によって決まるという天命思想がとても強いわけですが、それは決して日本の宿世(すくせ)思想のような諦観(ていかん)といったものではなく、もっとポジィティブな処世観としてあるわけです。

 めぐり合わせの遇・不遇に翻弄(ほんろう)されるのはおろかだ。天命に従って正しく生きる者は、目先の利を求めてあくせくしない。しかし、そうだからといって、出世そのものをあきらめているわけではなく、そういう意味で老荘思想はどちらかといえば処世観に近いのだと思います。

〔中略〕

 ところで、このような天命思想に〝左遷(させん)=官位を下げられ遠隔の地に赴任させられること〟の話がからむ場合は、やはり隠忍自重(いんにんじちょう)してじっと時がくるのを待つといった文脈になることが多いようです。左遷され、政治の中心から疎外(そがい)されたことへの憤りを述べながらも、すべては時に合わなかったのだと大局的にとらえ自己を慰めたりもします。


 漢文公式からの直接の得点寄与は、問2「悦(よろこ)ブ」の6点と、問7の「安(いづ)クンゾ―ンヤ 反語」「忽然(こつぜん)トシテ」の組み合せで正答に至る6点分の計12点。
 したがって、木山方式の2013年センター古漢に対する直接ダイレクトな得点寄与率は、古文と合わせて

H24 (今年)  47点/100点

となる。

 ちなみに、過去5年分のセンター古漢の分析結果は、以下のとおり。

※H23 (昨年) 60点/100点 
 (速報!センター国語古典問題に詳しく分析あり)

※H22 (一昨年) 43点/100点 
 (お便りシリーズ№15に詳しく分析あり)

※H21 分析なし。H21のセンター古漢は例年に比べて極めて平易であり、多くの学生が高得点をとってしまったので、特に分析記事は書いていない。

※H20  40点/100点 
 (お便りシリーズ№6に詳しく分析あり)

 分析結果のある過去4年分の得点寄与率の平均値は、

 
 47.5点/100点


 わずか数ページの資料冊子からセンター100点分に対し5割弱の直接ダイレクトな得点寄与率が毎年期待できる教科など他に考えられるだろうか?




【 2012/2013冬期講習会センター国語テストOVER180!が今回のセンター古漢にどの程度得点寄与したか 】

 毎年、この講座は、第1回・第2回が現代文、第3回・第4回が古文、第5回が漢文の予想問題で構成される。第3回は「源氏物語/明石の巻」、第4回はおとぎ草子「鉢かづき」、第5回は漢文「宋名臣言行録」からの出題。すべてオリジナル予想問題。

 調査の基準は、古文については次の8項目。

(1)
心もとなし が本文中に一回でも出てきて、両義を教える機会があったか。

(2)
飽かざりし を〝別れの場面では名残惜しいと教える機会があったか。〟

(3)
いみじく が文中に一回でも出てきて、多義語を教える機会があったか。

(4)
むべなり(形容動詞)が文中に出てきて、解説できる機会があったか。

(5)
さればよ(連語)の意味・用法を教える機会があったか。

(6)
人目をつつむ の「つつむ」の意味を教える機会があったか。

(7)
かなしけれ を〝いとしい〟と教える機会があったか。

(8)
しのぶ の意を〝人目をさける〟と教える機会があったか。

 結果は、8項目においてすべてゼロ。今回のセンターの解法のカギとなるこれらの項目については、本文中のどこを探しても出てこない。(第3回に〝飽かず思さるる〟とあるが、通常の「不満に思う」の意であり、別れの場面での用法ではない。)

 一方、漢文の調査の基準は、予想問題の本文中に、今回のセンター漢文に出題された字義としての「手」「致」「悦」「省」「忽然・忽」が一回でも出てきて、解説の機会があったか、によるが、結果は同じくゼロ。
 古漢ともにヒットするものは皆無であった。

 47点分の得点寄与率があった木山方式との差は歴然。
直前にセンターの予想問題をやることの意義は、結局、
形式に慣れるということのみに尽きるのであり、本番への得点化にはほとんど寄与しないということは、木山が年来言い続けているところである。しかも時間配分や設問形式に慣れることが目的であるのならば、パック本を2冊ほど買うのがよく、金額的にもそちらの方が安くすむ(2千円)。それで全科目の予想問題にヒヤリングのCDまでついて、しかも国語の演習量はOVER180の現2、古2、漢1=5題に対し、現4、古2、漢2=8題とお得である。





【 2012/2013冬期講習会センター古文漢文が今回のセンター古漢にどの程度得点寄与したか 】

 このテキストについては、予想問題のあり方そのものに注文がある。本文が短く内容貧弱であり、王昭君の故事などの著名な作品をあつかっており、センターに出るわけがないではないかと思わせる内容。
 もちろんヒットするものは皆無。





【 2012年度一・二学期センター古文テキストの補充問題も含めた過去問全32題が今回のセンター古文にどの程度得点寄与したか 】

 時間数の関係で補充を含めた32題をすべてきっちりやれたクラスなど存在しないと思われるが、仮りにそこまで演習できたと仮定して、先に挙げた古文の8項目をチェックしてみると、以下のような結果となる。

○ 「心もとなし」が一学期の8回目の本文P39L4に出てきて、両義を教える機会がある。→今回のセンター問1(ア)の解法に寄与する。(5点)

○ 「あかぬ(飽かぬ)」が二学期第4回目のP22L4に出てきて、問題化もされており、かつ答は別れの場面としての〝名残惜しい〟が正解となっている。→問1(イ)の解法に寄与する。(5点)

○ 「いみじく」の語釈問題が二学期2回目の本文P9L2に出ており、多義語の説明の機会がある。→問1(ウ)の解法に寄与する。(5点)

 以上、年間を通したセンター古文を単元的に過去問演習した場合、年間を通して一度しか出てこない知識を、一月のセンター本番まで生かせたと仮定しても、その得点寄与率は、 
15点/50点 にすぎない。

 形容動詞の「むべなり」、連語の「さればよ」、動詞の「つつむ」、形容詞の「かなし=いとしい」などの語句は、設問のあるなしに関わらず、あれほどの分量の、全32題中のどこにも登場しない。

 木山方式であれば、右の単語は受験の10ヵ月間に、間をおきながら、おそらく100回くらいはくり返しチェックするのだが、それと比較して、単元的大問形式の積み上げ方式は、いかにも不効率である。
 




【2012年度一・二学期センター・私大漢文の補充問題も含めた過去問全27題が今回のセンター漢文にどの程度得点寄与したか】 

○ 「忽(たちまチ)」が二学期11回目P56L3に出ており、「忽ち/突然/思いがけず」の意で設問化されている。→今回のセンター問7の解法に寄与する。→(6点)
 したがって、 
6点/50点 





なぜ平均偏差知が50~60レベルの学生が、東大に60~70名以上合格者を輩出する超進学校の東大志望の学生より古典の得点率が高かったのか】

 ここでサンプルとして同一地域の教室に通う10名の高3生の得点率を比較してみたい。

一つは木山方式で教えている(つまり一年間知識の暗記を徹底的にくり返した)一般レベルの高校生(地元の国立大学または早大・MARCH志望者)のクラスであり、偏差値レベルはおおむね50~60レベル。正直、国語以外の教科にはかなり厳しい学生もいる。

 一方のクラスは、本格的な東大志望者のクラスであり、毎年東大に60~70名程度の合格者を輩出する超進学校の学生が多く存在するクラスである。(木山方式との関わりはなく、テキストの大問と単語・文法などの小テストを併用する形式で授業を受けている。年間の授業数はどちらも同じ。)

 ちなみに、ハイクラスは、センターを利用しない1名を除いた全員のデータ。東大クラスは全員ではなく、
得点上位者から順に5名を比較のために抽出した。

   
○○校 ハイクラス(高3現役生)
   
      全教科得点率   古 文    漢 文    合 計
データ(1)  88.4%      50      40      90点
データ(2)  79.9%      50      40      90点
データ(3)  私 大 型      37      46      83点
データ(4)  私 大 型      37      46      83点
データ(5)  私 大 型      42      40      82点

  
*古典の平均点→85.6点

   
○○校 東大クラス(高3現役生)

      全教科得点率   古 文   漢 文   合 計
データ(1)  93.4%      35     50     85点
データ(2)  93.1%      40     40     80点
データ(3)  87.6%      34     40     74点 
データ(4)  75.3%      24    45      69点
データ(5)  86.1%      22     46     68点

  
*古典の平均点→75.2点


 この2クラスの平均点差を調べてみると、85.6点マイナス75.2点で、
10.4点

この差はいったいどこから生じたのだろうか。

 ことわっておくが、一般クラスの学生さんはそれほどできる人たちではない。それに比べて東大クラスは、現実に東大を受験する人たちのクラスであり、たとえばデータ(1)の学生は東大の理Ⅲ志望者である。全教科の得点率もハイクラスに比べて圧倒的に高い。にも関わらず、ハイクラスの一般学生の古典の平均値が10点以上高いのは、これはやはり、一年間どのような勉強法をやってきたのか、その方法論の勝利としか考えようがない。

 このことは決して自己顕示としていうのではなく、相対的偏差値弱者が偏差値上位者を追いかけるアイテムとして、古典に関しては、このような効果的な方法論が存在することを知ってほしいからである。

 木山がこれを書いているのはセンター終了後の1月24日だが、この時期の学生たちが一様に感じている切迫感、必死な思い、ときには後悔、あせりなどの感情のほんの一端でも、これを読む読者にリアルなものとして伝わるだろうか?この時期の10点には実に重いものがある。

 ところで、ハイクラスの得点率が高得点で安定した要因としては、次の2点が挙げられる。

木山方式以外の方法論の影響をまったく受けることなく、いわば隔離された状態で素直に暗記に取り組んでくれた点。

この現役高3生のシステムとして、2012年1月からスタートしており、時間数が比較的に潤沢であり、充分に暗記の徹底を、途切れることなく継続できたこと。かつ、実践問題への応用訓練も充分にできた点。

 ①については、口(くち)コミやツイッターなどのソーシャルネットワークの影響が強いように思われる。さまざまな方法論についての情報が盛んに交換されるような現場では、――たとえば代ゼミの本科のような環境では――まっすぐに木山方式に従ってくれる学生の割合が減少する傾向がある。

 質の高い情報も、感覚印象に過ぎないような情報も、等価値なものとして学生の耳に入ってしまう。いわば、「情報の平等化」がもたらされるわけだが、そうなると、あたかも悪貨が良貨を駆逐するように「質の低い情報が良質な情報を駆逐する」といった現象が起きる。ネット上の否定的な一言で本当にクラスの大部分がいなくなったりもする。

 残念なことだが、予備校の講座も結局は消費社会における商品の一つである以上、「合理的な商品が売れるとは限らない(裏を返せば非合理な商品であっても売れる)」という命題はつねに正しいといえる。

 ②については、この現役高3生のシステムの年間カリキュラムは1月からスタートして、翌年の1月まで120分×26回(夏・冬の4回含む)で、年間合計3120時間の時間数がある。(古文漢文だけの時間数)

 これは代ゼミ本科の古典関連の講座が90分×23回(一・二学期/夏・冬は、任意に講座を選ぶので含まず)で、2070時間であるのと比べて、1050時間も時間数が多いことになる。90分1コマで計算すれば、12回弱のコマ数を余計に木山方式に費やしていることになる。この差は実に大きい。

 もちろん、代ゼミ本科の学生は、複数の古典講座を受講しているので、この時間数に限定されるものではないが、講師の配置上、木山が同じクラスを一週に2度教えることはないので、やはり木山方式に限定していえば、かなり減殺されることになる。

 率直にいえば、代ゼミ本科で1週一回のペースで古文公式と漢文公式の両方の熟達を目指す場合、終えるには終えるのだが、かなりぎりぎりといった感じがある。一方のサピックスの学生が1月からスタートして9月中旬には古漢公式の暗記がツーカーとなり(お互いに内容が理解できて、ちょっと言うだけで相手にもその内容がわかること)、その後はじっくりと実践問題の演習に費やすことができるのと比べて、かなり忙しくあわただしい。

 それでも代ゼミの学生が、最初から週に1コマしか古典講座を受けられないシステムならば、それも仕方がなく、無いものねだりなのだが、実際には古文漢文合わせれば、ほとんどの学生が3~4講座の時間数を受講しているのである。そのわざわざ消費している時間数と労力の、そのうち一つでも木山方式に切り換えてくれたら(つまりクラス移動してくれたら)と思わずにはいられない。
 木山方式の講座を週2コマ受けてくれないかと木山がよく提案するのは、またそれが不可能ならば、夏か冬の「サクセス!最強古文漢文」をぜひ受講してみないかと常々学生に懇願(?)しているのは、上記のようなサピックスとの時間数との差異を気にしているからである。





【 損益が反映されるまでに時間差がある商品の価値は、結局のところうやむやにされる 】

 木山がセンター明けの四日目に書いているこの文章など、現時点で読んでくれる学生など日本中にいるだろうか?おそらく一人もいるまい。みなセンターの得点と出願のことで頭がいっぱいで、古文漢文に費やした労力とそれに対するコストパフォーマンスの割合を分析する人など皆無であるにちがいない。センターの解法などすぐに忘れるためにあるようなものだ。

 それが合格ともなれば歓喜のあまり欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して、誰に対しても〝先生のおかげです!!〟と叫びたくなるし、不合格となれば、ふさぎ込んで、終わってしまった試験など二度と見たくもないだろう。どちらにしても買った商品に対しての客観的価値づけの判断がなされることはない。
 損益が反映されるまでに時間差がある商品の価値というものは、結局のところうやむやにされてしまうのである。

 そして4月ともなればすべてはリセットされて――ということは一年かけて得た体験知も次年度の人に継承されることもなく――ふたたび素人目線のポヒュリズム的/大衆迎合的/商品が販売促進され、新しい消費者である学生たちがそれに乗って動いていく。学生の「民意」や「消費者である(お客様)」の意向が最大限に優先される昨今の予備校業界の空気の中では、プロの矜恃(きょうじ)はゆらいでいると言わざるを得ない。

 しかし、そもそも予備校講師の矜恃(きょうじ)などということ自体、笑止千万なのかもしれない。たかが予備校講師にそんなものは無くてもよいといわれれば、確かにその通りだ。ただ、有効で役に立つものであれば、虚心に利用してほしいと思うし、虚妄な権威主義に対してはクールな分析眼を持ってほしいと切に願う。

 以前にも書いたことだが、「客観的に状況を見通した上で戦略的に行動できる人間」と「そうでない人間」という二極化が、その後の人生までも左右するという言い方は、あまりにあざとい(あまりに露骨すぎる)物言いで反感を買うかもしれないが、最終的にはそうした利害の問題として語ることで、ある程度のリアクションが期待できるのではないかと考えている。

 偏差値70~80レベルの学生が、偏差値50~60の学生に、センター古漢の平均値で10点以上の得点差をつけられたという事実は、冷静に考えてみれば、やはり注目に値するというべきだろう。

 木山方式の古漢対策は、相対的偏差値弱者が上位者を追いかける際には――根気よく休まず継続さえしてくれれば――必ず効果を発揮するものである、とくり返し主張したい。
 加えて、東大志望者も、仮に木山方式をやっていれば、今頃は古漢満点(100点!)の学生が続出していただろうと言いたい。




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