お便りシリーズNo.79

【令和6年・2024年度
共通テスト試験古典(古文漢文)】




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近世中期以降に書かれた擬古文という

極めて人工的で脆弱な「文章」

文体コスプレごっこの愉悦


 ディズニーキャラクターの着ぐるみに入っている『中の人』は、どういう経緯であの仕事にたどり付いたのか?と興味を抱いても、“ それを絶対に言ってはならない " という圧力は必ず存在します。無粋にも「あんた、それでいくら貰ってんの?」などと発言すれば、たちまち周囲の殺気を感じずにはいられないでしょう。ミッキーは本当のミッキーなのだという『ごっこ遊び』の約束ごとへの了解があってこそ、ミッキーとのハグも意味を成すというもの。

 一方、「コスプレ」とは、好きな作品やキャラクターへの愛情を、自らの身体を用いて表現することですが、そこにも「アイロニカルな没入」があって、キャラクターへの同化は所詮は戯れと分かってやってますと言いながら、実は自己愛による変身願望やナルシズムを満たすための強迫的な真剣さも土台にはあって、その精一杯の奮闘ぶりが痛々しいほどに見え隠れするのですが、しかし、それに触れてはならないという了解が、演じる側にも見る側にもあるように思います。あくまで表面上は『ごっこ遊びをやってます!』という体裁を、お互いに保つことがコスプレ道のたしなみと言えるでしょう。

 ところで、キャラクターとの一体化の多くは、例えば「鬼滅の刃」の竈門炭治郎の衣装を自作するといった具合に、扮装・仮装の方向に進むのが一般的ですが、中にはアニメのような声で話すことで自らのキャラを確立しようとする輩(やから)も登場します。

そこにあるのは、キャラクターの語り口やイントネーション、セリフの言い回しを模倣することによって、虚構世界のリアリティを自らの身体を通して体現したいという欲求です。

 もともと、日本におけるコスプレの受容は、1975年頃にアメリカのファン・イベント「SFコンペンション」で行われた「マスカレード(仮装舞踏会)」が日本に紹介されたのが契機であったと言われています。そのマスカレードの中で、衣装やセリフを駆使することによって、アニメやマンガのキャラクターに扮し、原作の一場面を寸劇で再現することも行われていました。
そこで演じられる寸劇は、いわば原作のパロディであるわけですが、一方で、原作の「設定」や「世界観」を遵守する限りにおいては、原作の《大きな物語》の枠組みを利用しつつ、一話分のドラマとしての《小さな物語》を2次的に創作していると言えなくもありません。
例えば、原作のストーリーと登場人物をそのまま演じたら唯のモノマネですが、原作との整合性を保ちつつ、そこに新たなキャラクターを作り出して、それを《大きな物語》の設定の中に投げ込んでみたら物語はどう展開するのか?といった視点で演じれば、それは〈本物〉の発展的な2次的創作物と言えなくもありません。

 ところで、今回、共通テスト古文に出題された『草縁集』所収の「車中雪(しゃちゅうのゆき)」のような作品を一般に【擬古文】と呼びます。擬古文とは、江戸時代中期以降に書かれた、主に平安時代の和歌や仮名文を模範にして書いた文章の総称です。擬古文の担い手の多くは国学者でした。この擬古文を書こうとする動機と構造において、私は上記のコスプレの精神性と一脈通じるものを感じています。

 哲学の用語に〈受苦的疎外〉というのがあるそうです。“ 世界は本当なら別のものでもあり得たのに、目の前にあるものでしかない "という感受性のことを言うそうですが、江戸中期以降の国学者は、みなこの〈受苦的疎外〉感を持っていたのではないでしょうか。
 彼らの理想世界は上代の『古代的素直さ』、あるいは、中古の『雅(みや)び』という幻想の中にあったわけですから、江戸時代の日常は薄汚れたものに感じられたに違いありません。
しかし、貴族文化はとうの昔に滅び去り、歴史の上では二度と返り咲くことはありませんでした。そんな中で、古代の「まことの心」や中古の「もののあはれ」に憧憬を抱けば抱くほど、その古代の精神世界と一体化したいという欲求が高まります。その際、右の私の写真にあるような平安貴族の衣装を外形的に真似しようとするのは、皮相な低レベルの模倣にすぎません。


 結局、国学者の一体化の衝動は、古代、特に平安時代の和歌や文章に習い、その語彙・語法を用いて一話のドラマを創作するという、いわば文体コスプレという方向で具現化します。キャラクターの語り口やイントネーション、セリフの言い回しを模倣することで、虚構世界のリアリティを体現しようとするアニメ声コスプレイヤーと方向性は同じです。

 しかも、古典の名作の中には、例えば『源氏物語/夢浮橋』のように、全体の終わりであるにも関わらず、特にストーリー上の区切りでも何でもないところでいきなり終わっているといった印象のものがあり、そこで完結しているのか、それとも中絶したと見るべきか、といった議論は今でも続いています。
それを中絶とみて、ヨーロッパ近代文学のプルーストにも比せられる世界最高水準の心理主義小説の続編を、自ら紫式部に成り代わって自在に書いてみたいという衝動と胸の高鳴りを、江戸期の国学者が抱いたとしても不思議ではありません。
 しかし、時代的にも平安時代から遠く離れてしまった江戸中期以降の国学者にとって、完全な平安王朝物語風の雅文体を再現し、ある程度の長さに仕上げるのはたいへん難儀なことだったと想像します。
《上記の「夢浮橋」の続編として鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた補作に『山路の露』『雲隠六帖』などがあり、それなりの分量もありますが、それは平安貴族文化との親和性がまだかすかに残っていた頃の作だからです。これらは一般に【擬古物語】と称され、江戸中期以降の【擬古文】とは区別されます》

 擬古文はつねに遠く離れた過去の文章語に引きずられ、規定され、同時代の江戸期の口語・俗語とは大いに距離を置きますから、意図的に死語となっている語を用いる点で、極めて人口的な文章であり、それゆえに極めて脆弱な文章です。それもあってか、中世の擬古物語のような長めの作品は少なく、だいたい王朝的な一場面を短く描くものが多いようです。
《美しくポーズを決めても、2次元のキャラクターに近いポーズをとるため、体を曲げすぎて、長くはポーズを続けられないコスプレイヤーみたいな感じか》

 仮に、今回の「車中雪」の原体験として、雪の中を京都から桂に向かった体験が擬古文の作者にあったとしても、実際には、当時の関西言葉で、
「えろう寒いなぁ。あんさん、あれ見いな、雪(ゆぅきぃ)降ってるさかい。桂までえらいこっちゃ。おおしんど・・」
などと会話しているところを、やれ、源少将とか水干(すいかん)童や牛車などを登場させて、「あはれ、世に面白しとはかかるをや言ふならむ」などと雅文調でいくわけですから、かなり無理に無理を重ねた感があります。

ところで、ここで作者の2次的創作意欲を掻き立てるものに、” 桂の院 " があります。源氏物語の「松風」「薄雲」の巻において、光源氏の別邸としての ” 桂の院 " が描かれますが、本邸として長く物語の舞台となった二条院や六条院については、その造営・造作の過程が詳しく触れられているに対して、桂の院についてはその造営が何も語られることがなく、しかも、わずか数回作品中に登場しただけで、あっさりと物語から消えてしまいます。
原作では、源氏が、上京した明石の君母子を初めて大堰に訪ねるための口実として“ 桂の院 " に向かうという描かれ方をしていますから、「車中雪」の作者は、実像としての桂の風景の中に、虚像としての源氏の別邸を重ね合わせる効果を狙っているのかもしれません。
こうした江戸期の擬古文が、江戸中期の「奇伝小説」や末期の「人情本/滑稽本」などの大衆的流通形態を獲得することなく、マイナーな存在であり続けた事も、コスプレオタクの密かな愛好と軌を一にしているようで面白く感じられます。




第3問(古文)

次の文章は、「車中雪(しゃちゅうのゆき)」という題で創作された作品の一節である(『草縁集』所収)。主人公が従者とともに桂(かつら…京都市西京区の地名)にある別邸(本文では「院」)に向かう場面から始まる。

 桂の院つくりそへ給ふものから、

(ア) あからさまにも

渡り給はざりしを、友待つ雪《…後から降ってくる雪を待つかのように消え

残っている雪
》にもよほされてなむ、ゆくりなく思(おぼ)し立たすめる。

かうやうの御歩(あり)きには、源少将、藤式部をはじめて、今の世の有職(いう

そく)と聞こゆる若人のかぎり、必ずしも召しまつはしたりしを、

(イ) とみのこと

なりければ、かくとだにもほのめかし給はず、「ただ親しき家司(けいし)

…邸の事務を担当する者》四人五人(よたりいつたり)して」とぞ思しおき

て給ふ。

 やがて御車引き出(い)でたるに、「空より花の」《…「冬ながら空より花

の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ」の歌を踏まえた表現
》と

うち興じたりしも

めでゆくまにまにいつしかと散りうせぬるは、かくてやみぬとにやあらむ。

「さるはいみじき出で消えにこそ」と、人々死に返り《…とても強く

妬(ねた)がるを、「げにあへなく口惜し」と思せど、「さて、

引き返さむも

人目悪(わろ)かめり。なほ宝輪の八講《…京都市西京区の法輪寺で行われる

法会
》にことよせて」と思しなりて、ひたやりに急がせ給ふほど、

またもつつ闇《…まっくら闇》に曇りみちて、ありしよりけに散り乱れ

たれば、道のほとりに御車たてさせつつ見給ふに、何がしの山、くれがしの

河原も、ただ時の間に

面(おも)変はりせり

 かのしぶしぶなりし人々も、いといたう笑み曲げて、

「これや小倉(をぐら) 《…京都市右京区にある小倉山》の峰ならまし」

「それこそ梅津《…葛川左岸に位置する名所》の渡りならめ」と、口々に

定めあへるものから、松と竹とのけじめをだに、とりはづしては違(たが)へぬ

べかめり。「あはれ、世に面白しとはかかるをや言ふならむかし。なほここに

てを見栄(は)やさまし《…ここで見て賞美しよう》とて、

やがて下簾(したすだれ)《…牛車の内にかけるとばり》かかげ給ひつつ、


ここもまた月の中なる里ならし雪の光もよに似ざりけり


など

興ぜさせ給ふ

ほど、

(ウ) かたちをかしげなる

童(わらは)の水干(すいかん)着たるが、手を吹く吹く御あと尋(と)め来て、

榻(しぢ)《…牛車の踏み台》のもとにうずくまりつつ、「これ御車に」とて

差し出でたるは、源少将よりの御消息なりけり。

大夫(たいふ)とりつたへて奉るを見給ふに

「いつも後(おく)らかし給はぬを、かく、


白雪のふり捨てられしあたりには恨みのみこそ千重に積もれれ


とあるを、ほほ笑み給ひて、畳紙(たたうがみ)に、


尋(と)め来やとゆきにしあとをつけつつも待つとは人の知らずやありけむ


やがてそこなる松を雪ながら折らせ給ひて、その枝に結びつけてぞたまはせたる。

 やうやう暮れかかるほど、さばかり天霧(あまぎ)らひ《…雲や霧で空が

一面に曇って
》たりしも、いつしかなごりなく晴れわたりて、名に負ふ里の

月影はなやかに差し出でたるに、雪の光もいとど映えまさりつつ、

天地(あめつち)のかぎり、白銀(しろがね)うちのべたらむがごとくきらめき

わたりて、あやにまばゆき夜のさまなり。

 院の預かり《…桂の院の管理を任された人》も出で来て、

「かう渡らせ給ふとも知らざりつれば、とくも迎へ奉らざりしこと」など言ひ

つつ、頭(かしら)ももたげで、よろづに追従するあまりに、牛の額の雪かきは

らふとては、軛(くびき)《…牛車と牛をつなぐ柄の部分》に触れて烏帽子

(えぼし)を落とし、御車やるべき道清むとては、あたら雪をも踏みしだき

つつ、足手の色を海老(えび)になして《…海老のように赤くして》、

桂風(かつらかぜ)を引き歩く。

 人々、「いまはとく引き入れてむ。かしこのさまもいとゆかしきを」とて、

もろそそき《…一斉にそわそわして》あへるを、「げにも」とは思すもの

から、ここもなほ見過ぐしがたうて。


現代語訳

  桂の院を造り添えなさる[=増築なさる]ものの、

(ア) あからさまにも

そちらへはお行きにならなかったのを、後から降ってくる雪を待っているよう
に残る「友待つ雪」に促されて、突然出立をご決心なさるようだ。
このようなお出かけには、源少将、藤式部をはじめとして、今の世の中の有職
[いうそく…博識で教養のある人]と評判の若者たちを皆、必ずお呼びになり、
お連れなさっていたが、

(イ) とみのこと

であったので、このように出かけるということさえほのめかしなさらず、
「ただ、親しい家司《(けいし)邸の事務を担当する者》四人、五人を
連れて」とお取り決めになる。
 すぐに牛車をお引き出しなさっている時に、「空より花の」 《…雪片を
落花に見立てる古今和歌集の和歌の補註あり
》と

うち興じたりしも、

(雪を)愛でてゆくままに、早くも(雪が)散り失せてしまうのは、こうして
(降雪も)終わってしまうということであろうか。「そうであるのは、ひどく
見劣りのすることであろう」と、人々は死に返り《…とても強く》嫌がるの
を、「本当にあっけないことで残念だ」とお思いになるが、「そういうわけで

引き返さむも

人目が悪いようだ。やはり法輪の八講《…京都市左京区、法輪寺で行われる
法華経八巻の法会
》にかこつけて(桂の院に行こう)」とお思いなさって、
ひたすら急ぎなさる時に、またもつつ闇《(つつやみ)真っ暗闇》に一面に
曇って、以前よりもいっそう(雪が)散り乱れたので、道のほとりに牛車を立
てさせなさってご覧になると、だれそれの山やかれそれの河原も、ただほんの
少しの間に、

面(おも)変はりせり。

あの(雪がすぐにやんでしまったことを)嫌がっていた人々も、たいそう(唇を)
笑み曲げて[=嬉しそうに笑って]、
「これが小倉の峰《(をぐらのみね)京都市右京区にある小倉山》で
あろうか。「それは梅津の渡り《…桂川左岸に位置する名所》であろう。」
と、口々に定め合っているのだが、(実際はおぼつかなくて)松と竹の区別で
さえも、取り違えてしまうはずのものであるようだ。
「あぁ、世の中に面白い[=風流だ]というのはこのようなことを言うので
あろうよ。やはり、ここで見栄(は)やさまし《…ここで見て賞美しよう》」
と言って、そのまま下簾《(したすだれ)牛車の前後の簾の内にかける
帳(とばり)
》をかかげなさりながら、


ここもまた月の中なる里ならし雪の光もよに似ざりけり


《ここもまた月の中にある里[問4解説文…月にゆかりのある桂の里]であるに
ちがいない、雪の光も実に世間とは似ておらず素晴らしいなぁ》 などと、

興ぜさせ給ふほど、

(ウ) かたちをかしげなる

童(わらは)で水干(すいかん)を着た童が、(寒さで凍えた)手を(息で)吹き
ながら(主人公一行の)後を追い求めて来て、
榻《(しぢ)牛車に乗り降りする際の踏み台》のところにうずくまりつつ、
「これを牛車に」と言って差し出したのは、源少将からのお手紙であった。

大夫(たいふ)邸の事務を担当する家司の一人とりつたへて奉るを

見る給ふに


(そのお手紙に)「いつもは後に残したりなさらないのに、
このように(置いてきぼりになさるとは)、


白雪のふり捨てられしあたりには恨みのみこそ千重につもれれ
《白雪が「降り」ではないが、振り捨てられた[=置き去りにされた](私の)
あたりでは、(白雪よりも)恨みばかりが千重(ちえ)に積もっていることよ》


と書いてあるのを、(主人公は)微笑みなさって、畳紙(たたうがみ)に、


尋(と)め来やとゆきにしあとをつけつつも待つとは人の知らずや

ありけむ

《あなたが(私を)探し求めて来るだろうかと、雪の中を行きつつ雪に跡をつけ
ながらも、(私が)待っているとはあなたは知らないでいたのでしょうか。》


すぐにそこにある松を、雪がついたまま折らせなさって、その枝に結びつけて
(返歌として)お与えになった。  だんだんと日も暮れてくるうちに、それほど
天霧(あまぎ)らひ《…雲や霧がかかって空が一面に曇って》いたのも、
早くも名残なくすっかり一面に晴れ渡って、(桂という月にゆかりのある)
名を背負う里の月の光は、はなやかに差し出でたので、(その月の光に
照らされて)雪の光もますます映えまさって、天地(あめつち)のすべてが、
白銀(しろがね)をたたき伸ばしたようにきらめきわたって、なんとも言いよう
もなくまばゆいほどの夜である。

 院の預かり《…桂の院の管理人》も出て来て、「このようにお越しになる
とも知らなかったので、すぐにもお迎え申し上げなかったことです」などと
言いつつ、頭も持ち上げないで、すべてに追従(ついしょう)[=媚びへつらう]
あまりに、牛の額の雪をかき払うと言っては、
(牛車の)軛(くびき)[=牛の首に当てる横木]に触れて烏帽子を落としたり、
車を先に遣るはずの道を清めると言っては、もったいなくも雪を踏み荒らし
つつ、足や手の色を海老のように赤くして桂風を引きながら [問4解説文
…風邪を引きながらの意
]歩き回る。

人々は、「今は早く(牛車を)を(桂の院の)中に引き入れてしまおう。
あちらの様子もたいそう見たいので」と言って、もろそそきに
…一斉にそわそわして》いるのを、(主人公は)「なるほど本当に
(そうだ)」とはお思いになるものの、ここも[=今牛車を停めて眺めている
桂の里の雪の情景も]やはり見過ごすことができなくて。


問1傍線部(ア)〜(ウ)の解釈として最も適当なものを、各群の①〜⑤のうちから、それぞれ一つづつ選べ。

(ア) あからさまにも

① 昼のうちも
② 一人でも
③ 少しの間も
④ 完成してからも
⑤ 紅葉の季節にも

答→

*C形動2『あからさまなり』…ついちょっと・仮に。現代語の「あからさま」は「露骨だ・見え見えだ」の意で用いられますが、「あから」の音を「明ら」に結びつけて、明るくて明瞭な様と捉えた江戸期以降の錯覚語義です。
本来の語源は “ 本来の居場所から一時的にちょっと離れる意の『離(あか)る』に由来します。
そこで意味は『ついちょっと・仮に』となる訳ですが、暗記の際には、これが量的感覚ではなく、時間感覚であることを強調しませんと、学生が微妙な選択肢を間違ってしまう可能性があります。時間的な意味合いでの『ついちょっと・仮に』の意です。


(イ) とみのこと

① 今までになかったこと
② にわかに思いついたこと
③ ひそかに楽しみたいこと
④ 天候に左右されること
⑤ とてもぜいたくなこと

答→

*直単C形動19『とみなり』…急に・突然/うちつけなり・にはかなり同義。
C形56『とし(疾し)…早い』の語幹の「と(疾)」に接尾語の「み」が付くことで ” はやいこと " という名詞が出来ます。《例えば、現代語でいえば形容詞の「暖かい」が名詞の「暖かみ」になるのと同じ》これに断定の「なり」が付いて一語化したのが形容動詞の『とみなり』です。その『とみなり』は『にはかなり』とも同義であり、夏の午後、急に降ってくる雨《短時間の一過性の驟雨》を " にわか雨 " とも言います。

(ウ) かたちをかしげるなる

① 格好が場違いな
② 機転がよく利く
③ 和歌が上手な
④ 体を斜めに傾けたら
⑤ 見た目が好ましい

答→

*直単A名16『かたち』…容貌・顔立ち・見た目
直単C形88『をかし』②…かわいい・美しい。あまりにも簡単。


問2傍線部a〜eについて、語句と表現に関する説明として最も適当なものを一つ選べ。

「うち興じたりしも」の「し」は強意の副助詞で、雪が降ることに対する主人公の喜びの大きさを表している。

「引き返さむも」の「む」は仮定・婉曲の助動詞で、引き返した場合の状況を主人公が考えていることを表している。

「面変わりせり」の「せり」は「り」が完了の助動詞で、人々の顔色が寒さで変化してしまったことを表している。

「興ぜさせ給ふ」の「させ」は使役の助動詞で、主人公が和歌を詠んで人々を楽しませたことを表している。

「大夫とりつたへて奉るを見給ふ」の「給ふ」は尊敬の補助動詞で、作者から大夫に対する敬意を表している。

答→

*①⇒a「うち興じたりしも」の「し」は、“ それまで『空より花の』と、古今集の歌を引いて興じていたのも、その降雪が散り失せたのは残念で 〜 " という文脈からしても、過去の助動詞『き』の連体形(公式3)と考えて違和感はなく、文脈に関係なく「し」を取っても読めることを判別法とする強意の副助詞(公式43③)とは認められません。
②⇒公式9の助動詞『む』が仮定になる場合は、「〜むに/むには/むは/むも/むこそ」の形であることを、[2]文法チェックリストの一問一答で繰り返しました。訳は ” 引き返すとしたら、(それも)人目が悪いようだ “ です。しかも、それは主人公の思いである訳ですから内容的に合致します。
③⇒文法についての記述は正しいのですが、「面変わり」したのは、人々の顔色ではなく、一面に見える野の情景が降雪によって白く覆われていく情景を言ったものです。
④⇒主人公と思われる人物が、「ここもまた月の中なる〜」と歌を詠んで、周りの人々を “ 興ぜさせた"という使役の文脈であれば、原文は『ここもまた月の中なる〜〜〜〜〜などと詠みて、興ぜさせ給ふ』などと、いったん主人公の行為を「詠みて」と区切らなければ不自然です。原文は和歌を受けて、『など興ぜさせ給ふ』とそのまま繋がっていますから、歌の詠み手自身が歌を詠むことで自ら面白がっている、と考えるしかありません。つまり、「させ」は使役ではなく、尊敬です。
⑤⇒正しい文脈は、「大夫(=邸の事務係)が受け取って差し上げられた源少将からのお手紙を、主人公である方がご覧になると」ですから、『給ふ』の敬意の方向は、作者から主人公に対する敬意となります。


問4 次に示すのは、「桂(かつら)」という言葉に注目して本文を解説した文章である。これを読んで、後の問いに答えよ。

 本文は江戸時代に書かれた作品だが、「桂」やそれに関連する表現に着目すると、平安時代に成立した『源氏物語』や、中国の故事がふまえられていることがわかる。《中略》
 最初に出てくる和歌に「月の中なる里」とある。実はこれも「桂」に関わる表現である。古語辞典の「桂」の項目には、「中国の伝説で、月に生えているという木。また、月のこと」という説明がある。《中略》
 「桂」が「月」を連想させる言葉だとすると、和歌Yの3行あとで、桂の里が「名に負ふ里」と表現されている意味も理解できる。すなわち、和歌Yの2行後から始まる「やうやう暮れかかるほど、〜〜〜〜あやにまばゆき夜のさまなり」までは【 Ⅱ 】という情景を描いているわけである。


( ⅱ ) 空欄【 Ⅱ 】に入る文章として最も適当なものを、次の①〜④から一つ選べ。

① 空を覆っていた雲にわずかな隙間が生じ、月を想起させる名を持つ桂の里は、一筋の月の光が鮮やかに差し込んできて、明るく照らし出された雪の山が目がくらむほど輝いている。

② 空を覆っていた雲がいつの間にかなくなり、月を想起させる名を持つ桂の里にふさわしく、月の光が鮮やかに差し込み、雪明りもますます引き立ち、あたり一面が銀色に輝いている。

③ 空を覆っていた雲が少しずつ薄らぎ、月を想起させる名を持つ桂の里に、月の光が鮮やかに差し込んでいるものの、今夜降り積もった雪が、その月の光を打ち消して明るく輝いている。

④ 空を覆っていた雲は跡形もなく消え去り、月を想起させる名を持つ桂の里だけに、月の光が鮮やかに差し込んできて、空にちりばめられた銀河の星が見渡す限りまぶしく輝いている。

答→

*該当箇所の「月影はなやかに差し出でたるに、雪の光もいとどしく映えまさりつつ」の『いとど』は、直単C副2…ますます。その直後に続く「天地(あめつち)のかぎり、白金(しろがね)うちのべたらむがごとくきらめきわたりて」の、『かぎり』はA名13②全部・みな、『わたる』はB動65②…一面に〜するの意ですから、直訳すれば ” 月の光が華やかに差し込んだ時に、雪の光もますます映え勝りつつ、天地の全体が銀を打ち伸ばしたかのように一面にきらめいて "となり、②が合致します。
①→「空を覆っていた雲にわずかな隙間が生じ」は、原文の “ いつしか名残なく晴れわたりて ” に矛盾します。『名残なし』はE他41…①あとに何も残らない、ですから、雲も霧もすっかり消えて晴れ渡ったと解釈すべきです。
③→この場の情景は、雪あかりと月の光が相乗的に夜を明るくしている訳ですから、「雪が月の光を打ち消して」は不適切な説明。
④→原文中に “ 銀河の星の輝き ” についての記述はありません。


 最後に、本文末尾から数えて4行目に「桂風を引き歩く」とある。「桂風」は「桂の木の間を吹き抜ける風」のことであるが、「桂風を引き」には「風邪を引く」という意味も掛けられている。実は『源氏物語』にも「浜風を引き歩く」という似た表現がある。光源氏の弾く琴の音が素晴らしく、それを聞いた人々が思わず浜を浮かれ歩き風邪を引くというユーモラスな場面である。『源氏物語』を意識して読むと、和歌Yの7行後から始まる「院の預かりも出で来て〜〜〜〜〜〜本文末尾まで」の部分では主人公がどのように描かれているいるかがよくわかる。すなわち、【 Ⅲ 】
 以上のように、本文の「桂の院」に向かう主人公たちの様子を、移り変わる雪と月の情景とともに描き、最後は院の預かりや人々と対比的に主人公を描いて終わる。


( ⅲ ) 空欄【 ⅲ 】に入る文章として最も適当なものを、次の①〜④から一つ選べ。

① 「手足の色」を気にして仕事が手につかない院の預かりや、邸の中に入って休息をとろうとする人々とは異なり、「ここもなほ見過ぐしがたうて」とその場に居続けようとするところに、主人公の律儀な性格が表現されている。

② 風邪を引いた院の預かりを放っておいて「かしこのさまもいとゆかしきを」と邸に移ろうとする人々とは異なり、「『げにも』とは思す」ものの、院の預かりの体調を気遣うところに、主人公の温厚な人柄が表現されている。

③ 軽率にふるまって「あたら雪をも踏みしだきつつ」主人公を迎えようとする院の預かりや、すぐに先を急ごうとする人々とは異なり、「ここもなほ見過ぐしがたうて」と思っているところに、主人公の風雅な心が表現されている。

④ 「とくも迎へ奉らざりしこと」と言い訳しながら慌てる院の預かりや、都に帰りたくて落ち着かない人々とは異なり、「『げにも』とは思す」ものの、周囲の人を気にかけないところに、主人公の悠々とした姿が表現されている。

答→

*①⇒「御車やるべき道清むとては、あたら雪をも踏みしだきつつ、足手の色を海老(えび)になして」とあるように、主人公の車が通る道を整えようとして手足がかじかんで赤くなっているわけですから、“ 仕事が手につかない ” のではなく、むしろ、院の預かりは懸命に仕事を務めているといえます。
②⇒本分末尾の「ここもなほ見過ぐしがたうて」は、“ この景色もやはり見過ごせなくて " の意であり、“ 院の預かりを見捨てがたくて " の意ではありません。また、前文の状況から、院の預かりは車の前を先導している訳ですから、院の預かりがあとに放っておかれるという解釈も成り立ちません。
③⇒「御車やるべき道清むとては、あたら雪をも踏みしだきつつ」の『あたら』はB形3*(副詞)…惜しいことにの意。古文背景知識No.5の末尾に解説しているように、王朝人の愛でた自然美には「雪」「月」「花」があり、中でも「雪」は踏み荒らされる前の新雪の興趣が重んじられました。お追従(ついしょう)のあまりに、懸命さを見せながらも、せっかくの新雪を不用意に踏みしだいてしまうところに、院の預かりの間抜けさと情趣を解さない性格が現れています。その対比として、「ここもなほ見過ぐしがうて」という主人公の、雪の野の情景への興趣があると解せます。
④⇒「いまはとく引き入れてむ」は、”早く桂の院のお邸の中へ牛車を引き入れたい " の意であり、早く都へ帰りたい、という解釈にはなりません。




 


第4問(漢文)

次の文章は、唐の杜牧(とぼく)〔八〇三〜八五二〕の【詩】「華清宮(かせいきゅう)」とそれに関連する【資料】Ⅰ〜Ⅳである。

【詩】《書き下し》

 華清宮

長安より回望すれば繡(しう)堆(たい)を成す。

山頂の千門次第に開く。

一騎紅塵(こうぢん)妃子笑ふ。

人の是(こ)れ茘枝(れいし)の来たるを知る無し。


【資料】《書き下し》

『天宝遺事』に伝(い)ふ、「貴妃荔枝(れいし)を嗜(たしな)む。

当時涪州(ふうしゅう)貢(みつぎ)を致(いた)すに馬逓(ばてい)を以てし、

馳載(ちさい)すること七日七夜にして京に至る。人馬多く路に斃(たふ)れ、

(ア) 百姓

之に苦しむと」。

『畳山詩話』に伝ふ、「明皇(めいこう)遠物(えんぶつ)を致して以て婦人を

悦(よろこ)ばしむ。

窮 人 力 絶 人 命、 有 所 不 顧」。

『遯斎閑覧(とんさいかんらん)に伝ふ、「杜牧(とぼく)の華清宮詩尤

(もっと)も

(イ) --  

唐紀に拠(よ)れば、明皇十月を以て驪山(りざん)に幸し、春に至りて即ち宮に

還(かへ)る。是(こ)れ未だ嘗(かつ)て六月には驪山に在(あ)らざるなり。

然(しか)るに荔枝(れいし)は盛暑(せいしょ)にして方(はじ)めて熟す」と。

『甘沢謡』に曰(い)はく、「天宝十四年六月一日、貴妃誕辰(たんしん)、

駕(が)驪山に幸す。小部音声に命じて楽(がく)を長生殿に奏し、新曲を進

(すす)めしむるも、未だ名有らず。会(たまたま)南海(なんかい)荔枝(れいし)

を献(けん)じ、

(ウ)

荔枝香(れいしこう)と名づく」と。


 現代語訳

【詩】

華清宮《…唐の都長安の郊外にある驪山(りざん)に造営された離宮

長安より(顔を)回(めぐ)らして望めば、驪山(りざん)は綾絹(あやぎぬ)を重ねたような美しさだ。《…あり
山頂にある幾千もの門が次々に開いていく。
…あり
一騎の騎馬が砂煙をあげて疾走してくると、(それを見て)玄宗
皇帝の妃である楊貴妃は笑う。《…あり
人はこれが茘枝(れいし)《…中国南方の果物ライチ》を届けに来たと知る者
はいない。

【資料】

『天宝遺事』《注…唐代の逸話集》に書かれていることには、「楊貴妃は
ライチを好む。当時、涪州(ふうしゅう)《…中国南方の地名》は貢(みつ)ぎ
物を届けるのに早馬による緊急輸送《…あり》を使って届け、馬の背に載せ
て走らせること七日七夜にして都に至る。人も馬も多く路に斃(たお)れ、

(ア) 百姓

はこれに苦む」と。

『畳山詩話』《…詩の解説や逸話を載せた書》に書かれていることには、
「玄宗皇帝は遠くの物を届けさせて、それによって婦人である楊貴妃を
悦(よろこ)ばせる。

窮 人 力 絶 人 命、 有 所 不 顧。

『遯斎閑覧(とんさいかんらん)《…随筆集》に書かれていることには、
「杜牧(とぼく)の華清宮の詩は何よりも

(イ) --(くわいしゃ)  

唐紀《…唐代の歴史記録》によれば、玄宗皇帝は十月に驪山に行幸し、
春に至ってすぐに宮廷に還る。このことは、未だかつて六月には(玄宗皇帝は)
驪山に滞在していなかったということである。それなのに、ライチは(夏の)
暑い盛りの時期にはじめて熟す」と。

『甘沢謡』《…唐の逸話を集めた書》に書かれていることには、
「天宝十四年六月一日に、楊貴妃の誕辰(たんしん)《…誕生日》があり、
(玄宗皇帝は)駕(が)《…皇帝の乗物》に乗って驪山に行幸する。 小部音声
…宮廷の少年音楽隊》に命じて、音楽を長生殿《…華清宮の建物の
一つ
》で演奏させ、新しい楽曲を進呈させるけれども、いまだ曲名はない。
たまたま南海郡《…中国南方の地名》がライチを献上し、

(ウ)

(そのことによって)その新曲は茘枝香(れいしこう)と名付けられた。


問1この【詩】の形式と押韻の説明として最も適当なものを、一つ選べ。 

① 形式は七言律詩であり、「開」「来」で押韻している。
② 形式は七言律詩であり、「堆」「開」「来」で押韻している。
③ 形式は七言律詩であり、「堆」「開」「笑」「来」で押韻している。
④ 形式は七言絶句であり、「開」「来」で押韻している。
⑤ 形式は七言絶句であり、「堆」「開」「来」で押韻している。
⑥ 形式は七言絶句であり、「堆」「開」「笑」「来」で押韻している。

答→

*漢文公式25A『近体詩の押印』を参照。この漢詩が7言絶句であることは明白です。踏み落としがなければ、基本的に1・2・4句目末に韻がきますから、確認してみると「堆( Tai )」 「開( Kai )」 「来( Rai )となり『 ai 』の韻が揃います。

問2傍線部(ア)「百姓」・(ウ)「因」のここでの意味として最も適当なものを、それぞれ一つづつ選べ。

(ア) 「百姓」
① 民衆
② 旅人
③ 皇帝
④ 証人
⑤ 罪人

答→

*漢単D3「百姓」…(ひゃくせい)民衆・人民

(ウ) 「因」
① そのために
② やむをえず
③ ことさら
④ とりあえず
⑤ またもや

答→

*漢単D37「因」…(よりテ)そういうわけで。前後の文脈は、“ 新曲にはまだ名前がついていなかった。その時たまたま南海郡が茘枝(れいし)を献上してきたので、《そういうわけで/そのことを理由として》茘枝香という曲名が付けられた " という文脈。 ①の「そのために」は、やや文語的な感じですが、平たく言えば『だから/そういうわけで』の意と同じになります。


問3傍線部「窮 人 力 絶 人 命、 有 所 不 顧。」について、返点のつけ方と書き下し文との組み合わせとして最も適当なものを、一つ選べ。

人 力 絶 人 命、有 所 不一レ 顧
人力に人命を絶たんとするを窮めて、所として顧みざる有りと。

人 力 絶 人 命、有 所 不 顧
人の力(つと)めて絶人の命を窮むるは、有れども顧みざる所なりと。

窮 人 力 絶 人 命、有 所 不 顧
窮人の力は絶人の命にして、有る所顧みざるのみと。

人 力 人 命、有 所 不 顧
人力を窮め人命を絶つも、顧みざる所有りと。

 人 力 絶 人 命、 有 所 不 顧
人を窮めて力(つと)めしめ人を絶ちて命じ、所有るも顧みずと。

答→

*白文問題の傍線部中に「所」があった場合、下からの返読文字と見て、以下の内容を「〜する所(ハ)」などとまとめる働きと考えるのが正道でしょう。《←公式4⑧》もちろん、場所を表す一般名詞の「所」であれば返読しないこともありますが、わざわざそれを出してくる白文問題はほとんど見たことがありません。
「所」を返読文字と見れば、公式4⑧の【有リ・無シへの返読】の説明にあるように、「所」からすぐ上の「有・無」にレ点で返るのが常ですから、その点から見ても答えは④しかありません。 レ点で返るのであれば⑤でも良いのでは?と思う人がいたら、まだ上記の説明が良く飲み込めていない証拠です。「〜所有リ」とレ点で返るのは、「所」を返読文字と見た時の処置ですから、下からの返読がなく、「所」から始めて「所有リ」とするのはおかしな読みになります。仮にそのように読めば、場所を表す一般名詞としての ”場所が有る " という意になり、何の場所なのか文意が判然としません。
前後の文脈からも、楊貴妃を喜ばせるために玄宗が人馬を酷使して茘枝を運ばせたために多くの人が苦しんだ、という文意に合致するのは、④の “ 人力を窮(きわ)めて人命を絶つとしても、(それを)顧みない所があった"しかありません。


《結語》

令和6年・2024年共通テスト古典における木山方式の直接ダイレクトな得点寄与率は、古文が問1(ア)(イ)(ウ)・問2・問4( ⅱ )の29点
漢文が問1・問2(ア)(ウ)・問3の23点
合計で100点中52点(52%)という結果になりました。ここ数年来の平均値です。

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