お便りシリーズ№61
【石炭の煤煙と昭和30~40年代】
戦後の日本社会は、ある時期から「一億総中流意識」に代表されるような平等社会といわれるようになりました。しかしながら、そのような時期においてすら、世代間の階層継承性という視点からすれば、特に平等であったわけではありません。親の階層や職業分野がそのまま子供に継承される傾向が強く、異なる階層への移動がけっして容易ではなかったからです。
私の父は戦前からの国鉄職員で、長崎に原爆が落ちた瞬間の閃光を鹿児島本線の鳥栖駅のホームから見ていた人です。終戦後結婚し、郷里に近い田舎の駅の国鉄職員として定年まで勤め上げました。
私がごく小さかった頃は、木材防腐剤のコールタールをそこら中に塗りまくった石炭臭い鉄道官舎に住んでいました。小学校に上がる頃は、田舎の温泉町に作られた小さな平屋の町営住宅に移りました。同じ間取りのこじんまりとした平屋の住宅が50棟ほど立ち並んでいましたが、都市部の集合住宅といった趣きではなく、まわりには水田や茶畑、肥溜めもあり、農家の牛の鳴き声が聞こえたり、夏の夜など水田の蛙の声が天に達する程ガヤガヤと聞こえてくるような環境でした。
〈以前邦画で「フラガール」という映画があって、舞台となった常磐炭鉱の炭鉱員の宿舎がずらりと並んでいる場面がありましたが、あれをそのまま平地の水田地帯にそっくり移したような感じです〉
昭和30年代~40年代の中頃までは、一般家庭の熱源には石炭が利用されていましたから、その町営住宅のお風呂も石炭ぶろで、夕暮れ時には、住宅地のあちこちの煙突から薄青い石炭の煤煙が風に流れる情景がありました。
今の視点から見れば貧しい生活のようにも見えますが、その当時の私たちからすれば、自分たちの生活様式は極めて世間並みだと感じていました。むしろ、国民のすべてが「豊かさ」に向かって突き進んで行こうとしていた時代――たとえそれが表面的な彩りであったにせよ――将来への明るい希望を感じさせる時代でした。
私の周りには、階層の違いを意識させるような人物は一人もおりませんでした。高度経済成長期の労働力の担い手として農村部から都市に移住した親戚の人たちに対しても、特に階層的違和感を感じることはなく、帰省すれば同じ郷土の人として接していました。
例えば、立派な洋館に住んで、夏の避暑には軽井沢の別荘で外国人とテニスに興ずるような、戦前の華族のような人種は、あの時代の農村には絶対に存在しませんでした。将来の夢は外務省に入省して官僚になること、などと語る青少年にも出会ったことがありません。祖父も父も東大なので自分も東大を目指していますといった高学歴家系も聞いたことがありません。帰国子女という言葉さえ知らず、同じ日本人の中に外国と日本を行き来する人種がいるとは、小説の世界ならいざ知らず、実際には想像さえしませんでした。
私たちが狭い農村部の文化エリアの中に生きていながら、そして相対的には貧しいながらも「みんな同じだ」という感覚に安住できたのは、農村社会の底辺から立ち昇る家父長的精神構造や、協同での祭祀の実行、隣保組の持ちつ持たれつの助け合い精神などによって、一家一村「水入らず」的な共同体的心情によって構造化されていたからなのかもしれません。また、階層性を意識させるような絶対的な比較の対象を近くに持たなかったことも大きと思います。
共同体を基礎とする地主的な名望家というのは地方の名士のことですが、実際そういう人たちは存在していて、一般の人より大きな家に住んでいたり羽振りも良さそうな感じでしたが、そうした地域の顔役的名士の存在も、家父長的な共同体構造の中に組み込まれて一体であるがゆえに、自分たちの外側の存在ではなく、従って相対的な上層下層を意識されにくいといった側面があったように思います。
父は国鉄の組合員として九州各地の労働争議にも駆り出されていました。1959年夏から翌年の秋にかけて起きた三池争議は三井鉱山三池鉱業所の人員整理を軸とした合理化案をめぐって展開された労働争議であり、『総資本対総労働の対決』とまで言われた一大争議でした。父はそこで非常に怖い思いをしたと言っていました。
「警察どまいちょんつまらん!」(=警察はなんの役にも立たない)というのは父の弁ですが、動員された労働側の人員だけでも延べ30万人という規模でしたから、地元の警察では全く対応が追いつかず、しかもこれに資本側が雇い入れた暴力団組織が加わって、双方に重軽傷者、最終的には死者まで出る騒ぎだったそうです。
水俣チッソ工場の労働争議や、大分県の松原ダム反対闘争にも国鉄の組合員として参加していました。
しかしながら、父はそうやって国鉄労組として各地の争議に参加していた割には、父の口からマルキシズム的な言説が語られることはこれっぽっちも微塵もありませんでした。
父は思想の人ではなく、農村階級社会の分に応じた生き方、義理、人情、信義に於ける裏表のない素朴な良心に従って生きている人でした。
また、資本による労働の収奪と資本主義経済のはらむ矛盾に対し、文句なしのリアリティーを付与していたのは戦後の窮状期であって、私の幼年期は、徐々にそうした戦後の困窮状態からは抜けつつある時代――高度経済成長による大量消費社会へと移行していく時代でした。ですから、マルクス主義のリアリティーというものは私の時代には、反戦運動などは別として、経済論理としてはいささか色あせたものに見えていました。
マルクス主義の余剰価値理論には、「搾取」という用語自体に倫理的道徳的な含意があり、それが搾取する側への闘争へと繋がるわけですが、父はむしろ地域の伝統を背負って存在する「家」制度や同族団、郷党社会――農地改革以前から続く地主や村の顔役的な存在と支配の構造を――何の矛盾や葛藤もなく、ごく自然に受け入れていました。
父にとっては農村社会の役回りとして、たとえば天神様の神社の氏子総代となることも、国鉄労組の組合員としてメーデーでインターナショナルを肩組んで歌うことも、結局は郷党社会の「情実」的人間関係の延長線上にあるものであり、それ以上の思想的なものは微塵もなかったように思います。
ところで私の郷里では、男の厄入り(数え年の42歳)には親戚や知人を呼んで祝うのが慣行となっており、父の厄祝いも温泉町の旅館で行われました。それは私が小学校6年生の時です。
その宴会の夜、したたかに酩酊する大人たちの中に『上等兵殿!』と周りから呼ばれる金歯のおじさんがいました。『上等兵殿じゃけん、○○さんは上座に座らにぁでけんばい』『なぁ~ば言よっかいた』と謙遜しながらも、本人もまんざらではなさそうな感じで、私は子供ながらに、上等兵とはそんなに偉いのかと思ったものです。
なぜこの話が農村社会の階層性と関連するかというと、戦前の農村社会では――正確には日中戦争あたりまでは、中等教育学歴を持たない者は、下士官となる道は開かれてはいても、現実には非常に難しいという事情があったからです。
私は子供の頃から戦争の話を聞くのが好きで、戦地帰りの大人に無邪気に質問を繰り返していましたが、私に話を聞かせてくれるおじさんたちは例外なく『兵隊』でした。士官(下士官)であった人の話は一度も聞いたことがありません。つまり、そのような農村地域の環境に於いては兵隊の最高位である上等兵は尊敬されたというわけです。
とくに平時に「一選抜の上等兵」として満期除隊する兵士はごく少数であったそうで、これに選ばれることは、村の青年にとっては「最高の名誉」とされ、優秀な人間として帰郷後も村人から尊敬されたそうです。
〈 一選抜の上等兵・・・初年兵は二等兵から始まって、半年後に全員が一等兵に昇進し、さらに三ヶ月後にごく少数の者が選ばれて上等兵に昇進します。この同年兵のトップを切って昇進する者を「一選抜の上等兵」と呼びました〉
このことは、戦前の在郷軍人会的な空気が、昭和40年代まで私の郷里に残っていたことを意味します。ただし、そこに思想的な意味での天皇制軍国主義への郷愁とか国粋主義があったというのではなく、もっと素朴でイノセントな感覚――同じ軍隊の飯を食ったもの同士の素朴な連帯感が土台となっていたように思います。
くだんの金歯の上等兵殿は饒舌闊達な人で、戦争中の暗い話もカラッとした調子で話していました。
「わしゃ、中国じゃ機関銃ばバリバリ射ちよりましたもんな、アッハハ!」
そこには、私が高校生の時に読んで感銘を受けた戦没学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』などに見られるような若きインテリ学徒たちの「苦悩」や「反戦」の思いなど微塵もありませんでした。しかし、農民出身の兵士の真実とは案外そういうものかも知れません。
むしろ『きけわだつみのこえ』がベストセラーとなった昭和30年代初頭の政治状況から言えば、「反戦」は「与えられた結論」に過ぎず、過激な精神主義や戦争謳歌の学徒の手記も一定数存在しながら、それらをあえて収録しなかったという編集方針は死者のイデオロギー的利用という批判的一面も確かにあったと思います。
それでも私が深く感銘を受けたのは、戦争の実相を知ったからというより、インテリ学徒の手記が醸し出す「教養主義的な苦悩」への屈折した憧憬のようなものがあったからです。「教養主義」とは、主として文学・哲学・思想・歴史方面の読書を通じて人格を陶冶し、自分自身を作り上げようとする文化で、大正期の旧制高校や大学で芽生えたものです。
旧制高校のキャンパス文化は大きく二つの時期に――初期の天下国家を論ずるバンカラ豪傑風から、後期の人生の煩悶を内省する文化教養主義へと変容しました。
強制的に戦争に連れていかれた彼等は、厭戦の気持ちを抱きながら戦地に赴き死んでいった人も多く、その彼等が死に直面した時、彼等なりの真理探究の立場から透徹した戦争批判や、冷静な内省による知性の輝きを手記に残したという、その殉教者的悲劇が、読む人の胸を深く打つといった構図がありました。
一方で、高校生であった私が戦没された学徒兵の遺稿に屈折した憧憬を抱くというのも変な話なんですが、その事情は、私が生きた農村部の文化的空気を、対極的に物語っているとも言えます。
私の少年時代の記憶では、ほとんどの農民兵にとって、従軍体験とは何の屈託も思想なく「ワッハッハ」と語られるものか、さもなくば、言語化も思想化もされない――したがって教養主義からはほど遠い「語りたくない体験」として寡黙の中に沈潜してしまうものかの二通りであったように思います。
たとえば、私の親戚の中に、日中戦争に従軍した大工の叔父さんがいました。それは私が小学校3年ぐらいの頃です。私を膝の上に乗せて「かずちゃん、おっちゃんの手ば見てみぃ、大工仕事でなぁ、こぎゃん節くれだってしもた」などと子供の関心を買いつつ私を可愛がってくれる気のいい叔父さんに私は戦争のことを訪ねたことがあります。
「おっちゃんは、戦争はどこに行ったと?」
すると叔父さんは急に虚脱したような虚ろな感じになり、やや間を開けた後で、ひと言
「中国・・・」と言いました。
「中国のどこね?」と私が聞くと、
これもひどく間を開けた後で、虚ろに無表情な顔で、ひと言
「徐州・・・」と言いました。
その時、叔母さんが出てきて、「かずちゃん、おっちゃんなな、戦争の話ばすっとは、あんまり好きなはらんもんなぁ」と言いました。以来私は、叔父さんに戦争の話を聞くのが気が引けてしまい、その人が94歳で亡くなるまで、私が聞き得た戦争体験の話は、後にも先にもこの時の二つの単語だけでした。叔父さんにとっては中国での戦争体験は「語りたく無い体験」というか、文字通り言語化し得ないものとして心の中に沈潜していたように見えました。それは正確には「語りたく無い体験」というよりも「語りようの無い体験」といった方がいいのかもしれません。
※この記事続く。
もどる