お便りシリーズNo.75

= 令和4年・2022年
東京大学古典だより(古文漢文) =




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設問(二)『ただまぼろしに見るは

見るかは』の大意を示せ。試験場で

上手く書けたか、夢かうつつか・・・

朧化(ろうか)表現




ー朧化表現ー

 蜻蛉日記の一節に、夫兼家が作者である道綱母のもとを久々におとずれる場面があります。のどかに降る、春まだ浅き時節の雨音を聴きながら、兼家はゆっくりと時間をかけて妻である作者との情交を楽しみます。しかし、その夜、泊まることまでは出来なかったのか、

「されどとまる方は思ひかけられず。……とばかりありて、…………起き出でて、なよよかなる直衣、帯ゆるるかにて、歩み出づるに」

と続きます。
 夫の入来と退出の、その間に挿入された『とばかりありて=しばらくして』の意味合いが微妙で、後続する着衣の記述からも男女の営みがあったと見ても違和感はありません。そう見れば、そぼふる春の長雨を背景に、情事の後のけだるさがにじんで優雅にさえ感じられます。確かにそうだというのではなく、そう解釈しても通じるなぁという点で、わざとぼかしてそれとなく匂わせている表現ということもできます。
こうした表現の仕方を、国文学では朧化(ろうか)とか朧化表現といいます。

一般に、男女の営みとしての「濡れ場」を直接的に文学に登場させることは、平安時代には考えられないことでした。あの『源氏物語』ですら「濡れ場」らしい「濡れ場」は一度も登場しません。露骨な性描写は優婉優美な王朝文学にはそぐわないと考えられていたようです。

「伊勢物語」第69段には、在原業平に擬せられた「男」が勅使として伊勢の斎宮(さいぐう)を訪ね、人が寝静まった時、2人きりの時間を過ごしたと記されています。伊勢の斎宮といえば神に仕える皇女で、男を近づけないのが本来なのですが、この禁を破っての、夢か現(うつつ)かわからない、かすかな幻としての夢幻的な恋という設定でした。

 まだ夜の明けぬうちに斎宮は帰って行き、男は朝まで眠れずにいると、そこへ斎宮の方から文が届きます。詞(ことば)はなく、歌ばかりが一首ありました。

君やこし我やゆきけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか
《あなたさまがおいでになったのでしょうか。それとも私がそちらへ参りましたのでしょうか。よくわかりません。夢なのでしょうか。ほんとうのことだったのでしょうか・・・》

「夢かうつつか寝てかさめてか」の重ね方に、なんともいえぬ風情があり、哀切で優婉、嫋々(じょうじょう)とした余情を感じさせて美しいものがあります。王朝文学は男女の営みを、こうした余情余韻の中に包み込むやり方で文学的に昇華させる手法を好みました。「あれは夢だった」と言い切るのではなく、それが夢の中でのことなのか、それとも現実に起こったことなのか、自分自身でもよく分からないと、半ば疑うような気持ちで発せられるのが常ですから、一種の自問自答的ニュアンスを帯びた朧化表現 ということもできます。

 この伊勢物語の朧化表現は、それ以降の物語作品にも多く用いられます。例えば、源氏物語・若菜下では『ただいささかまどろむともなき夢に』(ほんの少しウトウトとまどろんだかどうかもわからないほどの夢の中で)という朧化表現によって、強引に柏木が女三の宮の体を奪ったことが婉曲に表現されますし、情事の後の、女三の宮の柏木への返歌も、

あけぐれの空にうき身は消えななん夢なりけりと見てもやむべく
《暗い明けぐれの空につらい私の身は消えてしまってほしい。夢でもあったのだと見てすませられるように》

と、すべては夢のようにはかない幻という含みで詠まれています。

 今回、東大で出題された『浜松中納言物語』の中で詠まれる中納言の歌も、

ふたたびと思ひ合はするかたもなしいかに見し夜の夢にかあるらむ
《ふたたび思ひあわせる手立てもありません。あなたとのはかない逢瀬はどのようにして見た夜の夢なのでしょうか》

と、唐后との密かな逢瀬を「見し夜の夢」としていますが、これも『夢かうつつか』といった王朝文学特有の朧化表現、男女の営みを夢幻的な余情余韻に包み込む伝統に沿ったものだと言えます。


ー女の顔を「見る」という行為の方が、女との夜の交わりそのものよりもより本質的な行為であるという倒錯ー


 古文単語の「見る」には、『男女として逢う・結婚する』などの意味があります。結婚といっても現代のような法的結婚制度があったわけではありませんから、要するに、性愛関係を持って “ 男と女の関係になる " ことを「見る」という言葉で表しているわけです。なぜ、そういうことになるのでしょうか?

 基本的に求愛時の男は夜になって人目を忍びつつ女のもとに通い、夜明け前に帰るというのが原則でした。男が夜だけ通うということは、女の顔をまじまじと明るい場所で見ているわけではありません。闇の中での女の気配、話し声、髪の手触り、しめやかな香の香りなどを通して女の存在を知るのです。

 女と夜の闇との相性はよく、女にとって夜の闇は「身を守ってくれるヴェール」のようなものでした。従って、特に姫君のような高貴な女性の場合、明るい日の光のもとで男に顔を見られるという行為は、裸体を見られるのに近い感覚があったようです。今風にいえば、「明るいところでお風呂に2人で入る」のと同じくらいの親密度ゆえの行為でした。

 ですから、たとえ夜を共にして身を許した相手であっても、朝の光のもとで顔を見られるのは恥ずかしくつらいという女の思いがあり、男の側は、逆にその羞恥を乗り越えて女が顔を見せるのを許すという行為には、二人の結びつきの確かさを確認するという意味合いでの了解があったと思われます。


つまり、女の顔を「見る」という行為の方が、夜の闇の中での男女の営みそのものよりも、より本質的な行為であったわけです。

 現代人の目から見れば、女の抵抗の力点がいささかズレているようにも感じられるかもしれません。というのも、すでに夜の営みは終えているわけですから、いかなる痴態もなしたであろうに、それが夜の闇の中であれば少しも恥ずかしいとも思わず、事後に顔を見られることの方を恥じるというのは、どこか倒錯した感覚のようにも見えてしまいます。

とにかく、上手い表現が見つからないのですが、女側の『私はあの男(ひと)のものになる』という感覚は、夜の性交の方ではなく、「男に顔を見られる」という行為の方により強くあったと言えるのではないでしょうか。源氏物語・若菜下には、女三の宮と密通を果たした柏木が、抱き上げた女三の宮の顔を暁の薄闇に見ようとして格子を引き上げる場面が描かれますが、一見、何の変哲もない夜明け前の行為のようにみえて、そこにはより深い意味合いが込められているのかもしれません。

ところで、「男に顔を見られる」ことの、以上のような意味合いを土台にしてみると、H24( 2012)東大古文に出題された『俊頼随脳』設問(五)の解釈に於いても、ちょっと面白い視点が浮かび上がってきます。紹介しましょう。

岩橋(いはばし)の夜の契(ちぎ)りも絶えぬべし明くるわびしき葛城(かつらぎ)の神

注…葛城の神……昔、役行者の命で葛城山と吉野の金峯山との間に岩橋をかけようとした葛城の神(一言主の神・女神)が、容貌の醜いのを恥じて夜間だけ働いたため、完成しなかったという伝説に依っている


(五) 文中の和歌は、ある女房が詠んだものだが、この和歌は、通ってきた男性に対して、どういうことを告げようとしているか、わかりやすく説明せよ。《ヒント=「わびし」の訳は「(思うようにいかず)やりきれない》

[答] 夜が明けて自分のひどい顔を見られるのがやりきれないので、夜明け前に帰って欲しいと訴えている。

この設問は、女が自身を葛城の神になぞらえて、つまり自身を醜女とした諧謔(かいぎゃく)と自己卑下の方にばかり目が行きますが、果たしてそれだけでしょうか。ただただ消え入るばかりに恥いる女の歌ではつまりません。

もしかしたらこの歌は、ワンナイトの恋のお相手と思っていた男、つまり、夜は共にはしても朝に顔を見せるほどの相手ではないと思っていた男が、厚かましくも女の朝顔を見ようとしたのを、諧謔のオブラートにやんわりと推し包んで拒絶した歌なのではないでしょうか。
そう考えると、女の歌にはむしろ男を籠絡する(ろうらく…他人をうまく丸め込んで、自分の思う通りにあやつること)余裕のような気分さえ感じられてきます。
《私の顔を見るなんてまだまだ百年早いわよ。出直していらっしゃいね!》

話を戻しますが、今回の東大古文で唐后の詠んだ歌、

夢とだに何か思いも出でつらむただまぼろしに見るは見るかは

の『ただまぼろしに見るは見るかは』の大意は、
(1) 男女の逢瀬を現実ではなく夢幻ととらえる朧化表現、さらに
(2)男女の深い結びつきを表す「見る」の古典的な意味合い、
の二つを組み合わせた解釈によって導かれると思います。
とにかく、方向は「夢かうつつか」の朧化の方向ですから、” ただ幻のような二人の逢瀬は逢瀬といえるのか、いえないのではないか ” といった大意になります。
「(あなたと私の逢瀬は)幻として見ることかは(⇒幻として逢ったのだろうか、いや、決してあれは幻ではなかった)」ではない点に注意して下さい!
「いい、よく聞いて。私たちが愛し合ったのは夢でも幻でもないのよ。あれは確かな現実。つまり、私たちは確かに、し・た・の。わかった?」
天地逆さまになっても、王朝女性がこんな歌を読むわけはありません。思わず吹いてしまうような、まさに噴飯ものの解釈ですが、私の見た範囲では、実に多くの学生がこの解釈を答案に書いていました。どうしてそうなるのでしょうか。設問の箇所でまた説明しましょう。








第ニ問(古文)

  次の文章は『浜松中納言物語』の一節である。中納言は亡き父が中国の御門(みかど)の第三皇子に転生したことを知り、契りを結んだ大将殿の姫君を残して、朝廷に三年間の暇(いとま)を請い、中国に渡った。そして、中納言は物忌(ものいみ)で籠もる女性と結ばれたが、その女性は御門の后(きさき)であり、第三皇子の母であった。后は中納言との間の子(若君)を産んだ。三年後、中納言は日本に戻ることになる。以下は、人々が集まる別れの宴で、中納言が后に和歌を詠み贈る場面である。

  忍びがたき心のうちをうち出(い)でぬべきにも、

さすがにあらず、わりなくかなしきに、

皇子(みこ)もすこし立ち出でさせ給ふに、御前なる人も、

おのおのものうち言ふにやと聞ゆるまぎれに、

ふたたびと思ひ合わするかたもなしいかに見し夜(よ)の夢にかあるらむ

いみじう忍びてまぎらわかし給へり。

夢とだに何か思ひも出でつらむただまぼろしに見るは見るかは

忍びやるべうもあらぬ御けしきの苦しさに、言ふともなく、

ほのかにまぎらはして、すべり入り給ひぬ。

おぼろげに人目思はずは、ひきもとどめたてまつるべけれど、

かしこう思ひつつむ。

内裏(うち)より皇子出でさせ給ひて、御遊びははじまる。

何のものの音(ね)もおぼえぬ心地すれど 、今宵(こよひ)をかぎりと思へば、

心強く思ひ念じて、琵琶(びわ)賜はり給ふも、うつつの心地はせず。

御簾(みす)のうちに、琴(きん)のこと[注…弦が七本の琴]かき合はせ

られたるは、未央宮(びやうきう)にて聞きしなるべし。

[注…中納言は、以前、未央宮で女房に身をやつした后の琴のことの

演奏を聞いた]
やがてその世[注…ここでは中国を指す] の御おくりものに

添へさせ給ふ。

「今は」といふかいなく思い立ち果てぬるを、いとなつかしうのたまはせつる

御けはひ、ありさま、耳につき心にしみて、肝消えまどひ、さらにものも

おぼえ給はず。

「日本に母上をはじめ、大将殿の君に、見馴 (みな)れしほどなく引き別れ

にしあはれなど、

たぐひあらじと人やりならずおぼえしかど、

ながらへば、三年がうちに行き帰りなむと思ふ思ひになぐさめしにも、

胸のひまはありき。これは、またかへり見るべき世かは」と思ひとぢむるに、

よろづ目とまり、あはれなるをさることにて、

后の、今ひとたびの行き逢ひをば、かけ離れながら、おほかたに

いとなつかしうもてなしおぼしたるも、さまことなる心づくしいとどまさり

つつ、 わが身人の御身、さまざまに乱れがはしきこと出で来ぬべき世の

つつましさを、おぼしつつめることわりも、ひたぶるに恨みたてまつらむ

かたなければ、 いかさまにせば、と思ひ乱るる心のうちは、言いやるかたも

なかりけり。

「いとせめてはかけ離れ、なさけなく、つらくもてなし給はばいかがはせむ。

若君のかたざまにつけても、

われをばひたぶるにおぼし放たぬなんめり」

と、推し量らるる心ときめきても、消え入りぬべく思い沈みて、暮れゆく

秋の別れ、

なほいとせちにやるかたなきほどなり。

御門、東宮をはじめたてまつりて、惜しみかなしませ給ふさま、

わが世[注…ここでは日本を指す] を離れしにも、やや立ちまさりたり。






[現代語訳]

  忍びがたき心の内(=后への恋情)を今にも打ち明けてしまいそうになる

につけても、

さすがにあらず、わりなくかなしきに、

  皇子(みこ)も少し(その場を)立ち出でなさるので、(后の)御前にいる人々

も、おのおの何かおしゃべりしているのか、と(話し声が)聞こえてくるのに

紛れて、 (中納言は)

二度とふたたび思い合わせる手だてもありません。

男と女として逢った逢瀬の夜はどのようにして見た夜の夢であるので

しょうか。


たいそうこっそりとまぎらわして(お伝えなさって)いる。

(后の返歌)

夢としてでさえ、どうしてあなたは思い出しているのでしょうか。

ただまぼろしに見るは見るかは

  こらえることも出来そうにない(中納言の)ご様子を見る苦しさに、

(后はこの歌を)口に出して言うともなく(つぶやいて)、かすかにまぎらわし

て、(御簾の奥に)すべるように入っておしまいになった。

並一通りに人目を気にするのでなければ、引きとどめ申し上げるにちがいない

けれど、(中納言は)

かしこう思ひつつむ。

  内裏より皇子がお出ましになって、管弦の遊びが始まる。

(中納言は后に対する懊悩から)何の音色とも感じられない心地がするけれど、

今宵が(この地にいる)最後だと思えば、心強く思いこらえて、

琵琶を(皇子より)いただきなさるのも現実だという心地もしない。

  御簾の中で、(后が)琴(きん)の琴を合奏なさっているのは、以前、未央宮

(びおうきゅう)で聞いた音色であるにちがいない。(その琴の音色を)そのまま

(后は)中国からの贈り物として添えなさる。 「今はもうこれまでです」と、

どうしようもなくすっかり(帰国を)決心してしまったのに、たいそう親しみ

やすくお話しなさった(后の)ご様子や、有様が(中納言の)耳につき、心に染み

こんで、魂も消え惑うようで、全くものも思われなさらない。

「日本に、母上をはじめ、大将殿の姫君に慣れ親しんで間もなく引き別れて

しまった物悲しさなど、

たぐひあらじと人やりならずおぼえしかど、

生きながらえれば、きっと三年以内に(中国に)行って(日本に)帰ってこれる

だろうと思う気持ちで(自分を)慰めたことも(あって)、胸の休まる時も

あった。(しかし)今回は、日本に帰ってしまえばふたたび見ることのできる

国であろうか。(いや、二度とこの国を見ることはできまい)」 と断念するに

つけても、《「閉じむ…終える・終了する⇒思いを終える⇒断念する》

よろづ目とまり、あはれなるをさることにて、

  后が、(中納言との)いま一度の逢瀬を、かけ離れたご身分でありながら、

一般的にたいそう親しみやすく振る舞いお思いになっているのも、

(中納言にとってはかえって冷たくされるよりも)格別な物思いがますます

まさってきて、自分の身や后の御身にとって、さまざまに乱れがはしきことが

きっと起こりそうな事態の慎ましさを、(后が)お思いになりはばかっている

(その)道理も、むやみにお恨み申し上げる筋合いでもないので、どのように

したらよいか、と思い乱れる心の内は言いようもなかった。

  「たいそう切実に(后が私に)距離を置き、情けもなく、薄情に(私を)

取り扱いなさるのならばどうしたらよいか、どうしようもない。

(しかし、実際には后の態度にそのような心隔ては感じられないという含意)

若君との筋合いにつけても、

われをばひたぶるにおぼし放たぬなんめり」

と、(中納言は)自然と押しはかられる心がときめいても、(その一方で)

消え入ってしまいそうに思い沈んで、暮れゆく晩秋の別れに、

なほいとせちにやるかたなきほどなり。

(中国の)帝や東宮をはじめとし申し上げて、(中納言との)別れを惜しみ悲しみ

なさる様子は、わが日本を離れた時よりも、ややたちまさる程であった。


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[設問]

以下、今年の添削通信の文科二類合格者の方の再現答案を紹介しつつ、答えを解説します。

(一) 傍線部を現代語訳せよ。


Aさん⇒そうはいってもやはり口には出せず、どうしようもなく悲しいので(正解)
木山⇒そうはいってもやはり口には出せず、どうしようもなく悲しい折に

「さすがに」C副10⇒そうはいってもやはり・「わりなし」C形87①⇒どうしようもない
を組み合わせれば ” そうはいってもアラズ、どうしようもなく悲しい時に “ となります。
アラズの処理が厄介ですが、前文の内容を受ければ、「心中の想いを打ち明けてしまいそうではあるが、そうはいってもやはり本当に打ち明けるわけにはいかず、どうしようもなく悲しい折に」といった文脈。「そうはいっても」とは、どうは言ってもなのか、その指示内容を答案に入れるべきか微妙ですが、やはり書いた方が無難です。〔直前の内容により自明であり、わざわざ書くまでもないという判断もあり得ますが〕指示内容を入れれば『そうはいってもやはり言い出せず、どうしようもなく悲しい折に』などとなります。末尾の「に」は格助詞とも順接の接続助詞(〜ので)とも、どちらにも取れます。


Aさん⇒うまくいい具合に遠慮した。(正解)
木山⇒うまい具合に思いをこらえる。
《別解》⇒たいそうしっかりと自制する。

*「かしこう(く)」は、神や帝を対象とした表現ではないので、B形29「恐れ多い」の意は当たりません。B形30「①利口だ②立派だ③うまくいい具合に④たいそう〜」のいずれかとなります。この場合、述部にかかる連用修飾の形ですから、③「うまくいい具合に」が適当です。
ただし、単なる強めとして④の意でも適合するので《別解》として示しました。 Aさんの答案は言い回しの表現としてこなれない感じはありますが、意味上、正答のラインを逸脱しているとまでは言えず正解としました。


Aさん⇒やはりたいそう痛切でどうしようもない時節である。(正解)
木山⇒やはりたいそう切実で気を晴らしようもない時節である。

C形動16『せちなり…切実だ』・A動26『心やる…気を晴らす』
「やるかたなし」を「心やるかたなし」の省略と見れば ” 気を晴らす方法もない " となりますし、そのまま「やるかたなし」を “ どうしようもない" と取ってもOKです。

(二)「ただまぼろしに見るは見るかは」(傍線部イ)の大意を示せ。

Aさん⇒あなたに出逢ったことは幻だとは思えません。(不正解)
木山⇒幻のようにはかない逢瀬であったので本当に逢ったかどうかも定かではない。

*この設問に関しては、すでに『夢かうつつかの朧化表現』『女の顔を見ることの王朝的意味合い』で解説しました。
なぜAさんのような真逆の答案になってしまうのかというと、傍線部の文構造をよく考えず、短絡して『(あなたとの逢瀬は)まぼろしとして見るかは』の意に解したためと思われます。その発想の背景にあるのは、「夢はいつか現実になる」とか「夢のままでは終わらない」といった夢を否定する現代的言説の影響でしょうか。再現答案では、Aさんと同じ方向の答案を多く見かけました。
ところで、本来こうした表現は、それが夢の中の幻なのか、それとも現実に起こったことなのか自分でもよく分からない、といった自問自答的なフレーズですから、あまり断定的に「あれは逢瀬ではない/逢ったとはいえない」と言い切ってしまうのはよろしくないのですが、そこまでのニュアンスを求めるのは酷と見たのか、東大の要求はともかく大意を示せば良しということですから、つまり、断定的な言い切り型で書いても正解になる、ということになります。

(三)「たぐひあらじと人やりならずおぼえしかど」(傍線部エ)とあるが、何についてどのように思ったのか、説明せよ。

Aさん⇒これも自分のせいで、日本の親族と別れた際の悲しさは匹敵するものもない。(正解)
木山⇒母や姫君との別れについて自分のせいとはいえ比類なく悲しいと思った。

*「(離別の悲しさが)たぐひあらじとおぼへしかど」の訳出は容易ですから、ポイントはただ『人やりならず』の意を正確に表すことです。D連31「人やりならず…(誰のせいでもなく)自分から・自分のせいで」
中国へ渡るという判断は自らしたことであり、母や姫君との別れのつらさも、結局は自分のせいなのだ、という文意。Aさんの答案は、出だしを「これも自分のせいとはいえ、〜」などと逆接で繋ぐとよりこなれた表現になります。

(四)「よろづ目とまり、あはれなるをさることにて」(傍線部オ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

Aさん⇒二度と中国を訪れることがないと思うと、全てが名残惜しく思われたから。(正解)
木山⇒日本を後にした時と異なり、中国に戻る事は二度とないと思っているから。

*日本を出立する際の事情を絡めれば、私の答案のようになりますが、必須というわけではありません。二度と中国に戻れないつらい気持ちが説明されていれば正解になると思います。

(五)「われをばひたぶるにおぼし放たぬなんめり」(傍線部カ)とあるが、なぜそう思うのか、説明せよ。

Aさん⇒第三皇子が自分を慕っているから。(不正解)
木山⇒后が中納言を冷たく扱たりせず、二人の間には若君も生まれているから。

*リード文にあるように中納言と唐后との間には若君が産まれています。傍線部の直前から一続きに読めば、「若君のかたざまにつけても、われをばひたぶるにおぼし放たぬなんめり」というわけですから、若君の存在が「我を思し放たぬ」理由となっているわけです。『子はかすがい…子供への愛情から夫婦の縁が保たれることの例え』ということわざもあります。
私の答案はさらにその前の「いとせめてはかけ離れ、なさけなく、つらくもてなし給はばいかがはせむ」を反映したものですが、これを答案に入れない解答速報も見受けられます。ただし、若君の存在を理由とするだけなら、設問としてあまりに簡単すぎないかといった疑問も出てきます。
Aさんは、若君と第三皇子を混同したのでしょうか。若君にしても第三皇子にしても、中納言を慕うといった記述はどこにもありません。








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第三問〔漢文〕

次の文章を読んで、後の設問に答えよ。ただし、設問の都合で送り仮名を省いたところがある。

[書き下し文]

  宋人に道を取る者有り。其(そ)の馬進まず、頸(ころ)して之を

鸂水(けいすい)[注…川の名]に投ず。

又た復た道を取るも、 其(そ)の馬進まず、又た頸(ころ)して之を

鸂水に投ず。此(か)くの如き者(こと)三たびあり。

造父[注…昔の車馬を御する名人]

a   - -   スル 一レ  

雖(いへど)も、此(こ)れに過ぎず。造父の道を得ずして

徒(た)だ其(そ)の威(い)を得るも、御(ぎょ)に益(えき)無し。

  人 主 之 不 肖ナル 者  有    タル  於  此

其(そ)の道を得ずして徒(た)だ其(そ)の威(い) を多くす。

威(い)愈(いよいよ)多くして、

 民  愈  不  ヒラレ

亡国の主、多威(たい)を以て其(そ)の民を使ふこと多し。

故に

  威  不      

専(もっぱ)ら恃(たの)むに足(た)らず。

  (たと)フレバ    塩  之  於ケルガ一レ  

凡(およ)そ塩の用は、託する所有り。適(てき)せざれば則ち託を敗(やぶ)りて

食(く)らふべからず。威(い)も亦(ま)た然(しか)り。必ず託する所有りて、

然(しか)る後に行ふべし。

悪(いづく)にか託する。愛と利に託す。愛利の心諭(さと)られて、威(い)乃ち

行うべし。 威(い)太(はなは)だ甚(はなは)だしければ則ち愛利の心息(や)む。

  愛利の心息(や)みて、徒(た)だ疾(はげ)しく威(い)を行へば、身必ず

咎(とが)あり。

f  此  殷  夏  之  所--以  絶ユル  
[注…殷夏ともに中国古代王朝]

(『呂氏春秋』による)


[現代語訳]

  宋人に道を進む者があった。その人の馬が道を進まないので、殺して鸂水(けいすい)に投げ入れた。
またふたたび道を進むけれども、その馬は道を進まないので、また殺してこれを鸂水に投げ入れた。このようなことが三度あった。
昔の車馬をあやつる名人であった造父(ぞうふ)が

a   - -   スル 一レ  

とはいっても、これに過ぎることはなかった。〔=これ程までのことはやらなかった〕

  造父のような馬をあやつる道(=ココデハ馬術)を会得せずに、ただ馬を威圧するやり方だけを得たとしても、馬をあやつるのに何の益もない(=役に立たない)。

  人 主 之 不 肖  者  有     於  之

  その道(=ココデハ国を治める道)を会得せずに、ただ君主としての威圧を多くしている(=威圧を増している)。
威圧がいよいよ多くなるほど、

  民  愈  不  

  国を亡ぼしてしまう主君というのは、多くの威圧(=過度な威圧)を用いて、その民を使役することが多い。
ゆえに、

  威  不      

もっぱらそのことだけを頼みにするのでは充分ではない。

      塩  之  於一レ  

  そもそも塩の用法は、ゆだねて託すもの(ココデハ料理の素材)そのものに依るのである。塩が料理の素材とうまく適合しなければ、結果として料理の素材を損ない、食べることが出来なくなる。
民を威圧するのも同じようなものである。必ず、ゆだねて託すもの(=コノ文脈デハ民ノ存在)があって、しかる後に(治世を)行うことが出来るのである。

では、何にゆだねて託すのか。それは(民に施す)愛と利得に託すのである。
愛と利得を民に施そうとする心を民に悟られて、そこではじめて威圧的政策を行うことが  出来る。

(もし君主の民への)威圧が非常に甚だしければ、
愛と利得の心がなくなってしまう。《=君主として民に示すべき愛と施しの心がなくなってしまう》
愛と利得の心がなく、ただ厳しく威圧を行うと、君主の身に必ず罪や過ちが生じて失敗する。

f  此  殷  夏  之  所--以  絶  


ー仁・徳治主義・天・易姓革命ー



  必罰的な物理的実力を恐れて民が支配に服する、というのが秦王朝のとった法家による統治戦略でした。しかし、結局、秦王朝は短命に終わってしまいます。やはり法家だけではうまくいかなかったようです。必罰的な支配を貫徹するための資源を、例えば民を監視するための組織を監視するための組織をまた監視する組織・・といった具合に、何重にも作らねばならず、結局コスト高になってしまいます。

  そこで、自発的な服従のきっかけとして道徳原理としてのモラルを導入した方が統治は上手くいくのでは、という発想が出てきます。
秦王朝滅亡後、中国の王朝はずっと儒教を統治システムとして採用しますが、儒家は法で強制するのではなく、礼による倫理的教化を理想としていました。中でも孔子が儒教において最高の徳目としたのが「仁(じん)」です。

「仁」は一般に慈しみや思いやりという意味で使われますが、最初は家族的な相互扶助をベースにした家族愛のようなものを対象にしていました。それが次第に政治のレベルまで広げられて、「仁政(じんせい)」としての民衆への憐れみを基本とした政治概念にまで広がっていきます。これを法家の「法治主義」に対して「徳治主義」と言ったりします。
  さらに後の時代になると、例えば陽明学が「万物一体の仁」を唱え、万物・宇宙・自然との関係で「仁」を説くようになります。家族⇒共同体としての国家⇒宇宙へと「仁」の概念がだんだんと広がっていくイメージです。
ただ、注意して欲しいのは儒教は一見平和的で道徳的に見えますが、政治権力をサポートし、統治のノウハウを提供して統治を安定させるのが役割ですから、反体制でも博愛主義でも主権在民でも民主主義でもありません。政治の安定が何より大事、という大前提はあるわけです。

  ところで、なぜ「仁政」による「徳治」でなければ統治が危うくなるか、というと、儒教は易姓革命を認めるからです。易姓(えきせい)とは、文字通り姓を易(か)えることで、中国では昔から一つの国家は一つの姓を持った人物が治めるという発想があるため、姓が変わることはすなわち王朝が変わることを意味します。
  その背景には、天子(皇帝)は天命を受けて天下を治めるが、もしその王朝の家(姓)に不徳なものが現れ出れば、別な有徳者が天命を受けて新たな王朝を開くことができるという考え方があります。徳を失った天子(皇帝)に、もはや地上を治めさせるべきでないと天が判断すれば、新たな天命が下って王朝の " 全取り替え " が起こります。この点で中国の人は全く容赦がないように見えます。中国の歴史とは、まさにこのような革命の歴史です。
漢代の董仲舒(とうちゅうじょ)という儒者は、天と国家の関係を次のように述べています。
「国家に道をはずれた不徳な為政者が現れると、天はまず災害を出して諌める。それでも反省しないならば、さらに怪異を出して恐懼(きょうく)させる。それでも改善しないならば、遂に破壊がやってくる」
ここでいう破壊とは、多くの場合、農民反乱軍などの武力によって、それまでの王朝が追放されてしまう放伐(ほうばつ)です。つまり、為政者に不満を持つ農民の中から、リーダーに成り上がった英雄が大勢現れて、各地で予選⇒準決勝⇒決勝と勝ち進んで新たな統一政権ができるのです。
  ですから「天」の実体は、結局のところ、農民の総意と軍事的な勝敗の成り行きそのものと言えなくもないのですが、しかし、本人たちはそう考えず、『天が我をして天子たらしむ』というふうに転倒した了解のもとに、天が新たな為政者に統治権を授与したのだと考えます。これによって政権の正統性が証明されるわけです。
このような易姓革命を儒教は承認します。この点が為政者にとっては怖いところです。

  今回の東大漢文の末尾に、” 威圧的な統治ばかりを続けていると最終的に『身必ズ咎(とが)アリ』といい、殷王朝や夏王朝が滅んだ理由も此れである " とあるのは、「仁」を欠いた不徳な為政者に対する強烈な諌めとして述べているわけです。


〔設問〕

(一) 傍線部acdを現代語訳せよ。

a
Aさん⇒馬を威かくする手段(正解)
木山⇒馬を威嚇して従わせる方法

*漢文公式8 ⑦ 所以(ゆゑん)…⑴ 理由・わけ ⑵ 手段・方法。ここでは⑵の意味。

c
Aさん⇒民衆はますます従わない。(ほぼ正解)
木山⇒民はますます役立たせられなくなる。
《別解》⇒民はますます服従しなくなる。

*現代語の「用いる」には、① (物事を)役立てる ② 使う/使用する、などの意味があります。最初の木山⇒の解答は①を、《別解》は②の意に即して「民はますます(為政者から)使役されなくなる」(直訳)を、民の側からの意訳として表したものです。諸解答も、おおむねこの2パターンに分かれています。

d
Aさん⇒恐怖を用いるかどうか(不正解)
木山⇒威圧はなくてはならないが

*『威』の言い換えとして思い浮かぶ語句は、威圧・威嚇・威厳・脅す、など。「恐怖」は威圧を受ける側の感情ですから『威』そのものの言い換えとしては不適です。
漢文公式4 ①…無シに返読するときの下の活用語は連体形。古文公式25…形容詞型の無シが助動詞の可(べ)シに返読するときの形は形容詞型の補助活用がラ変型なので連体形補助活用「無カル」となる。また、形容詞型の可(べ)シが助動詞の「不(ず)」に返読する形は未然形補助活用「可(べ)カラ」となる。さらに、漢文公式24 ①②…以下の文と逆説で繋がるので、「不」は不(ざ)ルニ/不(ざ)レドモなどとなる。
以上のルールを組み合わせれば、白文の訓み方は、「威有る無かるべからざれども(ざるに)」⇒つまり、威が有ることが無いということはできないのだけれど⇒威は無くてはならないものだけれど、の意となります。

(二)「人 主 之 不 肖 者 有レ 似二 於 此一」(傍線部b)を、「此」の指す内容を明らかにして、平易な現代語に訳せ。

Aさん⇒愚かな君主も又自らの道を心得ず、ただ恐怖を用いてのみ統括しようとするような者がいる。(一部減点)
木山⇒愚かな君主は、造父の御術を修得せず威嚇ばかりしてしまう御者と似たところがある。

*白文の読み方は「人主(じんしゅ)の不肖(ふしょう)なる者此れに似たる有り」 人主は君主のこと、不肖は漢単D6①…おろかものである私、〜ニ似タリは漢単C45…〜のようである/〜と似ている。直訳すれば『君主でおろかな者は此れと(=造父の馬を御する術を習得せずに馬を威嚇ばかりしている者と)似ているところがある』
Aさんの答案は、最後の「〜ニ似たる有り」の部分を訳し忘れている点で少し減点されます。

(三)「譬レ 之 若二 塩 之 於一レ 味」(傍線部e)とあるが、たとえの内容をわかりやすく説明せよ。

Aさん⇒調味において塩は後ろ盾となるものがあって初めて有用になるということ。(不正解)
木山⇒塩は適度に使わないと料理の味をそこなうように、民への威圧も度が過ぎると統治に失敗していまうということ。

*白文の読み方は「之(こ)れを譬(たと)ふれば塩の味に於けるがごとし」 塩も調味を間違えると塩っぱ過ぎて食べられなくなるように、統治の便宜としての威圧も度を過ぎると失敗を招いてしまう、といった意味です。
Aさんの答案の ” 後ろ盾 " という発想がどこから出てくるのか、私にも分かりません。

(四)「此 殷 夏 之 所-二-以 絶一 也」(傍線部f)とあるが、なぜなのか、本文の趣旨を踏まえて簡潔に説明せよ。

Aさん⇒恐怖だけを用いても民衆からの信頼を得られず、国は破綻するから。(一部減点か)
木山⇒民を威圧するばかりで、思いやりと利得を与えることがなく統治に失敗したから。

*すでに、ー仁・易姓革命・徳治主義ーの箇所で背景は説明した通りです。「威」の言い換えは、威圧・威嚇・威厳・脅すなど。また、文中の「愛ト利ニ託ス。愛利ノ心諭(さと)ラレテ威乃(すなは)チ行フベシ」を踏まえて、「愛利」に該当する語句を説明中に入れることを忘れないように。

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