お便りシリーズNo.60

  =H29年・2017年

     センター古典問題について=

 



 2017年度センター試験の平均点に関する中間集計によれば、国語の平均点は103.45点でした。昨年度の最終集計が129.39点でしたから、点差は25.94点となり、約26点ほど下がったことになります。

 難化の一番の原因は第1問(評論)「科学コミュニケーション」の本文の分量が増えたことで(700字増→4300字)、その内容と各選択肢とを丁寧に照らし合わせる必要があり、解くのに手間がかかる問題であったことが挙げられます。そのことが、小説や古文漢文の処理に対しても、時間的な焦りを生んだ可能性があるかもしれません。

 ただ、評論文の難化だけで、これ程までに平均点が下がってしまうとは過去の先例からも考えにくく、私にはもう一つの原因として、漢文の出来不出来が得点差に影響したのではないかと考えています。というのも、小説と古文については比較的易しかったと思いますし、報告された学生の得点率もそれを裏付けています。しかし、漢文については、取れた人と取れなかった人との得点差が比較的大きいという印象を持ちました。

 また、35点以上のそれなりの得点率をあげた学生の中にも、「漢文は、文脈として何をいっているのかよくわからなかった」という意見を多く聞きました。(もちろん文脈が判然としなくても、設問自体が解けていればそれはそれでよいのですが)
木山方式の履修者で、センター直後に結果報告をしてくれた人たちの得点率をいくつか挙げてみますと次のようになります。



    現代文   古 文   漢 文   合 計  全教科
 (得点率)
     69    50    37  156  87.3%
     71    45    37  153  87.6%
 C    58    45    34  137  85.3%
 D    68    50    42  160 88.0%
 E    85    45    42  172  84.2%
     90    45    46 181  89.1%
 G    88   45    37  170  88.3%
 H   73     50    37  160  85.2%
 I    63    45    50  158  90.1%
 J    79    45    34  158  88.4%
 K    81    32    30  143  84.5%

A→浜松医科大 合格      B→東京外大 合格
C→早稲田 文構 合格      D→東大 文 I 合格
F→山形大(医) 合格       G→山口大(医) 合格
I→東京慈恵医大(特待) 合格  K→弘前大(医) 合格
J→長崎大(医) 合格



 これを見る限り、漢文に対しても相応の得点化が成されているように見えます。しかし、一方で、木山方式履修者以外の得点率も含めた全体の一覧表に目を通した時の印象はまったく違いました!漢文の得点率にはかなりのバラツキがあり、その得点差もかなり大きいと感じました。
(私が教える予備校・塾では講師は所属している学生全員の得点一覧という形で状況を把握することになっています)

 それに依れば、漢文は20点台の得点が一番多く、中には10点台の人もちらほら見受けられ、それでいながら、それらの学生さんたちでも、現代文と古文に対してはそれなりの得点率を達成していましたから、そのことを踏まえれば、国語でおおよそ8割以上(約160点以上〜)の得点率を得たかどうかの分岐点は、漢文問題の出来不出来にあったのではないかといった印象を持ったわけです。

 つまり、中レベル以上の受験者にとって、評論は点差がつきにくいほど誰もが手こずる問題であり、小説と古文は逆に点差がつかないほど易しく、結果として漢文問題に於いて得点差が大きく開いたのではないか?というのが私の見立てなのですが、出講する数か所の予備校のサンプル数(60〜70)ですから、一般化できるのかどうかは確証がありません。あくまで私の印象といったレベルです。





【漢文問題の分析】 

 まず、読解・解法のネックとなりそうな漢文の文構造についての知識を2点紹介しておきます。

《 ①否定形で目的語が代名詞である場合の倒置形》

次の例文を見て下さい。

(例)不
人 之 不ルヲ

 患フル
ルヲ 也。[論語]

(人の己(おのれ)を知らざるを患(うれ)へず、人を 知らざるを患(うれ)ふるなり。)

(人は自分自身を理解しないことを心配せず、他人を理解しないことを心配する。)


 この例文の上から6文字目、7文字目では目的語の「己
」が述語動詞の「知」の上にあって『目的語―述語』の語順になっています。ところが、9文字目、10文字目では目的語の「人」は述語動詞の「知」の下にあって『述語―目的語』の語順になっています。なぜ、同一文の中で目的語と述語動詞の語順が違ってしまうのでしょうか?

 じつは、漢文に於いては二つの条件――
⑴否定形であること ⑵述語の目的語が代名詞であること――この二つの条件が同時に満たされた場合、代名詞である目的語が述語動詞の前に出されて倒置が起きるというルールがあります。一般に漢文の文構造は英語と同じように、V(述語)+O(目的語)の語順ですが、この条件の場合だけは、否定詞+O(目的語)+V(述語)の形になるわけです。

 なぜそうなるのか?
その成立の由来については残念ながら私は知りません。倒置が起きること自体は、いろいろな漢文解説書に書かれていますが、由来を説明した記事をこれまで見たことがありません。" 目的語の唯一性の強調として倒置が起きる "などと、もっともらしい説明は出来そうですが、しかし、それならばなぜ否定形で且つ目的語が代名詞の場合だけに限られるのか?といった疑問が解消されません。

 そもそも「なぜ?」という問いを発してよいのかさえわかりません。古典語には由来を説明出来なくても、帰納法的には確固とした文法として通用しているものが多くあります。
 たとえば、古文の係り結びなど、古文学習者にとってはいかにも自明な基本文法ですが、その由来については諸説芬芬(ふんぷん)としてはっきりしません。この漢文の倒置形も、もしかしたら、そのようなものの一例なのかもしれません。

 ともかく、否定文であればよいのですから、「不」以外でも「弗(ず)」再読文字の「未(いまダ〜ず)」「莫シ」「無シ」などでも、目的語が代名詞であれば倒置が起こります。たとえば、

【例文1】

ムレドモ 而 不レバ
レラレ 也。

(諫むれど入れられざれば即ち之を継ぐ莫し。)

(臣下が主君に忠告しても、それが主君に受け入れられなければ、これを受け継いで続いて忠告する臣下は誰もいない)

 この例文では「莫シ」の否定文のもとで、「之ヲ」が「継グ」の前に書かれて倒置形になっています。

【例文2】

ヌルモ
於 古 、 未

(之をいにしへに訪ぬるも、未だ之を聞かず。)

(これをいにしへに訪ねてみても、いまだ之れを聞かない)

 この例文では「未(いまダ〜ず)」の否定文のもとで、目的語の「之ヲ」が「聞カ」の前に書かれて倒置形になっています。

 じつはこの例文はH29センター漢文の白文問題として出題された文の一部なのですが、一般的な漢文の語順に反することを根拠にして、(つまり目的語が述語動詞の前に書かれていることを根拠にして) 正しい選択肢を落としてしまった人がいたとしたら誠にお気の毒です。

 というのも、市販の漢文受験参考書でこのタイプの倒置形を載せているものはおそらく皆無であろうと思いますし、高校や予備校・塾の漢文教師がこの倒置形を対策化して教えた事実もほとんど無いだろと推察するからです。(漢辞海の末尾の句形解説や一部の国語便覧には非常に小さな字割りで載せられていますが、受験対策としてそこまで読み込む学生はまずいないと思います)

 対策シフト化がなされなかった第一の理由は、センターの白文問題に過去一度もこの形の倒置形が出題されたことがないからです。模試レベルでも私は見たことがありません。一般的に本番のセンター漢文や模試レベルの白文問題に出題されてもおかしくないと教師が考える倒置のパターンには2つあります。一つはごく単純に『
主語と述語の倒置』です。

【例文3】

子 曰ハク 、 賢ナル 哉(かな) 回 也(や)。

(孔子が言うことには、賢いことであるなぁ、回(かい=人名・孔子の弟子)は。

 文末の「也=や」は提示句の働きとして「〜については」といったニュアンスです。つまり本来の語順は「回については、賢いことであるなぁ」であり、その主語と述語が倒置されているわけです。このように述語の下に「也」「耶」「乎」(=や)がくることが多いので、『〜ということについては→上の語に倒置!」と見当つけて詠むことになります。このような倒置の問題はセンター模試などにも出題されることがあります。

【 出題例 】

 成スコトカラ 也(や)。

冒頭の「宣」の意味として最も適当なものを次の①〜⑤のうちから一つ選べ。

    ① 受け入れられる
    ② 明らかである
「宜」 ③ 申し上げる
    ④ もっともである
     ⑤ 時宜にかなっている

 さて、返り点のつき方からも再読文字の「宜シク〜ベシ」とは読めず、「此を成すこと難からざる(=難しくない)ということについては」⇒⇒⇒「宜」といった文意を考えることになります。どれが正解かわかりますか?ちなみにこれは2012年度の代ゼミのセンタープレの問題です。(答えは末尾に)



 もう一つの倒置のパターンは、
倒置を示す「之」「是」などを用いて目的語を述語動詞の前に出すパターンです(公式3倒置)。たとえば、

【例文4】

寡 君。 


(寡君は其の罪を之れ恐る。)

(わが主君はその罪を恐れた)

 この例文は、本来の『寡 君。」の倒置形です。目的語である「其ノ罪ヲ」の部分が「恐ル」の前に出されることで倒置となり、倒置を表す記号として間に「之レ」が入ります。(この場合の「之レ」は記号のようなものですから特に訳出する必要はありません)

試しにノーマルな文を「之」を用いた倒置にする練習をしてみましょう。

【例文5】

ルルヲヒト。(V+O+C)

(水に溺るるを幸ひと為す。)

 この例文の場合、述語動詞が「為ス」、目的語の部分が「水ニ溺ルルヲ」、補語が「幸ヒト」ですから、目的語を述語動詞の前に出して、間に「之レ」を入れると

ルルヲ
ヒト

(水に溺るるを之れ幸ひと為す。)

となります。

 以上の二つの倒置パターンはセンター漢文や早稲田・上智の漢文問題に出題されてもおかしくありませんし、実際に出題例も存在します。従って、仮に倒置形を対策化しようとするほど充分に慎重な漢文教師がいたとしても、この2パターンを超えないのではないかというのが私の推測です。

ここでもう一度
【例文2】を見てみましょう。

ヌルモ 於 古 、 未

(之をいにしへに訪ぬるも、未だ之を聞かず。)

 否定文で目的語が代名詞の場合、目的語が述語の前に出るという倒置形を知らず、且つ、一般的な漢文の語順は「否定詞+V(述語動詞)+O(目的語)」であるという知識を持っている多くの学生さんにとって、最後の3文字を『未ダ之レヲ聞カズ』と読んでいる選択肢の存在に対しては違和感があったはずです。もしそう読むのならば、語順は「未 聞 之。」となるはずで、「未 之 聞。」となるのはおかしいじゃないか・・・といった疑念が生じたはずです。

 ところが、聞き取りをした範囲内では、木山方式履修者のほとんどの人が(多少違和感を覚えながらも)この問5の白文問題では、正しい答えを選んでいたことがわかりました。彼らはいったい漢文公式の知識をどのように応用して、このやや違和感のある選択肢を選んでいったのでしょうか? ここで彼らの思考に則して、多少推察も交えながら再現的にシュミレーションしてみたいと思います。

まず、全体の文脈の中での問5・傍線部の位置づけは以下の通りです。





【全文訳】

 雷鳴を百里以上離れた所で聴くと、(酒を入れた)盆を太鼓のように叩く音に聴こえる。又、(広大な)長江と黄河も千里の距離を隔てて望めば、(その流域は)あたかも帯を身にまとっているかのように見えるのは、ともに対象からの距離が遠く離れているからである。(=距離が遠く離れると、雷鳴や江河のような本来大きなものも小さく感じられるの意)

 だから、千年もの長い年月が過ぎ去った末(すえ)の世に居りながら、之を(=ある何ものかを)千年もの長い年月をさかのぼった遠い過去に求める時に、遠く隔たったがために物事が変化してしまったことに気づかなければ、それはあの " 舟を刻みて剣を求む "の故事と同じことである。

(注)[ 舟で川を渡る途中、水中に剣を落とした人が、すぐ船べりに傷をつけ、舟が停泊してからそれを目印に剣を探した故事 ]

 今(舟が停泊した時点で)水中の剣を探し求めようとする場所は、舟で川を渡る途中で剣を落とした場所とは異なっているのに、その船べりに傷をつけた場所がここである、これが剣が落ちた場所であると思うのは、何とひどい惑いではないか。

 今そもそも江戸は世の人の呼びならわす大都市、身分高き人が集まる場所、水陸の交通の要衝であり、実に天下の大都会である。しかしながら、 其 地 之 為 名、 訪 之 於 古、未 之 聞。(これは)確かに古(いにしえ)と今が離れ去ること日々に遠く、事物の変化もまた、そのかけ離れた遥かな時の間に存在するということではありませんか。

 (そういうわけで)思うに、私は以下のことに気づくのです。後の世の人が今の世のことを求めたとしても、世の中がかけ離れていることはいよいよ遠く、物事が変化することはいよいよ多く、その聞きたいと欲する所を探し求めたとしても、それを得ることが出来ないということは、今の人が古(いにしえ)を探し求めるのと同様であり、(=つまり遥かな時空の隔たりと変化ということを考慮に入れなければ事実を理解することは出来ず、後の世においては)なおさらそうであるということを。


問5 傍線部C「其 地 之 為 名、 訪 之 於 古、 未 之 聞」の返り点の付け方と書き下し文との組み合わせとして最も適当なものを、次の1〜⑤のうちから一つ選べ。

①其 地 之 為
名、 訪 之 於 古、 未 之 聞

其の地の名を為(な)すに、之を訪ぬるに古(いにしへ)に於(お)いてするは、未だ之(ゆ)くを聞かず


②其 地 之 為
名、 訪 之 於 古、 未 之 聞

其の地の名為(た)る、之を古に訪ぬるも、未だ之を聞かず


③其 地 之 為
名、 訪 之 於一レ 古、 未 之 聞

其の地の名を為すに、之きて古に於いて訪ぬるも、未だ之かざるを聞く

④其 地 之 為
名、 訪 之 於 一レ 古、 未 之 聞

其の地の名の為(ため)に、之きて古に於いて訪ぬるも、未だ之を聞かず


⑤其 地 之 為
名、 訪 之 於 古 、 未 之 聞

其の地の名為る、之を古に訪ぬるも、未だ之かざるを聞く


全体の文意が明らかに見えてしまった現時点では、文脈上、②が正解だとすぐに決まりそうです。「其ノ地ノ名為ル、」の「為ル」が準体化して『その地の名である、その名については~」の意となり、次の「 訪 之 於 古、」は、

V(動詞)+O(目的語)+前置詞『於』+C(補語)

の文構造
【漢文公式3の④】に合致しますから、目的語の送りは「~ヲ」・補語の送りはほとんどの場合「~ニ」の原則に従い、且つ、読みの語順は目的語→補語→動詞の順ですから「之ヲ 古ニ 訪ヌ。」と読めます。

 また「訪ヌルモ、」の「~モ」は
【公式24②】にあるように確定条件の逆説ですから、「実際に探してみたという事実はあるのだけれど~」の意となり、「訪ヌルモ」のように連体形+モとするのもルール通りの処理です。

 すると、全体の文意は「(今、江戸は実に天下の大都会である。しかしながら) 其の地の名前である、その名については、之をいにしへに探してみたけれど、未だこの名を聞いたことがない。」となって、末尾の3文字「未 之 聞 」を「未だ之を聞かず」と読む、その違和感にさえ目をつぶれば、文脈上最もしっくりときます。

 しかしながら、これはあくまで[文脈が見えていれば]という前提です。実際は文脈の主旨が捉えにくかったようですから、これほどスンナリとはいかなかったかもしれません。仮に文脈との整合性に依る選択肢の選びができない場合には、木山方式の履修者はどうやって選択肢を消去したのでしょうか?その点について推察してみましょう。

 まず、選択肢①の「之を訪ぬるに古に於いてする」は、「~に於いて」自体をサ変動詞化して、述語動詞の「訪ヌ」を「於」の前に出す形ですが、このような形は、
『スル二~ヲ以テス。』と「以テ」を用いた句形として木山方式履修者は何度も暗記チェックを繰り返していますから(公式8③)、そう読むのであれば、原文は「訪 之 以 古 =之ヲ訪ヌル二古ヲ以テス」となるはずだと考えて、①を消去したのではないかと思います。
(この句形は私のオリジナルです。詳しく知りたい人はお便りNo.50や、プリント資料No.10に解説があります)

 選択肢の③と④は共に「古に於いて訪ぬるも」の部分が、白文では述語動詞「訪ヌ」の下に「於」があるのにもかかわらず「~ニ於ヒテ」と読んでしまっている点がバツです。木山方式履修者であれば瞬殺で落としたと思います。
 漢文公式4 ⑦には
「於」が述語の前に置かれた場合には「~ニ於テ」と読むが、述語のあとに置かれた場合には置き字として読まないとあり、これは漢文チェックリストの一問一答でも何度も繰り返した知識です。

 残った選択肢は②と⑤となり、違いは末尾の3文字「未 之 聞 」を、②は「未だ之を聞かず」と読み、③は「未だ之(ゆ)かざるを聞く」と読んでいる点です。どちらも目的語(~ヲ)の部分を動詞の前で読んでいる点では違和感は同じです。

 結局、私の学生たちは――文脈がかなり見えないという状況であれば――文構造の知識から②と⑤の2択に絞った後は、より違和感の強い方を落としたのではないかと推察します。というのも、例えば " 「未 之 聞 」の「之」を動詞読みして3文字を2連文として(=動詞が2個ある読み方として)読んでみたらどうなる? " と質問すれば、学生は連文節の繋ぎ方は
順接であれば『未だ之(ゆ)かずして聞く』、逆説であれば『未だ之(ゆ)かざるに聞く』とちゃんと答えていましたから、⑤のような読み方にはならないことは意識されていただろうと思います。また、目的語が一字述語の前に出てしまう②の違和感よりも、「未だ之(ゆ)かざるを」と、文節全体が述語の前に出てしまう⑤の方がより違和感が大きいと感じられたのかもしれません。従ってより違和感の少ない方、「之ヲ」が「聞ク」の一字前に出てしまって、ちょっと変だなと思いつつも、②を選んだのではないでしょうか?
もとより多少とも文脈理解の助けがあれば、より②を選ぼうとする気持ちになるのは言わずもがなですが・・・






 


もう一つの漢文の文構造の話題に移りましょう。これは構造というより、「
豈(あ)ニ〜」で始まる句形の知識に関わるものです。
まず、次の問題を解いてみて下さい。

(例題)2004年度 センター追試験 第4問漢文

*(要旨)筆者が雲南省において従軍していた時のこと、一頭の黒いラバを手に入れた。ひどく痩せたラバであったが、力は並はずれて強く、疲れを知らず、主人の心をよく理解し、手綱をとるにも苦労のかからぬ賢いラバであった。このラバだけは手放す事ができず、どこへでも連れて行ったが、後に貴州省に赴くことになり、今度ばかりは船に乗せて連れてゆくわけにもいかず、番寓(ばんぐう)の知事に贈ることにした。ところが、知事のもとに贈られるや、このラバはわずか一晩で死んでしまう。

○ 遂(つひ)ルニ
(注1)番 寓(ばんぐう) (注2)張 令

甫(はじ)メテ 一 夕ニシテ 死 矣。 

驢 宿 世 有リテ
所  余 

而 使ムル 
三 ヲシテ 償 二 (注3)宿 逋   耶(か)。

抑(そもそも) 其 性 貞 烈 ニシテ 、

シテ
易(か) フルヲ 而 自 斃(たふ)ルル 耶。


(注1) 番寓――地名。広州に隣接する県。
(注2) 
張令――張は姓。令は知事。
(注3) 宿逋――前世の借り。

[遂に番禺の張令に送るに、一夕にして死す。豈に此の騾(ら)宿世余(よ)に負ふ所有りて、之をして宿逋を償(つぐな)はしむるか。そもそも其の性烈(れつ)にして、主を易(か)ふるを肯(がへん)ぜずして自ら斃(たふ)るるか。]


問6 傍線部「 甫 一 夕 死 矣 」とあるが、筆者はラバの死をどのように受け止めているか。その説明としてもっとも適当なものを選べ。(5択の選択肢の内容を2択にまとめてみました)

① ラバの忠誠心はわたしに前世からの借りがあったためではないかと思い、また、急死の知らせを受けて、その忠誠心の強さのために別の主人に仕えることができず、すすんで死を選んだのかもしれないと感じ入っている。

② ラバが長年忠実に仕えてくれたのは、前世でわたしに負債があり、その借りを償おうとしたというのではなく、ただ、わたしへの強い忠誠心によって新しい主人に仕えることができず、死んでしまったのではないかと、哀れに思っている。

 さて、「豈ニ〜」で始まる白文問題は比較的よく見かける設問です。あなたはどちらが正解だと思いますか?正答であればあなたの勝ちです。間違えたら以下の私の説明をよく読んでください。

 「
豈ニ〜ン(ヤ)。」の場合、「豈ニ」を『どうして〜』と訳して、全体の文意としては『どうして〜だろうか、いや、〜ない。』と反語を形作るという知識はよく知られています。
 しかし、文末の形が「
豈ニ〜連体形+か。」となった場合はどうでしょうか? 此の場合「豈ニ〜」はどう訳せばよいのでしょうか?また、全体の文意としては反語になるのでしょうか、ならないのでしょうか?

(しばし閑)

 木山方式では「
豈ニ〜連体形+か。」の場合、「豈ニ〜」を『きっと確かに〜』、文末を『〜ではありませんか」と訳して、全体としては【詠嘆的に事実を確認しているようなニュアンス】になると教えています。一般に学生は「豈ニ〜」が出ると反射的に「どうして〜」とすぐに反語にとってしまう人が多く、その癖を矯正するのにはそれなりの時間がかかります。もちろん漢文チェックリストの一問一答で年間何回も暗記を繰り返しています。

 学生が正しい答に詰まりそうになると、私はよく「文末はチャーリー浜!」と叫びます。チャーリー浜とは吉本新喜劇の芸人さんで、カンカン帽にロイドめがね、ちょび髭でステッキ棒を持ったキザなおじさんです。コテコテのギャグを臆面もなくやってのけます。決めゼリフは「ごめん臭い〜」と「〜ではあ〜〜りませんか」の二つ。

 つまり、「豈ニ〜連体形+か。」の解釈は『きっと確かに〜ではあ〜〜りませんか!(そうですよね。)」と対者に向かって【詠嘆的に事実を確認してようなニュアンス】になるわけです。もちろん反語にはなりません。

 ところで、「チャーリー浜」が使える句形にはもう一つあります。「
非(あら)ズーー乎(や)。(公式14A②)の句形がそうです。これも同様に『〜ではあ〜〜りませんか。」と訳します。例えば「合格したのは木山先生のお陰に非ずや。」と言えば、『木山先生のお陰ではあ〜りませんか、(そうですよね!)」と確認しているようなニュアンスになるわけです。では、次のような句形が現れたらどうでしょう。

* 豈(あ)非(あら) ―――― 乎(や)。公14A④

 「豈ニ〜ン(ヤ)」の形ではありませんから、反語ではなく、従って「どうして〜」とは訳しません。「豈ニ〜」のもう一つの解釈(きっと確かに)と「非(あら)ズーーーニ乎(や)」の解釈が組み合わさって、正しい解釈は『きっと確かに〜ではあ〜りませんか」です。つまり、「豈ニ〜連体形+か。」の解釈と同じです。まとめまてみましょう。

《②きっと確かに~~ではありませんか。と事実を確認するニュアンスの句形》

 豈(あ)――――連体形+か。


 
   豈(あ)非(あら) ―――― 乎(や)。

【きっと確かに〜〜〜〜ではありませんか。】と事実を確認しているようなニュアンス。


 これで2004年度センター追試問6の答えがわかるはずです。問題文中の「豈に此の騾(ら)宿世余(よ)に負ふ所有りて、之をして宿逋を償(つぐな)はしむるか。」の文構造は『豈ニ〜使役の助字「しむ」の連体形+か。」ですから、反語ではなく、" きっと確かにこの騾馬は、前世において私に負債とする所が有って、この忠実な働きによって私への前世の借りを償おうとしたのではありませんか "と、詠嘆的に事実を確認しているようなニュアンスとなるわけです。従って答えは①が正解。②は反語の解釈をしている点でバツです。


 



それでは、その知識を応用してH29センター漢文の後半部を書き下し文として読んでみましょう。

今夫(そ)れ江戸は、世の称する所の名都大邑(だいいう=大都市)、

冠蓋(かんがい=身分の高い人)の集まる所、舟車の湊(あつ)まる所

にして、実に天下の大都会為(た)るなり。而(しか)れども、

其の地の名為(た)る、之を古(いにしへ)に訪ぬるも、未だ之を聞かず。

豈(あ)に古今逢ひ去ること日(ひ)びに遠く、事物の変も亦(ま)た

其の間に在るに非(あら)ず耶(や)
。蓋(けだ)し知る、後の世に於けるも、

世の相ひ去ることいよいよ遠く、事の相変ずることいよいよ多く、

其の聞かんと欲する所を求むるも、得(う)べからざること、

亦(ま)た猶(な)ほ今の古(いにしへ)に於けるがごときをや。


 この後半部の論旨で解釈に迷いそうな部分が『
豈に古今相ひ去ること日びに遠く、事物の変も亦た其の間に在るに非ずや』の一文です。冒頭の「豈に」を見た瞬間に『どうして〜だろうか、いや〜』と反語のように解釈してしまうと、以下の「古今相ひ去ること日びに遠く、事物の変も亦た其の間に在る」という内容が文脈上肯定されるのか、否定されるのか、一瞬わからなくなってしまいます。内容が抽象的な歴史認識の在り方に関することだけに、余計に判断に迷ったかもしれません。

 その迷いを引きずったまま、それ以後の文章「
蓋(けだ)し知る、後の世に於けるも、 世の相ひ去ることいよいよ遠く、事の相変ずることいよいよ多く、其の聞かんと欲する所を求むるも、得(う)べからざること、亦(ま)た猶(な)ほ今の古(いにしへ)に於けるがごときをや。」といった、これまた抽象的な言い回しの解釈を迫られた受験生は、筆者の主張の輪郭が何となくぼやけた感じに――論の方向性だけは何となく分かるが、どうも明晰にスッキリとは把握しきれないといった感じを抱いたのではないでしょうか?

 「時代の隔たりで、後世の人に今のことがわからないのは、今の人に昔のことがわからないのと同じことである。」という部分の主旨は理解できたとしても、そこから演繹される筆者の執筆動機としては、具体的にどのように説明されるべきか?――実はそれが問6の設問の狙いなんですけど、この問いに受験生はかなり迷ったのではないか、というのが、漢文得点のバラツキを見た時の私の直感的な印象でした。

問6 この文章(『江関遺聞』)が書かれた理由として最も適当なものを一つ選べ。

① 江戸は大都市だが、昔から繁栄していたわけではなく、同様に、未来の江戸も今とは全く違った姿になっているはずなので、後世の人がそうした違いを越えて、事実を理解するための手助けをしたいと考えたから。

② 江戸は政治的・経済的な中心となっているが、今後も発展を続ける保証はないし、逆にさびれてしまうおそれさえあるので、これからの変化に備えて、今の江戸がどれほど繁栄しているかを記録に残したいと考えたから。

③ 江戸は経済面だけでなく、政治的にも重要な都市となったが、かつてはそうではなかったので、江戸の今と昔を対比することで、江戸が大都市へと発展してきた過程をよりはっきり示したいと考えたから

④ 江戸は大都市のうえに変化が激しく、古い情報しか持たずに遠方からやってきた人は、行きたい場所を見つけるにも苦労するので、変化に対応した最新の江戸の情報を提供し、人々の役に立ちたいと考えたから。

⑤ 江戸は大きく発展したが、その一方で昔の江戸の風情が失われてきており、しかもこの傾向は今後いっそう強まりそうなので、昔の江戸の様子を書き記すことで、古い風情を後世まで守り伝えたいと考えたから。

実は、問6の解法については「豈ニ〜〜〜ニ非ズヤ。」のしっかりとした正しい理解さえあれば、各選択肢の消去法や比較などをする必要もなく、明晰に一つの選択肢に決めることが出来ます。
つまり知識さえあれば誰にでも解けるということです。
「きっと確かに〜〜ではありませんか。」という解釈からも分かるように、この句形は疑問形でありながらも一種の強調表現であり、筆者の主張が強く込められた箇所と見ることが出来ます。

(
――漢和辞書の中にはこの句形の訳を「あるいは/もしかすると〜〜ではないか」と疑問を呈するような解釈として載せているものもありますが、少なくとも入試問題の対策としては有効とはいえません。弱い疑問と捉えてしまうとH16追試やこのH29本試の当該箇所の解釈を誤る危険が出てくるからです。江戸期の『訓譚示蒙(くんやくじもう)〈荻生徂徠(おぎゅうそらい)〉には〝「豈」ノ字、二義アリ。一ツハ「イカサマ」ト訳ス。〟とあり、「如何様」の字義は『(確信をもって推測し、また判断を強調して)きっと・いかにも・確かに〜ですから、私もこの解釈の方を支持します。「あるいは/もしかすると〜」の訳はこの句形がよく並列的な提起として使われることが多く、その場合の収まりやすい便宜的な訳として普及したのではないでしょうか?)

 話をもどしますが、つまりその句形によって、時代を越えて事実を知るためには、まさに『古今相去ること日びに遠く、事物の変化もまた遠く相隔たった時空の間に在る』といった、そうした認識の在り方が是非とも必要ではありませんか。そうでなければ遠く隔たった世界の、その変化の相を正しく理解することなんて出来ません、(そうですよね!) と強調しているわけです。
その視点――
つまり時代を越えた事実認識の在り方そのものが問われているという視点から考えれば、選択肢の①が正解となるのは明白だと思います。

 ぴんとこない人のためにもう一度繰り返しますが、『時代を越えた事実認識の在り方そのもの』がどう在るべきかという視点で書かれている内容は選択肢①以外にはなく、その他の選択肢はみな内容的にズレていますから、②〜⑤について、あそこはどうだ、ここはこうだと言う必要はないということです。

 この問6の8点分に得点寄与する「豈ニ」の適切な説明が、
市販の漢文参考書に載せられているかどうか、調べてみました。結果は16冊調べた内のわずかに1冊『センター漢文出題パターン攻略・河合塾 1143円』の巻末の句形一覧の17ページに『もしかすると〜〜〜ではないか。』と先ほど紹介した訳例が載せられており、それ以外の15冊にはまったく載せられていませんでした。

 中でも一番の売れ筋は
『兄に反抗→豈ニ(に)反語ォ〜』とゴロで覚えるシリーズ本だそうです。オビにそう書いてありました。「豈ニ」が出たら直ぐ反語ォ〜と覚えていた人は今年のセンターの結果はどうだったのでしょう?

 
スラスラ覚えられる/面白いほどわかる/受験生が一番使っている/読むだけでわかる/といったキャッチコピーの裏側には、そうしたスラスラ感に見合う程度の内容しかあえて載せず、読者に負担の軽い達成感を与えようという販売戦略と、それを好んで好評価を下す大衆的受験生といった両方の構図が在るように思います。

問1 破線部(ア)「」、(イ)「」のここでの読み方として最も適当なものを、各群の①~⑤から選べ。

       ① なんぞ
       ② はたして
(ア)「」   ③ まさに
       ④ すなはち
       ⑤ けだし

       ① しばしば
       ② いよいよ
(イ)「」   ③ かへつて
       ④ はなはだ
       ⑤ すこぶる

 「」は木山の漢単B2「
けだシ」(発語)①思うに~、②(前文に対する説明として)実は~。この本文の場合、解釈は①でも②でもいけます。とにかく読みですから、(ア)答え→⑤

」は漢単A23「
いよいよ」。(イ)答え→②

どちらの単語についても、これ以外の読み方は公式に載せていません。(これ以外の読み方が出題されないというのも有効な知識です)これで8点。
先ほど解説した問5の白文問題の得点が8点、さらに「江関遺文」の執筆意図を問う問6の得点が8点ということで、H29センター漢文における木山方式の得点寄与率は


【50点中24点!】


という結果になります。例年大体この位の得点寄与率です。古文とあわせて5割強というのが過去7年間の平均です。






【古文問題の分析】

比較的易しかったので、全文訳だけ載せておきます。

 

(全文訳)


*次の文章は『木草物語』の一節で、主人公の菊君(本文では「君」)が側近の蔵人(くらうど)(本文では「主(あるじ)」)の屋敷を訪れた場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。

 急な来訪であったので、屋敷の主人は、(菊君に)「十分なもてなしも出来ず(恐縮で)、たいそう畏れ多いあなた様のお出ましであることよ」と、" こゆるぎの磯 " ではないが、急いで副食の品々など求めて、お供の人々を忙しくもてなしていると、菊君は「涼しき方に」と言って部屋の端近くに寄り臥して、装束など乱れ脱いでくつろいでいらっしゃるご様子は、場所柄か、まして比べるものも無い程すばらしくお見えになる。

 隣家という程でもなく近くに、ちょっとした透垣(すいがい=竹などで間を透かして作った垣根)など作り巡らしてある所に、夕顔の花が辺りに溢れんばかりに咲き掛かっている様子は、(菊君にとって)ふだん見慣れていらっしゃらないものの、しみじみと美しいとご覧になる。

 やや暮れかかる露の光も「まがふ色なきを」、庭に下り立って、この夕顔の花を一房お取りになる時、透垣の少し空いた隙間から差しのぞきなさると、(透垣の向こうは)尼の住みかと見えて、仏に供える水や花を置く棚には、ちょっとした草の花など摘み取って供えてあるのを、五十ばかりの尼が出てきて、水やりなどしている。

 花を入れる器に数珠が引きやられてサラサラと鳴るのも、たいそうしみじみと趣深いときに、また奥の方からほのかに膝行(いざ)り出る人がいる。年の頃は二十歳ばかりと見えて、たいそう白くささやかなるが、髪の裾は座った高さほどに豊かに広がっているのは、これも尼であろうか? 黄昏時の空目にはよく見分けることもお出来にならない。

 片手に経を持っているのは何事であろうか、この老いた尼にささやいて微笑んでいるのも、このような粗末な住まいには似つかわしくなく不釣り合いな程で、上品で可愛らしい様子である。たいそう若いのに、どのような決心をしてこのように出家して尼になっているのだろうか、と(菊君は)ちょっとしたことにもお心がとどまるご性格なので、たいそうしみじみと見捨てがたくお思いになる。

 屋敷の主人は、御果物などを歓待にふさわしい様に持って出て、「せめてこのようなものだけでも」と忙しくお世話をするのだが、(菊君は部屋の中に)お戻りになってもそれをご覧にもならない。

 たいそうしみじみといとおしく思われる人を見たことだなぁ、もし尼でなかったならば、逢わずにはいられないといったお気持ちがして、人が途絶えた合間に御前にお仕えする童にお尋ねになる。

 「この隣に住む人はどのような者であるか、知っているか」とおっしゃると、(童は)「この屋敷の主人の兄妹の尼と申します者が、ここ数ヶ月間は山里の方に住んでおりましたのを、この頃ついちょっとこちらへ出て来られまして、菊君様がこのように急に来訪なさった時に(尼君の存在は)いかにも折が悪いことだといって、屋敷の主人はたいそう不快に思っております」と申し上げる。

 (菊君は)「その尼は歳は幾つばかりであろうか」と、なおもお尋ねになると、(童は)「五十余りにもなっておりますでしょうか。娘でたいそう若い者も同じように出家をしていると承っておりますのは、まことでございましょうか。身分の程度にしては卑しい様子も無く、この上なく気位が高い人であるが故に、この世をすっかり嫌になり果てて居りますとか(聞いております)。なるほど本当に、仏に仕える気高さは素晴らしうございます」と言ってうち笑う。

 (菊君は)「しみじみと趣深いことよ。それ程深く思い定めた辺りに、無常な世の物語もお話申し上げたい心地がするのを、突然むやみに(文を遣わすのも)罪深いことであろうが、「いかがいふぞ、」試しに手紙を伝えてはくれまいか」と言って、懐紙に(歌を書きつける)

X 露が掛かるではないけれどほんの少し私の心に懸かっているのもはかない(あなたへの想いでございます)黄昏時にほのかに見た宿の夕顔の花は

 童は菊君の真意をはかりかねたが、これには何か理由があるのだろうと思って、お手紙を懐に入れて立ち去った。

 (童が行ってしまった)後の名残を、菊君がぼんやりと眺めていらっしゃると、そこへ人々が御前に参上して来て、屋敷の主人も「することもなく退屈でいらっしゃるのでしょう」と言って、様々なお話などを申し上げる間にも、夜はたいそう更けてゆく。菊君は先ほどの手紙の返事を早く見てみたく、あいにくな人の多さを(思うようにいかず)やりきれなくお思いになるので、いかにも眠たそうな様子に振る舞いなさって寄り臥しなさると、人々は菊君に「さぁ、はやく横になっておしまいなさい」と言って、屋敷の主人も寝所にすべり入ってしまった。

 やっとのことで童が帰って来て参上したので、「どうであったか」とお尋ねになると、(童は)「『まったくこのような懸想めいたお手紙を頂くにふさわしい人はここには居りません。人違いでございましょうか?』と、あの老尼は意外なことに申しておりました」と言って

出家した者の住む粗末な雑草の茂る宿にあなた様はどのような夕顔の花をご覧になったのでしょうか。(=ここにはあなたの恋の相手となるような女性は居りません)

 このように申し上げよ』と、不審に思っている様子でございましたので、帰り参上いたしました」と申し上げるので、
(菊君は)甲斐がないとは思うものの、(一方では)それももっともなことだと思い返すのだが、寝ることもお出来にならない。不思議なほど可愛らしかったあの人の面影が、夢ならぬ御枕上にじっと寄り添っている心地がして、「間近けれども(=恋しい人が近くにいながらも逢えない辛さをほのめかす引歌)」と独り言を漏らしなさる。



例題の解説・解答
* 木山の漢単A27「宜」
①うべナリ・むべナリ(形動) もっともなことである
②よろシク〜ベシ(再読)
③よろシ(形)
→内容に最も適合するのは、「宜」を形容動詞とみて「此れを為すことが難しくない=たやすいということについては、もっともなことであるなぁ」とする解釈。したがって答えは④。
読み方は『むべなるかな、これをなすことかたかるざるや。』です。







                  もどる