お便りシリーズNo.78

= 令和5年・2023年
東京大学古典だより(古文漢文) =




   


ー中国の歴史における

文官優位の構造と直諫ー

漢文『貞観政要』





ー中国の歴史における文官優位の構造ー

 私の漢単B20には、『士(し)…儒教などの徳学を修めた立派な男子』とあり、さらに、C8には『大夫(たいふ)…官位にある者の尊称』とありますから、二語を組み合わせた『士大夫(しだいふ)』とは 、" 儒教などの知識と教養を身につけた知識人官僚 ”といった意味になります。この士大夫の働きを私の漢文背景知識から探ってみましょう。


「たとえ無能な君主の下でも、君主の手足となって働く行政官僚が主君と一体となって、つまり、トップリーダーとブレーンが一体となって有能ならばそれで良しとするのが儒教の統治戦略でした。そして、その有能な行政官僚を養成するのが儒教の役割というわけです。(中略)
 諫言(かんげん)とは、臣下が主君に対して忠告し、いさめることです。直諌(ちょっかん)とは臣下が主君に対して遠慮なくその非を挙げて忠告し、いさめること、諷諫(ふうかん)は遠まわしにほのめかすように忠告し、諌めることですが、こうした用語が使われれる背景には、天子(=皇帝)や地方国家の君主の逆鱗に触れることを恐れず、率直に実直に国家のことを思って君主に抗言できる臣下こそが、真の忠臣であるとする考え方がありました。」《漢文背景知識No.1より抜粋》


 今回の東大漢文の、設問(一)   」を現代語訳に訳せ、という要求は、まさに上記の『逆鱗に触れることを恐れず、率直に実直に抗言する態度』を勧めるものです。『直』は漢単C25『素直で実直なこと』、『辞』はB22『言葉』の意ですから、直訳すれば “ 言葉を率直にして ” といった感じになります。

 しかし、よく考えてみれば、そもそも、儒教の古典などに通じている儒教官僚が何故そんなにも偉い立場に就けるのでしょうか?
確かに儒家とは、政治権力をサポートし、統治の技術を提供するノウハウの塊ですから、その知識を無視することは出来なかったでしょう。しかし、政治的統一には強力な官僚機構の支配とは別に、強大な軍事力の独占という側面もありますから、軍人が前面に出てきても良さそうなものですが、中国の歴史では軍人がそのまま権力を握るということはありませんでした。

たとえ客観的には、物理的暴力によって政権を奪取した軍事的大親分のような人物でさえ、皇帝になるやいなや、自分は軍事力ではなく、人徳によって天下に君臨しているのだ、といったポーズを決めるようになります。つまり、どうやら中国では軍人のままでいるよりも、文民的なリーダーや行政官僚でいる方が、より権威が高い、という伝統的な認識があったようです。


 そこには、天命によって人徳ある為政者が天子(皇帝)に選ばれるという考え方が背景にあり、すぐれた文人的性格が王権の正統性を調整するメカニズムになっているわけですが、しかし、一方で、そうした文官優位の根本には、もう少し実務的な側面もありました。

 以前、京劇の役者を長らくやっている日本人の方に、こんな質問をぶつけたことがあります。「どんなに長く京劇の役者を演じていても、本場の中国人の前で演じる際には、微妙な発音の違いから、日本人が演じていると見透かされてしまうことはありませんか?」
すると、その方は即座に「そういうことはありません」とのお答えでした。何でも、中国の方言は、方言などというなまやさしいものではなく、外国語と考えた方が良いそうです。北京語を学んだ人には、上海語や広東語や四川語や湖南語は、かなり分からなく意味不明であり、そういう状況が前提としてある上に、一般に京劇のセリフは中国の古語にあたるため、誰も日本人が演じていても気づかない、ということでした。


 つまり、中国で統一政権を作ろうとしたら、こうした異言語の話し言葉を超越するような『共通言語』が欠かせないわけですが、士大夫の儒教古典の教養は、『書き言葉としの共通言語(漢文)』を提供している、と考えることも出来ます。それによって、士大夫たる行政官僚は、地方の人々とも意思疎通が可能になるわけです。
 そうした地方行政の租税を原資として、軍隊は食料や武器を提供されるわけですから、結局、官僚の支持がなければ軍隊は維持できません。文官優位の根本には、こういった事情もあったと考えられます。

 科挙が儒教古典の読解力という、一見あまり実用的でないような能力を試して官僚をリクルートするというのも、結局は、人脈交流のツールとしての漢詩作成能力も含めて『共通言語としての漢文の文章能力』を試していると考えれば合点がいきます。
 日本の徳川政権のように、武士が武士のまま文官としての行政官僚にスライドする、といった現象は中国では起こりませんでしたし、日本でそれがあり得たのは、言葉の壁が中国よりはるかに小さく、武官から文官に移行するコストが、中国のそれよりも、はるかに軽く済んだかからではないでしょうか。



ー辞ヲ直(なお)クシテ直諫スベシー

 さて、諫言(かんげん)とは臣下(士大夫)が主君の過ちをいさめ、忠告することですが、儒教では直諌を為す臣下を真の忠臣として称揚すると同時に、臣下が遠慮することなく実直に諫言できる状態を許し、そのような真の忠臣を抱え持っていること自体が、賢明な君主であることの証であるといった具合に、相互的な評価としてよく描かれます。

 裏を返せば、そうした相互的評価のエートスが多少とも宮廷内に存在しなければ、臣下はあまりに危険すぎて諫言をためらうことになったでしょう。
今回の出典『貞観政要』は、貞観の治(627〜649)と呼ばれた非常に平和でよく治まった唐の太宗の現行を記録した書ですから、直諌が奨励されるのもうなずけます。理想的な天子皇帝のもとでは、むしろ諫言を為す臣下の方が評価されるからです。


しかし、太宗のように諫官の忠告を真面目に聞き入れていた皇帝は極めて稀であり、皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諫官も多かったといいます。史記の作者「司馬遷」は、朝廷への抗言が武帝の怒りを買い、宮刑(去勢の刑罰)に処せられた話は有名ですが、それほどの屈辱を受けても、官僚は自己の信念に従って直諌すべき、とする儒教倫理には実に厳しいものがあります。

つまり、国家の非常時に、王権の政策に従っていると政治的共同体(社会全体)が沈没するかもしれない場合には、王権に逆らってでも政治共同体の運命を切り開かねばならない、たとえ王権の怒りを買って血祭りに挙げられようとも、というのが儒教的臣下のあるべき姿とされました。ですから儒教のいう『忠』の概念とは、決して王権に常に忠実なイエスマンとなることを意味しないわけです。


この究極が『死諫』です。日本で言えば右翼思想の真髄みたいな境地ですが、たとえば、幕末の志士が、幕府や朝廷に建白書を差し出すと同時にたちまち自刃して、死諫の実を挙げようとするような激烈な行為の背景には、やはり武士道と結びついた儒学の影響があったと思います。『慷慨(こうがい)の士として国に殉ずる』などというフレーズの意味するところがもう一つピンと来ない人は、三島由紀夫の小説『豊饒の海(二)奔馬』や『憂国』などをお読み下さい。三島の自死そのものも死諫と見る見方もあります。

話を中国の歴史に戻しますが、結局、上に立つ天子(皇帝)が明君であるか、暗愚かによって、諫言する者の立場は大きく左右されます。「貞観の治」の太宗のような理想的な天子(皇帝)ばかりではありません。

複数の王朝が割拠して乱れた魏晋(ぎしん)南北朝時代(184〜589)は、政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難な時代でした。そのため、積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、世俗から身を引くことで保身を図る老荘思想が、広く高級官僚(貴族)層に受け入れらるようになります。
老荘思想は、無理に抗わない態度を良しとする達観主義ですから、命がけの諫言などはしません。政情不安な時代に、うかつなことを言えば、命がいくつあっても足りません。
彼らは高遠な知識に基づく機知によって遊戯的雰囲気の中でお互いの交友を深めつつ、俗世の政治には距離を置く、超俗的清雅な論談を好むようになります。これを「清談(せいだん)」といいます。


 清談の時代と言えば「竹林の七賢」が有名ですが、その背景には、儒教モラルの厳しさに疲れた高級官僚(貴族)たちの一種のアジール《Asyl=避難場所》としての側面もあったようです。老荘思想は、儒教モラルの厳しさに疲れた人々の究極の癒しとしての達観主義でした。

実は、今回の『貞観政要』で積極的な諫言を為さなかったと非難される何曽(かそう)は、この魏晋南北朝時代の官僚でした。彼が晋武帝の政治的無関心に対して傍観者的態度をとったのも、そのような時代背景があってのことです。

(話題一転)
 前川喜平(きへい)という東大法学部卒の文科省事務次官であった人が、一時マスコミで話題になったことがあります。その前川氏がテレビのインタビュー番組で、「官僚として一番大切なことは何か?」という問いに対し、『面従腹背(めんじゅうふくはい)=うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わないこと』と答えているのを観たことがあります。
私は、その時、この人は今、役人として極めて情け無いことを臆面もなくいけしゃあしゃあと言ってのけているのか、それとも、これこそが官僚としての悟道のこもった深遠な一句なのか、瞬時に判断がつかず戸惑った覚えがあります。


 複雑怪奇な官僚組織の中を、単純な直情径行型、つまり「(なお)クスル」直諫型の正義漢で生き残っていけるものなのか、本人の気の済みようは別として、現実には何ら政治を変える実効性のないままに、ただ砕け散って終わりとなってしまうのではないか、時には、前川氏の言うように『面従腹背』でやり過ごし、雌伏した方が善策となる場合もあるのではないのか、など、官僚としての身の処し方について考えさせられました。

しかし、官僚の生きる道が一筋縄ではいかないことは充分承知の上で言うのですが、やはり、自己の深い良心に属する部分においては、良心の声に従い行動するのが良いのではないでしょうか。(命の危険がない限り)
第二次世界大戦期の日本の外務官僚に、杉原千畝(すぎはらちうね)という人がいました。彼は外務省の外交官としてリトアニアに赴任していた際、多くのユダヤ人避難民にビザを発給し、彼らの命を救ったことで有名です。東洋のシンドラーと呼ばれ、映画やドラマにもなったり、今や日本人の良心を代表するようなエピソードとして顕彰されています。
しかし、外務省からの訓令に反した行動をとったことで、戦後、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、2000年の名誉回復まで一貫して続きました。組織の規範に反すれば、それなりのしっぺ返しを覚悟してしなければならならず、それは、儒教官僚の諫言の危険性と同様であり、身を賭した勇気なくしてはなし得ない所業です。簡単なことではありません。自分が千畝の立場だったら、同じことが出来ただろうか?と考えてしまいます。 将来、官僚の道を志望している東大生の皆さんは、官僚として『(なお)』抗言することの、重圧と恐怖と勇気と自己の良心と面従腹背の問題を、どのように考えるのでしょうか?


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第二問(古文)

次の文章は『沙石集(しゃせきしゅう)』の一話「耳売りたる事」である。読んで後の設問に答えよ。


南都に、ある寺の僧、耳のびく厚きを、ある貧(ひん)なる僧ありて、

たべ。御坊(ごぼう)の耳買わん

と云(い)ふ。「とく買ひ給へ」と云ふ。「いかほどに買ひ給はん」と云ふ。

「五百文(もん)に買はん」と云ふ。「さらば」とて、銭(ぜに)を取りて

売りつ。

その後(のち)、京へ上(のぼ)りて、相者(さうじゃ)のもとに、耳売りたる僧と

同じく行く。相して云はく、「福分(ふくぶん)おはしまさず」と云ふ時に、

耳買ひたる僧の云はく、「あの御坊の耳、その代銭(だいせん)かくのごとき

数にて買ひ候(さうら)ふ」と云ふ。


「さては御耳にして、明年の春のころより、御福分かなひて、御心安からん」

と相す。さて、耳売りたる僧をば、

耳ばかりこそ福相(ふくそう)おはすれ、その外(ほか)は見えず

と云ふ。かの僧、当時まで世間不階(せけんふかい)の人なり。

「かく耳売る事もあれば、貧窮(ひんぐう)を売ることもありぬべし」と思ひ、

南都を立ち出でて、東(あづま)の方に住み侍(はべ)りけるが、

学生(がくしゃう)にて、説法などもする僧なり。

ある上人(しゃうにん)の云はく、「老僧を仏事に請(しゃう)ずる事あり。

身老いて道遠し。

ウ 予に代わりて、赴き給へかし。

ただし三日路(みつかぢ)なり。想像するに、施物(せもつ)

十五貫文(くわんもん)には過ぐべからず。

またこれより一日路(ひとひぢ)なる所に、ある神主の有徳(うとく)なるが、

七日時逆修(ぎゃくしゆ)をする事あり。

これも予を招請(せうしゃう)すといへども行かんことを欲せず。これは、一日

に無下(むげ)ならば五貫、ようせば十貫づつはせんずらん。公(こう)、いづれ

に行き給はん」と云ふ。

かの僧、「仰(おほ)すまでもなし。遠路を凌(しの)ぎて、十五貫文など取り候

はんより、一日路行きて七十貫こそ取り候はめ」と云ふ。 「しからば」とて、

一所へは別人(べつにん)をして行かしむ。神主のもとへはこの僧行きけり。

既に海を渡りて、その処(ところ)に至りぬ。神主は齢八旬(よはひはちじゅん)

に及びて、病床に臥(ふ)したり。子息申しけるは、「老体の上、不例(ふれい)

日久しくて、安泰頼み難く候へども、もしやと、先(ま)づ祈祷(きたう)に、

真読(しんどく)の大般若(だいはんにゃ)ありたく候ふ」と申す。

「また、逆修は、いかさま用意仕(つかまつ)り候ひて、やがてひきつぎ仕り

候はん」と云ふ。

この僧思ふやう、「先づ大般若経の布施(ふせ)取るべし。また逆修の布施は

置き物」と思ひて、「安きことにて候ふ。参るほどにては、仰せに従ふべし。

エ 何(いづ)れも得たる事なり。

殊(こと)に祈祷は吾(わ)が宗の秘法なり。必ず霊験あるべし」と云ふ。

「さて、酒はきこしめすや」と申す。大方はよき上戸(じやうご)にては

あれども、「酒を愛すと云ふは、信仰(しんがう)薄からん」と思ひて、

「いかにも貴(たっと)げなる体(てい)ならん」と思ひて、

オ 一滴も飲まず

と云ふ。「しからば」とて、温かなる餅(もち)を勧(すす)めけり。よりて、

大般若経の啓白(けいびゃく)して、かの餅を食はしめて、「これは大般若経の

法味(ほふみ)、不死の薬にて候ふ」とて、病者(びやうじゃ)に与へけり。

病者貴く思ひて、臥(ふ)しながら合掌(がっしゃう)して、三宝諸天(さんぽう

しょてん)の御恵みと信じて、一口に食ひけるほどに、日ごろ不食(ふじき)の

故、疲れたる気(け)にて、食ひ損じて、むせけり。

女房、子供、抱へて、とかくしつれども、かなはずして、息絶えにければ、

カ 中々とかく申すばかりなくして、

「孝養(けうやう)の時こそ、案内(あない)を申さめ」とて返しけり。

帰る路にて、波風荒くして、浪を凌(しの)ぎ、やうやう命助かり、

衣装以下(いしゃういげ)損失す。また今一所の経営は、布施、巨多(こた)なり

ける。これも、耳の福売りたる効(しるし)かと覚えたり。

万事齟齬(そご)する上、

キ 心も卑しくなりにけり。



現代語訳

南都(奈良)に、ある僧が耳のびく《…耳たぶ》が厚かったのを(=福耳の持ち

主であったのを)、(別の)ある貧しい僧がいて、

たべ。御坊(ごぼう)の耳買わん

と言う。(福耳の僧は)「すぐに買って下さい」と言う。(さらにその僧が)「い

かほどで(私の耳たぶを)買いなさるのか」と言う。(すると買いたいと言った僧

は)「五百文(もん)で買おう」と言う。「それならば(良かろう)」と言って、金

銭を受け取って売ってしまった。

 その後、京へ上って、相人《…さうじや⇒人相見(にんそうみ)》のもとへ、

福耳を売った僧と(耳を買った僧が)一緒に行く。人相見が(耳を買った僧の)人

相を占って、「福分はお有りではありません(=幸運な人相ではありません)」

と言う時に、その耳を買った僧が言うことには、「あの(福耳の)お坊さまの耳

を、代金をかくの如く支払って買っております」と言う。

(すると人相見は)「それでは、その御耳のお陰で、来年の春頃より、福分も思

い通りになって、心安からにいられるでしょう」と占う。

さて(一方の)福耳を売ってしまった僧については、

耳ばかりこそ福相(ふくそう)おはすれ、その外(ほか)は見えず

と言う。この(福耳を売った)僧は、今現在にいたるまで世間不階《…せけん

ふかい⇒暮らし向きがよくない
》人である。

「このように耳を売るということもあるのだから、貧乏を売る(=他者に渡して

手放すの意か)ということもきっとあるに違いない」と思って、奈良を立ち去っ

て、東国の方に住んでおりましたが、学生(がくしょう…学問に優れた僧)で

あって、説法などする僧である。

 ある上人(しょうにん…徳を備えた高僧)が(この福耳を売った僧に)言ったこと

には、「老僧である私を仏事に招待する用事がある。我が身は年老いて道のり

も遠い、

ウ 予に代わりて、赴き給へかし。

ただし、そこへは三日かかる道のりである。予想するに、施物(せもつ…僧に与

える品物)は五十貫を超えはしないだろう。

 また、(それとは別件で)ここから一日の道のりである場所に、ある神主で有徳

なる(うとくなる…裕福な)者が、七日間の逆修《…ぎやくしゆ⇒生前に死後

の冥福を祈る仏事を修すること
》をする仕事がある。

これも私を招待すると言っているけれども、行こうという気にならない。こち

らは、一日に最悪ならば五貫、うまくいけば一日に十貫づつは施物をするだろ

う。あなたは、どちらに行きなさるか」と言う。

かの(福耳を売った)僧は、「(そんなことを)おっしゃるまでもありません。(=

どちらがよいかとお聞きになるまでもありません) 遠い道のりを耐え忍んで、

十五貫文ほどを取りますよりも、一日の道のりを行って七十貫を取りましょ

う」と言う。

(高僧は)「それならば」と言って、もう一カ所には別の僧を行かせる。神主の

もとへはこの(耳を売った僧が)行った。

すでに海を渡って、その神主の場所に到着した。神主は年齢が八十歳に及ん

で、病気で伏せっていた。神主の息子が申し上げたことには、「(父は)老体で

ある上に、不例《…ふれい⇒病気》の月日が長くて、安泰に回復することは

頼みがたいことでございますが、もしや(回復することもあろうか)と、まずは

真読(しんどく)の大般若経《…大般若経を省略せずに全巻読誦すること》を

お願いしたく思います」と言う。

(さらに息子は)「また、逆修はぜひとも(私たちの方で)用意いたしまして、そ

のまま(大般若経の読誦に続いて逆修を)致します」と言う。

この(福耳を売った)僧が思うことには、「まずは大般若経の分の布施(ふせ)を

もらおう。また逆修の方の布施は置物《…手に入ったも同然》だ」と思っ

て、「お安い御用です。参上したからには、おっしゃる通りにいたしましょ

う。

エ 何(いづ)れも得たる事なり。

ことに祈祷は私の宗派の秘法である。必ず霊験があるでしょう」と言う。

「さて、ところで、(お坊様は)酒を召し上がりますか」と(神主の家の者が)言

う。大方、良き上戸(じょうご…酒好き)ではあるけれど、「酒を愛すると言う

と、信仰心が薄いだろう」と思って、「いかにも尊そうな僧の態度でいよう」

と思って、

オ 一滴も飲まず

と言う。「それならば」と言って、(神主の家の者は)温かな餅を勧めた。

それによって、僧は大般若経の啓白《…けいびゃく⇒法会の趣旨や願意を仏

に申し上げること
》をして、その餅を(病床の神主に)食べさせて、

「これは大般若経の法味(ほふみ)、不死の薬でございます」と言って、病人に

与えた。

病人は尊く思って、横たわったまま合掌して、三宝諸天(さんぽうしょてん)の

お恵みだと信じて、一口に食べたところ、ここ数日間、何も食べていなかった

ので、(食べるにも)疲れた様子で、食い損じて、むせてしまった。

女房や子供が(神主を)抱き抱えて、あれこれしたけれども、思い通りにはなら

ず、息絶えてしまったので、

カ 中々とかく申すばかりなくして、

「孝養《けうやう…亡き親の追善供養》の時に、またお取次ぎを申し上げま

しょう」と言って(僧を)返した。

僧は帰る道では、波風が荒く、波を堪え忍んで、ようやく命からがら助かっ

た。衣裳(いしやう)をはじめとして全てを失ってしまった。もう一カ所の経営

(けいめい…ここでは福耳を売った僧が選ばなかった方の法事のこと)は、お布

施も非常に多かった。 これも、福耳の幸運を売ってしまったせいかと思われ

た。万事すべてにおいて齟齬(そご…物事が思っていた事と食い違ってしまうこ

と)する上に、

キ 心も卑しくなりにけり。


[設問]

以下、今年の添削通信の合格者(文科一類・三類)の再現答案を紹介しつつ、解説します。

(一)傍線部ア・イ・ウを現代語訳せよ。


Aさん⇒お与えください。御坊様の耳を買おう(正解)
Bさん⇒与えてくれ。僧の貴方の耳を買いたい。(一部減点)
木山お与え下さい。貴方様の耳を買いたい。《別解…買おう。》

*「たべ、御坊の耳買はん」の「たべ」は、尊敬の本動詞『たぶ(賜ぶ)…お与えになる』の命令形です。公式56尊⑥
もともとは尊敬の本動詞『給(たま)ふ(賜ふ)』がつづまった形です。例えば「褒美をたびてけり」などとあった場合、落ち着いて「たび」の部分を「たまひ」の形に戻してやれば、" 褒美を給ひてけり ” となり、” 褒美をお与えになった “ の意が見えやすくなります。この『たぶ』を「たまふ」に変換する練習は昨年の授業の中でもしっかり繰り返しました。なんだ簡単じゃないかと思う人は、例えば「たばん物をば賜はらで」の「たば」、「かぐや姫を我にたべ」の「たべ」をもとの形に変換してみて下さい。意外に練習しませんとスラスラ出てこないものです。
答えは「給はん物をば賜らで…お与えになるような物を頂かずに」「かぐや姫を我に賜(たま)へ…かぐや姫を私にお与え下さい」です。
Bさんの答案は「お与え下さい」の命令形を正しく発想できなかったのか、「与えてくれ」と敬意のない一般動詞の命令形に訳してしまった点で、一部減点されます。『御坊(ごぼう)…僧の敬称・お坊様(あなた様)』直単E他22。



Aさん⇒耳だけには幸福の相がいらっしゃるが、その他には見えない。(若干減点)
Bさん⇒耳だけには幸福な運勢がありますが、それ以外には見えない。(正解)
木山耳だけは福相がおありになるけれども、そのほかは福相が見えない《別解…幸運の相/吉相/裕福になる相》

*Aさんの答案について。「いらっしゃる」はもと「入らせられる」の転じたものですから、直接人物に付くのが普通であり、「人相がいらっしゃる」と続けるのは違和感があります。Aさんの答案を正しく言い換えれば、“ 耳だけは幸福の相でいらっしゃるが " などと書けば正答となったでしょう。



Aさん⇒私に代わって、行きなさってくれよ(正解)
Bさん⇒私に代わって赴きなされよ。(正解)
木山私に代わって、お出向きなさいませよ。《別解…お出向きくださいよ》

*Aさんの「行きなさってくれよ」は、ややこなれない表現ですが、正答を逸脱しているとまでは言えないので正解としました。


(二)「何れも得たる事なり」(傍線部)について、「何れも」の中身がわかるように現代語訳せよ。

Aさん⇒真読の大般若の読誦も、逆修も、習得していることである。(若干減点)
Bさん⇒大般若経の読誦も、逆修も、どちらもできることである。(若干減点)
木山大般若経の真読も逆修も、どちらも得意とするところである。《別解…大般若経の読誦による祈祷も〜》

*私の解答も含めて諸解答はすべて「何(いづ)れも得たる」の訳出を、『どちらも得意とする』という方向に訳しています。これは傍線部エの直後の「殊(こと)に祈祷は吾が宗の秘法なり。必ず霊験あるべし」といった自信たっぷりな口吻(口ぶり・言い方)を受けたものです。
つまり、単にそれを習得している(=習って覚えている)とか、それが出来るという意味以上の、より高い境地まで達しているといったニュアンスを汲み取った意訳です。したがって、その点で、AさんBさんの答案は若干減点されるのではないかと思います。


(三)僧が「一滴も飲まず」(傍線部)と言ったのはなぜか、説明せよ。

Aさん⇒酒好きというのは、信仰心が薄く思われると思い、いかにも高貴な体裁を取ろうと考えたから。(正解)
Bさん⇒酒を飲まないと言うことで信仰が厚く高貴な僧だと思われると考えたから。(正解)
木山酒好きを隠して、信仰の厚い尊い高僧らしく見せたかったから。


(四)「中々とかく申すばかりなくして」(傍線部)について、状況がわかるように現代語訳せよ。

Aさん⇒神主のために来た僧が、神主に餅を食わせて死なせてしまい、かえってあれこれと申し上げるほどの気を無くして(正解)
Bさん⇒自らが与えた薬で病者が死に、何も言うことが無くなって(不正解)
木山僧の行為が神主を死なせる結果となり、家族はかえって何と申したらよいかもわからず《別解…〜かえってあれこれ申しようもなくて》

*Aさんの答案にあるように、” かえって何と申したらよいかもわからなく “ なったのは、神主に死なれた家族の側であって、餅を与えて神主を死に至らしめた僧ではありません。
Bさんの答案では、僧自身が言うべき言葉をなくしてしまったように取れてしまい、その点で不正解となります。


(五)「心も卑しくなりにけり」(傍線部)とはどういうことか、具体的に説明せよ。

Aさん⇒僧が、少しでも楽に多くのお金を稼ごうとするようになったこと。(ほぼ正解だが)
Bさん⇒僧は自らに降りかかる災難の原因を、福耳を売ったせいにするほど心が狭くなったということ。(不正解)
木山耳を売った僧が、布施の多寡に執着するような欲深く卑しい心になったということ。

*このホームページ上にも載せられている古文背景知識No.1『空・空寂』の冒頭部分には、次のように書かれています。

仏教はこの現世を、仮そめのもの/仮の世/仮象の世/無常な世の中ととらえています。つまり、この目に見えている世界は存在しているように見えて実は実体がない、その幻の実体のない富や名誉や恩愛や愛欲にとらわれ執着するところに、人間の苦しみがあると2500年前の釈尊は考えたわけです。
(中略)
ですから、心に平穏を得るためには、一刻も早くそのような執着の苦から逃れなければならない。これを難解な仏教用語では厭離穢土(おんりえど)ともいいます。この世の穢(けが)れを厭(いと)い、離れるといった意味です。つまり、みずからの自我が欲望を捨ててわずらいを離れて心からすっきりして、もう幻の俗世に執着しない、といった境地が「空・空寂」です。
(中略)
俗世に対する執着を断ち切れないものの一つに、富への囚(とら)われがあり、これを『名利みょうり』とも言います。繰り返しますが、このような俗世への欲望を煩悩(ぼんのう)というわけです。記述問題などでこのような煩悩の説明を求められた場合は、俗世に対する「執着・妄執・愛執・妄念」などの語句が使えます。


この問題文は仏教説話ですから、『心も卑しくなりにけり』の卑しさとは、貴族的な情趣に欠けるといった品位の問題ではなく、あくまで仏教理念上の規範に反する行為としての卑しさでなければなりません。上の引用からも分かるように、仏教が一番嫌うのは俗世に対する執着心です。その執着心(=囚われた心)を持ったまま生きることが穢れであり、卑しさであると言えます。福耳を売った僧の執着とは、布施などの金銭に対する執着心であることは明らかでしょう。従って的確な表現としては『名利への執着に囚われて』とか、『欲深く金銭に執着して』とか、『心も穢れてより多くの布施を求める』などの表現が必要となります。Aさんの答案は方向性としては良いのですが、もう一歩、仏教的背景を踏まえた「執着」などの語句が欲しいところです。 文中に「僧」は二人出てくるので、主語は『耳を売った僧が』と書く方が丁寧ですが、文脈上自明であるようにも感じられますし、単に「僧が」とする諸解答もありますので、絶対の基準とはならないと思います。







木山のホームページ 漢文  



第三問〔漢文〕

次の文章は唐の太宗、李世民(在位六二六〜六四九)が語った言葉である。これを呼んで、あとの設問に答えよ。

[書き下し文]

  朕(ちん)聞く、晋(しん)の武帝《…司馬炎(二三六〜二九〇)魏から禅譲を

受けて晋を建てた
》呉(ご)《…国の名》を平(たいら)げしより已後(いご)、

努めて驕耆(けうしゃ)《…おごってぜいたくであること》に存(あ)り、

復(ま)た心を治政に留めず。


何曽(かそう)《…魏と晋に仕えた人物(一九九〜二七八)、子に劭(せう)、

孫に綏(すい)がいる
》朝(ちょう⇒朝廷)より退き、其(そ)の子劭(せう)に

謂(い)ひて曰く、

「吾(われ)主上に見(まみ)ゆる毎(ごと)に、経国(けいこく)の

遠図(えんと…遠大なはかりごと)を論ぜず、但(た)だ平生(へいぜい)の常語を

説く。此(これ)厥(そ)の子孫に貽(のこ)す者に非(あら)ざるなり。


 (なんぢ) 身 猶 可  。」

諸孫を指(さ)して曰く、「此等(これら)必ず乱に遇ひて死せん」と。

孫の綏(すい)に及び、果(はた)して淫刑《…いんけい⇒不当な刑罰》の

戮(ころ)す所と為(な)る。

 前 史 美 

以て先見に明(あき)らかなりと為(な)す。

朕が意は然(しか)らず。謂(おも)へらく、曽(そう)の不忠(ふちゅう)は、

其(そ)の罪大なり。夫(そ)れ人臣と為(な)りては、当(まさ)に進みては誠を

竭(つ)くさんことを思ひ、退きては過ちを補はんことを思ひ、其の美に

将順(しょうじゅん)《…助け従う》し、其の悪を匡救(きょうきゅう)

…正し救う》すべし。共に治(ち)を為(な)す所以(ゆえん)なり。

曽(そう)位(くらい)台司(だいし)《…最高位の官職》を極め、名器(めいき)

…名は爵位、器は爵位にふさわしい車や衣服》崇重(すうちょう)なり。

当(まさ)に、

  

正諫(せいかん)し、道を論じて

d 一レ 

べし。今乃(すなは)ち退きては

e  

有り、進みでは廷諍(ていそう)《…朝廷で強くて意見を言うこと》無し。

以て明智(めいち)と為(な)すは、亦(ま)た謬(あやまり)ならずや。

f (たふ)レテ  ンバ (たす)(いづ)クンゾ ヰンヤ

(か) …しょう⇒補助する者


(『貞観政要』による)


[現代語訳]

 私(=唐の太宗)の聞くところによると、晋(しん)の武帝は呉(ご)を負かして平定した後は、おごってぜいたくを貪る(ことが)在り、ふたたび心を政治に留めることはなかった。

(武帝に仕える)何曽(かそう)は朝廷より退いて(帰宅し)、その子の劭(せう)に言ったことには、「私は主上(=君主である武帝)にお目にかかるたびに、(主上は)国家経営のための遠大なはかりごとを論じないで、ただ日常の常識的な話をするだけだ。 (この方は)子孫に(将来の帝位を)残すことのできる者ではない。

 (なんぢ) 身 猶 可  。」

(しかし)もろもろの孫たちを指差して言うことには、「これらの者たちは必ず乱に遭遇して死ぬだろう」と言う。
孫の綏(すい)の時代に及んで、果たしてその言葉通りに(綏は)不当な刑罰によって殺された。

 前 史 美 

(この何曽を)以て、先見の明《せんけんのめい》があきらかであると評価している。

(しかし)私(=唐の太宗)の意見はそうではない。思うに、何曽の不忠《忠義に反すること)については、その罪は大きい。

 そもそも、臣下たる者は、まさに(朝廷に)進みては誠を尽くそうとすることを思い、(朝廷から)退いては(主君の)過ちを補おうと思い、その(主君の)美徳を助け従い、その主君の悪いところを正して救うべきである。
(これこそが君主と臣下が)共に政治を為す方法である。

何曽は、その位は官職としての最高位を極め、爵位やそれにふさわしい車や衣服など、尊く重んじられている。まさに(本来であれば君主に対し)

  

正しく忠告して、正道を論じて、

d 一レ 

べきである。(それなのに)今(挙げた話においては)朝廷から退いては、

e  

が有り、朝廷に進みては、強く意見を言うことがない。(それなのに)それを以て(何曽は先見の明があって)明智(めいち…優れた知恵があること)だと言うのは、なんと誤りではないか。

f (たふ)レテ  ンバ (たす)(いづ)クンゾ ヰンヤ

(か) 注…しょう⇒補助する者


(『貞観政要』による)


設問

(一)傍線部を平易な現代語に訳せ。


Aさん⇒以前の歴史書はこれを美化し(一部減点)
Bさん⇒今までの歴史がこれをさしている(不正解)
木山前代の史書は何曽を讃美し

*読み下しは『前史(ぜんし)之(こ)れを美(び)とし』または『前史之れを美(ほ)めて』とも読めますが、「美(ほ)める」の読みを「美」という漢字一字で発想出来る人は極めて少ないのではないでしょうか。「美」には「美人・美観」などの①外形がきれいで美しいという意と、「有終の美・讃美する」などの②内容がりっぱでみごとである、といった意味があります。
この文脈では②の意が当たりますから、直訳は “ 前(さき)の歴史は之れをりっぱでみごとであるとして " となります。
Aさんの答案が一部減点されるのは、指示語の「之れ」が何を指すのか、具体化して示されてないからです。「之れ」の指示内容は、直後に『先見の明あり』とあるように、予言を成就させた何曽自身を指していると考えられます。さらにその後、何曽の人物評をめぐって太宗の反論が展開するわけですから、「之れ」の指示内容はあくまで人物としての何曽にあるのであって、「之れ」を、予言そのものと考えて ” 予言の内容がりっぱでみごとである " と書いた人は、その点で減点されると思います。



Aさん⇒言葉を率直にして(正解)
Bさん⇒言葉を正して(一部減点)
木山言葉を率直にして《別解…率直な言葉によって》

「辞…言葉」漢単B22・「直…素直で実直なこと」漢単C25。背景については、この記事の冒頭の『中国の歴史における文官優位の構造と直諫』で詳しく説明しています。Bさんの答案の「正す」は、” よくないところや間違っているところをなおす " の意ですから「直」の字義とは異なります。



Aさん⇒治世を支える(正解)
Bさん⇒主君の治世を補佐する (正解)
木山その時々の君主を補佐する《別解…その時代の政治を補佐する》

*「佐」は “ 補佐する ” などの熟語の意味にあるように『助ける/支える』の字義です。「時」はその時代の意ですが、「その時代を助ける」では意味が通らず、(その時代の)君主を助ける/治世を支えるなどの表現が適当です。「治世」は “ 君主として世の中を治めること、又はその期間 ” の意ですから、「治世」には「時」の概念も含まれまれると見て、「治世」と書いた場合も正答になると思います。


(二)「爾 身 猶 可二 以 免一。」(傍線部)を、「爾」の指す対象を明らかにして、平易な現代語に訳せ。

Aさん⇒劭のみは、まだ司馬炎の不当な刑罰や反乱から逃れることができる。(かなり減点)
Bさん⇒劭は、自らの身を乱から免れることができるようだ。(正解)
木山劭よ、お前自身はそれでもまだ難を免れることが出来よう。

*「猶ホ」の訳出は、「やはり/まだ/それでもやはり/それでもまだ/それでもなお」などが適当。Aさんの答案がかなり減点されるのは ” 司馬炎の不当な刑罰や反乱 “としている点です。 孫の綏(すい)が不当な刑罰によって殺されたのは、孫の綏(すい)の時代になってからの話であって、司馬炎(=晋武帝)がなしたことではありません。司馬炎(=晋武帝)の政治的無関心が、やがて後々の時代に、我が子孫に難をもたらすであろう、と言っているのであって、その災難が誰によって引き起こされたものか、文中には書かれていません。


(三)「後 言」(傍線部)とあるが、これは誰のどのような発言を指すか、簡潔に説明せよ。

Aさん⇒何曽の、司馬炎とは国の将来ではなく普通のことを話すばかりで、その子孫に位を残すほどのものではないという司馬炎への陰口 。(正解)
Bさん⇒武帝が国家のことを顧みないことを、官職を退いてから非難する何曽の発言。(二箇所減点か)
木山何曽の、武帝は政治に関心がなく晋の治世は続かず混乱するだろうという陰口。

*「後言」は直単(古文単語)E他26の暗記知識により、『しりうごと…陰口・悪口』の意であることが分かります。Bさんの答案には、この「後言」の訳出がない点と、武帝(=司馬炎)の政治的無関心によって『治世が続かなくなる/将来国が乱れる」などの説明が書かれていない点で、減点されると思います。


(四)「顚(たふ)レテ 而 不ンバレ 扶(たす)ケ、安クンゾ 用インヤ二 彼ノ 相ヲ一。」(傍線部)とあるが、何を言おうとしているのか、本文の趣旨を踏まえてわかりやすく説明せよ。

Aさん⇒君主が誤ったことをした時に正そうとしないのならば、臣下として登用しないということ。(ほぼ正解)
Bさん⇒官職に就いているときは諫言をせず、官職を退いてから主君を非難する人を側近に登用しないということ。(やや減点か)
木山国が倒れる危機に、主君を諌めて助けないような補佐役は登用する意味がないということ。《別解…〜諌めて助けないような補佐する者は不用だということ。》

*お二人とも「顚(たふ)ル」の字義を答案に反映させることが難しかったようです。字義に確信が持てず、ズレた答案を書くよりは、安全策として敢えて書かなかったという判断かもしれません。顛倒・顛覆などの熟語にも旧字として用いらるように、『顚』には “ 倒れる・くつがえる " の意があります。つまり、「国が倒れるような状態になって、それを助けないようであるなら」と言っているわけです。それを答案に反映させるとすれば「国の危機に際して/国の存亡に関わる際に」などの表現が適当です。 Bさんの答案は「官職を退いてから」が、職を辞してから後に、の意にとれてしまう点が微妙です。本文の解釈は、朝廷から退いて(家に帰って)、子の劭に言った、というふうに解釈すべきであり、なぜかと言えば、官職に有りながら陰で批判するからこそ「後言=陰口」になるわけで、退職して官僚としての役割を手放した状態での批判は、別に陰口には当たらないからです。





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