お便りシリーズNo.66

= H30年・2018年・東京大学古典だより(古文漢文) =







【東大国語は点差が付きにくい教科だから

合否には関係ないと考える人の短絡につい

て】


 「河合塾 2016年度(=2017年)得点開示データによる入試動向分析」によれば、東大2次試験の動向分析として、以下のような内容が書かれています。

理類:【国語】合格者、不合格者ともに前年より若干平均点が上昇しました。しかし、例年と同様に合格者と不合格者の重なりが大きく、差の付きにくい教科であることには変わりありません。

文類:【国語】昨年易化した国語ですが、今年もほぼ同じような得点状況となっています。比較的得点差が付きにくい教科ではあるものの、英語と同様に50点を下回ると合格者はほとんどいない状況となっています。

 こうしたレポートを読んだ東大志望者が、国語は点差が付きにくい教科だから合否には直接関係ないと考えるとしたら短絡的です。本来、そう簡単には結びつかないいくつかの事象──この場合、国語の標準偏差と合否との関係性、またはどの教科に労力をかけるべきかといったコストパフォーマンスの問題──を単純に結びつけてしまっている点で短絡的です。

 点差が付きやすい教科と点差が付きにくい教科が現実にあることは事実ですが、受験対策に費やすコストパフォーマンスとしての優位性の比較を論じようとすれば、ことはそう単純ではありません。後で説明しますが、どのような対策法をするのか、どのような資料テキストを持っているのかによってもコストパフォーマンスの値は変わってきます。

 先ずは「標準偏差」について説明しましょう。標準偏差とは、データの散らばりの度合いを示す値です。データが平均値の周りに集中していれば標準偏差は小さくなり、逆に平均値から広がっていれば、標準偏差は大きくなります。

 つまり、河合塾の得点開示データの『国語は点差が付きにくい』というコメントは、ある平均値に受験生の得点が集中している点で、国語の標準偏差が小さいことを意味します。

 一般的な傾向としては、東大の英語や数学の標準偏差は大きく(=つまり点差が付きやすく、得点分布領域が広く)、一方、国語の標準偏差は小さい(=つまり点差が付きにくく、得点分布領域が狭い)ことが知られています。

 この傾向は模試データなどによっても裏付けられており、例えば、直近のデータを示しますと、2018年1月に施行された駿台高2東大レベル模試(今年の現役生東大模試のスタートライン)では、英語の標準偏差は36.1、数学は32.9、国語は18.0となっており、標準偏差の差は約2倍ほどあります。得点分布表のグラフのイメージで言いますと、英語や数学のグラフは比較的なだらかな山状となるのに対して、国語はある得点域に突出した峰状となるわけです。

 こうした傾向を見れば、" 東大の場合、国語では点差が付かない。合否の決め手は英語と数学だ '' と考える学生が出てくるのも一見無理からぬ現象のようにも思えます。しかし、点差が付きやすいことが、受験のコストパフォーマンスの上でも優位になるとは必ずしも言えません。もう少し複雑です。

 インターネットで「標準偏差」を検索すれば、たくさん出てきますが、そのうちの一つ、『標準偏差とは何か?その求め方や公式の意味・使い方をわかりやすく説明します。アタリマエ!』では、子供が平均点60点のテストで70点(平均点より10点上)を取るのはどのくらいスゴイ事なのか、という問いに対して、二つの得点分布表の例を参考にして、以下のような結論を紹介しています。

一般的なテストの標準偏差は10〜25程度と知っていれば、上の例の標準偏差は約36.67点なので⇒ばらつきの大きいテストであり⇒平均点+10点はスゴくない。
下の例の標準偏差は約6.68点なので⇒ばらつきの小さいテストであり⇒平均点+10点はスゴイと判断できるようになります。

 ここで書かれている「子供」とは小学生の高学年〜中学生程度でしょうか。「一般的なテストの標準偏差10〜25程度というのも何を基準にしているのか曖昧ですが、少なくとも、" 得点差が付きやすいことが、受験のコストパフォーマンスの上でも優位になる '' と単純に言えるかどうかを考えるヒントにはなります。

 得点分布領域がなだらかな山状になる場合、仮に平均値から10点程度上位に位置したとしても、その領域には同程度の競合者がかなり存在することになります。したがって他者との比較において、それほど大きなアドバンテージにはなりません。
 逆に、得点分布領域が狭い突出した峰状になる教科においては平均値から10点程度 上位に位置した場合、その領域には同程度の競合者がほとんどいませんから、他の競合者に対するアドバンテージは比較的大きくなります。
 言い方を変えれば、得点分布領域がなだらかな山状になる英語や数学で実質的なアドバンテージを得ようとするためには、単に平均値からの点差があれば優位というのではなく、他の競合者からかなり抜きん出るほどの高得点が必要です。しかも、それを実現するにはそれなりのコスト(労力)が必要となります。

 2016年度(2017年)東大国語の場合、文類合格者の国語の平均点は、河合塾のデータによれば65点/120点満点(54%)となっています。(これは河合塾で得点開示を得た279名の文類合格者の平均値です)

 私が個人的に得た、昨年の筑波大駒場高校の東大合格者(102名合格)文科の国語の平均点は、70点弱(58%)であり、かつ、ほとんどの学生が65点から70点の得点領域に集中していたそうです。これは現在Yサピックス横浜校でチューターをしている文 Ⅰ の学生さんから直接教えてもらいました。

 結果として東大に合格するような元来地頭の良い学生層が、本番入試に対する直接ダイレクトな得点寄与の極めて少ない大問演習のみを対策としてやった場合、同じような得点領域に大多数がお団子状態になるというのは、私には感覚的によくわかる気がします。

 そのチューターの学生さん自身は、国語で82点/120点満点(68%)を取っており、河合塾の平均点との差は17点ありました。国語の標準偏差が極めて小さかった分、国語の得点でかなりのアドバンテージを得たことになります。文科 1 類の合格者の総合得点の平均点381点(550点満点)に対しても、399点と18点の点差があり、他教科の得点がほぼ文 Ⅰ の平均点に近似していたことからも、総合得点の18点のアドバンテージは、ほぼ国語の得点によるのではないかと私は見ています。

 この学生さんが高2の夏からYサピックス横浜校に来られた理由は、国語の不調、中でも古文漢文の不調にありました。
 木山方式がコストパフォーマンス的にペイ〔pay〕するものかどうか──採算が取れ、かけた労力に対して収支が引き合うものであるかどうか──は、毎年書いている東大分析記事を読んで判断してもらうしかありません。お便りNo.63には、この学生さんの感想も含めて詳しい分析記事が載せられています。

 東大志望の学生が国語にコストをかけるべきかどうか、合否に関わるか、という最初の問題提起も、結局、どのような方法でやるのか、どのような資料・テキストを有しているのか、また、その学生さんの他教科まで含めた全体の成績はどうなのか、それらの要素によって様々なパラメーターがあり、コストパフォーマンスの値もそれによって当然変わってきます。

 "点差が付きにくい教科だから合否には関係ない" と単純に考えるのはかなり短絡的で危険な考え方です。





 今回の古文の出典は、『太平記/巻二十一 /塩治判官讒死ノ事』からの出題でした。
 足利尊氏の寵臣であった高武蔵守師直(こうの むさしのかみ もろなお)は、専横の振る舞いが多かったことで知られています。ある時、塩治判官高貞の妻が、大変な美貌の持ち主であることを侍従から聞きつけた師直は、侍従を介し一夜の逢瀬を望みますが、すげなく断られてしまう、というあたりから問題文はスタートしています。



【2018年・東大古文の分析】 

 次の文章は『太平記』の一節である。美しい女房の評判を聞いた武蔵守高師直(こうのもろなお)は、侍従の局(つぼね)に仲立ちを依頼したが、すでに人妻となっている女房は困惑するばかりであった。これを読んで、あとの設問に答えよ。

 侍従帰りて、「かくこそ」と語りければ、武蔵守いと心を空に成して、

「たび重ならば情けに弱ることもこそあれ、文をやりてみばや」とて、兼好と

言ひける能書の遁世者をよび寄せて、紅葉襲(もみじがさね)の薄様(うすやう)

の、取る手も燻(く)ゆるばかりに焦がれたるに、言葉を尽くしてぞ聞こえけ

る。返事遅しと待つところに、使い帰り来て、「御文をば手に取りながら、

あけてだに見たまはず、庭に捨てられたるを、人目かけじと、懐(ふところ)

に入れ帰りまゐつて候ひぬる」と語りければ、師直大きに気を損じて、「いや

いや物の用に立たぬものは手書きなりけり。今日よりその兼好法師、これへ

寄すべからず」とぞ怒りける。

 かかるところに薬師寺次郎左衛門公義(きんよし)、所用の事有りて、ふとさ

し出でたり。師直かたはらへ招いて、「ここに、文をやれども取つても見ず、

けしからぬ程に気色(けしき)つれなき女房のありけるをば、いかがすべき」

とうち笑ひければ、公義「人皆岩木(いはき)ならねば、いかなる女房も、慕ふ

に靡(なび)かぬ者や候ふべき。今一度御文を遣はされて御覧候へ」とて、師直

に代はつて文を書きけるが、 なかなか言葉はなくて、

 返すさへ手や触れけんと思ふにぞ わが文ながらうちも置かれず

 押し返して、仲立ちこの文を持ちて行きたるに、女房いかが思ひけん、歌を

見て顔うちあかめ、袖に入れて立ちけるを、仲立ちさては

たよりあしからずと、袖をひかへて、「さて御返事はいかに」と申しけ

れば、「重きが上の小夜衣(さよごろも)」とばかり言い捨てて、内へ紛れ入

りぬ。

 暫(しばら)くあれば、使ひ急ぎ帰つて、「かくこそ候ひつれ」と語るに、

師直うれしげにうち案じて、やがて薬師寺をよび寄せ、「この女房の返事に、

『重きが上の小夜衣』と言ひ捨てて立たれけると仲立ちの申すは、衣・小袖を

ととのへて送れとにや。その事ならば、いかなる装束なりとも仕立てんずる

に、いと安かるべし。これは何と言ふ心ぞ」と問はれければ、

公義「いやこれは さやうの心にては候はず、新古今の十戒(じつかい)の

歌に、さなきだに重きが上の小夜衣 わがつまならぬつまな重ねそ

 と言ふ歌の心を以つて、
人目ばかりを憚(はばか)り候ふものぞとこそ覚え

て候へ」と歌の心を釈しければ、師直大きに悦(よろこ)んで、

「ああ御辺(ごへん)は弓箭(ゆみや)の道のみならず、歌道にさへ無双の達者

なりけり。いで引出物せん」とて、金作(こがねづく)りの丸鞘(まるざや)の

太刀 (たち)一振り、手づから取り出して薬師寺にこそ引かれけれ。

 兼好が不祥、公義が高運、栄枯一時に地をかへたり。

〔注〕
○ 兼好 ── 兼好法師。『徒然草』の作者。
○ 紅葉襲の薄様 ── 表は紅、裏は青の薄手の紙。
○ 薬師寺次郎左衛門公義 ── 師直の家来で歌人。
○ 仲立ち ── 仲介役の侍従。
○ 小夜衣 ── 着物の形をした夜具。普通の着物よりも大きく重い。
○ 十戒の歌 ── 僧が守るべき十種の戒律について詠んだ歌。
○ 丸鞘 ── 丸く削った鞘。



【 全文訳 】

 侍従は(師直=もろなおのもとに)帰ってきて、「このようでございました(=すげなく断られてしまいました)」と語ったところ、武蔵守(=師直)はたいそう心も上の空になって、「度重ねて何度も繰り返すならば、こちらの情けに(相手の)心が弱ることもある。手紙を遣わしてみたい。」と言って、兼好といった能書家(=字の上手な人)の遁世者を呼び寄せて、紅葉襲(がさね)の薄葉の紙で、それを取る手に香りが移る程にたきしめた紙に、言葉を尽くして手紙を書いて差し上げる。

 返事が遅いと待っていると、使いの者が帰ってきて、「(あちらの女房はあなた様の)お手紙を手に取りながらも、 あけてだに見たまはず、庭にお捨てになられたのを、人目にかけないようにしようと、懐に入れて持ち帰って参りました。」と語ったので、
師直はひどく気分を害して、「いやいや、全く物の役に立たないのは能書家であるよ。今日から(手紙を書いた)その兼好法師はここへ呼んではならない。」と怒っていた。

 そうこうしているところに薬師寺次郎左衛門(やくしじじろうざえもん)公義(きんよし)が、用事があってちょっと顔を出した。
 師直(もろなお)は(公義を)かたわらに呼んで、「ここに手紙を遣わしたけれども、それを手にとっても見ず、けしからぬ程に態度の冷淡な女房がいたのを、どうしたらよいものか。」と笑った(=苦笑した)ところ、公義は「人は皆、岩や木(のように感情のないもの)ではないので、どのような女も、こちらが慕っているのに心を寄せない者がございましょうか(いえ、そのような者はおりません)。今一度、お手紙をお遣わしになられてご覧なさいませ」と言って、師直に代わって手紙を書いたのだが、 なかなか言葉はなくて、(ただ和歌だけが、師直の立場になり代って、次のように詠まれてあった)

(あなたから)返された手紙でさえ、(あなたの)手が触れたのだろうかと思うと、 わが文ながらうちも置かれず

 折り返し、仲介の者がこの手紙を持って行ったところ、(相手の)女房はどのように思ったのだろうか、和歌を見て、顔を赤くして、(手紙を)袖に入れて立ったのを、仲介者は、 たよりあしからず と思い、女房の袖を押えて「さて、ご返事はどのように」と申し上げたところ、「重きが上のさよ衣(ごろも)」とだけ言い捨てて、部屋の奥へ紛れ込んでしまった。

 しばらくして、使いの者は急いで帰ってきて、「このようでございました」と語るので、師直は嬉しそうに少し考えて、すぐに薬師寺を呼び寄せて、「この女房の返事に『重きが上のさよ衣(ごろも)』と言い捨ててお立ちになったと、仲介の者が申すのは、衣と小袖を調えて送れということであろうか。そのようなことならば、どのような装束であっても仕立てるつもりであるが、たいそう簡単なことであろう。これはどのような意味か」とご質問なさるので、公義は「いや、これは さやうの心ではございません。『新古今和歌集』の十戒(じつかい)の歌に、

 さなきだに重きが上の小夜衣 わがつまならぬつまな重ねそ

という和歌の意味で、
人目ばかりを憚(はばか)り候ふものぞ→(ただ)人目だけを遠慮するものですよと(相手方は暗にこちらに伝えようとしているのだと)思われます。」と和歌の意味を解釈したところ、師直はおおいに喜んで、「ああ、あなたは弓矢などの武芸の道ばかりでなく、和歌の道にまでも並ぶもののない達人であるなぁ。さぁ、贈り物をしましょう。」と言って、金で装飾した太刀を一振り、みずから取り出して薬師寺に与えられた。

兼好の不幸(不祥=不幸/祥さいわい・幸運/漢単B16)、公義の幸運、栄華と盛衰が一時に反対になってしまった。(不首尾に終わった兼好の不運と、面目をほどこした公義の幸運と、両者の栄枯があっという間に大きく変わり、思いもかけない出来事であったの意)







  



設問(一) 傍線部「あけてだに見たまはず」「なかなか言葉はなくて」「たよりあしからず」を現代語訳せよ。

答え→ 開けてご覧になることさえなさらず

    かえって(なまじっか)余計な文言(もんごん)はなくて

    つてがありそうだ(脈がありそうだ) (機会としては悪くない)


は副助詞『だに』の二つの用法 ① 最小限の条件 =「せめて〜だけでも」、② (軽いものを挙げて重いものを)類推する働き=〜さえ〜(まして〜はなおさら〜)の、どちらで訳出するかが問われる問題(公式38①②)。 文脈の整合性から②の類推であることは明らか。 言外の含意まで表せば、『手紙を開けてご覧になることさえなさらないのだから、まして、師直様との交際など、なおさら期待することなどできません』

「なかなか」(直単C形動20)の訳は「かえって(なまじっか〜)」。つまり、かえって余計な文言(もんごん)は何も書かず、ただ和歌のみを手紙に記したという文意。

木山方式では「たより」(A名34)の訳は、「①ついで・機会・きっかけつて」の4語を繰り返しチェックしています。②の「都合がよい(便りよし)」・③の「手紙」などの意は、入試でわざわざ問われる例が極めて少ないからです。
例題を示しましょう。



[例題1]
 かくて、ここかしこ修行して歩(あり)くほどに、はかなくて二、三年になりぬ。ことのたよりありて、京の方へめぐり来たりけるついでに、ありしこの弟が家を過ぎけるに、 「発心集」

(問)傍線部を現代語に訳せ。 H4年度 東京大学

答え→何かのついでがあって(何かの機会があって)



[例題2]
 (零落した夫が)筑紫に下り侍りけるに、京に残しおきける妻、家貧しけれども、かしこき人にて、とかくとりつくろひ、子どもを育てて侍りけるが、いかなる便りにても男のありさま聞くべきと、朝夕まちわびける折ふし、 「女郎花物語」

(問)傍線部を、適宜ことばを補って現代語訳せよ。 H22年度 京都大学

答え→どのようなつてであっても、筑紫に下った夫の様子を聞きたい



 昨年のサピックスの私のクラスでは、間を置きながら1年間50回の授業中に30回の直単チェックを実施しました。 だいたい授業の前半の40~60分間、口頭試問の一問一答形式で学生に当てていきます。慣れてくれば学生も非常に素早く答えるようになりますから、60分でも120〜150単語の暗記チェックを一気に済ませることができます。また、口頭試問形式でも、工夫すれば様々な入試問題を再現できます。

 この「たより」については、『たよりはチャンス系』というイメージで、『ついで・機会・きっかけつて』と答えてもらっていますが、正確にはチャンスを表す「ついで・機会・きっかけ」の意と「つて」とは微妙にニュアンスが違います。
「つて」の意は「解決の糸口・手がかり」といったニュアンスですから、例題でいえば [例題1] が「たより」のチャンス系=ついで・機会・きっかけの用例を表し、[例題2] が「つて」=解決の糸口・手がかりの用例を表していることになります。

 さて、今回の東大の設問ですが、仲介者が二度目の手紙(歌)を渡したところ、女は歌を見て、顔を赤くして手紙を袖に入れて立ったわけですが、その態度に何か前回とは異なるものを感じ取った仲介者が「さてはたよりあしからず(悪しからず)」と女の袖を押さえて「さて、お返事はどうですか」と迫る場面です。
仲介者はその瞬間に、何か「つて=解決の糸口・手がかり」を感じたともとれますし、まさに今こそ「グッドタイミング!機会あしからず!」とチャンス系の意識が働いたとも解せます。

 「つて」を書く場合には、「つてが悪くない」では文意が分かりにくいので、例えば『つてがありそうだ』などと書けば減点はされないはずです。さらにこのニュアンスを汲み取って、主に男女関係についていう「脈がある=見込みや望みがある」といった表現を利用すれば『脈がありそうだ』といった通(つう)好みの解答も考えられます。
「機会」で書く場合は、そのまま「機会は悪くない」です。河合の解答速報がこの「機会」の訳語を採っています。私の解答と諸解答を紹介しておきます。

木山→つてがありそうだ(脈がありそうだ)/機会は
   は悪くない
代ゼ→手応えは悪くない
東進→ことの成り行きはわるくない
河合→機会としては悪くない
駿台→具合が悪くない


 駿台の「具合が悪くない」が、もう一つこの文脈の生き生きとした気息(きそく=息づかい)を表現しきれていない感はありますが、決して不正解ともいえず微妙なラインです。
木山方式履修者で今春東大に合格した数名の学生たちの結果報告によれば、一名を除いて全員正答しています。

 

設問(二) 「わが文ながらうちも置かれず」(傍線部)とあるが、どうして自分が出した手紙なのに捨て置けないのか、説明せよ。

 傍線ウの直訳は、『自分が書いた手紙でありながらも(*ながら=逆接~ではありながらもD左外)、(うち=軽く意味を強める接頭語~ちょっと)ちょっと下に置くことも出来ません』ですが、なぜ、そう感じるのかと言えば、当然、上句の『あなたから返された手紙でさえ、あなたの手が触れたのだろうかと思うと』という思いがあるからです。
 これを、惚れた女への思慕の方向で書けば以下に示す最初の答えのようになりますし、一般的な慣用句としての「下にも置かぬ=非常に丁重に取り扱う」の意を汲めば、〔別解}に示したような解答になります。
 どちらの答案でも 正解になると思いますが、いずれの場合も '' 恋しい女房の手が触れたと思うと " は必須の要件となります。

答え→恋しい女房の手が触れたと思うと慕わしく感じられるから。
〔別解〕恋しい女房の手が触れたと思うと突き返された文でも軽々しく扱えないから。


設問(三) 「さやうの心」(傍線部)とは、何をさしているか、説明せよ。

 平易な設問です。問題文中の師直の発言に、「この女房の返事に『重きが上の小夜衣』と言い捨てて座をお立ちになったと、仲介が申すのは、" 衣・小袖をととのへて送れとにや=衣と小袖を調えて送れということであろうか " とあり、その師直の発言に対して、「いや、これはそのような意味ではございません」と薬師寺公義が応じるわけですから、『さやうの心』は、女房が衣と小袖を調えて送れと言っているのではないかという師直の解釈を指すことは明らかです。

答え→「重きが上の小夜衣」が、衣と小袖を調えて送れという意味であること。



設問(四) 「わがつまならぬつまな重ねそ」(傍線部)とはどういうことか、掛詞に注意して女房の立場から説明せよ。

 これは文科のみに課せられた設問ですが、「掛詞に注意して」という付帯条件が難しく、正答率はかなり低かったのではないかと推察しています。
 まず、「つま」には『妻(つま)=夫から妻を呼ぶ称』/『夫(つま)=妻から夫を呼ぶ称』の2通りの解釈があり、さらにその一方で、『褄(つま)=着物の襟先(えりさき)から裾(すそ)までの左右両端』の意もあります。よく京都の芸妓さんの立ち姿などでは、左褄(ひだりづま)を手にとってポーズしますが、あの着物の裾にあたる部分が『褄(つま)』です。
 では、その着物の褄(つま)を重ねるとはどのような意味合いを表すのでしょうか? 木山方式の古文背景知識No.4「男女の和歌の贈答」の後半には、いわゆる「衣衣・後朝(きぬぎぬ)の別れ」に関する当時の習わしや贈答歌の有り様が書かれていますが、「衣衣(きぬぎぬ)」自体の定義は、" 衣を重ねて男女が共寝をすること ”とあります。つまり、それから類推するに『褄(つま)を重ねる』とは男女の共寝を表すわけです。
 「な~そ」は公式36・柔らかい禁止を表す構文(~するな/~しないで下さい)ですから、全体として言わんとする文意は、 " 自分の妻ではない人妻と着物の褄(つま)を重ねて共寝をすることなどしないで下さい " といった内容、つまり、女の側の拒絶の歌となるわけです。
 一方、「つま」を夫(つま)ととれば、 " 自分の夫ではない男と着物の褄(つま)を重ねて共寝をすることなど(私に)
せないで下さい " の意となります。
 どちらの解釈でも、女房の立場からの拒絶の発言として違和感はなく、どちらの解釈で答案を書いても正答になると思います。

答え→自分の妻ではない人妻に着物の褄(=つま)を重ねるような深い関係を求めるなということ。
〔別解〕自分の夫以外の男と衣の褄(=つま)を重ねて共寝をする事は出来ないということ。


 各予備校の解答速報も、おおむねこの2系統に分かれています。
駿台→褄を重ねるではないが、人妻である私と契って罪を重ねてくれるなということ。
東進→自分の妻でない人妻に小夜衣を重ねるような深い関係を求めるなということ。
代ゼミ→夫でないあなたと褄を重ねて契りを結ぶ気はないということ。
河合→自分の夫以外の男と衣の裾を重ねて共寝をすることはできないということ。

 ただし、東進の解答中の " 小夜衣を重ねるような深い関係 " という表現には私は多少違和感を覚えます。 和歌の上句「 さなきだに重きが上の小夜衣=そうでなくてさえ小夜衣は重いのに(補注=着物の形をした夜具。普通の着物よりも大きく重い)」は下句には至る前提であって、それなのに、その上さらに互いの着物の褄を重ねて男女の共寝をすることなどできない」というのが下句の真意です。
 つまり、歌意の全体からいっても、重ねるのは小夜衣ではなく、互いの着物の褄とすべきですし、「褄を重ねる(裾を重ねる)」という表現を答案中に出さなければ、掛詞に注意してという設問の条件も満たさないことになると私は思います。
 駿台の解答に「罪を重ねてくれるな」とあるのは、[補注・十戒の歌──僧が守るべき十種の戒律について詠んだ歌。]を意識した解答です。僧の女犯を戒める不邪淫戒については、古文背景知識No.2出家・遁世・隠者をご覧下さい。

 ちなみに、「褄(つま)」の知識をあらかじめ知る東大受験生は少なかっただろうと思います。一般に東大古典の良問たるゆえんは、知識によらず思考させる点にあると言われていますから、特殊な知識を持っているか否かが設問の当否を左右するというのは、東大らしからぬ作問です。
 以下に、私の直単も含めて、「褄(つま)=着物の襟先から裾までの左右両端」を載せている市販の単語集が存在するのかどうか調べてみました。


● 木山の直単450ABCDE〔公式64代表的掛詞56パターン含む〕→無し

● 大学JUKEN 新書 古文単語300 旺文社700円→無し

● 古文単語マスター333 数研出版 西村雪野 743円→無し

● マドンナ古文単語220 学研 荻野 文子 900円→無し

● 大学入試 古文単語ゴロゴ スタディカンパニー 板野 博行 1280円→無し

● オールインワン 古文単語540 スタディカンパニー 板野 博行 900円→無し

● 9割とける古文単語 KADOKAWA 笹森 義通 1300円→無し

● 新標準 古文単語 文英堂 仲 光雄 781円→無し

● 望月 光 の古文単語333 旺文社 900円→無し

● 解法 古文単語350 数研出版 雪村 雪野 820円→無し

● 大学入試 まめまめ古文単語300 文英堂 仲 光雄 800円→無し

● 1分間古文単語240 水王舎 石井 貴士 950円→無し

● 古文単語 文法の暗記と練習 Gakken 石井秀夫 990円→無し

● 現代語の例文で覚える古文単語250 文英堂 仲 光雄 840円→無し

● 新版完全征服 合格古文単語380 共著 桐原書店 800円→つま(妻・夫)は有るが褄(つま)は無し

● 読んで見て覚える重要古文単語315 桐原書店 共著 820円→無し/上に同じ

● 二刀流古文単語634 和田 純一 旺文社 900円→無し/上に同じ

● 古文単語FORMULA600 富井 健二 東進ブックス 600円→無し/上に同じ

● ビジュアル図鑑古文単語 池田 修二 河合塾 学研 1000円→無し/上に同じ

● グループ30で覚える古文単語600 山村 由美子 語学春秋社 1000円→有り〔P284 褄=着物の端の部分と有り〕

 以上、20冊中、1冊に小さく載せられており、他の19冊には見いだせません。正直なところ、一冊でも「褄」を載せている単語集があったという事実に、私は意外な思いがしました。

 受験古文対策として『褄』が狙われる可能性を本気で考えていた予備校関係者・単語集の編集者などはほとんどいなかったのではないでしょうか。確かに市販の単語集の一冊には載せられていますが、これは編者が狙って載せたというより、偶然の要素が強いと思います。高校で使われる国語便覧の【掛詞一覧】なども調べてみましたが、5冊調べたうちの4冊には載せられておらず、『プレミアカラー 国語便覧 数研出版』のP97の最下段の〔主な掛詞〕の欄に「つま=着物の裾」と載せられていました。ただし、ぶ厚いページ数の中の備考欄的な扱いですから、仮にこの本を手にしていたとしても受験対策になったとは到底考えられません。





【東大らしくない設問をらしくするにはどのように作問すべきであったか・試案】

*(傍線部エを含む前後の文章と、後半の本歌が示されるあたりの文章を以下に載せます。傍線オを新設した関係で本来の傍線部オが→カに変わります)

 ○ 仲立ちこの文を持ちて行きたるに、女房いかが思ひけん、歌を見て顔うち

あかめ、袖に入れて立ちけるを、仲立ちさては たよりあしからずと、

袖を ひかへて、「さて御返事はいかに」と申しければ、

重きが上の小夜衣(さよごろも)」とばかり言ひ捨てて、内へ紛れ入りぬ。

《中略》

 公義「いやこれは さやうの心にては候はず、新古今の十戒(じつかい)の

歌に、

 さなきだに重きが上の小夜衣わがつまならぬつまな重ねそ

と言ふ歌の心を以つて、人目ばかりを憚(はばか)り候ふものぞとこそ覚えて

候へ」と歌の心を釈しければ

〔注〕
○ つま──妻・夫に褄を掛ける。褄は着物の襟先から裾までの左右両端。

設問 「重きが上の小夜衣」(傍線部オ)とあるが、女房は師直に対して、どういうことを告げようとしたのか、わかりやすく説明せよ。

答え→自分の妻ではない人妻に着物の褄(つま)を重ねるような深い関係を求めるなということ。
〔別解〕自分の夫以外の男と衣の褄(つま)を重ねて共寝をする事は出来ないということ。





 これは要するに『引き歌=有名な古歌の一部を引用し、遠回しに自分の意をほのめかす技法(E歌11)』の真意を問う問題ということになります。私はよく '' 引き歌戻しの問題 " と言っていますが、この手の設問はセンター、国立大記述、早稲田などにごく普通に見られるオーソドックスな設問です。(お便No.53には詳しい出題例が載せられています)

 '' 引き歌戻し " は、本歌の中の、引用されたフレーズ以外の部分に含意有り』が解法の基本ですから、公義が紹介した本歌の「重きが上の小夜衣」を含む上句に着眼するのではなく、下句の「わがつまならぬつまな重ねそ」に含意が有ると考えます。
 この試案の場合、「つま」の意は〔注〕に示されていますから、「わがつまならぬ→我が妻ならぬ/我が夫ならぬ」はすぐ分かるとして、「褄(つま)な重ねそ」が男女の共寝の暗喩であり、女の側の拒絶の意を込めたものであることを見抜けるかどうかが得点化の分かれ目となります。
 さらに、答案化に際しては、「衣の褄(つま)を重ねて共寝をする/深い男女の関係になる/契りを結ぶ」といった適切な表現で答案化できるかも得点化のポイントとなります。

 これと比較すれば、今年の東大の設問(四)は女房の引き歌の真意が公義の紹介した和歌の下句にあることを設問自体として教えてしまっている点でつまらなく、また、その一方でほとんどの受験生が答えられなかったであろう「つま=妻/夫・褄」の掛詞の知識を直截に要求している点で、思考や解法のプロセスを重視する従来の東大らしい作問のセンスが感じられません。
 おそらく、掛詞の両義性を発想出来なかった大多数の受験生は、そこから先へはぱったりと進めなくなるといった感覚を味わったはずです。
 言うまでもないことですが、誰も完答できないような設問は、誰もが正答してしまうような設問と同様に、学力判定の試験としては不適です。


設問(五) 「人目ばかりを憚り候ふものぞ」(傍線部)とあるが、公義は女房の言葉をどう解釈しているか、説明せよ。

 「人目ばかりを」の「ばかり」は限定(〜だけ)の意を表す副助詞(公式38④)。「憚る」は漢単C55に載せられているように「遠慮する」の意です。したがって直訳は『(相手の女房は)人目だけを遠慮しているのでございましょうよ。』
 この公義の発言を聞いて師直は大いに喜ぶ訳ですから、師直の塩路判官の妻への横恋慕も、実は大いに脈ありと期待させている発言であることが分かります。
 つまり、公義は女房の言葉を '' 表面上は確かに拒絶の言葉を述べてはいるが、しかし、それは単に人目を気にしてそう言っているのに過ぎず、人目に触れぬ密通であれば、決して師直様の申し出を拒んでいる訳ではない '' と、解釈していることが推察出来ます。

答え→人目を遠慮しているだけで、師直を拒んでいるわけではない。
〔別解〕人目を遠慮しているだけで、実は師直の申し出を受け入れている。
〔別解〕人目を忍んでさえくれれば、師直と契りを結んでもよいと解釈している。

 以上、2018年東大古文における木山方式の直接ダイレクトな得点寄与の割合は、七設問中、設問(一)ア=だに・イ=なかなか・ウ=たより、設問(五)=憚るの四設問に関わるという結果になりました。
 ただし、これらの知識は木山方式以外の他の単語集などでも充当可能なものと考えられますから、例年のように木山方式に特有のヒットがあったとまでは言えません。









【第三問 漢文問題 全文訳】

(*リード文)次の文章は、宋の王安石が人材登用などについて皇帝に進言した上書の一節である。

 古代の帝王が天下を治めるにあたっては、人が為さないこと(=実行しないこと)を患(うれ)うのではなく、人が(それを)為すことが出来ない状態にあることを患(うれ)い、(また、さらに言えば)人が為すことが出来ないこと(=実行出来ないこと)を患(うれ)うのではなく、帝王自らが(人が実行出来るように)勉めていないことを a 患フ。

《解説:ここでいう「人」とは帝王を補佐する官吏を念頭に置いた表現であり、帝王たる者は人が能吏(有能な官吏)でないことを患(うれ)のではなく、帝王自らが人を能吏たらしむるように勉めていないことを患(うれ)うべきだといった教えが込められています

 (では)どんなことを、「人が為さない(=実行しないこと)を患(うれ)うのではなく、人が(それを)為すことが出来ないことを患(うれ)う」というのでしょうか。

 人の心情として、それを得たいと願う所のものは、善行(=立派な行い)・美名・b尊爵・厚利(=豊かな利益)です。そういうわけで、古代の帝王は人が得たいと思い願う所のもを(褒賞として)よく操(あやつ)って天下の士(漢単B20=有能な人材となる徳学を修めた立派な男子)に臨んだのです。

 天下の士として、これに従ってよく天下を治めるに者有れば、すなわち、悉(ことごと)くその得たいと願う所のものを士に与えます。(逆に)士が有能でなければ、すなわち c已ム矣。

もしも(仮にも)士が有能であれば、すなわち、

d 孰(たれ)カ  肯(あへ)テ  其(そ)ノ  得ルヲ願フ所ヲ  舎(す)テテ  自(みずか)ラ  勉(つとめ)テ  以(もっ)テ  才(さい)ト為(な)ラザランヤ。

(いったい誰が自らが進んでその得たいと願う所のもを捨てて、自ら勉めて才能を発揮しないことなどありましょうか。=誰しもが自分が欲するもののためには、勉めて才能を発揮するはずだの意)

 故に(古代の帝王は)言うのです、「人が為さないことを患(うれ)うのではなく、人が(それを)為すことが出来ない状態にあることを患(うれ)う」と。

 (では)どんなことを「(さらに言えば)人が為すことが出来ないこと(=実行出来ないこと)を患(うれ)うのではなく、帝王自らが(人が実行できるように)勉めていないことを患(うれ)う」というのでしょうか。先代の帝王の法は、


e 所‐ 一レ人 者 尽 矣。
(人を待(たい)する所以(ゆえん)の者は尽くせり=人を待遇する手段方法を尽くしている)

 (ですから、その法に従えば)極めて愚か者で何によっても変わらない者でないかぎりは、人は有能な人材になり得るのです。そういうわけで、

f 之を謀(はか)るに  至誠惻怛(しせいそくだつ)の心を以て  之に先んぜざれば、  未だ能(よ)く  至誠惻怛の心を以て  力行(りっこう)して  之に応ずる者  有らざるなり。

〔注〕惻怛(そくだつ)──あわれむ、同情する。

故に(先代の帝王は)人が為すことが出来ないこと(=実行出来ないこと)を患(うれ)わずに、帝王自らが(人が実行出来るように)勉めていないことを患(うれ)うと言ったのです。


設問(一) 傍線部 a患フ」・b尊爵」・c已矣」の意味を現代語で記せ。

 『患』の字義は漢単A面右外にあるように「患(うれ)フ…①心配する・思い悩む」「患(わづら)フ…②わずらう」ですが、皇帝が自身の人材登用の努力不足を自省するといった文脈ですから①の心配する・思い悩むが適当。木山方式履修者にとっては瞬殺で即答できたと思います。

 『已』の字義は、副詞として読めば「已(すで)ニ」動詞として読めば「已(や)ム=終わる・止める」(漢単D27)。もちろんここは動詞ですが、何を止めると言っているのかと言えば、" 有能な人材には惜しげも無く褒賞を与えるが、無能な者には褒賞を与えるのを止める " と言っているわけです。
 さらに、『矣』は漢文公式10⑥にあるように、「文末の語気を強める語気詞としての置き字」ですから、文末の語気をやや強めた意訳が求められます。 年間を通して漢単、漢文公式の暗記を何十回も繰り返してきた木山方式の履修者にとっては、これも瞬殺かつ自信を持って完答できた設問だと思います。

答え→a 心配する(思い悩む)
   b 高貴な位(高い官位)
   c 与えるのをやめるまでだ。(それまででだ)


設問(二) 「孰 肯 舎 其 所 願 得 而 不 自 勉 以 為 才 」(傍線部d)とは、だれがどうするはずだということか、わかりやすく説明せよ。

 この傍線部d には、返り点・送りが付いており、『孰(たれ)か肯へて其の得るを願ふ所を舎(す)てて自ら勉めて以て才と為らざらんや』と読めることは明示されていましたから、説明はそう難しくありません。
 直訳は、「いったい誰が自ら進んでその得たいと願う所のものを捨てて、自ら勉めて才能を発揮しないことなどありましょうか」です。

答え→天下の士は、自分が得たいと願うものの為にはすすんで勤めて才能を発揮するはずだということ。


設問(三) 「所‐
 
一レ人 者 尽 矣 」(傍線部e)を平易な現代語に訳せ。

 意外に難しかったかもしれません。『所以(ゆえん)』の意味は二つあります。
① 原因・理由・わけを表す
手段・方法を表す

 このうち原因・理由の方はよく知られていますが、手段・方法の訳は知らない人が多かったのではないでしょうか。実は、私の漢文公式にも①の意しか載せていませんでした。主要大学でこれまで②の意を問う出題例を見たことがなかったからです。
 手段・方法の訳を知らなければ、(先代の帝王の法においては)『人を待する手段方法が尽くされている』という正答には至らず、その点で難しかったと思います。
 また、下から2文字目の「尽」は「尽(つく)セリ。」と訓むのが正しく、「尽(つき)タリ。」では前後の文意が合いません。「尽くす」のここでの意味は『ありったけのものを全て出し切る』といったニュアンスです。

答え→人を待遇するための手段・方法が極め尽くされている。


設問(四) 「不 謀 之 以 至 誠 惻 怛 之 心 力 行 而 先 之、 未 有 能 以 至 誠 惻 怛 之 心 力 行 而 応 之 者 也 」(傍線部f)とは、誰がどうすべきだということか、わかりやすく説明せよ。

 この問い(傍線部f)についても、返り点・送りが付いており、「測怛(そくだつ)=あわれむ、同情する。」の補注もありましたから、言わんとする骨子を掴むのはそう難しくなかったと思います。上に立つ天子皇帝が率先して「至誠測怛=真心とあわれみ」の心を持って(下にいる)士に当たらなければ、士もまた至誠測怛の心で之に応ずる者はいないのである、というのが直訳です。且つ、すべては国家に益する人材登用の為にそうすべきだと言っているわけです。

答え→皇帝が、士に率先して真心とあわれみの心を持って人材の登用に勤める(努める)べきだということ。

 以上、2018年東大古文・漢文における木山方法の直接ダイレクトな得点寄与は、古文7設問中4問、漢文6設問中2問、合計13問中6問という結果となりました。過去4年間の得点寄与率の変遷は以下の通りです。

*H27・2015年⇒6問/12問中[お便りNo.56に詳しい解説あり]

*H28・2016年⇒5問/13問中[お便りNo.58に詳しい解説あり]

*H29・2017年⇒8問/13問中[お便りNo.63に詳しい解説あり]

*H30・2018年⇒6問/13問中[今回のお便りNo66]

 多くの予備校・塾で行われている、年間40〜50題程度の大問演習→解説授業的な '' 東大古典対策 '' と比較すれば、木山方式の直接ダイレクトな得点寄与の割合はかなり良いと思います。
 例えば、私自身の授業でも『たより=機会・つて』、患(うれ)フ=心配する・思い悩む』、『(語気詞)』の訳出のニュアンスを教える機会が、昨年のYサピックスの高3国語の大問演習中に出現したかといえば、実は一度もありません。瞬殺で解答出来たのはすべて全網羅的暗記の成果です。
 大問演習の積み上げ方式の授業は、時間配分や形式に慣れるという利点はありますが、本番で直接ダイレクトに役立つ知識の網羅という点ではかなり疎なるものだと私は思います。

 




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