お便りシリーズ№55 

H27・2015年センター古漢だより
 

【はじめに次の問題の答を考えてみて下さい】

○ 下の文章は『源氏物語』の「少女(をとめ)」の巻において、源氏がわが子夕霧の元服に際して、その教育方針を夕霧の祖母大宮に語ったものである。これを読んで後の問いに答えよ。

 ただいま、かうあながちにしも、まだきにおひつかすまじうはべれど(
まだ

若いので早くから大人扱いする必要もないのだが
)、思ふやうはべりて、大学

の道(
大学寮)にしばし習はさむの本意により、いま二三年をいたづらの年に

思ひなして(
もう二三年は棒に振ったつもりになって)、おのづから朝廷(おほ

やけ)にも仕うまつりぬべきほどにならば、いま人と(
一人前に)なりはべりな

む。

〔中略〕

――以下、源氏は自身の生い立ちへの反省から、わが子夕霧に対しては時

勢に左右されない真の才覚を持ってもらうためにも、あえて厳しい教育方針

でのぞむつもりであることを語る。→(夕霧に対しては、そのように処遇しよう

と私は)思ひ
(ロ)たまへおきてはべる。

〔中略〕

ただ今ははかばかしからずながらも、かくてはぐくみはべらば、せまりたる大

学の衆とて、笑ひあなどる人もよにはべらじと思うたまふる。


 傍線(ロ)について「たまへ」は(1)誰の、(2)誰に対する敬意表現か。左記各項の中から最も適当なものを一つ選べ。

 1 源氏  2 夕霧  3 高き家の子  4 大宮  5 世人

                    (H7年 立教大学 経済)




 ここで、傍線(ロ)は下二段活用の謙譲の補助動詞であり、参考までに〝木山の古文公式〟54④・55①~⑥に書かれている内容を箇条書きにして並べてみると、次のようになります。

公式54
 謙譲の補助動詞 ~ます 『給ふ』(下二段)給へ/給ふる/給ふれ
 〔例文〕翁、『我かく思ひ給ふるに、~』
(翁が言うことには、「私はこのように思っていますのに、~」)

公式55
 尊敬で訳すとおかしい!自分に敬語を使ってしまう?
 主語は必ず語り手である「私」
 主として中古の会話文・手紙文に用いられる
 『思ふ』『見る』『聞く』『知る』の四語に付くことが成立の条件
 下二段である
 複合動詞の場合、間に割り込む!→思ひわづらふ→思ひ給へわづらふ
〔活用〕へ / へ / ○ / ふる / ふれ / ○

 傍線(ロ)は公式55⑥複合動詞の間に割り込む場合にあたり、本来は「思ひおく(=あらかじめ思い考えておく)」の複合動詞の間に、下二段活用の謙譲の「給ふ」が割り込んでいる形です。文脈に合わせて直訳すれば〝私(源氏)はわが子夕霧に対してそのように教育していこうと『あらかじめ思っており
ますのでございます』〟となります。

 さて問いですが、「給へ」は源氏自身の発言ですから、会話文中の敬意の方向は話し手からという原則にしたがって、当然(1)の答は1(源氏)で決まりです。

 では(2)誰に対する敬意表現となるのでしょうか?一般に謙譲語の敬意の方向は、その
行為の受け手への敬意とするのが原則ですから、「私は夕霧に対してそのように思っております」の文意からも、敬意の方向は夕霧と言うべきでしょうか?

 しかし、謙譲の「給ふ」の訳「~ます」といった丁寧語のようなニュアンスが気になります。一般に会話文中の
丁寧語の敬意の方向は話し手から聞き手となりますから、そのルールに従えば、この場面での聞き手とは、今源氏の話を聞いている祖母大宮ということになります。
 つまり源氏は祖母大宮に対して「私はそのように思っており
ますのでございます」と丁寧に言い表すことで大宮への敬意を表現したと見るべきでしょうか?

 それとも「~ます」といった謙譲の「給ふ」の訳し方そのものが、この場合にはそぐわず、ここは一般の謙譲の補助動詞(~奉る/~聞こゆ/~まゐらす)などと同様に「~申し上げる」と訳して、「私は夕霧に対してそのように思い申し上げております」とすれば、「給へ」の敬意の方向はすっきり源氏から夕霧へと解釈され、さらにすぐ下の丁寧語「はべる」が源氏から大宮への敬意となり、それで
二方面への敬意が成り立つと考えるべきでしょうか?(謙譲の「給ふ」の訳を「~ます」ではなく、「~申し上げる」とする参考書も一部存在します。これについてはあとで紹介します。)

 さて、これを読むあなたはどう考えますか?問いの答は2夕霧への敬意でしょうか、それとも4大宮への敬意でしょうか?

〈しばし閑………〉


ちょっと混乱しますね。では解説しましょう。

 そもそも尊敬の補助動詞四段活用の「給ふ」がなぜ上の動詞に付いて「~なさる/~いらっしゃる」と訳されるのかというと、起源的には「たまふ(給ふ・賜ふ)」の尊敬の本動詞の意(公56ソ⑥)「
お与えになる」の原義が補助動詞化した用法だと言われています。

 たとえば、韓流スターのヨン様が成田空港に到着して、出迎えのファンが「ヨン様~!!」と呼びかけると、ヨン様はにっこり微笑んでそのファンの方に顔を向ける。すると顔を向けられたファンは嬉しさのあまり「あぁ、ヨン様が私を
見てくださった!」などと言いますよね。この「見て下さる」にあたるのが古語の「見給ふ」(=上位者が下位者に対して「見る」という行為をお与えになる・見て下さる)です。

 上代の用法の中には尊敬の本動詞の「お与えになる・下さる」の意が、補助動詞化してもなお残っている用法もあります。たとえば「出で給ふ」などといった場合、「出るという行為を私にお与えになる」という原義を包摂した意として「出て
下さる」と訳出してもまったく違和感がありません。

 ところで、直単A動17「かづく」やB動38「頼む」の四段・下二段の使い分けの論理からも、一般の四段活用が下二段活用に転ずる場合、「上位者が下位者に~
させる」といった使役動詞になることが知られています。その理屈を補助動詞「給ふ」の四段→下二段化に置き換えてみますと、四段の原義である「上位者が下位者に対して~という行為をお与えになる・下さる」が、「上位者が(その認可のもとに)下位者に~という行為をさせて下さる」という意味になるはずで、これが下二段活用の謙譲の「給ふ」の原義的な理解になるわけです。

 たとえば、現代でも目上の人や先輩からCDを借りた場合などに、「このCDを聞かせていただきまして」などと、
上位者の許容・認可のもとでその行為を「させていただく」といった言い方をしますが、それがそのまま古語の「聞き給へて」にあたります。(接続助詞の「て」の上は連用形ですから、「給へ」が連用形ということは四段ではなく下二段であることがわかります。)
 ですから、「聞き給へて」は「私があなた様の許容のもとで(CDを)聞かせていただきまして」となるわけですが、受験の本番のような非常に早く読まなければならない状況で、これではいちいちまどろっこしいので、「私は(CDを)聞き
まして」と「~ます」と訳出するのが定番になっているわけです。

この謙譲の「給ふ」の用法は中古のかな文学では院政期までは盛んに用いられますが、それ以後の時代に入ると急に見られなくなります。基本的に対者表現(相手がすぐ目の前にいて、その対者を意識して語る表現)ですから、会話や手紙文にしか出てきませんし、上接する動詞が「思ふ・見る・聞く・知る」などに局限されるのも、上位者の許容・認可のもとで~させていただくといった状況設定に適合する行為が、その4語ぐらいしかなかったからだと考えられます。

 また、複合動詞の間に割り込むという特徴も「思ふ・見る・聞く・知る」などと一体的にフレーズ化して用いる慣行が強固に固定化したためであり、これも会話的な特徴の表れだと言えます。

 その際、たとえば「
天(あま)が下をさかさまになしても思ひたまへ寄らざりし」などの場合、訳出上は「思ひ寄る」を先に訳して、その下に「~ます」を付けるというふうに順番を変えて訳すのがコツです。
→「天下を逆さまにしたとしても(こんなことが起きるなどとは)思いも寄りませんでした」

 活用上、命令形がない理由は、「私が~させていただきます」の文意において命令形は成立しようがないからです。終止形は極めてまれですが、一応、終止形の用例はあるにはあります。しかしそれが本来の平安時代の用語としての機能を正しく反映しているかどうか疑問です。というのも下二の「給ふ」は対者表現として会話の中で生きる表現ですから、実際に耳で聞いて活用の違いを瞬時に判別できなければ相手に伝わりません。終止形で用いてしまうと、その「給ふ」が謙譲語なのか、尊敬語なのか、極めてわかりにくくなります。(純粋に文脈判断しかありません)

 テンポの速い会話文においてそのようなわかりにくい終止形の用法が本当にあったのかどうか、私には疑問に感じられます。下二の用法があることを学んだ後代の書き手が擬古文などに終止形の形で書いたものが極めて少ない用例として残ってしまったのではないでしょうか。

 入試問題に問われた場合の敬語の種類としては、「謙譲語」ととるのが正しい慣行です(妙な言い方ですが、学者の中には下二の「給ふ」を丁寧語にすべきという人もいますから、ここはあくまで〝入試上は〟という断り付きです)。しかし訳の上では「~ます/~させていただきます」と丁寧語のように訳します。いわば謙譲語と丁寧語の中間のような働きをしているわけです。

 
敬意の方向については、上に付く行為動詞(思ふ・見る・聞く・知るなど)の対象、つまりその行為の受け手が誰であるか(たとえば誰を思うのか、誰を見るのか)に関わらず、必ず話し手から会話の相手(つまり聞き手)に対する敬意となります。その点で一般の謙譲語の考え方とは異なるわけです。

 下二の「給ふ」の成立の由来からも、――つまり対者の許容・認可のもとで「~させていただく」といった原義的な理解からも、そのことは充分納得できると思います。つまり謙譲の「給ふ」の敬意の方向は丁寧語と同じであり、かつ基本会話表現ですから、話し手から聞き手への敬意となるわけです。(手紙文に置きかえればもちろん〝書き手から読み手〟です。)

*〈補注〉「~させていただく」とは謙譲というより卑下(ひげ)に近く、その敬意の対象は必ずしも明確ではない、とする学問レベルの説はなおあります。しかし謙譲の「給ふ」が出題され始めた平成以降の入試問題においては、おおむね上記のような理解のもとで作問・出題が行われているといえます。

 以上の説明から先ほどの問い(H7立教・経済)の答は、源氏から祖母大宮への敬意となります。(2)の答は4です。





 この下二段の謙譲の「給ふ」について、市販の参考書ではどのように取り扱っているのか、4月のある日、三省堂成城学園前店で調べてみました。タイトル及び目次において古文文法の項目を載せている参考書が17冊あり、調査の結果は以下のようになりました。

 『富井の古文文法を初めからていねいに』 東進ブックス1100円
 
P255第6章 敬語→謙譲の「給ふ」について木山の古文公式55①~⑤程度の解説はあるが、敬意の方向については書かれていない。

2 『夢をかなえる古典文法 皆吉のスペシャル授業』 開拓社 1200円
 
→どこにも謙譲の「給ふ」については書かれていない。

3 『でるもん古典文法』 中経出版1000円 
P73→謙譲の「給ふ」について解説されているが、敬意の方向の考え方が根本的に間違っている。

4 『古文読解565単語・文法編』 アルス工房850円
 
P228→謙譲の補助動詞「給ふ」(下二段)=「~し申し上げる」と覚えよう、と出ており、訳出の上でも敬意の方向でも、共に間違う可能性が大。

5 『基礎からもジャンプアップノート古典文法学習ドリル』 旺文社700円 
P79→1と同じ。

6 『コゴタロウの二次&私大古語・用法・文法300』 河合出版819円
 
P193→1と同じ。

7 『コゴタロウのセンター古語・用法・文法200』 河合出版819円
 
P126→1と同じ。

8 『よく出る過去問トレーニングセンター試験国語〔古文・漢文〕』 中経出版1300円 
P19敬語→2と同じ。

9 『吉野のパワーアップ古文』 東進ブックス950円→
2と同じ。

10 『古文文法565』 スタディカンパニー950円
 
P108→1と同じ。

11 『1分間古典文法180』 水王舎1400円
 
P261→1と同じ。

12 『ステップアップノート30古典文法トレーニング』 河合出版714円 
P52→1と同じ。

13 『基礎力完成ドリル古文文法』 東進ブックス700円
 
P97→1と同じ。

14 『書き込みノート古典文法』 学研990円
 
P73→1と同じ。

15 『シグマベスト高橋やさしくわかりやすい古典文法』 文英堂1100円 
P79→1と同じ。

16 『まる覚え古文文法ノート』 中経出版800円
 
P69上段→知覚動詞の主語が会話主自身であることと、「語り手」→「聞き手」への敬意が原則である、と書かれている。

17 『センター試験のツボ 古文・漢文』 桐原書店1300円
 
P83→敬意の方向は「聞き手」へ、と書かれている。

 以上、敬意の方向について正しく解説されているものは、
17冊中2冊。考え方が間違っているか、誤答に誘導しそうな解説となっているものが17冊中2冊。そもそも謙譲の「給ふ」について一切ふれていないものが17冊中3冊。木山の古文公式55①~⑤程度の解説を載せているが、敬意の方向及び⑥のポイントにふれていないもの17冊中の10冊。という結果になりました。

 参考書4において、謙譲の補助動詞の訳を「~申し上げる」と覚えてしまうと、先の説明のとおり平成7年立教・経済の(2)の答は「夕霧」となってしまいます。したがって「~申し上げる」という訳し方は、下二の「給ふ」の敬意の方向を誤らせる可能性が大です。

 参考書3の当該部分の例題・解説は次のとおりです。

○(源氏物語の一節であり、老いて病いに伏す乳母を光源氏が見舞う場面)

 尼君も起き上がりて、「惜しげなき身なれど、捨てがたく思ひ
給へつるこ

とは、~」など(源氏に)きこえて、弱げに泣く。

 
P77(解説)→傍線部aの「給へ」は、……下二段動詞だね。ということはこれは〔謙譲語〕だ。ここは乳母の〝会話文〟なので、「乳母が源氏を思う」んでしょ。つまり〔敬意の対象〕は〔源氏〕だ。

    

 まず、正しい文意は(乳母が)『年老いた我が身をいつ死んでも惜しくないと思いながらも、それでもなお
我が命を捨てがたく思って、こうして生きながらえておりますことは~』と言っているのであって、「思ひ」の対象は語り手としての乳母自身――もっと正確にいえば乳母自身の命です。そもそも乳母の立場で源氏を捨てるという表現を用いること自体、あまりに非礼であり、そのような解釈は成り立ち得ません。

 また、この解説者は下二の「給ふ」の敬意の方向を、一般の謙譲語と同じく〝行為の対象者(その行為の受け手)〟と考えているようで、それが「
乳母が源氏を思うんでしょ」という一文に表れていますが、これは考え方としては根本的に間違っていると思います。
 傍線部aの敬意の方向が乳母から源氏となるのは、謙譲語の「給ふ」の敬意の方向が話し手から聞き手になるという、その原則に従っているからです。

 それにしても、正しく解説した参考書が17冊中2冊しか存在しないという事実は、いかにも頼りなく感じます。私に言わせれば、謙譲の「給ふ」を教える際の最も注意を要すべき点は、この敬意の方向についての独特の考え方です。

 なぜならば、便宜的にせよ、名目上は謙譲語に分類されている以上、敬意の方向もまた一般の謙譲語と同じではないのか、つまり行為の対象者(行為の受け手)への敬意となるのではないか、という誤解を生じやすいからです。

 また、正しい解説を載せている16・17の参考書についても、受験の効果という点ではやはり不充分ではないかという感じを持ちます。というのも、正しい解説の一文は数百ページ中のほんの1行、小さな活字で載せられているに過ぎません。これで本当に学生は謙譲の「給ふ」の敬意の方向を正しく答えられるようになるのでしょうか?

 木山方式では参考資料№2『文法チェックリスト』の一問一答の中に〝謙譲の「給ふ」の敬意の方向は誰から誰?〟という問いがあり、必ずこの問いに対し「話し手から聞き手への敬意」と一人一人当てて答えてもらう練習を
くり返しています。

 昨年、私が教えたYサピックスの現役生たちは、それぞれ東大・京大・国立医学部等に合格していった比較的優秀な高3生たちでしたが、それでも間(ま)をおきながら、この謙譲の「給ふ」の敬意の方向を尋ねると「話し手から行為の受け手」などと一般の謙譲語と混同してしまうことが度々ありました。

 やはり年間で間(ま)をおきながら、重要なものについては20回~25回程度のくり返しの暗記チェックがなければ、すべてを正確に網羅して覚えることができないというのが私の実感です。

 市販の参考書に1000円~1300円程度のお金を費やすのならば、82円の切手代で私の古漢公式と参考資料のすべてを入手するほうが得策ではないでしょうか。この№2『文法チェックリスト一問一答』については、五月中にホームページ上に音声解説を載せるつもりです。公式資料さえ入手できればあとはネット上でくり返し練習できるようになります。わずかB4サイズ二枚半の薄っぺらいプリント資料ですが、入試における効果のほどは市販の数百ページの参考書にも優るというのは上に証明したとおりです。


 ところで、2015年のセンター古文には、この下二段の「給ふ」の敬意の方向が出題されました。これは共通一次・センター入試の歴史を通して初めてのことです。私大の入試問題を先蹤(せんしょう)として次第に国立大でも出題されるようになり、理解と認識が一般化してきたことを受けて、(学問レベルでは異説があるものの)センター試験に出題しても差し支えなしという判断がなされたのではないかと思います。






【 古文漢文全文訳 】

 出典の本文は鎌倉時代物語集成第六巻『夢のかよひ路物語』六(P223)をほぼそのまま利用しており、これは底本の訳刻のみなので、通釈としての逐語訳や補注・解説等は存在しません。



 『夢のかよひ路物語』の一節。




〔リード文〕
 男君と女君は、人目を忍んで逢う仲であった。やがて、女君は男君の子を身ごもったが、帝に召されて女御となり、男児を出産した。生まれた子は皇子(本文では「御子」)として披露され、女君は秘密を抱えておののきつつも、男君のことを思い続けている。その子を自分の子と確信する男君は人知れず苦悩しながら宮仕えし、二人の仲介役である清さだと右近も心を痛めている。
以下の文章はそれに続くものである。

○〈男君も女君も〉お互いに相手を恋しくお思いになるご様子であるけれども、

夢の中でなくては通うことのできる身の上ではないので、現実に逢える期待

も絶えてしまう、そのつらさばかりを思いつづけなさり、大空ばかりを眺めて

はもの心細く思い続けなさっていた。男君の心にはまして恨めしく、
(ア)あぢ

きなき
B形4あぢきなし→つまらない・どうしようもない)嘆きに添えて、生

まれた御子(みこ)のご様子にもたいそう気後れされて(
つつましB動42*→

遠慮する・気後れする)、鏡に映った男君自身の顔も御子の顔にそっくりなの

で、いよいよ「真実を
(イ)あきらめてしがな(~てしがな公37③~たい)」と思

い続けなさるけれど、以前のように相談相手となる女君の侍女の右近までも

男君に手紙を差し上げてこないので、男君は「人聞きも悪く、今さら関わって

私のことを愚かな者と思い惑われるのではないか」と自然と右近に対しても

心隔て(
心を置くB形22*=心隔て)されて、男君の従者である清さだにさえ

うちとけて心中をお語りになることもなく、ますます深い物思いをなさっていた。

 一方、こちらの女君におかれましても(
公42④*~におかれましても)、お

心の中に絶えず思い嘆きなさるけれど、どうして(生まれた子が帝の子ではな

く男君の子であるという秘密を)漏らしなさることがあろうか。女君が帝の寝

所に度々召され、自然と帝の御前にいることが多く、
(ウ)御こころざしのにな

きさまになりまさるも
A名22心ざし愛情B形45*二無しこの上もな

)帝の御愛情この上もないさまになっていくのを、たいそうつらく恐ろ

しく人知れず悩ましくお思いになって、少しの間、御局(みつぼね)にお下がり

になった。あたりに人も少なくしんみりと物思いにふけっていらっしゃる夕暮

れに、侍女の右近が女君のお側近くに参上して、女君の髪をくしけずり申し

上げる、そのついでに、男君のことをほのかに申し上げる。

 (右近)「この頃見申し上げましたときに、男君のご両親が思いわずらってい

ららっしゃるさまも
もっともなことでございます(漢単A26むべなりもっともな

ことである)
。本当に痩せておしまいになって、この上なくお顔の色も真っ青

に見申し上げました。男君の従者の清さだも久しく(女君との仲介を)うち怠っ

ておりましたので、男君はどのようにあなた様への思いを諦めなさったので

あろうかと、この数日来、私も気がかりで恐ろしく思われておりましたのに、

やはりこらえかねなさったのでありましょうか、昨日(清さだから)手紙をよこし

て来た中に、このような文章がございました。『本当に男君が悩みなさること

は、日数を経てどうしようもないほどで、見申し上げるのも気の毒で……。

東宮が男君をたいそう親しくお側近くにお仕えさせなさるので、これまでは自

邸に籠もっておしまいになることもなかったのを、近頃は引き続いて東宮のも

とに参上なさることもおできにならず、一層悩みを深くしていらっしゃいます。

』と書いてございました。」

と言って、男君からのお手紙も取り出したけれど、女君はかえってつらく、そ

ら恐ろしい気持ちがして、

「どうしてこのような手紙を書いてくるのでしょうか。」

と言ってお泣きになる。

(右近)「この度は最後のお手紙でございましょう。それをご覧にならないとし

たら(公式9ご覧ぜざらむは=~としたら 仮定)、罪深いこととあちらはお思

いになるでしょう。」

と、うち泣きて、

「昔のままの(お二人の)ご様子であったならば、このように互いに(思わくが

)食い違ったり、苦しいお気持ちが添うことなどあるはずがありましょうか」

と、忍びやかに申し上げるので、
いとど恥づかしう、げに悲しくて(C副2

いとど
ますますC副8げに直前に述べられたことを受けて なるほ

ど・本当に
)女君はますます恥ずかしく、なるほど本当に悲しくて(つまり直前

の右近の発言を受けてなるほど本当にそのとおりだと思い悲しくなって)、男

君の手紙を振り捨てることもなくご覧になる。(その手紙には)

Aさりともと頼めし甲斐もなきあとに世のつねならぬながめだにせよ

歌意=「そうはいってもと
あてにさせていた(頼めし=B動39②頼む・下二段

頼みに思わせる・あてにさせる)ことも甲斐がなくなってしまった、その後に

は世の常ならぬ物思いだけでもして下さい。(せめてそうやって私のことを思

って下さい)

あなたを帝の女御として「雲居のよそに」見申し上げた「さるものの音(ね)

調(しら)べし夕べ」(補注=男君はかつて帝と女君の御前で御簾を隔てて笛

を披露したことがあった)より、心地も乱れ、悩ましく「思ひ
たまへしに」→思っ

ており
ましたので(公式55④・56謙譲の「給ふ」~ます/敬意の方向は話

し手から聞き手)、ほどなく私の魂がこのつらい身を捨ててあなたのあたりに

迷い出たならば、私の魂を結び止めて下さいよ。惜しくもない私の命もまだ絶

え果てておりませんので」

などと、しみじみと物悲しく、いつもよりますます見どころのある達筆で興に

まかせて書いていらっしゃるのをご覧になるにつけても、女君は過去も将来

もみな心を暗くするものに思われて、袖を涙でたいそう濡らしなさる。うち伏し

て泣いていらっしゃるのを、見申し上げるのも気の毒で(ここは右近の心情)、

『女君はどのような前世の因縁でこのようであるあろうか』と右近は思い嘆い

ているようだ。

(右近)「人目のないうちに、さぁ御返事を」

と申し上げると、女君はお心も慌しく、

B思はずも隔てしほどを嘆きてはもろともにこそ消えもはてなめ

歌意=「思いがけずこうして隔たってしまった二人の
距離(A名50 ②ほど

距離
)を嘆いては、きっと私もあなたと一緒に消え果てしまうことでしょう(公式
5日の丸①
きっと~だろう)。

遅るべうは」(
A動10おくる死に遅れるべう→べく 公10当然~はず

/「遅るべくやはあらむ」(公31反語)と同義と考えて→あなたが死ぬとき

には私も
死に遅れるはずがありましょうか、いやありません。

とばかりお書きになっても、それを引き結ぶこともおできにならず、深く思い

惑って泣き入りなさる。「このように
言葉少なく(C形動11*言(こと)→言葉)、

一節(ひとふし)の文章ともいえないけれども、(この手紙を見る男君は)たいそ

うしみじみといとおしく気の毒なことだとご覧になることであろう」と、
方々

(かたがた)思ひやるにも、悲しう見奉りぬ
(男君と女君のそれぞれのお立

場を思いやるにつけても、右近は悲しく見申上げた)。



問1 傍線部(ア)~(ウ)の解釈として最も適当なものを次の各群から選べ。(15点)

(ア)あぢきなき嘆き

 ①頼りない仲介役二人への落胆

 ②御子に対する限りない憐(あわれ)み

 ③帝に対する押さえがたい憎しみ

 ④女君へのどうにもならない恋の苦悩

 ⑤ふがいない自分へのいらだち

*「あぢきなし」(B形4→つまらない・
どうしようもない)の訳及び文脈の整合性から④で決まり。

(イ)あきらめてしがな

 ①宮仕えを辞めてしまいたい

 ②真実をはっきりさせたい

 ③思いを断ち切りたい

 ④胸の内を聞いてほしい
 
 ⑤私のことを忘れてほしい

*「~てしがな」の訳は公式37③「~たい」であり、公式37①未然形+「なむ」(~してほしい)ではないから、④・⑤は落とす。①・②・③のうちで直前の「いよいよこの真実を~」につながるのは②しかない。

(ウ)御こころざしのになきさまになりまさる

 ①帝のご愛情がこの上なく深くなっていく
 
 ②帝のご寵愛(ちょうあい)がいっそう分不相応になっていく

 ③帝のお気持ちがいよいよ負担になっていく

 ④帝のお気遣いがますます細やかになっていく

 ⑤帝のお疑いが今まで以上に強くなっていく

*「心ざし」(A名22→男女の愛情)・「二無し」(B形45*→この上ない)の意味から答は①で決まり。②の「ご寵愛」はA名11「おぼえ(覚え)」であり、「分不相応」はB形26「おほけなし」となるはずなので②を排除できる。


問2波線部a~cの敬語の説明の組み合せとして正しいものを一つ選べ。(5点)

○(右近が女君に)「この程見奉りしに、御方々思しわづらふもむべに
侍り。」

【丁寧語なので話し手から聞き手への敬意、つまり右近から女君への敬意を表す丁寧語】

○(清さだから右近への手紙文)「東宮のいちかなしうまつはさせ給へば、(男

君は)とけても籠らせ
給はぬを、」

【尊敬語はその行為の主体への敬意、つまり清さだから男君への敬意を表す尊敬語】

○(男君から女君への手紙文)「(あなたを)雲居のよそに見奉り、さるものの

音(ね)調べし夕べより、心地も乱れ、悩ましう思ひ
給へしに、」

【下二段の謙譲の「給ふ」の敬意の方向は、手紙文の場合は書き手から読み手への敬意、つまり男君から女君への敬意を表す謙譲語】

 ここで一般の謙譲語のように行為の受け手への敬意、つまり「女君のこと悩ましく思う」のであるから女君への敬意となるという判断ではない点に注意して下さい。謙譲の「給ふ」の敬意の方向の考え方は一般の謙譲語とは異なります。
 しかもこの文脈は思うにまかせぬ恋のなりゆきそのものを悩ましく思っているのであって、女君そのものを悩ましく思っているわけではありません。


問3 傍線部X「いとど恥づかしう、げに悲しくて」とあるが、このときの女君の心情の説明として適当なものを選べ。(7点)

 
C副8げに(実に)」を暗記する際には、「(直前に述べられたことを受けて)なるほど・本当に」と肯定的に納得・同意するニュアンスの副詞である点を強調しています。直前の右近の発言「このたびは最後のお手紙でございましょう。これをご覧にならないとしたら、罪深いこととあちらはお思いになるでしょう/昔のままの(お二人の)ご様子であったならば、このように互いに(おもわくが)食い違ったり、苦しいお気持ちが添うことなどあるはずがありましょうか」を受けて、女君が「げに」とうなづいている場面ですから、その右近の発言を正しく汲み取って表現しているものが正解です。正解は③。

 ③ 
右近に、男君からの手紙を見ないのは罪作りなことだと諭されて恥ずかしくなり、また、昔の間柄であったら二人とも苦しまなかっただろうと言われて、悲しく感じている。

「げに」の働きから右近の発言を受けるというポイントを知っていれば、これ以外には迷う選択肢はありません。


問4 本文中の手紙A(男君の手紙)、手紙B(女君の手紙)の内容の説明として最も適当なものを選べ。

 Aの男君の手紙は和歌で始まっており、その上句「さりともと頼めし甲斐もなきあとに」の「頼め」は
直単B動38②の下二段の用法であり、ここが着眼点の一つです。(「し」は過去の助動詞「き」の連体形/その「き」は連用形接続ですから、連用形が「頼め」の形になるのは下二段の連用形しかありません。四段であれば「頼みし」となるはずです。)
→直訳は「そうはいってもとあなたをあてにさせた/頼みに思わせた/期待させたことも甲斐がなくなってしまい」と読めますが、ここで恋愛関係にある男女において、男君が女君を〝期待させる〟とは具体的にはどういうことでしょうか?

  


 『梁塵秘抄』という今様(いまやう)集の中に次のような歌謡があります。

 我を頼めて来ぬ男
 角三つ生いたる鬼となれ

 後朝(きぬぎぬ)の別れにおいて男が女に期待させる睦言(むつごと)の中で、一番多いのはやはり再会の約束です。大きくいえば、男の側の愛の不変・変らぬ愛の誓いということになりますが、観念的なものというよりも、実際に男が女のもとを次に訪れるかどうかが、一夫多妻制と通い婚制度にさらされた女の側にはより切実な問題であったようで、男は何かとひたすら後の逢瀬(
D基2→男女が密かに逢う機会)を確約しては、女の側の不安の払拭に努めるというのが常です。

 ですから、「のちの逢瀬を頼めて」などというフレーズを見たら、かつそれが男女関係上の一文であれば、男君が暁の別れに涙する女君の肩を抱きしめて「大丈夫だよ、僕は君のことを忘れたりしないからね。必ず次の逢瀬の機会をつくるからね。心配しないで待っていてくれ。愛しているからね。」などと言って、〝頼みに思わせている〟場面を想像してみて下さい。

 さらに上句の「頼めし甲斐もなきあとに」の「
なき」が「甲斐も無き」と「(私の)亡き跡」の掛詞になっており(公式64・○43参照)、これが直後の「ほどなく魂の憂き身を捨てて、君があたり迷ひ出でなば、結びとめ給へかし」という記述とつながっているわけです。
 なぜ魂を結びとめるという表現が出てくるのかといえば、公64・○58「
玉の緒=命」の発想があるからです。

 これに対するB(女君の手紙)の冒頭の返歌は「思はずも隔てしほどを嘆きてはもろともにこそ消えもはてなめ」ですが、「隔てしほど」の「ほど」を距離の程度(
A名50②)と考えれば、思いがけずこうして隔たった二人の距離を嘆いては→「もろともに」(あなたと一緒に私も)きっと消え果ててしまうことでしょう、と読めます。

 末尾の「なめ」は公5強意の用例の「なむ」の「む」が「こそ」の結びとして「め」に転じたもので、訳出上は公式5日の丸①「きっと~だろう」をあてます。

 男君の歌の上句の「亡き跡に」を受けた上で女君の返歌→(私も一緒に)「消えも果てなめ」ですから、もちろんここは女君も死んでしまうことを暗示しているわけです。それが直後の「遅るべうは」という言い差しにもつながります。直単
A動9「おくる」は「死に遅れる」、「べう」は「べく」で公式10当然の意「~はず」と訳せますから、この言い差しの直訳は→「私も死に遅れるはずは……」となるわけですが、文脈からしても、その言外に「死に遅れるはずはない/~はずがあろうか」などと打消しや反語の気分が含まれていることは明白だと思います。

 仮に便宜上、反語とみれば公式31の「やは・かは」は「反語」の知識から「遅るべうやは」などと仮定して読めば、女君の言わんとする心情は伝わります。正解は③。

 ③ 
男君は、私は逢瀬の期待もむなしく死ぬだろうが、それまでに魂がこの身から離れてあなたのもとにさまよい出たときは引き留めてほしい、と言っている。それに対して、女君は、心ならずも離ればなれになってしまったことが悲しく、あなたが死んだら私も死に遅れはしない、と応えている。

 「逢瀬の期待もむなしく」の部分がA和歌中の「頼めし甲斐も無き」にあたり、「亡き跡に」が「死ぬ」ことの暗示となり、女君の言い差し「遅るべうは」が「私も死に遅れはしない」にあたります。

 消去法というよりも、正しい理解があれば③以外の選択肢はまったく考えられないといった感じの問題でした。


問6 この文章の内容の説明として最も適当なものを一つ選べ。(7点)

男君は、女君のことを恋しく思い続けているが、未練がましく言い寄っても女君が不快に思うのではと恐れて、誰にも本心を打ち明けられず、悩みを深めていた。

女君は、男君の手紙を見せられて恐ろしく感じ、手紙を取り次いだ右近を前に当惑して泣いたが、無視もできずに手紙を読んだところ、絶望的な気持ちになった。

 センター後の学生の聞き取りによれば、右の選択肢①と⑤で迷った人が多かったようです。他の選択肢は全文訳が八割がた正確に理解されていれば、簡単に落とすことのできる誤りを含んでいました。

 選択肢①を支持する文中の該当箇所は〝「
人わろく、今さらかかづらひ、をこなるものに思ひまどはれむか」と(男君は)心置かれて、清さだにだにも御心とけてものたまはず、いとどしき御物思ひをぞし給ひける〟にあたります。

 一方の選択肢⑤の該当箇所は〝
(男君からの)御消息取う出たれど、~、そら恐ろしきに、(右近が)~と忍びても聞こゆれば、(女君は)いとど恥づかしう、げに悲しくて、振り捨てやらで御覧ず。→女君のBの返歌→遅るべうは」とばかり、書かせ給ひても、~、深く思し惑ひて泣き入り給ふ〟などにあたります。

 この二つの選択肢の該当箇所を見るかぎり、どちらも直訳ではない意訳としての説明としては妥当なものに見えないでしょうか?一体①と⑤のどの部分に焦点を当てて、コレコレコウダカラコチラハ不適当であると消去することが可能なのでしょうか。

 少しの間、自分なりに考えてみて下さい。

〈しばし閑……〉

 では解説しましょう。

 木山方式に習熟した学生なら選択肢①の「女君が不快に思うのではと恐れて」の「恐れて」という表現が本文中の「心置かれて」の正しい意からずれている点で許容されないと感じるはずです。「
心置く」はB形21*→「心隔てをする」の意ですが、「れ」の自発の意まで加味すれば〝(男君は)自然と心隔てをして〟となり、これを「恐れて」と意訳することはできません。

 「心隔てをする」とは相手との間に心の壁を作って、自己の内面をオープンにしない態度を言います。たとえば、今年57歳になる木山が18歳の高校生に向かって「何でも悩み事があれば私に相談しなさい」と言ったとしても、ほとんどの学生は私に対して自然と「
心隔て」をしてしまうのではないでしょうか。どうしてもそうせざるを得ない状況では適当なお悩み相談を演じて、適当なアドバイスを得て、それで終わりではないでしょうか。

 つまり「心隔て」とは何か心にバリアーを張っているような状態で、自己の内面の本心を相手にオープンにしない態度というわけですが、それが文脈上の状況設定に応じて、たとえば「
相手に遠慮して」とか「相手との間に距離をおいて」とか「相手に気を遣って」とか「相手に気兼ねして」とか「うちとけず相手に心許すこともなく」などといろいろなニュアンスで使われるわけですが、どの場合でも訳上は「心隔てをなさって」などと現代語訳されることが多いようです。

 この「心置く」の正しいニュアンスを理解していれば、決して男君は女君の思わくを「恐れて」いるわけではないことがわかると思います。男君はむしろ自ら気兼ねして本心を誰にも打ち明けないでいる、というのが正しい読み取りです。また、「をこなるものに」の「をこ」はA名56→「ばかだ・愚かだ」の意ですから、正しくは「女君が(私のことを)愚かなものと思うのでは」となるべきであり、「女君が(私のことを)不快に思う」という表現は、やはり微妙にずれていると言えます。もしそうであれば、原文は「むつかしき(C形71)ものに思ひまどはれむか」などとなるはずです。

 以上の理由で選択肢①をはっきり落とすことができれば、⑤の末尾の「絶望的な気持ちになった」は、女君の手紙の末尾「遅るべうは」や直後の「深く思し惑ひて泣き入り給ふ」などから充分許容されるという判断に至ると思います。
 答えは⑤です。

 以上、古文問題に木山方式の直接ダイレクトな得点寄与率は、問1(ア)(ウ)・問2・問3・問4・問6の


【50点中38点!】

となります。




〈 漢文 〉

 程敏政『篁墩文集』による。




○ある家に老いた一匹の猫を養っていた。その猫に今にも子が生まれようと

する。一人の女の童(めのわらわ)が誤ってこの猫に触れ、それが原因で猫

は堕胎してしまった(子猫は死んでしまった)。親猫は一日中嘆き悲しんで鳴

く。たまたまその家に二匹の子猫を贈る者がいた。はじめ子猫たちは子を亡

くした親猫に無関心であり、互いによく交じらわなかった。親猫の方は子猫に

従ってうろうろしたり足踏みしたり落ち着かない様子である。子猫が横になっ

て眠れば、これを抱きかかえ、子猫がどこかへ行けば、これを助ける。その

産毛(うぶげ)を舐めて子猫に食べ物を譲る。二匹の子猫もまたしばらくするう

ちに互いの(隔たりを)忘れていった。だんだんとその親猫にくっついて、

とうとうその親猫の乳を受け入れた。これより子猫たちは喜んでまことに自分

の母猫だと思い、親猫の方もまた安らかな様子で、まことに自分が生んだ子

猫だと思うようになった。ああ、なんとすばらしいことか。(
漢単A46異(こと)ナ

普通とは異なって優れている)


 昔、漢の第二代明帝(顕宗)の皇后に子供がなかった。そこで明帝(顕宗)は

他の后の子供を引き取って、皇后に養育を託した。明帝が言うことには、「人

の子というものは必ずしも自分で生んだかどうかが大事なのではない。ただ

愛情が至らないことを恨むだけだ」と。皇后はついに心を尽くして撫で慈しみ、

そうしてその子(後の第三代章帝)もまた養母に対する愛情が自然に備わっ

ていった。母の慈(いつく)しみと子の孝行の心は終始わずかな隔たりさえな

かった。

 さきの猫の話は、たまたまちょうど(
漢単C15適たまたま)この故事に一

致するところがある(
漢単D33適かなフ適合する・一致する)。そうであ

れば、世の中の親となり、子となるもので、子を慈しまず、親に不孝であるも

のは、どうしてただ古人(いにしえびと)に対して恥じるだけであろうか(いや、

そうではない)。人とは異類の猫に対してさえも恥じるべきなのだ(
漢単C

46愧
はヅ恥じる)。


問1 「(先の猫の話は)(2) 契(かな) 焉 」の「適」の意味を選べ。

(2) ① ゆくゆく
   ② わずかに
   ③ ちょうど
   ④ ほとんど
   ⑤ かならず

 
漢単C16「適」(たまたま)→たまたま・ちょうど・偶然。答は③。「契(かな)フ」はD33②「適(かな)フ」と同義であり、「一致する・適合する」の意。つまりその猫の話はなるほどちょうど章帝の故事に一致している、といっているわけです。

問2 「 子 矣 」→(まさにこをうまんとす)の(ア)「将」/「 レ是 欣 然 」→(これよりきんぜんとして)の(イ)「自」と同じ読み方をするものを選べ。(4点×2)

(ア)「将」 ① 当  ② 蓋  ③ 応  ④ 且  ⑤ 須

(イ)「自」 ① 如  ② 以  ③ 毎  ④ 従  ⑤ 雖

 答はそれぞれ④・④。(漢文公式7再読文字④、公式4⑥起点の「自(よ)リ」自・由・従)

問3 「但 愛 之 不 ルヲ一レ (c) 」・「適 有 レ 契(なか) (d) 」・「亦 愧(は) ヅル 異 類 (e) 」の(c)・(d)・(e)の説明として適当なものを選べ。

〈(a)・(b)は簡単に判断できるので省略しました。〉

④ (c)「耳」は「のみ」と読み、限定の意味を添え、(d)「焉」は文末の置き字で、断定の意味を添える。
⑤(d)「焉」は文末の置き字で、意志の意味を添え、(e)「已」は「のみ」と読み、限定の意味を添える。

 答は④。
漢文公式17B①→「耳・已・爾」は限定・強調の句形においては、文末に置かれて「のみ」と読む終尾詞となります。
「焉」については木山の漢単D46で三つの用例を紹介しています。
〔1〕文構造の文頭にあれば「
いづクニカ」(どこに)、「いづクンゾ」(どうして)と疑問副詞に読む。
〔2〕文末に置かれてすぐ上の述部動詞にレ点で上がる場合は「
これヲ・これニ・ここニ・これヨリ」などと読む。
〔3〕文末を表す置き字として読まない。
この三つの用法で考えるというのが木山方式のやり方ですから、選択肢⑤の〝「焉」は~意志の意味を添え〟という部分が不適当であることがわかります。「焉」に意志の意を添える働きはありません。選択肢④の ”「焉」は~断定の意を添える” の部分は、辞書を見てもそのように説明するものは見当たりませんが、とにかく文末に置かれるわけですから、言い切れる形になるはずで、この文脈の場合、断定の意を添えるといって良いと思います。



問5 傍線部B「人 子 何 必 親 生 」の解釈として適当なものを選べ。

① 子というものは、いつまでも親元にいるべきではない。

② 子というものは、必ずしも親の思い通りにはならない。

③ 子というものは、どうして育ててゆけば良いのか。

④ 子というものは、自分で生んだかどうかが大事なのではない。

⑤ 子というものは、いつまでも親の気を引きたいものだ。

 
漢単D20「親 みずかラ」(自分から・自分で)をチェックする際には、書き下し問題で『親』が出題された場合、「親(おや)」でも「親(した)シム」でもないことが圧倒的に多い!ことを再三くり返しています。

 正しい書き下しは〝人の子何ぞ必ずしも親(みずか)ら生まん(や)〟となりますが、仮に正確な読みが分からなかったとしても、選択肢上で「自分から・自分で」となっているものは④しかありません。

 また、漢文公式4⑨の左枠外側に「何 ズシモマン
富 貴 哉 」とあるように、反語の構文による打消しの中に「必」が入る場合は、部分否定の「かならズシモ」という読み方をするのがルールであり、この点でも④の訳出に合致します。

問6 傍線部C「 世 之 為 人 親 与 一レ 子、而 有 不 慈 不 孝 者 、豈 独 愧 于 古 人 」の書き下し文として適当なものを選べ。

① 世の人親(じんしん)と子との為にして、不慈不孝なる者有るは、豈に独り古人のみを愧(は)づかしめんや

④ 世の人親と子との為にするも、不慈不孝なる者有るは、豈に独り古人のみを愧づかしめんや

⑤ 世の人親と子と為りて、不慈不孝なる者有るは、豈に独り古人に愧づるのみならんや

 「与」の前後に等質の用語が並列する場合の読み方は
公式4⑤に示されています。ここでは「与」の前後が「親」と「子」となっていますから、単に「与」を下から返読して「と」と読むだけではなく、並列の用法とみて「A ト 与(と) レ B 」のように、「と」を二回くり返して読んでいるものを選びます。それが選択肢の①・④・⑤です。

 ①と④は「~の為に」(公9A)と読んで、さらにそこをサ変動詞化して「為にして」、「為にするも」とそれぞれ順接・逆接(公10②AB)に読んでいます。一方⑤は「~と為(な)りて」と四段動詞の「為る」の連用形で読んでいます。(公9E)

 さらに①・④の末尾は「愧(は)づかしめんや」と送りに使役の助動詞の「シメ」を送っていますが、木山方式の考え方ではすでにこれだけでも①・④は落とすべき選択肢ではないかと思います。なぜなら使役の「シム」を読む場合というのは、
公19A「使・教・令・遣・俾」などの使役の助字が文中に存在している場合か、または公19B「命(めい)ジテ・説(と)キテ・遣(つか)ハシテ・教(おし)ヘテ・召(め)シテ・挙(あ)ゲテ・呼(よ)ビテ・詔(みことのり)シテ――シム」のように、上に使役暗示動詞がある場合、下の述部の送りに送りとして「シム」を付ける、この2パターンで考えるのがセンター漢文のセオリーであると考えるからです。

 もちろん使役の用法の中には右の2パターン以外に「文脈から判断して使役に読む」(つまり文脈から判断して送りに「シム」を付ける)場合がありますが、これまでセンター漢文の書き下し問題にそのような問題が出題されたことは一度もありません。センター漢文の対応であれば、必ず先の2パターンのいずれかと見てよいと私は思います。
 さらに言えば、旧帝大系の国立二次漢文においても、文脈判断のみで使役読みの要請が出題される例は極めて僅少だと思います。

 以上のことから問6の答は⑤です。後半部分の「豈 独 愧 于 古 人」の読み「豈に独り古人に愧づる
のみならんや」は昨年2015年度の漢文公式17A②の例文「 何 独 丘 也 」(なんぞひとりきゅうのみならんや)と基本的に同形であり、送りの「~のみならんや」の読み方が適当であることがわかります。

 以上、木山方式の得点寄与率は、問1(2)=4点、問2=8点、問3=8点、問5=7点の


【50点中31点!】

となり、古漢の合計では、


【100点中69点!】


となります。

 ちなみに、過去5年分のセンター古漢の得点寄与率は、

※H26 (昨年)  54点/100点  

※H25 (一昨年)  47点/100点  

※H24   60点/100点  

※H23   43点/100点  

※H21   40点/100点  


ホームページ上に分析記事を載せているこれらの得点寄与率にH27年の結果を加味すれば、その平均値は、


【100点中52.2点!】

となります。






№1【医学部専門予備校において約9ヶ月間 木山方式の古漢の授業を受けた浪人生4名の結果】



    古 文   漢 文  現代文 センター
   国語
   全体得点率
     50   28   89    167  766/900 
    85%
  B   33   43   96    172  814/900 
  
90.4%
  C   43  42   93    178  841/900 
  
93.4%
  D   21   27   61    109  690/900 
    
77%
  平均  36.8
  35  84.8
  156.5
  

*B→公立・医学   *C→公立・医学  合格!


№2【医学部専門予備校のその他のセンター受験者の7名の結果】



   古 文  漢 文  現代文 センター
  国語
     全体得点率
  E   29  19   79   127  668/900
      
74%
  F   16  28   86   130       不 明
  G   38  38   74   150       不 明    
  H    5  28   84   117       不 明
  I   28 45   82   155       不 明
  J   21  23   83   127       不 明
  K   24  37   54   115       不 明
 平均   23  31.1
 77.4
  131.6
 



№3【同一地域の教室において約1年間木山方式の現古漢の授業を受けた現役高校生7名の結果】


   古 文   漢 文  現代文  センター
  国語
   全体得点率
 データ 1   29  45  93   167  801/900 
    
89%
 データ
 2
  34  43  79   156  747/900 
    
83%
 データ
  3
  45  36  77   158  744/900  
  
82.7%
 データ
  4
  不明   不明   不明   148  745/900 
  
82.8%
 データ
  5
  不明   不明   不明   181 738/900 
    
82% 
 データ
  6
  不明   不明   不明   167  410/500 
    
82%
 データ
  7
  23  33  88   144  533/800  
    
67%
平均          160.1
 

*データ1→京都大   *データ2→国立・医学
*データ3→国立・医学 *データ4→東京大
*データ5→慶応大   *データ6→上智大    合格

№4【同一地域の教室におけるその他のセンター受験現役高校生7名の結果】


   古 文   漢 文  現代文  センター
   国語
   全体得点率
 データ 1   38  50  71   159  590/700 
   
84.3%
 データ
 2
  45  34  67   146  659/900 
   
73.3%
 データ
  3
  17  36  78   121  723/950  
   
76.1%
 データ
  4
  40  50  82   172  714/900 
   
79.4%
 データ
  5
  38  34  93   165 694/950 
   
73.1% 
 データ
  6
  不明   不明  85   153  720/900 
     
80%
 データ
  7
  不明   不明   不明   150  686/900  
   
76.2%
平均          152.2
 



 図表№1と2の平均点の得点差は24.9点分もありますが、これは図表№2の学生の多くが私大医学部の志望者であり、年間を通してセンター古漢の対策をほとんどしていないことの結果です。あくまで参考値の一つと考えて下さい。

 図表№3と№4の平均値の得点差7.9点分がほぼ同じ条件下での木山方式とそれ以外の方式との得点差と考えてよいと思います。

 過去6年分の比較でも全体に問題が難化した年度ほど両者の得点差が大きくなる傾向があり、全体に易化した年度ではおおむね8~10点前後の得点差になることが多いようです。


【 結 語 】 


 こうした分析記事をよんで「いや~、木山先生の記事はなんだかんだと自己宣伝が多いからなぁ。やれやれ……」と慨嘆する講師が、一方で自らの教授法の検証もせず、年間で教えた内容と実際の本番入試の繰り合わせもせず、センター対策といえば過去問や予想問題の大問演習を年間で20~30題程度やればそれで事足りると信じて疑わないでいるとしたら、そのほうがよほど問題だと思います。

 今、手元にある河合塾2015マーク模試総合問題集に載せられている古漢問題14題を調べてみても、今回のセンター本番に直接ダイレクトに寄与したポイントは皆無です。そもそも謙譲の「給ふ」の敬意の方向を問う問題など今までセンター模試に出題された例を私は知りませんし、「焉」の用法が先に述べた三つの用法に限られるとはっきりと認知させなければ、今回の漢文問題にも対応できません。

 誤解がないように言っておきますが、木山方式でも特に秋以降直前期まではセンター予想の大問演習を30題~40題程度こなしていますが、それらはすべて古漢公式の知識の網羅と暗記の訓練が完了した上でのことです。かなりの分量と領域の公式暗記とそれほどの大問演習の両方が限られた時間数の中でなぜ可能かといえば、その秘密はすべての事項が公式に書かれており、学生へのチェックはほとんど板書を介さない口頭試問のみで済ませているからです。これによって大幅な時間の節約が可能となっています。




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