お便りシリーズNo.63
= H29年・2017年・東京大学古典だより =
【 木山方式は今年も東大古典に有効であったかの検証 】
第二問
次の文章は、『源氏物語』真木柱巻の一節である。玉鬘(たまかずら)は、光源氏(大殿)のかつての愛人であった亡き夕顔と内大臣との娘だが、両親と別れて筑紫国で育った。玉鬘は、光源氏の娘として引き取られ多くの貴公子達の求婚を受けるかたわら、光源氏にも思慕の情を寄せられ困惑する。
しかし意外にも、求婚者の中でも無粋な鬚黒(ひげくろ)大将の妻となって、その邸に引き取られてしまった。
以下は、光源氏が結婚後の玉鬘に手紙を贈る場面である。これを読んで、後の設問に答えよ。
二月にもなりぬ。大将は、さてもつれなきわざなりや、いとかう際々(きは
ぎは)しうとしも思はでたゆめられたる妬(ねた)さを、人わろく、すべて御心
にかからぬをりなく、恋しう思ひ出でられたまふ。宿世(すくせ)などいふもの
アおろかならぬことなれど、わがあまりなる心にて、かく人やりならぬものは
思うぞかしと起き臥(ふ)し面影にぞ見えたまふ。大将の、をかしやかにわらら
かなる気(け)もなき人に添ひゐたらむに、はかなき戯(たはぶ)れ言(ごと)もつ
つましう、あいなく思(おぼ)されて、念じたまふを、雨いたう降りていとのどや
かなるころ、かやうのつれづれも紛らはし所に渡りたまひて、語らひたまひし
さまなどの、いみじう恋しければ、御文奉りたまふ。右近がもとに忍びて遣は
すも、かつは思はむことを思すに、何ごともえつづけたまはで、ただ思はせた
ることどもぞありける。
「かきたれてのどけきころの春雨にふるさと人をいかにしのぶや
つれづれに添へても、恨めしう思ひ出でらるること多うはべるを、イいかでか
は聞こゆべからむ」などあり。
隙(ひま)に忍びて見せたてまつれば、うち泣きて、わが心にもほど経るまま
に思ひ出でられたまふ御さまを、まほに、「恋しや、いかで見たてまつらむ」
などえのたまはぬ親にて、ウげに、いかでかは対面もあらむとあはれなり。
時々むつかしかりし御気色(けしき)を、心づくなう思ひきこえしなどは、この
人にも知らせたまはぬことなれば、心ひとつに思しつづくれど、右近はほの気
色見けり。エいかなりけることならむとは、今に心得がたく思ひける。
御返り、「聞こゆるも恥づかしけれど、おぼつかなくやは」とて書きたまふ。
「ながすめる軒(のき)のしづくに袖ぬれてうたかたオ 人をしのばざらめや。
ほどふるころは、げにことなるつれづれもまさりはべりけり。あなかしこ」と
カゐやゐやしく書きなしたまへり。
ひきひろげて、玉水のこぼるるやうに思さるるを、人も見ばうたてあるべしと
つれなくもてなしたまへど、胸に満つ心地して、かの昔の、尚侍(かむ)の君を
朱雀院(すざくゐん)の后の切(せち)にとり籠(こ)めたまひしをりなど思し出
づれど、さし当たりたることなればにや、これは世づかずぞあはれなりける。
キ好いたる人は、心からやすかるまじきわざなりけり、今は何につけてか心
をも乱らまし、似げなき恋のつまなりや、とさましわびたまひて、
御琴掻(か)き鳴らして、なつかしう弾きなしたまひし爪音(つまおと)思ひ出で
られたまふ。
〔注〕○ つれなきわざ ―― 鬚黒が玉鬘を、光源氏に無断で自分の邸に引き取ったこと。
○ 紛らはし所 ―― 光源氏が立ち寄っていた玉鬘の居所。
○ 右近 ―― 亡き夕顔の女房。玉鬘を光源氏の邸に連れてきた。
○ 隙に忍びて ―― 鬚黒が不在の折にこっそりと。
○ うたかた ―― 泡がはかなく消えるような少しの間も。
○ 尚侍の君を朱雀院の后の切にとり籠めたまひしをり ―― 当時の尚侍の君であった朧月夜(おぼろづきよ)を、朱雀院の母后である弘徽殿(こきでん)大后が強引に光源氏に逢えないようになさった時のこと。現在の尚侍の君は、玉鬘。
〔 全文訳 〕
二月にもなった。源氏の大臣は、それにしても平然とした(髭黒大将の)仕業であることよ。たいそうこのように『際際(きはぎは)し』=きっぱりとしたこと
(注=玉鬘を無断で自邸に引き取ったこと) をするとは思いも寄らず、油断させられてしまったことの妬(ねた)ましさを、人聞きも悪く、まったく御心にかからぬ折とて無く、(玉鬘のことを)自然と恋しく思い出しなさる。
前世の因縁などというものは ア『おろかならぬことなれど』、自分のあまりに(うかつな)心によって、このような(誰のせいでもなく)自分せいで物思いをすることであるよ・・・と、起きても寝ても(玉鬘のお姿が)面影としてお見えになる。
髭黒大将の(ような)、『をかしやかにわららかなる気(け)もなき人』に(玉鬘が)寄り添っているとしたら、ちょっとした冗談ごとを(玉鬘に言い送るのも)遠慮されてつまらなくお思いになられて、(玉鬘への消息を)我慢していらっしゃるのを、雨がたいそう降り続いてのどやかな頃、このような折の所在なさを紛らわしていた場所(=以前の玉鬘の部屋)にお渡りになると、玉鬘と親しく言い交わしなさった様子などが、たいそう恋しいので、源氏はお手紙を差し上げなさる。
右近のもとにこっそりと人目を避けて文使(ふみづかい)をお遣りになるのも、一方では(右近が)どう思うであろうかとお思いになって、何事も(詳しく)書き続けなさることもお出来にならず、ただ(相手に)思わせる(=察してもらう程度の)内容であった。
「垂れこめて降り続くのどやかな今日この頃の春雨に、あなたは古い馴染みの土地の人=ふるさと人である私のことを、どのようになつかしく思い出しているのでしょうか。
所在なさに添えても、恨めしく思い出されることが多うございますのを、イ『いかでかは聞こゆべからむ』」などと書いてある。
右近が(髭黒不在の)隙(すき)を見計らってこっそりとお手紙をお見せ申し上げると、(玉鬘は)泣いて、ご自分のお気持ちとしても、時が過ぎるままに自然と思い出していらっしゃった源氏のご様子を、『まほに=完全に/まともに』「ああ、恋しい。なんとかしてお逢い申し上げたい」などとおっしゃることの出来ない親であって、[=実の父娘関係ではないので対面が難しい] ウ『げに、いかでかは対面もあらむとあはれなり。』
時々不快で煩わしかった源氏のご様子を[=リード文にあるように、玉鬘は養父の源氏に言い寄られて困惑していた] 気に入らないと思い申し上げたことなどは、この右近にも知らせていらっしゃらないことなので、(玉鬘は)ご自分のお心一つに思い続けていらっしゃったのだが、右近は、ほのかにその様子を見ていたのであった。エ『いかなりけることならむ』と、今なお(お二人のご関係を)心得がたく思っていた。
玉鬘のご返事は、「申し上げるのも恥ずかしいことですが、ぼんやりとはっきりしない状態ではいられないと(思いまして)」といって、このようにお書きになる。
長雨の降り続く軒の雫ではないが、物思いする私の袖は涙に濡れてほんの少しの間でもあなた様のことをなつかしく思い出さないことがありましょうか。
時が過ぎる今日この頃は、なるほど本当に格別な所在のなさもまさっております。あなかしこ」と、カ『ゐやゐやしく書きなしたまへり。』
(玉鬘からのご返事を)ひき広げて、源氏の大臣は玉水のように涙がこぼれる思いに自然となられるのを、人目があれば嫌で情けないに違いないと、平然と何事もなくふるまっていらっしゃるけれど、思いが胸に満ちる心地がして、あの昔の、尚侍の君であった朧月夜(おぼろづきよ)を、朱雀院の母后の弘徴殿大后(こきでんたいこう)が強引に源氏に逢えないようになさった時のことをお思い出しになるが、今の場合は、さしあたって目前のことだからであろうか、このような悲しみは世慣れするものでもなく、しみじみと物悲しいのであった。
キ『好いたる人』というものは、自らの心から(=自らの心が求めてその結果として)安らかではないことであるなぁ。今となっては何につけて心を乱したらよいというのだろうか。
(玉鬘との関係など)『似げなき=似つかわしくない』恋のきっかけであるよ、と思いを冷ますことに困り果てなて(=思いを冷まし難くて)、お琴を搔き鳴らしては、(以前玉鬘が)親しみやすく弾きなしなさった爪音(つまおと)を自然と思い出しなさる。
○設問(一) 傍線部 ア「おろかならぬことなれど」を現代語訳せよ。
木山の直単C形動6「おろかなり」の訳は「いいかげんだ・並一通りだ」ですから、直訳的には『いいかげんではないことであるが」となります。しかし、あまりに直截(ちょくさい)で、文脈上どのようなニュアンスで語られているかが分からない状況では、直訳通りに書くことが躊躇されたかもしれません。
ここは前後の文脈から、傍線アの前後の「宿世=前世の因縁」と「人やりならぬ(思い)」という慣用句とを、逆接的な概念として捉えると文脈のニュアンスが見えやすくなります。ちなみに「人やりならぬ」の意は『(人がやらせたわけではない)
誰のせいでもなく・自分から・自分のせいで〜』です。実は昨年度まではずっと直単Dの慣用句の中に入れていたのですが、どういうわけか2016年度版では削除してしまいました。残念!
源氏としては、ひそかに想いを懸けていた養女の玉鬘を髭黒大将の邸に引き取られてしまうという思いがけない結果となってしまい、これも前世の因縁(=宿世)と諦めるほかありません。
しかしながら、その一方では、『わがあまりなる心にて、かく人やりならぬものは思ふぞかし』(=私のあまりなるまでの心によって、このように誰のせいでもなく、自分から自分のせいで物思いをすることよ・・・)と、ことの顛末を自身の失策に帰して悩んでしまうといった文脈です。
その宿命的諦観と、自省の嘆きとをつなぐ一言として傍線部アがあると考えてみて下さい。
つまり〝宿世というものは決していいかげんなものではなく、それなりに重きを置くべきものではあるけれど(逆接)、それにしても、今回のことは我が身の失策から自ら招いた物思いでもあるなぁ ・・〟と源氏は嘆いているわけです。
ですから結果的には、仮に前後のニュアンスが分からなかったとしても、直訳のままで問題はなかったということになります。
【答え】→いいかげんなものではないけれど
○設問(一) 傍線部イ「いかでかは聞こゆべからむ」を現代語訳せよ。
これは源氏の書いた玉鬘への手紙の最後の部分です。源氏は、自分の気持ちは玉鬘の推察に任せるといった抑制的な書き方をしています。
前文も含めた「つれづれに添へても、恨めしう思い出でらるること多うはべるを、いかでかは聞こゆべからむ」を訳せば、「する事もなく所在ない気持ちに添えて、残念に思い出されることが多うございますが、(今となってはそれを)どうして申し上げることなどできましょうか」となります。
「いかでかは」の「かは」によって反語の構文であることがわかり(公式31)、これによって「いかで」の解釈も公式32③ 反語の解釈となります。どうして〜〜だろうか、いや、〜〜ない。「聞こゆ」は公式57②「申し上げる」の意ですから、それらを組み合わせた答えは次の通り。
【答え】→どうして申し上げることができましょうか (いや、出来るはずもありません)
ところで、この表現の裏側には、実の父娘関係でないことが世間に露顕した今となっては、玉鬘に直接対面して話をすることなど、もはや望むべくもないといった事情があります。(玉鬘の実の父親はリード文にもあるように内大臣です)
つまり、手紙の文面において右近が不審に思うことを気遣ってあまり深い内容は書けない――玉鬘への懸想じみた思いなどは特に――というニュアンスが前提にあるうえに、さらには二人だけに共有される話となれば、それは直接逢って言い交わすしかないのですが、そのような直接の対面の上で〝申し上げる〟ことも、もうこれからは出来ないだろうという源氏の思いも込められているわけです。
源氏の手紙のこの部分を受けて、後の玉鬘の感慨「げに、いかでかは対面もあらむとあはれなり」の「げに=(直前に述べられた内容を受けて)なるほど・本当に〜(とその内容を肯定するニュアンス)」があると解釈できます。
○設問(一) 傍線部オ「人をしのばざらめや」を現代語訳せよ。
源氏の詠んだ和歌の下句「ふるさと人をいかにしのぶや」の「ふるさと」の意は直単A名47にある通り〝古いなじみの土地/(京市中では実家 )〟とあるように、この場合は、玉鬘を引き取って庇護していた養父源氏の邸(=玉鬘にとっての実家)を意味しますから「ふるさと人」とは源氏自身のことを言っていることになります。
贈答歌というのは、相手の読んだ歌の意味合いをそのまま引き取って返歌するのが定石ですから、当然玉鬘の返歌の「人をしのばざらめや」の「人」は、源氏を意味します。ただし、このような贈答歌としての対面的状況では『あなた様』などと訳すのが適当でしょう。
「しのぶ(偲ぶ)」は直単B34で「なつかしく思い出す」の意。「〜めや」は公式9左下*にあるように中古には特に和歌中によく出てくる反語表現で「〜だろうか、いや、〜ではない」。(文法チェックリストで繰り返し暗記チェックをした項目です) 従って答えは
【答え】→あなた様をなつかしく思い出さずにいられましょうか
○設問(二)「げに、いかでかは対面もあらむとあはれなり」(傍線部ウ)とは誰のどのような気持ちか、説明せよ。
源氏の手紙に対する玉鬘の感慨です。玉鬘自身の心にも源氏を恋しく思っていながら、しかし、源氏のいう「いかでかは聞こゆべからむ」を受けて、『なるほど・ほんとうに・その通りだ』、もはや対面も叶うまいと
しみじみと〝あはれ〟の思いにとらわれるといった場面です。
以下の私の解答は、その『げに』のニュアンス=(直前に述べられた内容を受けて)なるほど・本当に〜その通りだと肯定共感するニュアンスを表そうとしたもので、諸解答とは微妙にポイントの違う解答となっています。
「あはれなり」の訳は(直単C形動5)「①しみじみと趣深い ②物悲しい ③かわいそう ④(恋愛・親子の情)いとしい」の四つですが、ここは①②を組み合わせた『しみじみと物悲しい』といった気分です。
【答え】→玉鬘の、再会は期し難いとする源氏の意に共感し、なるほどその通りだと悲嘆する気持ち。
《駿台予備校 》→玉鬘の、今後光源氏と会って話すことができそうにないのを切なく思う気持ち。
《赤 本》→玉鬘の、もう逢えそうにない光源氏との関係を悲しむ気持ち。
○設問(三) 「いかなりけることならむ」(傍線部エ)とは、だれが何についてどのように思っているのか、説明せよ。
直前にある玉鬘の心語としての「時々むつかしかりし御気色を、心づきなう思ひきこえしなどは」の直訳は、直単C形71・A名19・B形38の知識から
「時々不快でわずらわしかったご様子(ご意向)を、不満で気に入らないと思い申し上げたことなどは」
となりますが、敬語の使われ方や、またリード文に「光源氏に思慕の情を寄せられて困惑」とある点からも、養父源氏の親らしからぬ懸想(=恋心)に玉鬘が困惑していたことを述べているのだろうと推察するところからまず解法が始まります。
前提としてのこの推察が出来なければ、正しい答案は書きようがなく、やはり解法の土台は精確な単語の理解に依ると言えます。
で、その秘密(=養父の源氏から言い寄られているという秘密)については、「この人にも知らせたまはぬことなれば、心ひとつに思しつづくれど、右近はほの気色見けり。」と続きます。要するに〝誰にも秘密を明かしていないので、玉鬘は自分の心の中だけで悩んでいたが、右近はほのかに様子を見ていた〟というわけです。
だとすれば「この人」の該当者は右近以外には考えられません。つまり玉鬘は源氏との関係を右近に知らせていなかったにも関わらず、その右近の方ではほのかに二人の様子を見ていて、その上で「いかなりけることならむ=どのようであったことだろうか?」と、未だに(お二人の関係を)心得難く思っていた、という文脈。
要するに、右近は何となくお二人のご様子を見ていて、養父と養女という関係以上の、ほのかに男女間の艶めいたものを二人の間に感じていたわけですけど、それが具体的にどういうことであったかまでは知り得ぬまま不審に思っていたということです。
【答え】→右近が、玉鬘と源氏の仲について実際はどうであったのかと不審に思っている。
○設問(四) 「ゐやゐやしく書きなしたまへり」(傍線部カ)とあるが、誰がどのようにしたのか、説明せよ。
「ゐやゐやし」の辞書的な意味は『丁重で礼儀正しい」ですが、これを知っている受験生はまずいないと思います。解法のアプローチとしては、一つには文脈上、玉鬘が万感の思いを抱きながらも、文面上では父娘間の書簡といった体裁を崩していない、といった解釈ができそうな点です。
つまり、玉鬘は源氏との微妙な関係を伏せたまま、表面上はあくまで父君への書簡としての〝うやうやしさ〟を保ちながら無難な表現の手紙を書いているという解釈ができそうな点です。
もう一つのアプローチは、「ゐやゐやし」の語感が、現代語の「うやうやしい(恭しい)=礼儀にかなって丁重である」の語感に近いように感じられる点です。(今回の東大合格者からも語感の近似を指摘する報告がありました)
しかもそれは、玉鬘があえて、万感の思いを心に込めた上で、そうするわけですから、解答には、〝わざと /意識的に/あえて〟などの説明の語句が必要となります。
【答え】→玉鬘が、源氏への返事の手紙をわざと丁重に礼儀正しく書いた。
○設問(五)「好いたる人」(傍線部キ)とは、ここではどういう人のことか、説明せよ。
「好いたる」は「好きたる」のイ音便。木山の直単A名28「すき(数寄・好き)」の意味は「①恋愛・好色 ②風流 」の二つ。これは「好き」が動詞化しても同様の意味を持ちます。A名28*に「心すけりける」と載せているのは動詞化も許容されることを示すためです。訳せば〝心が好色であった/心が風流であった〟となります。又、同類の単語にはC形49「すきずきし=①好色だ ②風流だ 」もあります。
従って暗記を徹底した木山方式履修者であれば、この設問(五)のポイントは瞬時に見抜けたはずです。というのも、今回の場面は「風流」に関するものでないことは明白で、『好いたる人』とは『好色で色好みな人』の意で間違いなく、又、以下の文脈「好いたる人は、心からやすかるまじきわざなりけり。今は何につけてか心をも乱らまし。似げなき恋のつま(=きっかけ)なりや」からも、「好いたる人」とは源氏が自らを自嘲的にそう呼んでいるものと考えられます。
つまり、〝私のような好色な人物は、自らの心から生じたことながら本当に心も休まらないことよ・・・〟と自らを嘆く自嘲のニュアンスが理解できれば、ほぼ正答に近い答案が書けます。
答案の根幹=《源氏自身のように好色で色好みな人物》
これに文脈の状況を加味して少し肉付けしてみると、直前には朧月夜との関係を断たれてしまった過去の回想があり、それと相似する形で玉鬘が手の届かぬ存在となったことへの苦悩が描かれるというわけですから、私は『叶わぬ恋に苦悩する』といった表現を考えてみました。
【答え】→源氏自身のように多くの女性への叶わぬ恋ゆえに苦悩する色好みな人
ただし、「恋ゆえの苦悩」というラインを維持していれば、書き方はいろいろあると思います。
《駿台予備校 》→結ばれそうもない女性との恋愛にも、自分から進んでのめり込むような人。
《河合塾》→光源氏のように性懲りもなく多くの異性に深く恋慕の情を寄せる人。
《東進 予備校》→おおくの女性に心を寄せ、養女に対しても恋愛感情を抱く源氏のような好色の人。
私の基準では⑴源氏のような〜 ⑵好色な人 ⑶恋ゆえに苦悩する、この三つのポイントが答案の中にまとめられている方がベターだと感じます。その点で、駿台・河合の答案には⑶の苦悩のニュアンスが汲み取れますが、東進の解答では〝単に多情な人物〟とも解されて、恋ゆえの苦悩というニュアンスが欠けているようにも思います。
《東大 文Ⅰ 合格者からのレポート》
古文の全体的な感想は、かなり難しく感じました。正直に言いえば、難しすぎて試験中何度か泣きたくなりました。ただ、時間をかけて粘って読み込みでいくうちに、完全に文脈は分からなくても、何とか部分的には答案を書ける設問も増えてきて、結果的に多くの設問で部分点をしっかり確保することが出来たように思います。
(一)ア→「おろかならぬ」は「木山の直単」に載せられている通りの聞き方であったため、安心して解答することが出来ました。
イ→「いかでかは」を「いかで/かは」と「いかでか/は」のどちらに解釈すれば良いのかわかりませんでした( 恐らく私の勉強不足です )。結局前者のように解釈して、「いかで」を『どうして〜』、「かは」を反語として訳して正答を得ることが出来ました。
オ→「偲ぶ=なつかしく思い出す」「〜めや=反語」など木山の直単・文法公式通りの聞き方で、安心して解答することが出来ました。
(二)→「玉鬘の、光源氏に直接逢うことが出来ない状況を深く悲しむ気持ち」というようにまとめました。
(三)→この問題だけ、最後までどうしても分かりませんでした。[=右近が二人の関係を不審に思うという解答]ただ、主語が〝右近〟であるということだけは見抜けたので、それで1点ぐらいもらえたのではないでしょうか(笑)
(四)→「玉鬘が、源氏の手紙に対してわざとうやうやしく返事を書いた」というようにまとめまて正答を得ることが出来ました。
(五)→木山の直単に「すきずきし=好色だ・風流だ」の意味があるのを思い出して、「光源氏自身のように好色で色好みな人」というようにまとめました。ただ、この設問に含意され要求されていると思われる文脈的背景については、あまりよく分からず書けませんでした。
東大入学後の得点開示では、2次学力試験の結果は
国語 82点
外国語 93点
数学 47点
世界史 45点
地理 35点
2次学力試験の成績 302点(配点440点)。
これにセンターの得点791点を配点110点に圧縮した成績96.6778点が加算されて、総合成績は550点満点の398.6778点でした。ちなみに今年の分科
Ⅰ 類の合格者平均点は381.4095点です。
国語で82点も取れたのは驚きで、思ったより多く得点できたことを喜んでいます。今年東大に入学した筑駒(つっこま)の同級生でも(今年度は102名合格)、60点〜70点台の人がほとんどで、私は先生に指導を受けて本当に良かったという気持ちで一杯です。1年半、不出来な私の面倒を一生懸命見て下さり、本当にありがとうございました。
東大は教授陣・学生・学習環境と、どれをとっても大変素晴らしく、このような贅沢な知的空間で学べることを大変嬉しく思っております。
第三問 〔漢文〕
次の文章を読んで、後の設問に答えよ。【以下、書き下し文の形で表記します】
斉庵(せいあん) 家に一猫を畜(やしな)ひ、自ら之を奇となし、人に号して虎
猫と曰ふ。
客 之に説きて曰はく、「虎は誠に猛なるも、龍の神(しん)なるに如(し)かざる
なり。 請ふ、名を更へ龍猫と曰はんことを」と。
又客 之に説きて曰はく、「龍は固(もと)より a 神 於 虎 なり。龍 天に昇る
に b 須 浮 雲 、雲 其(そ)れ龍より尚(たっと)きや。c 名づけて雲と曰ふに
如(し)かず」と。
又客 之に説きて曰はく、「雲藹(うんあい)天を蔽(おほ)ふも、風 倏(たちま)
ちにして之を散ず。雲 固(もと)より風に敵(かな)はざるなり。請ふ、名を更へ
て風と曰はんことを」。
又客 之に説きて曰はく、「大風 飄起(へうき)するも、維(た)だ屏(ふせ)ぐに
牆(しょう)を以ってせば、斯(すなは)ち蔽(おほ)ふに足れり。風其れ牆(しょう
)を如何(いかん)せん。d 之に名づけて牆猫と曰はば可(か)なりと 」と。
又客之に説きて曰はく、「維(こ)れ牆(しょう) 固(こ)なりと雖も、維(こ)れ鼠
之に穴(うが)たば、牆(しょう) 斯(すなは)ち圯(くづ)る。
e 牆 又鼠を如何せん。 即ち名づけて鼠猫と曰はば可なり」と。
f 東 里の 丈人 之を嗤(わら)ひて、「噫嘻(ああ)、鼠を捕ふる者は故
(もと)より猫なり。猫は即ち猫なるのみ。
胡為(なんすれ)ぞ自ら本真(ほんしん)を失はんや」と。
(劉元卿『賢変編』による)
〔注〕○斉庵―――人名 ○靄―――もや。
○飆起―――風が猛威をふるうこと。 ○牆―――塀。
○圯―――くずれること。 ○東里―――地名
○丈人―――老人の尊称。 ○嗤―――嘲笑すること。
《全文訳》
斉庵(せいあん)は家に一匹の猫を、畜(やしな)い、自らこの猫を奇となし(漢単A49=ふつうとは異なって優れているとみなして)、人に号して(B4=呼びならわして)虎猫と言う。
客がこの斉庵に説いて言うことには、「虎は誠に猛ではあるけれども、龍が「神(しん)」であるのには及ばないのです。願い求めます、名をかえて龍猫と言うことを。」
又別の客が斉庵に説いて言うことには、「龍は固(もと)より a 神 於 虎 であります。(しかし)龍は天に昇る時には b 須 浮 雲 、(したがって)雲はそもそも龍よりも尊いのではありませんか(D47=尚たっとし→尊い)c 名づけて雲と曰(い)ふに如かず」と。
又別の客が斉庵に説いて言うことには、「雲やもやが天を蔽っても、風がたちまち雲やもやを吹き散らします。雲は固(もと)より風には敵わないのです。願い求めます、名をかえて風(猫)と言うことを。」
又別の客が斉庵に説いて言うことには、「大風がつむじ風として起こっても、ただふせぐのに塀(へい)を以てふせげば、すなわち蔽(おお)うのに十分であります。風はそもそも塀(へい)をどうすることが出来ようか、いや、出来ない。d 之に名づけて牆猫と曰はば可(か)なり」と。
又別の客が斉庵に説いて言うことには、「塀(へい)は堅固であると雖(いへど)も、鼠(ネズミ)が塀に穴をうがつならば、塀(へい)はすなわち崩れます。e 牆(しょう) 又 鼠を如(いかん)せん。すなわち名づけて鼠猫と言えば適当です」と。
f 東里の丈人がそれを嘲笑して言ったことには、「ああ、鼠(ネズミ)を捕らえる者は固(もと)より猫である。猫はすなわち猫である。どうして自ら本質を失うことがあろうか」と。
さて設問の解説を始めるにあたって、先ず、次の問題を解いてみましょう。
* 「 大 於 常 蜂 耳。」を書き下し文にせよ。
これは、木山の漢文公式10①Cに載せている例文であり、漢文公式チェックリストの一問一答でも常にチェックしている内容です。
ちなみに、チェックリストの40番には「『於 于 乎』(お う こ) の置き字とその用法を4つあげよ!→補語を示す・起点・比較・受身」とあり、41番には「『於
于 乎』(お う こ)の比較の用法の場合、上にくる品詞はほとんど何?→形容詞と形容動詞」、そして42番が「 大 於 常 蜂 耳 をよめ!→常の蜂よりも大なるのみ」です。
各問いの解説は私のホームページの音声ダウンロードに説明されています。
私は毎年、東大京大や国立医学部に合格していくレベルの学生を教えていますが、この「於 于 乎」(お う こ)の置き字としての4つの用法をあらかじめしっかり習知している学生には一度もあったことがありません!
〝いや、そんなはずはない、キチンと教えている〟と高校の先生はおっしゃることでしょう。また、たいていの参考書に書かれている内容だということも承知しています。
しかしながら、現実にはかなりの高偏差値保持者でもキチンと応用できていないというのが実情です。それは漢文という教科が受験の主要教科ではないという受け止め方と相まって、仮に2~3回程度授業で聞いたとしても(又は、参考書を読んだとしても)、定着応用できるレベルには程遠いということです。
何が足りないのかといえば、それは長期的なチェックの回数と、暗記内容が実際の問題にどう応用されるかについての演習量です。
比較の一例として、今年の東大合格者の昨年1年間のYサピックスの授業記録を調べてみますと、年間で間を置きながら漢文公式チェックリストの一問一答を実施した回数は16回有りました。初期には忘れては思い出すの繰り返しであったものが、秋以降の実践問題では「於
于 乎」が絡む問題での失点はほぼなくなりました。
これは木山方式のような、全網羅的な知識のチェックを、間を置きながら繰り返すやり方の優位性だといえます。そもそも過去問や予想問題を、年間40題程度演習する大問形式では、そこに「於
于 乎」の比較の用法が出てくる可能性は未知数であり、可能性はかなり低いと思います。
さて、「於 于 乎」の比較の用法は、置き字の上に形容詞・形容動詞がくるというのが着眼のポイントです。その場合、「於 于 乎」の下の補語の送りに「~ヨリ・~ヨリモ」と送って、「於
于 乎」の上の形容詞・形容動詞に返ることになりますが、こうした比較の読みが、問題文の文脈上にうまく整合するかどうかを考えることになります。
この「大 於 常 蜂 耳。」の場合、「大」を形容動詞とみれば「大(だい)ナリ」となり、文末の「耳(のみ)」は連体形接続ですから、(常の蜂よりも大なるのみ)となります。これが比較の用法です。
○設問(一) 傍線部a「神 二 於 虎 一 」を現代語訳せよ。
「於」の位置からも、又、「龍ハ固(もと)ヨリ 神 於 虎 也。」の文意からも、「龍はもともと虎よりも〝神〟である」と読む比較の句形であることはすぐわかります。問題は〝神ナリ〟の意をどのように表現するかです。
ここで自分なりの語彙力で、正答に近い表現を紡ぎ出せる人は文章センスの高い人でしょう。たとえば、「虎よりも霊妙である/神聖な存在である」など。しかし、木山の漢単に通じている学生ならば、前後に出現する重要漢単語の意味から「神(しん)なり」の字義を推察することもできるはずです。
というのも、もともと猫を奇(き)とするところから論は始まっていますから、奇(漢単A49=(ふつうとは異なってすぐれている)のニュアンスは〝神ナリ〟の意にも重なると考えられます。
さらに傍線部aの直後には同じ比較の構文で「雲 其(そ)れ 龍よりも 尚(たっと)きか」とあるので、「尚」の字義(漢単D47=たっとブ/尊ぶ・たっとシ/尊し)のニュアンスも重なると見てよいでしょう。
この二つのニュアンスを解答に活かせば、答えは
答 → 虎よりもすぐれて尊いものである
となり、「神ナリ」の意を自力で適切な語彙に置き換えるやり方に比べ、より簡単で確実な方法です。
○設問(一) 傍線部b「須 二 浮 雲 一 」を現代語訳せよ。
「須」の字義は、多くの受験生にとっては再読文字の一つという認識でしょう(公式7⑧=須 すべかラク~ベシ→~する必要がある)。
しかし、この場合、再読文字と見て〝須(すべか)らく浮雲とすべし〟などと解釈した人は、『龍が天に昇るには、浮雲とする必要がある』といった、今ひとつ何を言っているのかわからない、しっくりこない解釈に、自ら首をかしげたことでしょう。
実は「須」には、再読文字としてではなく、一般動詞として「須(もち)ふ」と読む用法があります。意味は『~を必要とする』。木山方式では、『漢文公式チェックリスト』 の一問一答の30〝「 不 レ 須二―― 一」の読み方は? 〟で、年間を通して何度も暗記チェックを繰り返している項目です。
さらに、「須(もち)ふ」に二点が付いていることを考えれば、文構造は動詞の「須(もち)フ+目的語の「浮雲ヲ」となるのが正しく、「雲に浮くことが必要だ」(=雲に浮くを須(もち)ふ」などと、三文字をレ点で下から順に読み上げるような解釈は文構造的に出来ません。
仮にそう書いた場合、たとえ「須(もち)ふ」の解釈は正しくても、かなり減点される可能性があると思います。正しい答えは、(龍が、天に昇るに際しては)
答 → 浮雲を必要とする
です。
東大受験対策の有用性としては、やはり、「須(もち)ふ=~を必要とする」の正確な知識を持っていたかどうか、であろうと思います。
市販されている漢文参考書の中に、この知識を載せているものが、どのくらいあるのか調べてみました。
24冊中、5冊の参考書に載せられており、19冊には見出せませんでした。ただ、5冊中の一冊は「須(もち)ふ」の読みだけを紹介し、訳し方は載せられておらず、他の二冊も非常に小さな字組の補註扱いで、これで受験生にしっかり伝わるのかやや心許なく感じました。結局、これなら大丈夫だと思ったのは一冊でした。以下がその結果です。
■ シグマベスト 高校 これでわかる古文漢文 文英堂
編著 1600円→→無し
■ 河合塾シリーズ ステップアップ ノート10 漢文句形ドリルと演習
共著 762円→→無し
■ 基礎知識から文章読解まで センター漢文 出題パターン攻略
河合出版 片桐功雄 1143円→→無し
■ みんなのセンター教科書 国語(古文・漢文) 旺文社
高堂晃壽 1300円→→無し
■ センター試験 必勝マニュアル 国語(漢文)
東京出版 1100円→→無し
■ 漢文一問一答 完全版 三羽邦美 東進ブックス 850円→→無し
■ 名人の授業 三羽の漢文 基礎ポイントはこれだけ 東進ブックス
三羽邦美 950円→→無し
■ 漢文ゴロゴ 板野博行 スタディーカンパニー 900円→→無し
■ 極める漢文 2 センター試験用 板野博行 スタディーカンパニー
850円→→無し
■ センター試験 国語[古文・センター]の点数が面白いほどとれる本
佐藤敏弘 カドカワ 1300円→→無し
■ シグマベスト 理解しやすい漢文 文英堂 共著
1500円→→無し
■ 漢文早覚え 速答法 パワーアップ版 学研
田中雄二 1000円→→無し
■ 漢文句形ドリル 学研 貝田桃子 1200円→→無し
■ センター漢文80本のモノサシ 三羽邦美 ブックマン社
1000円→→無し
■ でるもん 漢文読解 原安宏 中経出版
1200円→→無し
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三羽邦美 旺文社 762円→→無し
■ センター試験 必勝マニュアル国語(漢文) 東京出版
1100円→→無し
■ センター試験のツボ 古文・漢文 行木康夫 桐原書店
1300円→→無し
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□ 一眼で分かる漢文ハンドブック 東進ブック 三羽邦美
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スタディーカンパニー 850円→→有り[P120]
□ パワーアップ版 漢文のヤマのヤマ 三羽邦美 学研
1000円→→有り[P38]
□ 河合塾 入試必須の基礎知識 漢文ポイントマスター 河合出版
共著 773円→→有り[P20]
○設問(一) 傍線部c「不 トレ 如 カ 二 名 ヅケテ 曰 フニ 一レ 雲 ト」を現代語訳せよ。
答 → 雲猫と名づけるのがよい。(雲猫と名づけるにこしたことはない)
まったく平易な問題です。『不レ 如カーーーニ』(漢文公式16比較)の訳し方は、「~の方がましだ。~にこしたことはない。~する方がよい。」ですから、直訳は〝名づけて雲と言う方がましだ/言うにこしたことはない/言う方が良い〟となり、こうした直訳答案でも特に減点はされないだろうと思われます。
○設問(二)「名 ヅケテ レ 之 二 曰 ハバ 二 牆 猫 ト 一 可 ナリト」(傍線部d)と客が言ったのはなぜか、簡潔に説明せよ。
答→大風も牆(塀)に阻まれてはどうすることも出来ず、牆(塀)の方が優れているから。
まず、傍線部dの訳は「これに名づけて牆(塀)猫と言えば適当である(可ナリ漢単D46→適当である)。それで、その発言理由が問われている訳ですが、根拠はすぐ直前の『大風 飆起(へうき)スルモ、維(た)ダ屏(ふせ)グ二牆(しょう)ヲ以テセバ、斯(すなは)チ蔽(おお)フ二足レリ。風其れ牆(しょう)ヲ如何(いかん)セン。』にあることは明白です。
如何(いかん)センの形は、公式14C④にあるように疑問形でも反語形でも読みは同じになります。疑問形の訳は→(どうしたらよいだろうか?)・反語形の訳は→(どうしたらよいだろうか、いや、どうしようもない)となり、ここでは文脈上、反語形にとるべきです。つまり、風はそもそも屏をどうしようも出来ない→従って、ここで繰り返される優劣論から言えば、塀の方が風よりも優っているとなる訳です。
○設問(三) 「 牆 又 如 レ 鼠 何 」(傍線部e)を平易な現代語に訳せ。
答 → 強固な牆(塀)も、鼠が穴を穿って崩すのをどうすることも出来ない。
「如何セン」の句形が「~ヲ如何セン」と目的語をとる場合は、2文字の間、つまり「如」と「何」の間に目的語がはさまれるという知識は大抵の漢文参考書には載せられていると思います。この場合の「如何セン」も反語形ですから、直訳は〝牆(しょう=塀)もまた鼠をどうすることができようか、いや、どうすることも出来ない〟となります。
ただ、設問の条件が「平易な現代文に訳せ」なので、ちょっと考えますが、この場合、何かの省略があるわけでもなく、直訳では意味が通じにくいわけでもありませんから、結局、前後の文脈を反映した文脈上のわかりやすい肉づけを要求しているのだろうと判断するしかありません。
○設問(四) 「 東 里 丈 人 」(傍線部f)の主張をわかりやすく説明せよ。
答 → 猫は猫であるという本質を見失って、名ばかりに拘るのはばかげたことだ。
「丈人」という尊称で表現される人物が、前段のエピソードの全体を嗤(わら)ふ=嘲笑して評言を述べるという場面です。
一見、現代文の説明問題のようですが、あまり本文の語彙から遊離した自己流の観念的答案を書いてしまうのは危険です。やはり、文中の表現に即して、『猫ハ即チ猫ナル耳(のみ)。』や『胡為(なんす)レゾ自(みづか)ラ本真ヲ失ハン哉(や)。』などの部分を生かした答案とするのがベターだと思います。
比較参考までに諸解答を紹介しますと、
《駿台予備校》→猫は猫であるという本質を忘れ、命名にこだわるのはばかげたことだ。
《東進予備校》→鼠を捕る猫を鼠猫と呼ぶのはばかげた話で、猫の本質を見失っている。
《代々木ゼミナール》→ものそのものの本来のありかたを見失ってはならない。
《河合塾》→立派な猫でも猫に変わりないので、あれこれ名前を変えても意味がない。
駿台予備校の模範解答は 私のものとまったく同趣旨なので、当然私もこの解答を支持します。
東進予備校の解答は、『鼠を捕る猫が鼠猫と呼ばれることのばかばかしさ』という着眼が、視点としてはやや狭いように感じます。確かに、優劣を論ずるうちに、猫がいつのまにか鼠猫と呼ばれてしまう自家撞着のおかしさは滑稽ですけど、『丈人』はそのような〝結果としての自家撞着〟それ自体を嗤(わら)ったのではなく、猫は猫としか言いようがない(=猫ハ即チ猫ナルノミ)のに、あれこれと命名にこだわることの愚かさを嗤(わら)ったと解釈すべきです。
代々木ゼミナールの解答は、話の全体のエッセンスのみを抽出すれば、または、「この話の全体から導かれる教訓はどのようなものか?」という設問ならば、確かにこのような解答になるだろうと思います。ただ抽出の純度が高すぎて、今回の設問の『猫の命名の話を聞いて丈人が嘲笑した』行為についての答案に、「猫の命名」をまったく絡めなくてもよいのか?という危なっかしさは残ります。
(東大の採点官が個別な表現における採点基準を外部に漏らすといったことでもない限り、代ゼミの答案が減点されるかされないかは、私にはわからないというしかありません。私の妻も国立最難関の採点官ですが、もしこう書いたらどうなるか?といった個別な事例の採点基準を外部に漏らすことはありません)
河合塾の模範解答が面白いと言ったら失礼ですが、全体に学生が書いた答案のような稚拙な印象を持ちます。やはり「胡為(なんす)レゾ自(みずか)ラ本真ヲ失ハン哉(や)」といった〝本質を見失うことの愚かさ〟を答案の中に出さなければ模範解答としてはどうも締まりません。この解答ではおそらく減点されるだろうと私は思います。
【東大 文 Ⅰ 合格者からのレポート】
漢文の全体的な感想は、本文自体は難しい文ではないのですが、解答をまとめようとすると答えづらい問題が多く、苦戦しました。
ただ、入試終了後の各予備校の解答速報を見た限りでは、かなり出来は良く、古文で上手くいかなかった分、漢文でしっかり得点を稼げたようです。
[注=実際は古文でもかなりの得点をあげていると思います。木山]
(一) a → 「於」が比較の置き字であることは、【漢文公式の一問一答】で繰り返し練習していたおかげで、すぐにわかりました。「神」をどう訳すか悩みましたが、句形上のルールから形容動詞として「神(しん)ナリ」と読んでいるはずで、結局、『龍は虎よりも神聖な存在である』というようにまとめて正答を得ることができました。
(一) b → 木山の漢文公式7⑧*に「須(もち)ふ=~を必要とする」とあったことを思い出し、『浮いてる雲が必要である』というようにまとめて正答を得ることができました。
(一) c → 漢文公式の16A①に、この句形の訳として『Bする方がよい』とあったのを思い出して、『雲と名付けた方がよい』というようにまとめて正答を得ました。
(二) → 平易な問題でした。牆(しょう=塀)が大風をも防ぐことの出来る力を持っていることを答案に盛り込みました。
(三) → 「牆(しょう=塀)もまた鼠をどうすることも出来ない」というようにまとめましたが、「又」を何かしっかりとした意味に訳出しなければならないのではないか?という不安が残りました。
[注=この場合の「又」は特に留意する必要はないないと思います。 木山]
(四) → 「客人は論理をこねくり回したせいで、ネコを鼠と名づけるなど猫本来の性質を見失い、愚かなことをした」というようにまとめました。
『猫の本来の性質を見失い』という表現をよく思いついたなぁと、答案作成中に自ら喜んでいたのですが、各予備校の解答速報にも似たような表現があったので良かったと思いました。
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