お便りシリーズNo.62

= H29年・2017年・早稲田・法学部古典(古文漢文)だより =






(一) 次の文章を読んで、あとの問いに答えよ。

同じ人(注1)、常に教へていはく、「あなかしこあなかしこ、
歌よみなた

て給ひそ
。歌はよく心すべき道なり。われらがごとく、あるべきほど定まりぬ

る者はいかなるふるまひをすれども、それによりて身のはふるることはなし。

そこなどは重代の家(注2)に生まれ、早くみなし子になれり。人こそ用ゐずと

も、心ばがりは思ふところありて、身をたてむと骨張るべきなり。

しかあるを、
歌の道その身にたへたることなれば、ここかしこの会に、か

まへてかまへてと招請すべし。よろしき歌詠み出で
〔 a 〕ば、面目もあり、

道の名誉もいでき
〔 b 〕べし。さはあれど、所々にへつらひ歩きて、人に馴

らされたち
〔 c 〕ば、歌にとりて人に知らるる方はありとも、遷度のさは

はかならずなるべかめり。

そこたちのやうなる人は、いと人にも知られずして、さし出づる所には、誰

ぞなど問はるるやうにて、
【 X 】思はれたるがよきなり。さて、何事をも

好むほどに、その道にすぐれぬれば、
錐(きり)、嚢(ふくろ)にたまらずとて、

その聞こえありて、しかるべき所の会にも交はり、雲客月卿(うんかくげっけ

い)の筵(むしろ)の末に臨むこともあり
〔 b 〕べし。これこそ道の遷度にて

はあれ。

ここかしこの人非人がたぐひに連なりて、人に知られ、名を挙げては、何

かはせむ。心にはおもしろくすすましく覚ゆとも、かならず所嫌ひして、やう

やうしと人に言はれむと思はるべきぞ」となむ、教へ侍り
〔 d 〕

 今思ひ合はすれば、いみじき恩をかうぶれるなり。さるは、かしこきものの

習ひなれば、わが子などをだに、おぼろけならで教訓することもなかりしを、

かやうにうしろやすく言ひ教へけるは、また異事にあらず、管弦の道につけ

て、跡継ぐ者とて、世にも人にもかずへられてあれかしと思ひけるにこそ。

のどかに思へば、いとあはれになむ。

                        (鴨長明 『無名抄』)

(注1) 同じ人……中原有安。平安時代の楽人・歌人。

(注2) 重代の家……代々神職になる家。


〔 全文訳 〕

 同じ人が、常に私に教えて言うことには、「(あなたは)決して決して歌詠みとして身を立てなさいますな。歌というものはよくよく心すべき道です。
私めのように「あるべき程度」(=あるにふさわしい社会的地位)が定まってしまった者は、どのようなふるまいをしたとしても、それによって身を放らかして落ちぶれるということはありません。

 (しかし)あたなは、代々神職になる家柄に生まれて(おりながら)、早くに孤児になってしまわれた。人があなたを認めようとしなくても、自分の心の中ばかりは思うところがあって、(神職として)身を立てようと意地を張るべきです。

 そうであるのを、(あなたは)
歌の道その身にたへたることなれば、あちこちの歌会には『何とかして何とかして(是非おいで下さい)』といって招待されることでしょう。(その歌会で)そう悪くない歌を詠み出したならば面目にもなり、歌の道の名誉ともなるでしょう。そうではありますが、(そのようにして)あちこちの歌会に出て人々にへつらって追従してまわって、人に馴らされてしまうと、歌については人に広く知られる方面があったとしても、遷度のさはりと必ずなってしまうにちがいないようです。

 あなたのような人は、それ程人から知られもしないで、出席した場所では『どなたですか』と問われるような程度でいて、
【 X 】と思われているのがよいのです。
 さて、何事も好んでやっているうちに、その道に優れてくるものなので、諺(ことわざ)にも『錐(きり)は嚢(ふくろ)の中にとどまらない。必ず先端が突き出るものだ』とあるように、(必ず人にも知られ)、その評判があって、それ相応な歌会にも交わるようになり、『雲客月卿(うんかくげっけい)』の列する歌会の末席を汚して会に臨むこともきっとあるにちがいない。これこそが歌の道における『先途』であります。 
 
あちらこちらの人非人(にんぴにん)のたぐひに連なって、そのような人たちに知られて名を挙げたとしても、それが何になりましょうか、いや、何にもなりません。内心ではそれをおもしろく思い、気乗りして思われるとしても、必ず歌を詠む場所の選り好みをして、(むしろ)『やうやうし』と人に言われるだろうとお思いになるのがよいのです。」と教えて下さった。

 今、このことを思い合わせてみると、すばらしい御恩を被ったのである。それというのは、これは『かしこきものの習ひ』なので、わが子などでさえ、並み一通りでなく格別な者でなくては教訓することもなかったのだが、このように心やすく言って教えて下さったのは、また他でもない、管弦の道において跡を継ぐべき者として、世間でこの私が一人前に扱われてほしいよとお思いになったからであろう。
今、のどかに落ち着いて思えば、たいそうしみじみと趣深いことである。


問一 傍線部1「歌よみなたて給ひそ」の解釈として、最も適切なものを一つ選べ。

イ 歌人として世に出ようとなさるな。

ロ 歌人として流行にへつらいなさるな。

ハ 歌人として和歌を詠み過ぎなさるな。

二 歌人として井の中の蛙になりなさるな。

ホ 歌人として俗世の暮らしに満足なさるな。

 「
な〜そ」は公式36〝柔らかい禁止〟を表す構文。訳し方は、「〜するな/〜しないで下さい」。原文の「なたて給ひそ」の「たて」の部分は、公式36にもあるように動詞の連用形と考えられますから、イメージされる字義としては「立つ(四段・下二段)」か「断つ・絶つ(四段)」の二つくらいしかありません。
 同じ段落の最後の部分に「重代の家に生まれ~身を
たてむ」とあるように、筆者の家系が代々神官の家柄であることをふまえて、それによって身を立てることの是非が話題になっていると推察できます。つまり「たて」は「身を立て(る)」意の「立つ(下二段)」であり、『歌よみな立て給ひそ』なのですが、本来は『歌よみにて身をな立て給ひそ』というべきところを、少し端折った表現です。職業歌人として身を立ててはなりませんぞといった意味で、それに最も近い答はイとなります。答=イ。





 さて、次の設問に移る前に、唐突ですが、H24の東京大学の古文問題を解いてみましょう。後で関連が分かります。

【2012年 H24 東大古文設問(一) 俊頼髄脳】

石橋(いはばし)の夜の契(ちぎ)りも絶えぬべし明くるわびしき葛城

(かつらぎ)の神

 この歌は、葛城の山、吉野山とのはざまの、はるかな程をめぐれば、事の

わづらひのあれば、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)といへる修行者の、この山

の峰よりかの吉野山の峰に橋を渡したらば、事のわづらひなく人は通ひなむ

とて、その所におはする一言主(ひとことぬし)と申す神に祈り申しけるやうは

、「神の神通(じんつう)は、仏に劣ることなし。凡夫(ぼんぷ)のえせぬ事をす

るを、神力(じんりき)とせり。願はくは、この葛城の山のいただきより、かの吉

野山のいただきまで、岩をもちて橋を渡し給へ。この願ひをかたじけなくも受

け給はば、
たふるにしたがひて法施(ほふせ)をたてまつらむ」と申しければ、

〈以下省略〉


設問(一) 傍線部「たふるにしたがひて」を現代語にせよ。

 「たふる・に・従ひ・て」の「たふる」の部分は動詞と考えられ、そうであれば、その
動詞の終止形は「たふ」になります。「へ/へ/ふ/ふる/ふれ/へよ」つまり、下二段動詞「たふ」の連体形が「たふる」であると推察できます。ここで受験生がイメージできる字義としては、「堪ふ(耐ふ)=我慢する・堪える」の字義しか思い浮かばないのではないでしょうか?

 中には「倒(たふ)る」の字義を考える人もいるかもしれませんが、意味的にも文法的に整合しません。格助詞「に」の接続は体言・連体形ですから下二段動詞「倒(たふ)る」であれば、『たふるるに従ひて』となるはずで、ここは「たふるにしたがひて」ですから、文法的にも合致しません。

 従ってやはり「堪ふるに従ひて」と考えざるを得ず、実はその発想は正しいのですが、しかし、今これを読む人は「耐ふ・堪ふ」の字義として、この文脈にうまく整合する訳をとっさに思い付くことができるでしょうか?

 たとえば『我慢するのに従って法施を差し上げましょう』とか、『堪える程度に応じて法施を差し上げましょう』では、まったく文意が通じません。重要単語の意味を的確に暗記してさえいれば簡単に解けてしまうという事実を際立たせるためにも、今、自分なりの意訳を何とか本気で考えてみて下さい!


(しばし閑)


 では、解説しましょう。木山方式では、入試に問われた際の「
たふ(堪ふ)」の訳出は『能力がある・能力を発揮する』のいずれかで考えるように指導しています。入試の実際ではこの訳し方が最も汎用性が高く、このH24東大の場合も「能力を発揮する」の訳を使えば、『能力を発揮するのに応じて(=従って)』(法施を差し上げましょう)と文脈にピッタリ整合する訳を時間をかけずにすぐに得ることができます。これで減点無しの模範解答です。

答=能力を発揮するのに応じて

〈この年度の詳しい解説はお便り№44に載せられていますから参考にして下さい。〉

 木山の直単450は毎年3月に改訂作業をしています。その際チェックする入試問題は、その年度に出題されたばかりの東大・京大・阪大・東北大・北大・九大・名大・早稲田・上智・明治・立教・青学・法政・中央の古漢問題です。

 それらの問題・解答を精査し、入試問題としての新たな出題傾向を示すような単語・文法(古漢)が出現していないかどうか、注意深く見た上で、特に汎用性の高そうなもの――つまり次年度以降の入試や模試などにも出題されそうな単語とその特有な意味があれば、直単の中に組み入れて行きます。
〈以前は関西の私大や地方の国立大まで網羅していましたが、近年ではおよそ上記の範囲でやっています〉

 これに、その年度中に解説した過去問・模試など(70〜80題)から帰納的に集めた単語情報――これらは専用のノートに収録しているのですが、それらを足して吟味した上で、近年のトレンドから外れつつある単語と入れ替えて行くといった作業を、かれこれ30年も繰り返しています。
30年間継ぎ足しながら守り続けてきた老舗料理屋の秘伝の〝たれ〟みたいなものです。(笑)

 「
堪(た)ふ=能力がある・能力を発揮する」の初見は確か10年以上前、どこかの国立大学が『歌よみとしてよにたへたるものなれば』の訳を課したのが最初であったように記憶しています。(大学名は忘れてしまいました。)
 とにかくこうした地道な作業を繰り返して行けば、かなりの割合で本番入試に出題される単語を事前に網羅出来るという事実に、読者は注目すべきです。

 というのも、「釣りは仕掛けが9割で、仕掛けが不備のままでは、いくら釣りの現場で頑張っても魚は釣れない」とは釣り好きの知人の弁ですが、入試古文もまったく同じであるからです。年間で東大対策、早稲田対策として40題程度の過去問・予想問題の演習を繰り返しても、そこに運良く「堪ふ=能力がある・能力を発揮する」が出現する僥倖(ぎょうこう)を期待するのは、実にはかない期待というべきで、確率としては限りなくゼロに近いと思います。

 木山方式に即して言えば、入試古典への有効性の価値というものは、何をどこまで教えるかについて、その内容と範囲を策定する前年3月の時点で、すでに翌春の勝負は決まっているということです。

 今風の言葉で言えば、眼前の授業でいかに受験生をアッと驚かせるような〝
神ってる解説〟を展開したとしても、または相互通話方式などの最新のウェブ授業に目を見張ったとしても、そもそも何を教えるかについてテキスト内容が決められた時点で、「堪ふ=能力がある・能力を発揮する」の項目が入っていなければ、この設問に対する効果は、教授法の妙味などや最新機器の利点などに関わらず〝ゼロ〟であるということです。





 では、単元的大問演習では必ずしも網羅されない単語については、市販の単語集などによって充分カバーできるのではないかと主張する人には、どう答えるべきでしょうか?

 H24東大古文の設問(一)に得点寄与する「堪ふ=能力がある・能力を発揮する」の知識が、市販の単語集にどの程度載せられているかを調べてみました。

 
索引に「堪ふ」の項目が無く、まったく載せられていないものは「無し」、 「十分できる」などと近似的意味合いで載せているものは、「能力がある/能力を発揮する/堪能である」など、ぴったりの訳を載せているものは「有りとしました。

以下がその結果です。


● 荻野 文子 マドンナ古文単語230古文単語集 
  累計売れ行き№1           学研 900円 →
無し

● 古文単語早わかり300 堀内 剛史 中経出版 1300円→
無し


● 1分間 古文単語240 石井 貴史 水王舎 950円 →
無し


● 望月 光の古文単語333 旺文社 900円→
無し


● 完全征服 標準 古文単語650 三訂版 桐原書店 777円→
無し


● 古文単語マスター333 西村 雪野 数研出版 743円→
無し


● 文脈から理解する新読解古文単語 池田 匠 桐原書店 800円→
無し


● 解法 古文単語350西村 雪野 入試に最も強い古文単語集820円
                                     →
無し


● 吉野式 ピタリと当る古文単語完璧バージョン 吉野 敬介
                       学研出版 900円→
無し


● 駿台 日々 にちにち古文単語帳 駿台文庫 900円→
無し


● 覚えやすく忘れにくい 精選 古文単語300PLUS
                   三省堂    860円 →
無し


● 読んで見て覚える 重要古文単語315 桐原書店 820円→
無し


● グレード別最重要古文単語 受験研究社   820円 →
無し


● 新版 完全制服合格 古文単語380 桐原書店 800円 →
無し


● Z会 読み解き古文単語 改訂版 Z会 900円 →


● 入試に聞け!古文単語 エール出版 1500円 →
有り

● 入試古文単語速習 コンパス400  桐原書店 820円 →
有り

● オールインワン古文単語540 板野 博行
  スタディーカンパニー             900円→
有り


 以上、18冊中、まったく載せられていないものが14冊、〝東大古文の解法に効果あり〟とはっきり判断できるものが3冊という結果でした。
 私としてはやはり『木山の直単450』を多くの受験生に薦めたいと思います。要請があればいつでも誰にでも郵送しています。無料ですし、著作権もありません。高校の先生方が同類のものをお作りになる際の土台として利用することも可能です。





では、H29の早稲田・法の問題にもどりましょう。


問二 傍線部2「歌の道その身にたへたることなれば」の解釈として、最も適切なものを一つ選べ。

イ 私は和歌の師匠であるので。

ロ 私は和歌の家に生まれたので。

ハ あなたは和歌の才能があるので。

二 あなたは和歌が苦手だったので。

ホ あなたは和歌の家に生まれたので。

 もちろん
正解はハです。「堪へたること」→「能力があること」→「才能があること」と解釈できます。

問三 空欄【 a 】〜【 d 】に入る語の組み合わせとして、最も適切なものを次の中から一つ選べ。

イ a たら   b ぬ   c なれ  d し

ロ a たら   b ぬ   c な   d し

ハ a たれ   b ぬ   c な   d しか

二 a たれ   b ぬる  c なれ  d し

ホ a たら   b ぬる  c なれ  d しか


 「よろしき歌詠み出で
〔 a 〕ば」は、仮定条件と考えられるので、完了『たり』の未然形『たら』が入ります。

 「道の名誉もいでき
〔 b 〕べし。/臨むこともあり〔 b 〕べし。」は、公式5強意の『ぬべし』の用法なので『ぬ』が入り、訳し方はそれぞれ〝強意の訳し方〟の①=きっと〜だろう(きっと歌の道の名誉も出てくることだろう)/④=きっと〜ちがいない(きっと臨むこともあるにちがいない)に相当します。

 「人に馴らされたち
〔 c 〕ば、」も、仮定条件なので、公式5*〜なば→(完了ぬの未然形+ば)=仮定とあるように、完了の助動詞「ぬ」の未然形の『な』が入ります。
 「〜となむ、教へ侍り
〔 d 〕。」は、公式27係り結びの法則(係助詞「なむ」の結びは連体形)により、文末が連体形となるので、過去「き」の助動詞の連体形『し』(公式3)が入ります。
従って正しい組み合わせは、ロとなります。

答え→ロ


問四
傍線部3「遷度のさはり」は本文中でどのような意味で使われているか。最も適切なものを一つ選べ。

イ 家道の衰退    ロ 表現の類型化

ハ 信仰のゆらぎ   二 出世のつまずき

ホ 精進のさまたげ

 解法のポイントは「遷度」にあるのではなく、重要古文単語の
『さはる』(A動28障る=差しさわる・障害となる)の方にあるという判断を早くに下すことです。仮に私が受験生であっても「遷度」自体の正確な意味はわからなかったと思います。

 とにかく、「さはり」の意味に着目すれば、同じニュアンスを含む選択肢は選択肢二 の「つまずき 」 とホの「さまたげ 」の2つしかありません。この2つの選択肢のうち、より不適当な方を消去するといった解法になります。

 まず選択肢ホの「精進のさまたげ」の方を吟味してみましょう。
古文背景知識№1・2(=仏教関連)に解説されているように、
⑴ひたすら仏道修行に励むこと ・⑵肉食をせず心身を浄めることを〝精進〟と言います。つまり、〝精進〟とは仏道修行に関連する仏教用語であり、この本文で語られている歌道・神道(神主の家柄)・管弦の道などとは、どこにも関連を見出せません。従って、ホの「精進のさまたげ」は消去されますから、答えはハの「出世のつまずき」が正解です。

答え=ハ

 前半部の話題が「何によって身を立てるべきか」 であることからも、和歌の方面で人に知られることがあったとしても、それでは『本来の身を立てる道』に於いて
差し障りがきっと生じることでしょう、というのがこの前後の文脈です。

 ちなみに「遷度(せんど)」は直接に「出世」を意味する語ではなく、先途(せんど)」の当て字です。「先途」は〝これからの行く先・将来〟の意であり、今でも「前途洋々」などと言う時の、あの「前途」の意と同じです。ここでは歌道における将来の出世とも、神官としての将来の出世とも、どちらにも取れます。

 受験生の中には、作者の鴨長明は隠者文学としても有名な出家した僧であるから、仏教用語としての「精進」が適当ではないかと考えた人もいるかも知れません。しかし、この『ある人物』の教えの中には『身をたてむと骨張るべきなり。』などとあり、あくまで在家の人=出家していない人としての処世のあり方が語られていますから、一方で「身を立てる」ことを勧めながら、その一方で俗世を離れた出家者としての「精進の障り」を心配するというのは矛盾です。この説明がピンと来ない人は私のホームページの
〝古文背景知識№1・2〟を読んで、出家の理念を学んで下さい。

 作者の鴨長明が出家したのは、晩年の50歳ぐらいの頃です。この文章の全体は若き日に受けた教訓の回想であって、それは父の死の話題から推察するに、おそらく長明の二十歳前後のことではないかと言われています。つまり、その時点での長明はまだ出家していないのですから、〝精進の障り〟を諭される立場ではありません。


問五 空欄[ X ]に入る、最も適切な語を一つ選べ。

イ あやしく    ロ あさましく

ハ こころにくく  二 らうらうじく

ホ つきづきしく

 前後の文脈は、(たとえ歌会に招待されたとしても) あなたのような人は、それ程人にも知られずに、さし出づる所では、「どなたですか?」と尋ねられるようであって、(人から)[ X ]と思われているのが良いのです、といった内容。

 要するに、歌会に於いては、厚かましく自ら出しゃばるような真似をせず、控えめで慎ましく奥ゆかしい態度でいるのがよいと諭している文章です。実はその『奥ゆかしい』(現代語としては=奥深く慎ましい品位が感じられて心ひかれるさま)という定番の訳を持つ単語がイ〜ホの中に一つあります。どの単語がそれに当たるか、自信を持って瞬時にわかりますか?

○「あやしく」→B形6① ふしぎだ・妙だ ②卑しい・粗末だ

○「あさましく」→B形2 驚きあきれる(意外だ)

○「こころにくく」→B形39 奥ゆかしい

○「らうらうじく」→C形84 洗練されて才気がある

○「つきづきしく」→C形52 似つかわしい・ふさわしい

答え=ハ

 直単の暗記が徹底されていれば、答は瞬殺でハに決まります。迷って時間をかける必要などまったくありません。



問七
傍線部5「ここかしこの人非人がたぐひ」と、本文中で対比的な意味で使われている語句はどれか。最も適切なものを一つ選べ。

イ ここかしこの会   ロ そこたちのやうなる人

ハ 雲客月卿      二 筵の末

ホ 道の遷途

 傍線部の直前の文章では「その聞こえありて、しかるべき所の会にも交わり、雲客月卿の筵(むしろ)の末に臨むこともありぬべし。これこそ道の遷度にてはあれ。」と肯定的に評されているのに対し、傍線部を含む一文では「ここかしこの人非人がたぐいに連なりて、ひとに知られ、名を挙げては、何にかはせむ。」と逆に否定的に評されています。

 この対照的な前後の主張の中に『
人非人のたぐひ」と対比的な語句があるのだろうと考えるのが筋ですが、『雲客月卿の筵の末」といった見たこともない不可解な表現に戸惑ってしまう学生も多かったことでしょう。『対照的な文脈の構造から類推すれば、答えは○○に決まる!』などといった解説は、えてして解答を明確に知っていればこそ言えることであって、試験場で孤独な闘いを強いられる受験生にとっては、意味不明な語句を正解として選ぶことには当然躊躇があったはずです。

 結局、なにが決め手になるかと言えば、やはり、類推を可能とするような単語の知識を持っているか否か、と言うことになるでしょう。

 木山方式では『
雲居(くもゐ)』の意味を〝①雲のある遠くの方〟の意と、②庶民の目から見た雲の上の世界というニュアンスで、〝宮中〟(天皇が住まうパレス)の二つの意として暗記しています。又、これに付随して、「殿上人」を「雲の上人(くものうえびと)」とも言うことも音声ダウンロードの解説にある通りです。

 また、『
上達部(かんだちめ)』(D基10)の別称を何と言うか?という問いは、学生に当てる際には必ずチェックするポイントです。答えは三位以上の上流貴族を意味する「公卿(くぎょう)」です。

 この二つの単語の知識を知っていれば、『雲客月卿(うんかくげっけい)』の意味内容もだいたい察しがつきます。「雲客(うんかく)」が五位以上の殿上人をあらわし、「月卿(げっけい)」が三位以上の公卿をあらわすのだろうと考えるはずです。

 「人非人(にんぴにん)」とは、人の数にも入らない身分低い人たちの意であり、文脈的にも、そのような人非人が集まる歌会に出て有名になるより、
殿上人公卿が行なう格式ある歌会に出席して名を挙げる方が歌人としての真の名誉であるという主張にうまく整合します。筵(むしろ)の末」とは、そのような高貴な人たちの末席につらなることを比喩的に述べたものです。

答え=ハ


問八
本文の内容と合致するものを次のなかから一つ選べ。

イ  「同じ人」は、筆者を自分の後継者と見なしていたので、歌人としての活動に時間を奪われるべきではないと説いていた。

ロ  「同じ人」は、筆者の親代わりであり、筆者はわが子に対するよりも親身に歌の手ほどきをしてくれたと感謝していた。

ハ  「同じ人」は、歌道の厳しさを知っていたので、筆者が多くの歌会で和歌を詠み散らし、評価が下がることを心配していた。

二  「同じ人」は、筆者に和歌を詠む場を選ぶことを勧め、そのためにはもったいぶっているという批判も甘受すべきだと考えていた。

ホ  「同じ人」は、歌人の地位の低さを知っていて、そのために筆者が高貴な人たちから相手にされないのではないかと警戒していた。

 イの「歌人としての活動に時間を奪われるべきではない」が、本文中に時間についての言及が無く、又、「同じ人」の訓戒が、筆者の和歌の才能の活かし方について説いている点でも矛盾します。

 ロの「筆者の親代わり」とは書かれておらず、又、「歌の手ほどき」を受けたのではなく、伝授されたのは音楽の方面。

 ハの「歌会で和歌を読み散らし、評価が下がる」と一概に言える訳ではありません。場所を選べと言っているわけであって、公卿殿上人の歌会に座を列ねることは名誉だと述べています。

 二の「筆者に和歌を詠む場を選ぶことを勧め」は文中にある通りの訓戒であり、「そのためにはもったいぶっているという批判も甘受すべき」は、文中の「かならず所嫌いして(=場所の選り好みをして)、やうやうしと人に言われむと思はるべき」の意訳と考えられるので、二が正解です。

 ホの「筆者が高貴な人たちから相手にされない」の部分が、" 雲客月卿の筵の末に臨む "という表現に合致しません。

答え=二





 


【 二 】 (漢文)

 次の文章は、戦国時代・楚の恵王が節句の食事の際、漬け物に蛭(ひる)が紛れていることに気づきながら、調理人・配膳役が厳しく罰せられるのを憐れんで、知らぬふりをして蛭を呑み込み、かえって腹痛を起こした、という故事に対し、その数百年後の学者王充が、この恵王の行為における三つの『不肖』(愚かさ)を指摘した部分である。(うち、第一と第三の「不肖」のみ)。この文章を読んで、あとの問いに答えよ。

《以下本文の書き下し文を載せます》

○恵王(けいおう)蛭(ひる)を譴(とが)むるに忍びざるは、庖厨監食(=調理人

・毒味 配膳役)の法皆誅(ちゅう)に当たるを恐るればなり。一国の君、賞罰を

専擅(せんせん)すれば而(すなは)ち人を赦すは、君の為す所なり。

恵王(けいおう)菹(そ=漬け物)中に何の故に蛭有るかを通譴(つうけん=徹

底して罪を取り調べること)せば、庖厨監食皆法に伏するに当たる。

然 能 終 不 以 飲 食 行 誅 於 人 、

赦 而 不 罪 、恵 莫 大 焉。

 庖厨罪覚(さと)りて誅(ちゅう)せられざれば、自らを新(あらた)にして後を改

め、恵王(けいおう)細を赦して微を活(い)かし、身安(やす)らかにして病まず。

今は則ち然らず。強いて己を害するの物を食ひ、

使 監 食 之 臣 不 聞 其 過、

下(しも)を御(ぎょ)するの威を失ひ、非を禦(ふせ)ぐの心無し。不肖の一なり。

・・・・・中略・・・・・

 菹(そ=漬け物)中に当(まさ)に蛭有るべからざれば、食はずして地に投ぜ

よ。如(も)し左右の見んことを恐るれば、隠匿(いんとく)の処に懐屏(かいへ

い)するも(=そっと取り除いて見えない場所に隠したとしても)

足 以 使 蛭 不 見、

 何ぞ必ずしも之を食はん。如(も)し食ふべからざるの物、誤って菹(そ)中に

存らば、復た隠匿して強いて之を食ふべけんや。不肖の三なり。


《 全文訳 》

 恵王は蛭(が漬け物に紛れていたこと)をとがめることを忍びなく思ったのは、調理人や配膳役が皆誅罰を受けることを恐れたからである。

一国の君主は賞罰をほしいままに自分一人で処理する専権的な立場であるから、罪人を許すのは君主の為す所である。もし、恵王が漬け物の中に何の理由で蛭が紛れていたかを徹底して取り調べていたならば、調理人や配膳役は皆法に服するに当る。

傍線部1 然 能 終 不 以 飲 食 行 誅 於 人 、

赦 而 不 罪 、恵 莫 大 焉。


 調理人が罪が発覚したとしても、その上で誅罰を免れたならば、調理人は自ら思いを新たにして後の行為を改め、恵王は些細な罪を赦して微臣を活かし、その身は安らかであって(蛭を飲み込んで)病気になることもなかった。しかし、今の場合はそうではない。無理に己を害する物(=蛭)を食らい(その結果)、

傍線部3 使 監 食 之 臣 不 聞 其 過、

 下(しも)に仕える者を制御する(=自分の意のままに動かし取り締まる)威力を失い、間違いをふせぐという心掛けがない。これが愚かさの第一である。

・・・・・中略・・・・・

 漬け物の中に蛭が紛れていては良くないのであれば、それを食べずに地面に投げ棄てればよい。もし、側近の家来が見ることを恐れるのであれば、そっと取り除いて見えない場所に隠したとしても、

傍線部4 足 以 使 蛭 不 見、

どうして必ずしも之を食う必要があろうか。もし(これ以後も)食べてはならない物が誤って漬け物の中にあったならば、恵王はふたたび隠して無理に之を食べることなどできようか(=繰り返し同じことをして病気になるのは愚かしいことではないかといったニュアンス)。これが愚かさの第三である。





問九 傍線部1「然 能 終 不 以 飲 食 行 誅 於 人 、 赦 而 不 罪 、恵 莫 大 焉 。」の解釈として、最も適切なものを次の中から一つ選べ。
(迷いそうな三つの選択肢を載せます)

イ  しかしながら、最終的に飲食のことなどで処罰したりせず、許して罪を不問にすることができたならば、それより大きな恩情はない。

ロ  しかしながら、ヒルが紛れていたことを理由として一度人を処罰したうえで、最終的にそれを許すように進めたならば、その恩は絶大なものとなる。

ハ  しかしながら、飲食の不手際を理由に責任者を厳重に罰することをせず、最終的に罪を許して無罪としたならば、恵王は史上もっとも偉大な君主になれる。

 冒頭の「然」は逆説読みで、『然(しか)レドモ 能(よ)ク 終(つひ)二~』までは木山の漢単の知識で問題なく読めます。「以」は基本的に返読ですから、「飲食ヲ以テ~」が以下の述部にかかる条件句になるはずです。つまり、飲食を理由・条件として→述部(~する)の形。

 さらにその下の「行  誅  於  人」の部分は『於』の置かれた位置から、文構造としては、V(動詞) + O(目的語) + 『於』 + C(補語)と見抜けますから、読み方は『誅(ちゅう)ヲ 人二 行(おこな)フ』と読めます。(すぐに理解できない人は、漢文公式・公3④を参照して下さい)

 その一文構造が上の「不」で打ち消されると考えれば、「然(しか)レドモ 能(よ)ク 終(つひ)二 飲食ヲ以テ 誅(ちゅう)ヲ 人二 行(おこ名)ハズ』となります。

 ここで文末の「不」を仮定条件にして「飲食ヲ以テ誅(ちゅう)ヲ人二行(おこ)ハザレバ/~ズンバ」と、読みたくなるところですが、以下の『 赦  而  不  罪、』の意味内容から、仮定条件はこの部分で『 赦
シテ 罪セザレバ/~罪セズンバ』とするのが良く、従って上の「不」はそのまま「ず」の連用形にしておくか、又は、接続助詞の「シテ」をともなって「ずシテ」と読みつなぐのが良いという判断に至ります。

 これで仮定条件が完成です。つまり『然(しか)レドモ 能(よ)ク 終(つひ)二 飲食ヲ以テ〈=飲食を理由・条件にして〉誅(ちゅう)ヲ 人二 行(おこな)ハズシテ、赦(ゆる)シテ罪セザレバ~/罪セズンバ』。

 最後の「 恵 莫 大 焉。」は漢文公式・公16Cの比較の句形と漢単D44「焉」の知識で解けます。「焉」が文末にあってレ点で一字上の字に上がる場合は「焉=これ」と読みます。一方「 莫
大 ~」の句形は比較の最上級で、「~ヨリ大(だい)ナルハ莫(な)シ」と読みます。

 従って全体の読みは、【
然(しか)レドモ 能(よ)ク 終(つひ)二 飲食ヲ以テ 〈=飲食を理由・条件にして〉誅(ちゅう)ヲ 人二行(おこな)ハズシテ、赦(ゆる)シテ罪セザレバ、恵(けい=めぐみ) 焉(これ)ヨリ 大(だい)ナルハ 莫(な)シ】です。

 「
」(けい)は〝めぐみ〟の意であり、「恵王」の意ではない点に注意して下さい。他の箇所で、恵王は全て「恵王」と記されています。

 以上の説明により、問九のイ・ロ・ハの選択肢のうちどれが正解か、おのずと明らかでしょう。〝
飲食を理由・条件にして誅罰を人に行なわず〟という文意を正しく反映している選択肢は、イの「飲食のことなどで処罰したりせず」しかありません。

ロは「一度人を処罰した上で」が否定の「不」を無視しており、ハは「恵」を恵王と解釈している点が誤りです。


問十一 傍線部3「使 監 食 之 臣 不 聞 其 過 」は、『カンショクノシンヲシテソノアヤマチヲキカザラシメ」と読む。この読みに従って、白文に返り点のみを記入せよ。



ここで唐突ですが、H25年度の早稲田教育学部の白文問題を解いてみましょう。後で関連がわかります。

問二十八 傍線部「 師 語 我 当 得 禄 位 」は、『 シワレニマサニロクイヲウベキヲカタル』 と読み下す。この読み下し文になるように、返り点を付けよ。
本来は選択肢問題ではないのですが、学生がやりがちな間違いを含めた三つの選択肢を載せます。さて、どれが正解でしょう?

① 師 語
我 当 二レ 得 禄 位

② 師 語
我 当 禄 位

③ 師 語
我 当 一レ 禄 位

《ヒント》一二三点は、それぞれがジャンプして飛ぶための踏み切り板と着地点です。一点で踏み切ったら二点に着地せよという命令であり、更に二点で踏み切ったら三点に着地せよという命令です。命令は常に一系統でなければ走者は混乱します。

 一点を踏み切って二点に着地しようとする際に、「二レ」などとあって〝一字下の字に着地せよ〟という別の命令がでてしまいますと、命令が二系統になってしまい走者は混乱します。一点からジャンプしたら必ず二点に着地せよというのがルールですから、理論上「二レ点」などは存在しません。

また、着地した二点からレ点で一字上の字に上がったとしても、レ点ではジャンプ台としての踏み切り板の機能がありませんから、三点に飛ぶことはできません。三点にジャンプできるのは、必ず二点の付いている踏み切り板からというのがルールです。

 ではどうすれば上手くいくかと言えば、まず、一点でジャンプして二点に着地する、その後でレ点で上の字に上がる、で、そこに新たなジャンプ台としての一点を置いて二点に飛ぶようにする、こうすれば矛盾はありません。つまり、
ジャンプ台→着地→上がれ(上がれ→上がれとレ点が複数のことも有ります)→ジャンプ台→着地、とすれば矛盾なく読むことが出来ます。

 実は、この返り点の形『○
○ ○ 一レ ○ ○ ○ 。』を要求する白文問題を、早稲田は近年よく出題しています。(H20教育学部問二十七→H25教育学部問二十八→H29法学部問十一など)

 木山の漢文公式、公式21の直前に【間違いやすい返り点のつけ方】として紹介しているのが、まさにこの用例です。
 漢文公式チェックリストで年間に何度もチェックする項目ですが、筑駒・開成・栄光学園などの進学校の学生でも、事前に何も教えなければかなりの高確率で間違います。数年おきに同類問題を見かけるというのも、早稲田の出題者が得点率のリサーチなどを通して、この手の出題の旨みを(?)自覚しているからであろうと私は思います。

 以上の説明により、H25早稲田・教育・問二十八の
答えは③が正解です。
さらに、今年の早稲田・法・問九の返り点問題も、この考え方をあてはめれば必ず正しい返り点になるはずです。

答え= 使 監 食 之 臣 不 一レ 其 過

 この記事を読む人は、
事後的な解説ではなく、事前の早稲田対策として白文問題がぴったりと対策化されていたという事実に注目すべきです。しっかり網を張って毎年分析していればこうした対策は比較的容易にできます。


問十二  傍線部4「足 以 使 蛭 不 見 」の読み方として、最も適切なものを次の中から一つ選べ。

イ  以て蛭を使ひ見ざらしむるに足れば

ロ  足は蛭を使ふを以てして見えざれば

ハ  足りて以て蛭をして見えざらしめば

二  以て蛭をして見えざらしむるに足れば

ホ  足るに蛭をして見えざらしむるを以てせば

 使役の助字の「使(し)ム」を「使ふ」と読ませたり、「足」をそのまま身体の〝足〟と読ませたりするのは、ひっかけ選択肢の伝統ある典型とも言うべきもので、予備校講師となって33年間ずっと目にして来ましたが、未だに消える気配がありません。
 「足」は『
足(た)ル』と読んで、本動詞の場合は「~するに十分である」(漢単C18)の意です。

 選択肢のニの読み方を前後の文脈に挟んで読み通してみますと、
『もし、側近の家来が見ることを恐れるのであれば、そっと取り除いて見えない場所に隠したとしても』→以て蛭を見えざらしむるに足れば=それで以って蛭を見えなくさせるのに充分であれば、→『どうして必ずしも之を食う必要が、あろうか。』となり、前後の文脈にぴったり整合します。

答え=ニ


*以上、H29早稲田・法学部の古典(古文漢文)問題全13問中、木山方式の直接ダイレクトな得点寄与率は、

【13問中8問】 [61.5%]




《法学部合格者の声》 

 早稲田大学の政治経済学部・法学部・文化構想学部に合格しました。早稲田の入試当日には、先生の古漢公式セットしか持って行きませんでした。先生の授業で、公式を使った相当量の実戦形式の演習を何度も繰り返したおかげで、本番入試でも時間配分はバッチリでした。










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