お便りシリーズNo.78
= 令和5年・2023年
東京大学古典だより(古文漢文) =
第二問(古文)
次の文章は『沙石集(しゃせきしゅう)』の一話「耳売りたる事」である。読んで後の設問に答えよ。
南都に、ある寺の僧、耳のびく厚きを、ある貧(ひん)なる僧ありて、
ア 「たべ。御坊(ごぼう)の耳買わん」
と云(い)ふ。「とく買ひ給へ」と云ふ。「いかほどに買ひ給はん」と云ふ。
「五百文(もん)に買はん」と云ふ。「さらば」とて、銭(ぜに)を取りて
売りつ。
その後(のち)、京へ上(のぼ)りて、相者(さうじゃ)のもとに、耳売りたる僧と
同じく行く。相して云はく、「福分(ふくぶん)おはしまさず」と云ふ時に、
耳買ひたる僧の云はく、「あの御坊の耳、その代銭(だいせん)かくのごとき
数にて買ひ候(さうら)ふ」と云ふ。
「さては御耳にして、明年の春のころより、御福分かなひて、御心安からん」
と相す。さて、耳売りたる僧をば、
イ 「耳ばかりこそ福相(ふくそう)おはすれ、その外(ほか)は見えず」
と云ふ。かの僧、当時まで世間不階(せけんふかい)の人なり。
「かく耳売る事もあれば、貧窮(ひんぐう)を売ることもありぬべし」と思ひ、
南都を立ち出でて、東(あづま)の方に住み侍(はべ)りけるが、
学生(がくしゃう)にて、説法などもする僧なり。
ある上人(しゃうにん)の云はく、「老僧を仏事に請(しゃう)ずる事あり。
身老いて道遠し。
ウ 予に代わりて、赴き給へかし。
ただし三日路(みつかぢ)なり。想像するに、施物(せもつ)
十五貫文(くわんもん)には過ぐべからず。
またこれより一日路(ひとひぢ)なる所に、ある神主の有徳(うとく)なるが、
七日時逆修(ぎゃくしゆ)をする事あり。
これも予を招請(せうしゃう)すといへども行かんことを欲せず。これは、一日
に無下(むげ)ならば五貫、ようせば十貫づつはせんずらん。公(こう)、いづれ
に行き給はん」と云ふ。
かの僧、「仰(おほ)すまでもなし。遠路を凌(しの)ぎて、十五貫文など取り候
はんより、一日路行きて七十貫こそ取り候はめ」と云ふ。
「しからば」とて、
一所へは別人(べつにん)をして行かしむ。神主のもとへはこの僧行きけり。
既に海を渡りて、その処(ところ)に至りぬ。神主は齢八旬(よはひはちじゅん)
に及びて、病床に臥(ふ)したり。子息申しけるは、「老体の上、不例(ふれい)
日久しくて、安泰頼み難く候へども、もしやと、先(ま)づ祈祷(きたう)に、
真読(しんどく)の大般若(だいはんにゃ)ありたく候ふ」と申す。
「また、逆修は、いかさま用意仕(つかまつ)り候ひて、やがてひきつぎ仕り
候はん」と云ふ。
この僧思ふやう、「先づ大般若経の布施(ふせ)取るべし。また逆修の布施は
置き物」と思ひて、「安きことにて候ふ。参るほどにては、仰せに従ふべし。
エ 何(いづ)れも得たる事なり。
殊(こと)に祈祷は吾(わ)が宗の秘法なり。必ず霊験あるべし」と云ふ。
「さて、酒はきこしめすや」と申す。大方はよき上戸(じやうご)にては
あれども、「酒を愛すと云ふは、信仰(しんがう)薄からん」と思ひて、
「いかにも貴(たっと)げなる体(てい)ならん」と思ひて、
オ 「一滴も飲まず 」
と云ふ。「しからば」とて、温かなる餅(もち)を勧(すす)めけり。よりて、
大般若経の啓白(けいびゃく)して、かの餅を食はしめて、「これは大般若経の
法味(ほふみ)、不死の薬にて候ふ」とて、病者(びやうじゃ)に与へけり。
病者貴く思ひて、臥(ふ)しながら合掌(がっしゃう)して、三宝諸天(さんぽう
しょてん)の御恵みと信じて、一口に食ひけるほどに、日ごろ不食(ふじき)の
故、疲れたる気(け)にて、食ひ損じて、むせけり。
女房、子供、抱へて、とかくしつれども、かなはずして、息絶えにければ、
カ 中々とかく申すばかりなくして、
「孝養(けうやう)の時こそ、案内(あない)を申さめ」とて返しけり。
帰る路にて、波風荒くして、浪を凌(しの)ぎ、やうやう命助かり、
衣装以下(いしゃういげ)損失す。また今一所の経営は、布施、巨多(こた)なり
ける。これも、耳の福売りたる効(しるし)かと覚えたり。
万事齟齬(そご)する上、
キ 心も卑しくなりにけり。
現代語訳
南都(奈良)に、ある僧が耳のびく《注…耳たぶ》が厚かったのを(=福耳の持ち
主であったのを)、(別の)ある貧しい僧がいて、
ア 「たべ。御坊(ごぼう)の耳買わん」
と言う。(福耳の僧は)「すぐに買って下さい」と言う。(さらにその僧が)「い
かほどで(私の耳たぶを)買いなさるのか」と言う。(すると買いたいと言った僧
は)「五百文(もん)で買おう」と言う。「それならば(良かろう)」と言って、金
銭を受け取って売ってしまった。
その後、京へ上って、相人《注…さうじや⇒人相見(にんそうみ)》のもとへ、
福耳を売った僧と(耳を買った僧が)一緒に行く。人相見が(耳を買った僧の)人
相を占って、「福分はお有りではありません(=幸運な人相ではありません)」
と言う時に、その耳を買った僧が言うことには、「あの(福耳の)お坊さまの耳
を、代金をかくの如く支払って買っております」と言う。
(すると人相見は)「それでは、その御耳のお陰で、来年の春頃より、福分も思
い通りになって、心安からにいられるでしょう」と占う。
さて(一方の)福耳を売ってしまった僧については、
イ 「耳ばかりこそ福相(ふくそう)おはすれ、その外(ほか)は見えず」
と言う。この(福耳を売った)僧は、今現在にいたるまで世間不階《注…せけん
ふかい⇒暮らし向きがよくない》人である。
「このように耳を売るということもあるのだから、貧乏を売る(=他者に渡して
手放すの意か)ということもきっとあるに違いない」と思って、奈良を立ち去っ
て、東国の方に住んでおりましたが、学生(がくしょう…学問に優れた僧)で
あって、説法などする僧である。
ある上人(しょうにん…徳を備えた高僧)が(この福耳を売った僧に)言ったこと
には、「老僧である私を仏事に招待する用事がある。我が身は年老いて道のり
も遠い、
ウ 予に代わりて、赴き給へかし。
ただし、そこへは三日かかる道のりである。予想するに、施物(せもつ…僧に与
える品物)は五十貫を超えはしないだろう。
また、(それとは別件で)ここから一日の道のりである場所に、ある神主で有徳
なる(うとくなる…裕福な)者が、七日間の逆修《注…ぎやくしゆ⇒生前に死後
の冥福を祈る仏事を修すること》をする仕事がある。
これも私を招待すると言っているけれども、行こうという気にならない。こち
らは、一日に最悪ならば五貫、うまくいけば一日に十貫づつは施物をするだろ
う。あなたは、どちらに行きなさるか」と言う。
かの(福耳を売った)僧は、「(そんなことを)おっしゃるまでもありません。(=
どちらがよいかとお聞きになるまでもありません) 遠い道のりを耐え忍んで、
十五貫文ほどを取りますよりも、一日の道のりを行って七十貫を取りましょ
う」と言う。
(高僧は)「それならば」と言って、もう一カ所には別の僧を行かせる。神主の
もとへはこの(耳を売った僧が)行った。
すでに海を渡って、その神主の場所に到着した。神主は年齢が八十歳に及ん
で、病気で伏せっていた。神主の息子が申し上げたことには、「(父は)老体で
ある上に、不例《注…ふれい⇒病気》の月日が長くて、安泰に回復することは
頼みがたいことでございますが、もしや(回復することもあろうか)と、まずは
真読(しんどく)の大般若経《注…大般若経を省略せずに全巻読誦すること》を
お願いしたく思います」と言う。
(さらに息子は)「また、逆修はぜひとも(私たちの方で)用意いたしまして、そ
のまま(大般若経の読誦に続いて逆修を)致します」と言う。
この(福耳を売った)僧が思うことには、「まずは大般若経の分の布施(ふせ)を
もらおう。また逆修の方の布施は置物《注…手に入ったも同然》だ」と思っ
て、「お安い御用です。参上したからには、おっしゃる通りにいたしましょ
う。
エ 何(いづ)れも得たる事なり。
ことに祈祷は私の宗派の秘法である。必ず霊験があるでしょう」と言う。
「さて、ところで、(お坊様は)酒を召し上がりますか」と(神主の家の者が)言
う。大方、良き上戸(じょうご…酒好き)ではあるけれど、「酒を愛すると言う
と、信仰心が薄いだろう」と思って、「いかにも尊そうな僧の態度でいよう」
と思って、
オ 「一滴も飲まず 」
と言う。「それならば」と言って、(神主の家の者は)温かな餅を勧めた。
それによって、僧は大般若経の啓白《注…けいびゃく⇒法会の趣旨や願意を仏
に申し上げること》をして、その餅を(病床の神主に)食べさせて、
「これは大般若経の法味(ほふみ)、不死の薬でございます」と言って、病人に
与えた。
病人は尊く思って、横たわったまま合掌して、三宝諸天(さんぽうしょてん)の
お恵みだと信じて、一口に食べたところ、ここ数日間、何も食べていなかった
ので、(食べるにも)疲れた様子で、食い損じて、むせてしまった。
女房や子供が(神主を)抱き抱えて、あれこれしたけれども、思い通りにはなら
ず、息絶えてしまったので、
カ 中々とかく申すばかりなくして、
「孝養《注けうやう…亡き親の追善供養》の時に、またお取次ぎを申し上げま
しょう」と言って(僧を)返した。
僧は帰る道では、波風が荒く、波を堪え忍んで、ようやく命からがら助かっ
た。衣裳(いしやう)をはじめとして全てを失ってしまった。もう一カ所の経営
(けいめい…ここでは福耳を売った僧が選ばなかった方の法事のこと)は、お布
施も非常に多かった。
これも、福耳の幸運を売ってしまったせいかと思われ
た。万事すべてにおいて齟齬(そご…物事が思っていた事と食い違ってしまうこ
と)する上に、
キ 心も卑しくなりにけり。
[設問]
以下、今年の添削通信の合格者(文科一類・三類)の再現答案を紹介しつつ、解説します。
(一)傍線部ア・イ・ウを現代語訳せよ。
ア
Aさん⇒お与えください。御坊様の耳を買おう(正解)
Bさん⇒与えてくれ。僧の貴方の耳を買いたい。(一部減点)
木山⇒お与え下さい。貴方様の耳を買いたい。《別解…買おう。》
*「たべ、御坊の耳買はん」の「たべ」は、尊敬の本動詞『たぶ(賜ぶ)…お与えになる』の命令形です。公式56尊⑥
もともとは尊敬の本動詞『給(たま)ふ(賜ふ)』がつづまった形です。例えば「褒美をたびてけり」などとあった場合、落ち着いて「たび」の部分を「たまひ」の形に戻してやれば、" 褒美を給ひてけり ” となり、” 褒美をお与えになった “ の意が見えやすくなります。この『たぶ』を「たまふ」に変換する練習は昨年の授業の中でもしっかり繰り返しました。なんだ簡単じゃないかと思う人は、例えば「たばん物をば賜はらで」の「たば」、「かぐや姫を我にたべ」の「たべ」をもとの形に変換してみて下さい。意外に練習しませんとスラスラ出てこないものです。
答えは「給はん物をば賜らで…お与えになるような物を頂かずに」「かぐや姫を我に賜(たま)へ…かぐや姫を私にお与え下さい」です。
Bさんの答案は「お与え下さい」の命令形を正しく発想できなかったのか、「与えてくれ」と敬意のない一般動詞の命令形に訳してしまった点で、一部減点されます。『御坊(ごぼう)…僧の敬称・お坊様(あなた様)』直単E他22。
イ
Aさん⇒耳だけには幸福の相がいらっしゃるが、その他には見えない。(若干減点)
Bさん⇒耳だけには幸福な運勢がありますが、それ以外には見えない。(正解)
木山⇒耳だけは福相がおありになるけれども、そのほかは福相が見えない《別解…幸運の相/吉相/裕福になる相》
*Aさんの答案について。「いらっしゃる」はもと「入らせられる」の転じたものですから、直接人物に付くのが普通であり、「人相がいらっしゃる」と続けるのは違和感があります。Aさんの答案を正しく言い換えれば、“ 耳だけは幸福の相でいらっしゃるが " などと書けば正答となったでしょう。
ウ
Aさん⇒私に代わって、行きなさってくれよ(正解)
Bさん⇒私に代わって赴きなされよ。(正解)
木山⇒私に代わって、お出向きなさいませよ。《別解…お出向きくださいよ》
*Aさんの「行きなさってくれよ」は、ややこなれない表現ですが、正答を逸脱しているとまでは言えないので正解としました。
(二)「何れも得たる事なり」(傍線部エ)について、「何れも」の中身がわかるように現代語訳せよ。
Aさん⇒真読の大般若の読誦も、逆修も、習得していることである。(若干減点)
Bさん⇒大般若経の読誦も、逆修も、どちらもできることである。(若干減点)
木山⇒大般若経の真読も逆修も、どちらも得意とするところである。《別解…大般若経の読誦による祈祷も〜》
*私の解答も含めて諸解答はすべて「何(いづ)れも得たる」の訳出を、『どちらも得意とする』という方向に訳しています。これは傍線部エの直後の「殊(こと)に祈祷は吾が宗の秘法なり。必ず霊験あるべし」といった自信たっぷりな口吻(口ぶり・言い方)を受けたものです。
つまり、単にそれを習得している(=習って覚えている)とか、それが出来るという意味以上の、より高い境地まで達しているといったニュアンスを汲み取った意訳です。したがって、その点で、AさんBさんの答案は若干減点されるのではないかと思います。
(三)僧が「一滴も飲まず」(傍線部オ)と言ったのはなぜか、説明せよ。
Aさん⇒酒好きというのは、信仰心が薄く思われると思い、いかにも高貴な体裁を取ろうと考えたから。(正解)
Bさん⇒酒を飲まないと言うことで信仰が厚く高貴な僧だと思われると考えたから。(正解)
木山⇒酒好きを隠して、信仰の厚い尊い高僧らしく見せたかったから。
(四)「中々とかく申すばかりなくして」(傍線部カ)について、状況がわかるように現代語訳せよ。
Aさん⇒神主のために来た僧が、神主に餅を食わせて死なせてしまい、かえってあれこれと申し上げるほどの気を無くして(正解)
Bさん⇒自らが与えた薬で病者が死に、何も言うことが無くなって(不正解)
木山⇒僧の行為が神主を死なせる結果となり、家族はかえって何と申したらよいかもわからず《別解…〜かえってあれこれ申しようもなくて》
*Aさんの答案にあるように、” かえって何と申したらよいかもわからなく “ なったのは、神主に死なれた家族の側であって、餅を与えて神主を死に至らしめた僧ではありません。
Bさんの答案では、僧自身が言うべき言葉をなくしてしまったように取れてしまい、その点で不正解となります。
(五)「心も卑しくなりにけり」(傍線部キ)とはどういうことか、具体的に説明せよ。
Aさん⇒僧が、少しでも楽に多くのお金を稼ごうとするようになったこと。(ほぼ正解だが)
Bさん⇒僧は自らに降りかかる災難の原因を、福耳を売ったせいにするほど心が狭くなったということ。(不正解)
木山⇒耳を売った僧が、布施の多寡に執着するような欲深く卑しい心になったということ。
*このホームページ上にも載せられている古文背景知識No.1『空・空寂』の冒頭部分には、次のように書かれています。
(中略)
ですから、心に平穏を得るためには、一刻も早くそのような執着の苦から逃れなければならない。これを難解な仏教用語では厭離穢土(おんりえど)ともいいます。この世の穢(けが)れを厭(いと)い、離れるといった意味です。つまり、みずからの自我が欲望を捨ててわずらいを離れて心からすっきりして、もう幻の俗世に執着しない、といった境地が「空・空寂」です。
(中略)
俗世に対する執着を断ち切れないものの一つに、富への囚(とら)われがあり、これを『名利みょうり』とも言います。繰り返しますが、このような俗世への欲望を煩悩(ぼんのう)というわけです。記述問題などでこのような煩悩の説明を求められた場合は、俗世に対する「執着・妄執・愛執・妄念」などの語句が使えます。
この問題文は仏教説話ですから、『心も卑しくなりにけり』の卑しさとは、貴族的な情趣に欠けるといった品位の問題ではなく、あくまで仏教理念上の規範に反する行為としての卑しさでなければなりません。上の引用からも分かるように、仏教が一番嫌うのは俗世に対する執着心です。その執着心(=囚われた心)を持ったまま生きることが穢れであり、卑しさであると言えます。福耳を売った僧の執着とは、布施などの金銭に対する執着心であることは明らかでしょう。従って的確な表現としては『名利への執着に囚われて』とか、『欲深く金銭に執着して』とか、『心も穢れてより多くの布施を求める』などの表現が必要となります。Aさんの答案は方向性としては良いのですが、もう一歩、仏教的背景を踏まえた「執着」などの語句が欲しいところです。
文中に「僧」は二人出てくるので、主語は『耳を売った僧が』と書く方が丁寧ですが、文脈上自明であるようにも感じられますし、単に「僧が」とする諸解答もありますので、絶対の基準とはならないと思います。