お便りシリーズNo.72

【令和3年・2021年
共通テスト試験古典(古文漢文)】




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《今回の共通テスト古典100点中、直接ダ

イレクトな木山方式の得点寄与率は46点=

46%》

「女のエクリチュール」栄花物語に見る女性たちのエロスと生殖の力

  
 歴史の物語として歴史上のどのような事件・出来事を取り上げるのか、その情報の選択・検閲において、栄花物語には一貫した視点があるように見えます。
 歴史の表面に顕在化するのは男性的な力の確執であり、抗争や統治のさまであったとしても、その男性たちの権力を潜在的に支えたのは、女性たちの存在であった、とする視点です。

 一般に上流貴族の婿入り婚では、夫君は権勢家の婿として遇されるのが出世の近道でした。また、その妻との間で子宝に恵まれ、娘が女御や更衣として天皇の子(男子)を産むと、娘の父親や男兄弟が摂政関白として権力を得ることができました。つまり、わかりやすく言えば、

摂関政治とは「娘や妹の懐妊」に、政治の全てを賭ける壮大な『妊活』システム


でした。まさに、閨房から権力が生まれたわけです。

 そういう意味では、男たちの政治生命を握っていたのは、とりもなおさず女性たちの存在であり、とりわけ、こうした女性たちが '' 子を産む力 '' に依存していました。
 そうした女性たちのエロスや生殖の力を、政治的事件やさまざまな出来事の深層に見つけだし、描きだすという視点で、栄花物語は終始一貫しているように見えます。

 ですから、栄花物語に出産の記述が多く描かれるのも、「女のエクリチュール」という視点からは当然の帰結と言えます。
しかし、産まんとする女の闘いにおいでも、その勝者(=多くの子をなし、子供たちが栄達していく女たち)もいれば、敗者(=ついに子を成すことのできなかった女たち)もいるのは、歴史の現実の厳しさでもありました。
 さらに、お産で命を落とす女君も少なくなかったのです。栄花物語に登場する経産婦47人中、11人がお産で亡くなっています。これは、実に23.4%の高確率です。

 実は、今回の共通テストに出題された藤原長家(=藤原道長の六男)の室の死にも、その経緯において出産・死産という事実が関わっています。妻を亡くした長家の悲しみを理解するために、少し背景を書いてみましょう。

 長家の最初の結婚相手は、能書家の三蹟で知られる藤原行成の女(むすめ)でした。しかし、長家はよくよく妻の運に恵まれなかったのか、結婚3年目で成行の女(むすめ)はあっけなく死んでしまいます。結婚当時、長家は12歳、成行の女は10歳の幼い子供であり、道長も「雛遊びのように可愛らしい」と言ったほどでした。互いに居眠りをして、大人たちに抱えられて御帳台の中に横たえられるなど、幼い二人の様子は愛らしいばかりですが、おそらくは、本当の意味での男女の情愛を経験する以前に、性来身体の弱かった行成の女(むすめ)は世を去ったものと思われます。

 その後、前妻の一周忌も済まないうちに、長家は今回出題された斉信の女(むすめ)と結婚することになります。天下人道長の息子であり、しかも、正妻の養子扱いであった長家は、当時の貴族社会において人気の「婿取り」の対象であったようです。

 2度目の結婚時、長家は17歳、斉信の女(むすめ)はやや年上の20歳くらいでした。ところが、この結婚も長くは続きません。結婚5年目の1052年、長家は赤痘瘡に感染します。自身は回復したものの、今度は夫の病気に妻が感染してしまいます。
 その時、斉信の女(むすめ)は妊娠7ヶ月ほどでしたが、病は日々重くなり、男子を早産しますが死産、直後に危篤となり、出産からわずか2日後に死去します。
 自分の産んだ子がすでに死んでいることも知らず、子供のために必死で薬湯を飲もうとする姿が栄花物語に描かれていますが、涙誘われる場面です。

 この時の長家の心境については、『侍従大納言(=行成)の姫君の御折(死去の折)、いみじと思ひしかど、それはいと若くて、なかなかもののおぼえで、はかなきことにも慰みき。これは(=2度目の妻の死は)おほかたあるべくも思されずや』と栄花物語には書かれていますが、すでに21歳になっていた長家は、精神的にもより「大人」として二度目の妻の死を悲痛な悲しみの中に受け止めたようです。

 遺体を法住寺に移すことになり、お棺に入れられた若い母親に続き、赤ちゃんも同じ棺に入れられ、母親が懐に抱いたようにして寝かせられました。出棺ののち、霊柩車のうしろに、父斉信と夫の長家、そのほか縁故の人々が徒歩でつづいてゆく場面から、今回の共通テストは始まっています。

 ところで、栄花物語の視点は、愛する者を亡くした哀悼の思いを語る『死なれた者の物語』であり、『死にゆく者の内面の物語』ではありません。いったい、死にゆく妻の内面はいかようなものであったのか?と興味を抱いて探ってみても、それに応えてくれるような記述はほとんどありません。

 これは、『古今集』以下の勅撰集が '' 哀傷歌 '' という形で「死」を扱う文芸様式を確立していたのに対し、仮名散文においては、いまだ内発的「死」を描く伝統が確立していなかったことと関連があると言われています。問題文の後半にある弔問歌とその返歌など、いかにもそのような哀傷歌の伝統に沿ったものです。

 そうした中で、一瞬、死にゆく人の、生前の妻の生身の声を聞いたような気持になるのは、長家の回想の中に出てくる次のような発言です。

麿(まろ)が死なんをば、いかにうれしと思されん』(=私が死ぬのを、あなたはどんなに嬉しいとお思いになる事でしょう)

 これは、長家が内裏の女房と関係を持ち、その女性にあてた恋文が露見した時の、斉信の女(むすめ)の一言ですが、身もふたもないほどの嫉妬の言葉は端的で、婉曲を好む王朝世界にあって、私にはかえって新鮮に響きました。
 他の女性を追い求めるには、世に認められた妻である私の存在は邪魔でしょう!という辛辣な皮肉ですが、遠慮会釈もなくハッキリと感情を投げつけるこのくだりに、私は斉信の(むすめ)の確かな人格のリアリティを感じましたし、おそらくは長家も妻のこうした人柄を愛したのではないでしょうか。

 妻に迫られて、長家はもう絶対に他の女性のそばへは寄り付きはしない、私は法師になろう、と大真面目に誓ったりしますが、こうしたやり取りの中にも、どこか年若い夫婦ならではの、まっすぐで純な気持ちをを感じてしまいます。

 ともかく、王朝女性たちの '' 産むことをめぐる戦い '' の結末は、勝者にしろ敗者にしろ、その経緯は実にざまざまでした。愛すれど、子を産めど、夫に他の妻ができてしまう姫君もいれば、結婚後、いっこうにお産の気配がなく、『素腹(すばら)の君=空っぽのお腹の君』と揶揄される姫君もおりました。

 現代の日本でも昭和30年代くらいまでは、『男の戦争女のお産』などと言って、出産は女性にとって命懸けの一大事であったそうです。私自身も、子供の頃、近所の若いお嫁さんが初産で亡くなり、遺体が座敷に寝かせられているのを、垣根越しにのぞき見た記憶があります。よほどお産が激しかったのか、白い布を顔に被せられた、その下の細いうなじに黒髪がべったりと張り付いているように見えました。

 ようやく本当の意味での夫婦としての情愛を感じられるようになった妻と赤ちゃんの両方を、お産で一度に失ったこの時の長家の悲しみは、いかばかりであったことか。
栄花物語に描かれた女たちのエロスと生殖の力を思うとき、私には、それが女性賛歌でもあり、同時に、女性哀歌でもあるような、そんな複雑な感慨を持ってしまいます。


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第3問〔古文〕

 次の文章は、『栄花物語』の一場面である。藤原長家(本文では「中納言」)の妻が亡くなり、親族らが亡骸(なきがら)をゆかりの寺(法住寺=ほうじゅうじ)に移す場面から始まっている。

大北の方(亡き妻の母)も、この殿ばら(注…故人と縁故のあった人)も、またお

しかえし臥(ふ)しまろばせたまふ。これをだに悲しくゆゆしきことにいはで

は、また何ごとをかはと見えたり。

 さて御車(注…遺骸を運ぶ車)の後(しり)に、大納言殿(注…亡き妻の父)、さる

べき人々は歩ませたまふ。いへばおろかにて、

(ア) えまねびやらず。

北の方(注…亡き妻の母)の御車や、女房たちの車などひき続けたり。御共の

人など数知らず多かり。法住寺には、常の御渡りにも似ぬ御車などのさまに、

僧都の君(注…亡き妻の叔父で法住寺の僧)、御目もくれて、え見たてまつりた

まはず。さて御車かきおろして、つぎて人々おりぬ。

 さてこの御忌(いみ)のほどは、誰(たれ)もそこにおはしますべきなりけり。山

の方をながめやらせたまふにつけても、わざとならず色々にすこしうつろひた

り。鹿の鳴く音(ね)に御目もさめて、今すこし心細さまさりたまふ。

宮々(注…長家中納言の姉の彰子や研子)よりも思(おぼ)し慰むべき御消息(せう

そこ)たびたびあれど、ただ今はただ夢を見たらんやうにのみ思されてすぐした

まふ。

月のいみじう明(あか)きにも、思し残させたまふことなし。内裏(うち)わたり

の女房も、さまざま御消息聞こゆれども、よろしきほどは、

A 「今みづから」とばかり書かせたまふ。

進内侍(じんのないし)と聞こゆる人、聞こえたり。

契りけん千代は涙の水底(みなぞこ)に枕ばかりや浮きて見ゆらん

中納言殿の御返し、

起き伏しの契りはたへて尽きせねば枕を浮くる涙なりけり

また東宮の若宮の御乳母(めのと)の小弁(こべん)、

X 悲しさをかつは思ひも慰めよ誰もつひにはとまるべき世か

御返し、

Y 慰むる方しなければ世の中の常なきことも知られざりけり

 かやうに思しのたまわせても、いでや、もののおぼゆるにこそあめれ、まして

月ごろ、年ごろにもならば、思ひ忘るるやうもやあらんと、われながら心憂く

思さる。何ごとにもいかでかくやと

(イ) めやすくおはせしものを、

顔かたちよりはじめ、心ざま、手うち書き、絵などの心に入り、さいつころま

で御心に入りて、うつ伏しうつ伏して描(か)きたまひしものを、この夏の絵

を、琵琶殿(注…長家の姉研子)にもてまゐりたりしかば、いみじう興じめでさ

せたまひて、納めたまひし、

B よくぞもてまゐりにけるなど、思し残すことなきままに、よろづにつけて恋

しくのみ思い出できこえさせたまふ。


年ごろ書き集(つ)めさせたまひける絵物語など、みな焼けにしのち(注…数年前

の火事ですべて燃えてしまった後)、去年(こぞ)、今年のほどにし集めさせたま

へるもいみじう多かりし、

(ウ) 里に出でなば、

とり出でつつみて慰めむと思されけり。

現代語訳

 大北の方(=亡き妻の母君)も、故人と縁故のあった殿方たちも、また繰り返し身をよじってお泣きになる。このことさえも悲しく不吉なことに言わないでは、また何事を(悲しく不吉なことと)言えようか、いや、言いようもないと見えた。

 さて、(妻のなきがらを運ぶ)御車の後に、大納言殿(=亡き妻の父君)、中納言家長、その他しかるべき人々がお歩きになる。(その悲しいご様子は)とても言葉では言い尽くせず[C形動10*いへばおろかなり→言葉では言い尽くせない]

(ア) えまねびやらず。

 大北の方(=亡き妻の母君)の御車や、女房たちの車などがその後に引き続いた。お供の人など数知れず多い。法住寺には、通常のお越しとも見えない御車などの様子に、僧都の君(=亡き妻の父君の弟で法住寺の僧)は目も涙にくれて、見申し上げることもおできにならない。そうして、ご遺体を乗せた御車をかきおろして(=車を止めて牛を外して轅を下ろして)、続いて人々(大北の方や女房たち)も車からおりた。

 さて、この御忌の間は(=死後49日間の法要の間は)、誰もがその法住寺に籠っていらっしゃるはずであった。東山の方を眺めやりなさるにつけても、(木々は)さりげなく色々に色あせて紅葉している。[A動6 うつろふ①色あせる]

 鹿の鳴く音(=雄鹿が雌鹿を求める妻恋の声)に、長家様は御目も覚めて、今少し心細さがまさりなさる。長家の姉たちの宮様方からも、思い慰められるであろうお手紙がたびたびあるけれど、ただ今のところはただ、夢を見ているようにばかりお思いになられて、日々をお過ごしになる。

 月がたいそう明るい時にも、あれこれ思い残すこともなく、あるかぎり物思いをなさる。宮中の女房からも、さまざまにお手紙を差し上げるけれども、まぁまぁ一通りの程度のお相手に対しては、[C形83よろし→まぁまぁ良い・そう悪くない・ひと通り]

A 「今みづから」とばかり書かせたまふ。

 進内侍(じんのないし)と申し上げる人が、(次のような歌を)差し上げた。

契りけん千代は涙の水底(みなぞこ)に枕ばかりや浮きて見ゆらん
《千代までもと夫婦の約束を交わしたことも(むなしく)涙の水底に沈んで、その涙の水に枕ばかりが浮いて見えていることでしょう》

中納言殿(=長家様)の御返し、

起き伏しの契りはたへて尽きせねば枕を浮くる涙なりけり
《起き伏しに交わした夫婦の約束は絶えて尽きることがないので、枕を浮かせるほどの涙であることよ》

 また、東宮の若宮の御乳母(めのと)の子弁(こべん)が差し上げた歌、

X 悲しさをかつは思ひも慰めよ誰もつひにはとまるべき世か
《悲しさを一方では思い慰めて下さい。誰もが最後まで生きとどまることのできる世の中でありましょうか》……世は無常であり、誰しも永遠に生きることはなど出来ません。

長家様の御返し、

Y 慰むる方しなければ世の中の常なきことも知られざりけり
《思い慰める方法もないほど悲しいので、世の中が無常だということも知ることができないことよ》

 このようにお思いになり、また、返歌をお詠みになるにつけても、(長家様は) '' さてまぁ、私には(歌を返すほどの)まだしっかりとした分別の心があるようだ。
「ものもおぼえず」は茫然として分別もない状態→従って、その逆の「ものおぼゆる(心)」とは、しっかりとして分別のある心となる。

(悲嘆にくれる今でさえこうなのだから)まして、数カ月、数年にもなってしまったら、この悲しみを忘れてしまうこともあるのだろうか '' と、我ながら情けなくお思いになる。

 '' (亡き妻は)何事にも、どうしてこれほどまでにと思われるほど

(イ) めやすくおはせしものを、

 顔かたちをはじめとして、気立ても(良く)、筆跡も(上手に)書き、絵などに心を入れて、つい先ごろまで熱心に、うつ伏しうつ伏して絵をお描きになっていたのになぁ。
 この夏(亡き妻)が描いた絵を、琵琶殿(=長家中納言の姉)に持って参上したところ、琵琶殿はたいそう面白がりお褒めになって、納めなさったが、(我ながら)

B よくぞもてまいりにけるなど、思し残すことなきままに、よろづにつけて恋しくのみ思い出できこえさせたまふ。

 長年描き集めなさった絵巻物など、数年前の火事ですべて燃えてしまった後、去年今年のあいだに集めなさった絵などもたいそう多かったが、

(ウ) 里に出でなば、

それを取り出しつつ見て慰めようとお思いになるのだった。[亡き妻を偲ぶ形見として絵を見るのであれば、去年今年に描き集めた絵とは亡き妻の作と解釈すべきか]



問5の【文章】に示された和歌Z

Z 誰もみなとまるべきにはあらねども後(おく)るるほどはなほぞ悲しき
《誰もがみなこの世にとどまることのできる生ではないけれど、それでも妻に先立たれた今はやはり悲しくてならない》


  現代文 古 文 漢 文 合 計 全教科(得点率)
100 45 50 195 874/900(97.1%)
100 39 50 189 839/900(93.2%)
85 39 50 174 765/900(85.0%)
84 44 50 178 773/900(85.9%)
87 43 46 176 697/900(77.4%)
79 31 40 150 706/900(78.4%)
73 26 50 149 730/900(81.1%)
100 33 44 177 781/900(86.8%)
78 28 38 144 676/900(75.1%)


A→東大理Ⅲ 合格       B→東大文Ⅱ 合格
C→慶応理工学部 合格     D→香川大学医学部 合格
F→群馬大学医学部 合格    G→東北医科歯科大学 合格
H→京都府立医科大学 合格   I→聖マリアンナ医科 合格




問1 傍線部(ア)〜(ウ)の解釈として最も適当なものを選べ。

(ア) えまねびやらず

① 信じてあげることができない
② かつて経験したことがない
③ とても真似(まね)のしようがない
④ 表現しつくすことはできない
⑤ 決して忘れることはできない

(イ) めやすくおはせしものを

① すばらしい人柄だったのになぁ
② すこやかに過ごしていらしたのになぁ
③ 感じのよい人でいらっしゃったのになぁ
④ 見た目のすぐれた人であったのになぁ
⑤ 上手におできになったのになぁ

(ウ) 里に出でなば

① 自邸に戻ったときには
② 旧都に引っ越した日には
③ 山里に隠棲(いんせい)するつもりなので
④ 妻の実家から立ち去るので
⑤ 故郷に帰るとすぐに

問2 傍線部『今みづから』とばかり書かせたまふ」とあるが、長家がそのような対応をしたのはなぜか。その理由として最も適当なものを選べ。

① 並一通りの関わりしかない人からのおくやみの手紙に対してまで、丁寧な返事をする心の余裕がなかったから。
② 妻と仲のよかった女房たちには、この悲しみが自然と薄れるまでは返事を待ってほしいと伝えたかったから。
③ 心のこもったおくやみの手紙に対しては、表現を十分練って返事をする必要があり、少し待ってほしかったから。
④ 見舞客の対応で忙しかったが、いくらか時間ができた時には、ほんの一言ならば返事を書くことができたから。
⑤ 大切な相手からのおくやみの手紙に対しては、すぐに自らお礼の挨拶にうかがわなければならないと考えたから。

問3 傍線部Bよくぞもてまゐりにけるなど、思し残すことなきままに、よろずにつけて恋しくのみ思ひ出できこえさせたまふ」の語句や表現に関する説明として最も適当なものを選べ。

① 「よくぞ……ける」は、妻の描いた絵を琵琶殿へ献上していたことを振り返って、そうしておいてよかったと、長家がしみじみと感じていることを表している。
② 「思し残すことなき」は、妻とともに過ごした日々に後悔はないという長家の気持ちを表している。
③ 「ままに」は「それでもやはり」という意味で、長家が妻の死を受け入れたつもりでも、なお悲しみを払拭することができずに苦悩していることを表している。
④ 「よろづにつけて」は、妻の描いた絵物語のすべてが焼失してしまったことに対する長家の悲しみを強調している。
⑤ 「思い出できこえさせたまふ」の「させ」は使役の意味で、ともに亡き妻のことを懐かしんでほしいと、長家が琵琶殿に強く訴えていることを表している。




和室   


第4問〔漢文〕現代語訳

 次の【問題文Ⅰ】の詩と【問題文Ⅱ】の文章は、いずれも車馬を操縦する「御術(ぎょじゅつ)」について書かれたものである。

【問題文Ⅰ】(設問に関わる部分以外は書き下しの形で載せています)

吾に千里の馬有り。毛骨(=馬の毛なみと骨格)

(1) 何 蕭 森(せうりん=ひきしまって美しい)タル。

疾(はや)く馳(は)すれば奔風のごとく、

白日(はくじつ)に陰を留むる無し。

徐(おもむ)ろに駆(か)くれば大道に当たり、

歩驟(ほしう=馬が駆ける音)は五音(=中国の伝統的な音階)に中(あた)る。

A 馬に四足有りと雖(いへど)も、

遅速は吾が[ X ]に存(あ)り。


六轡(りくひ=馬車を操る手綱)は吾が手に応じ、

調和すること瑟琴(しつきん=大きな琴と小さな琴)のごとし。

東西と南北と、

山と林とを高下す。

B  惟 意 所 欲 適

九州(=中国全土) (2) 周 尋(たず)ぬべし。

(3) 至れる哉(かな) 人と馬と、

両楽相侵(おか)さず。

伯楽(=良馬を見抜く名人)は其(そ)の外を識(し)るも、

(ア) 徒 価(あたひ)の千金なるを知る。

王良は其(そ)の性を得たり、

此(こ)の術 (イ) 固 已(すで)に深し。

良馬は善馭(ぜんぎょ=すぐれた馭者)を須(ま)つ、
*須(ま)つ…必要とする

吾が言(げん)箴(しん=戒め)と為すべし。

[欧陽脩『欧陽文忠公集』による]


【問題文Ⅱ】


王良は趙(ちょう)国の㐮主(じょうしゅ)に仕える臣であり、「御術」における師でもある。ある日、㐮主が王良に馬車の駆け競(くら)べを挑み、三回競争して3回とも勝てなかった。くやしがる㐮主が、まだ「御術」のすべてを教えていないのではないかと詰め寄ると、王良は次のように答えた。

 凡(およ)そ御(ぎょ)の貴(とうと)ぶ所は、馬(a)

車に安んじ、人(b)

馬に調(かな)ひ、而(しか)

る後に以て(c)むこと速

(すみ)やかにして、遠きを致すべし。

C 今 君 後 則 欲  逮  臣、

先 則 恐  逮 于 臣


夫(そ)れ道に誘(すす)めて遠きを争ふは、先んずるに

非(あら)ざれば則ち後(おく)るるなり。

而(しか)して(d)後の心

(e)に在り。

尚(な)ほ何を以て馬に調(かな)はん。

此れ君の後(おく)るる所以(ゆえん)なり。

(「韓非子」による)


*この記事続く

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