お便りシリーズNo.82
= 令和7年・2025年
東京大学古典だより(古文漢文) =
武芸者も真の奥義に到達してしまうと、もう剣などは握らなくなり、道の真ん中に暴れ馬がつながれていれば、別の道を廻って「君子危うきに近寄らず」これぞ武芸の奥義じゃ、という悟道(ごどう)に達してその道の教祖のようなものとなります。
弓を捨てた弓の名人や剣を捨てた剣の名人のもとに教えを請いに行っても、剣術や弓術はどこかへ霧散して、彼はすでに奥義を極めたやんごとなき教祖となっているので、常人には理解し難い、時にはアホのような言葉、しかしながら心酔する者にとっては悟道のこもった深淵な一句を与えては、人々を深く感服せしめたりするわけです。
仏教の理念は、かりそめの仮象の現世への一切の執着を断つことであり、捨ててこそ仏の道、ということであれば、その仏教への執着も捨ててしまおうという究極の仏道者もやがて現れ、狂人めいた奇行の僧となりますが、それも見る目をもった者が見れば、悟りを極めた悟者(ごしゃ)と映ります。
こうした破戒僧(はかいそう)が、たまたま「あ・・」とつぶやけば、これは阿含(あごん)経の根本原理を示唆されたのだ と忖度(そんたく)し、たまたま「う・・」とつぶやけば、おぉ、今おっしゃった「う」とは、宇宙須弥山(しゅみせん)世界の根本を示されたのだ、あぁ、何と尊いことか!と感涙にむせんだりします。
踊り念仏を広めた時宗(じしゅう)の一遍(いっぺん)は捨聖(すてひじり)と呼ばれ、最後には自身の宗門さえも捨て去り、死後に宗門を立てることを意図しなかったがゆえに、一遍の死後、時宗は自然消滅とあいなったのですが、これもまた、宗門一同、見事なまでの ” 捨てっぷり " というべきです。
中世という時代は洋の東西を問わず、捨てまくる人々が現れる時代で、かの有名なアシシの聖フランチェスコは、父親の家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとし、着ていた服を全部脱いで素っ裸となり、「全てをお返しします」と父に差し出し、人の親の父を父とせず、天の父のみを父とすると言い放って親子の縁を切ったのでした。
素っ裸になる点では、我が日本の道心者も負けてはいません。平安中期の増賀上人(ぞうがしょうにん)は、
『あるとき、ただ一人伊勢大神宮に詣でて祈請(きせい)し給ひけるに、夢に見給ふやう、道心おこさむと思はば、この身を身とな思ひそと、示現(じげん)を蒙(こおむ)り給ひける。うち驚きておぼすやう、名利(みょうり…現世での名誉や利益)を捨てよとこそ侍るなれ。さらば捨てよとて、着給ひける小袖衣(こそでごろも)、みな乞食どもに脱ぎくれて、ひとへなる物をだにも身にかけ給はず、あか裸にて下向し給ひける。見る人、不思議の思ひをなして、「物に狂ふにこそ。見め様などの、いみじきに、うたてや」など言いつつ、うちかこみて見侍れども、つゆ心もはたらき待らざりけり』
という潔(いさぎよ)さ。そのまま伊勢から比叡山まで素っ裸のまま歩いて帰ります。
師であった比叡山中興の祖、慈恵僧正(じえそうじょう)が、余りのことなので前ぐらいは隠して『威儀を正しくして、名利(みょうり)をはなれ給へかし』と諌(いさ)めるけれど、増賀は聞く耳を持たず、「名利をながく捨て果てむ後には、さにこそ侍るべけれ。あら楽しの身や、をうをう」と叫びつつ比叡山の山門を出奔して、そのまま大和の国の多武峰(とうのみね)に籠ります。
中国の禅宗の第一祖はインドからの渡来僧の達磨(ダルマー)、この人が興したお寺が少林寺、壁に向かって9年間座禅をし続けます。そこへのちに第二祖となる中国人の慧可(えか)が入門を求めてやって来ます。
『師よ、我が心(こころ)安んぜず、請(こ)ふ、我が心を安んぜしめよ』
《=先生、私の心は安らかではありません。どうか安らかにして下さい》
達磨曰(いは)く、
『汝が心を来らしめよ、汝がために安んぜん』
《=お前さんの心とやらを持って来い、そうすれば安らかにしてあげよう》
慧可はしばらく考えますが、どう答えて良いか分からず、
『心を求むれど心は不可得(ふかとく)なり』
《=自らの心を探し求めるとは言っても、これといって差し出せるものではありません》と答えます。
すると達磨は静かに言いました。
『汝が心を安んじおはんぬ』
《お前さんの心を安らかにしてあげたよ》
オワリ。
さらに言えば、大乗仏教においては人間の自我もまた空なりという立場です。
人間の心=自我というものは果たしてあるのでしょうか? 心を持って来いと言われても、差し出せる心という実体があるわけでもありません。つまり、達磨の答は、『慧可よ、ありもしないもので悩むな!無いもので悩むな!人間の自我もまた空なのだ!』です。
結局、人間の自我は一瞬一瞬に移り変わっていく川の流れのようなものにすぎません。” あの事だけは絶対に許せない " という流木が流れて来たら、それに囚(とら)われるから苦しくなるわけで、ただ黙って流れ去っていくのを待てば良い、というのが達磨の教えです。これを安心問答(あんじんもんどう)と言います。
衣服を捨てる、宗門を捨てる、大寺院の宗教的地位を捨てるどころではありません。道心者の究極の ” 捨てっぷり " は最終的に、自らの自我をも捨てる(=自我にこだわらない)、という境地にまで行き着きます。
《平安時代半ば、醍醐天皇の皇子ながら寵愛を受けられず、都を出奔して市井(しせい)に生きる聖(ひじり)となった空也(くうや)上人は、諸国を放浪しながら、ひたすら「欲も恨みもすべて捨てよ」と説き続けました》
では、自我をも捨て去った人の心はどうなるのでしょうか?空の概念はニヒリズム(虚無主義)ではありませんから、絶望や虚しさに至るわけではありません。ここがブッディズム(仏教)の面白いところですが、自我も含めて全ての執着を捨て切った人の心は、むしろ逆に、自由で安らかな喜びに満ちる、というのが仏教の立場です。
この空の境地を礼讃(らいさん)したお経が、あの有名な『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多(かんじんざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみた)で始まる「般若心経(はんにゃしんぎょう)」です。おそらく日本のお経の中で一番有名なお経であり、お遍路さんが唱えたり、写経したりするのはだいたいこのお経です。わずか266文字の短いお経ですが、仏教徒でなくても、そこに書かれた透徹な認識論には深遠な印象を受けるのではないかと思います。私の勝手な抄訳で紹介すればこんな感じです。
シャーリプトラよ、あらゆる存在に実体はないのだ。
これを名付ければ「空(くう)」である。
また、あらゆる存在は変化を繰り返す。これを名付ければ「無常」である。
存在には「変化」があるだけで、生まれもしなければ死にもせず、増えもしなければ減りもしない。
「自分」という存在もまた空である。だから自我にとらわれるな。
あらゆるものは有るようで無いのだ。
存在の真実を見抜きなさい。
この存在の真理を深く悟る者だけが、自由で心安らかでいられる。
世界と自分を隔てていた虚構が崩れ去る認識は、なんとすがすがしいことか!
しかし、その真理を知ろうとせず、不変を求め、不変なるものが存在すると錯覚するところに人間の苦が生じるのだ。
般若心経は、一切の存在が空であるという仏教の根本的な教えを説いています。それは、物事の執着を手放し、心の平安を得るための教えです。
では、出家して高僧や聖(ひじり)と呼ばれるようになり、人々の尊崇の対象となった者の名利(みょうり)はどうなるのでしょうか。それもまた名声や名誉といった俗世の名利を引き寄せることにならないでしょうか?そのような名利はどうやって捨てたらよいのでしょうか?
その点については、私のホームページ上に載せている 『古文背景知識No.12』に関連する内容が書かれていますので、以下に引用します。併せて、「陰徳聖(いんとくひじり)説話」の出題パターンも学んで下さい。
*空の概念は一切の名利みょうり(栄達や誉れ)・名聞みょうもん(世間の評判)から離れることを要求しますが、そのような名利・名聞を捨てて、徳高い僧となり人々の尊崇の対象となってしまうことが、また一方では名利・名聞になってしまう、という矛盾に陥ってしまいます。
真の仏道者は、そのような名利・名聞の中に安穏としているわけにはいきませんから、そういう名利でさえも捨てなければなりません。
じゃあどうするのかというと、あえて狂気を演じ、不浄の中に身を置くいっかいの乞食僧の姿で俗世の底辺に生きていくとか、またはあえて僧侶が守るべき戒(かい)をやぶる破戒僧(はかいそう)のふりをしてまでも、名利への執着を捨て切ろうとするわけです。
このような人々のことを一般に隠徳僧(いんとくそう)または隠徳聖(いんとくひじり)といいます。平成3年センター追試『閑居の友』には、そうした隠徳聖の話が紹介されています。
ですから、一般に仏教説話で、とんでもない乞食僧や奇行の僧の話が始まったら、実は結末では隠徳聖であることが露見し、人々が彼の生き方に感動した、という展開になるのではないか、という見通しを持って読んで差し支えないと思います。(隠徳だと思っていたのに、正真正銘のバカだったという話はありません。)
ところで、隠徳聖の話というのは、逆に言えば、隠徳に失敗した僧の話、つまりバカな乞食と同じように見えて、ひょっとした拍子に実は徳高い尊い僧なのではないか、と思わせる行動をとってしまうお話です。
それはたとえば、天台宗の難解な教理を見事に解き明かすとか、世の無常めいた言葉をさらりと言ってのけるとか、最後は西方浄土のある西に向かって死んだとか、死に際に紫雲たなびいて仏の来迎があったとか、そんなふうな結末になっていて、それに対する説話作者の感動が述べられます。
平成3年のセンター追試の問5の解答は、「乞食の生涯に徹し、仏道のことさえ何も知らないようなふりをしたところに、恩愛の情や名誉欲までも捨て去った真実の仏道修行者の姿を見出して、きっと極楽往生を遂げたとこであろうと考えている」となっていますが、これなどは隠徳の概念がわかっていれば、すぐにパターン化されますから、簡単に即答できると思います。
第ニ問〔古文〕
この文章は『撰集抄』の一話である。これを読んで、後の設問に答えよ。
昔、御室戸(みむろと)《注…京都府宇治市の御室戸寺》の法印隆明といふ、
やんごとなき智者、もろこしに渡り給はんとて、西の国におもむきて、
播磨(はりま)の明石といふ所になん住みていまそかりけるに、
(ア) あさましくやつれたる
僧の、来たりて物を乞ふ待り。
さながら赤裸(あかはだか)にて、ゑのこ《注…子犬》を脇に抱き侍り。
人、後先(しりさき)に立ちて、笑ひなぶりける。あやしの者やと思(おぼ)して
見給へば、清水寺(きよみづでら)の宝日上人にていまそかりける。
(イ) ひが目にや
とよく見給へど、さながらまがふべくもあらざりければ
(ウ) かきくらさるる心地
して、伏しまろびて、「あれはめづらかなるわざかな」とのたまはせければ、
上人ほほゑみて、「まことに物に狂ひ侍るなり」とて、走り出で給ふめるを、
人あまたして、取りとどめ奉らんとし待りけれども、さばかり木暗(こぐら)き
繋みが中に入り給ひぬれば、
(エ) 力なくやみ侍りけり。
隆明法印は、あまりすべき方なく悲しく覚え給ひて、その事となく、その里に
とまり居給ひて、広く尋ねいまそかりけれども、その後はまたも見えずなり給
ひにき。さて里の者にくはしく事の有様を問ひ給へりければ、「いづくの者
とも人に知られで、この村に住みても二十日ばかりなり」とぞ答へ待りける。
(オ) この事、限りなくあはれに覚え待り。
何と、げに世を捨つといふめれど、身のあるほどは、着物をば捨てずこそ待る
に、あはれにもかしこくも覚えるかな。
およそ、この上人はよろづ物狂はしき様をなんし給へりけるなり。ある時は、
清水の滝の下に寄りて、合子(がうし)《注…ふた付きの容器》といふ物に水を
受けて、隠れ所をなん洗ひ給ふこと、常の態(わざ)なり。いみじく静かに思ひ
澄まし給ふ時も待るめり。
一方(ひとかた)ならず見給ひし。澄み渡る心の内は、いつも同じさきら
《注…才知》なれども、外(ほか)の振る舞ひは百(もも)に変はりけるは、
(カ) よしなき人の思ひを、我のみ一方にはとどめじ
と思しけるにや。
この上人ぞかし、中(なか)の関白《注…藤原道隆》の御忌に、
法興院《注…道隆の父兼家の別邸を寺としたもの》に籠(こも)りて、
暁方(あかつきがた)に千鳥の鳴くを聞き給ひて、
(キ)明けぬなり賀茂の河原に千鳥鳴く今日もはかなく暮れんとぞする
と詠みて、『拾遺集』《注…三番目の勅撰和歌集》に入り給へり。
明けぬるよりはかなく暮れぬべき事の、かねて思はれ給へりけるにこそ。
かの『拾遺集』には円松法印と載りて侍るは、上人の事にこそ。
現代語訳
むかし、東大御室戸寺の法印隆明という、尊い高僧が、「中国に渡ろう」と
思いなさって、西の国に向かい、播磨の明石という所に滞在していらっしゃる
時に、
(ア) あさましくやつれたる
僧で、やって来て物乞いをする僧がおります。まったく裸同然の姿で、子犬を
脇に抱えています。周りの人々は、前後に立って、笑ったり冷やかしたりし
た。(隆明は)「不審な者か」とお思いになってご覧になると、(なんと)
清水寺の宝日上人でいらっしゃったのだ。
(イ) ひが目にや
とよく(目を凝らして)
ご覧になるけれども、まさしく見間違うはずもなく(宝日上人)その人だった
ので、(隆明は)
(ウ) かきくらさるる心地
がして、(その場に) 倒れ伏して、「これは滅多にない事態であることよ」と
仰ったところ、上人は笑って、「本当に気が狂っておるのです」と仰って、
走り出ていらっしゃるように見えるのを、大勢の人を(隆明が)使って、引き
留め申し上げようとしますけれども、(上人は)木々がとても生い茂る中に
お入りになってしまったので、
(エ) 力なくやみ侍りけり。
隆明法印は、甚だしくどうしようもなく悲しく感じなさって、(他に)これと
いう理由や目的もなく、その里に留まりなさって、(上人の行方を)広く捜し
求めますけれども、その後は二度と(上人は)見られなさらなかった。
そこで(隆明)は里の者に詳しく事情を尋ねなさったところ、「どこの者とも
人々に知られないで、この村に住み始めて二十日ほどです」という回答でござ
いました。
(オ) この事、限りなくあはれに覚え待り。
何とまあ、確かに(出家は)「世を捨てる」と表現しますけれども、(そうは
いってもやはり)生きているうちは、(せめて)衣服は捨てないものでござい
ますのに、(衣服まで捨てなさった上人は)しみじみと心動かされ、立派にも
思われますなあ。
おおかた、この上人は、様々な正気を失ったような(常識から外れた)行動を
しなさっていたという。
ある時は、清水の滝の下に立ち寄って、合子〔=ふた付きの容器)という物に
水を入れて、陰部を洗いなさることが、日常的な行為であった。(また、)
非常に静かに心を澄ましなさる時もあったようです。
並一通りの僧ではなく見えなさいました。
澄み切った心の内側は、常に同じ才能と知恵を持っているけれども、外見上の
ふるまいは、数多く(常識とは)変わっていたのは、
(カ) よしなき人の思ひを、我のみ一方にはとどめじ
とお思いになったのだろうか。
この上人こそが、藤原道隆の追善供養の日に、法興院に籠って、夜明け前頃に
千鳥が鳴く声を聞きなさって、
(キ) 夜が明けたようだ。賀茂の河原で千鳥が鳴いている。今日も(また)
あっけなく日が暮れようとしている
と、詠んで、『拾遺和歌集』に収録されなさった。
夜が明けるやいなや、きっとあっけなく日が暮れてしまうだろうということ
〔=世の無常)を、以前から悟っていらっしゃったのだろう。
あの『拾遺集』
には円松法印として載っておりますのは、この上人のことである。
[設問]
以下、今年の添削通信の合格者(理科二類)の再現答案を紹介しつつ、解説します。
(一) 傍線部ア・イ・エを現代語訳せよ。
ア
Aさん⇒驚きあきれるほどにやつれている
イ
Aさん⇒見間違いであろうか
ウ
Aさん⇒仕方がなくてやめました
(二) 「かきくらさるる心地」(傍線部ウ)とは、何に対するどのような心情か、説明せよ。
Aさん⇒理科にはこの設問はありません。
(三) 「この事、限りなくあはれに覚え侍り」(傍線部オ)とあるが、語り手はなぜそのように感じたのか、説明せよ。
Aさん⇒出家しても衣服は捨てないものなのに、それまで捨て切った悟り深い上人に感心したから。
(四) 「よしなき人の思ひを、我のみ一方にはとどめじ」(傍線部カ)とはどういうことか、説明せよ。
Aさん⇒理科にはこの設問はありません。
(五) 傍線部キの歌は、どのようなことを表しているか、説明せよ。
Aさん⇒夜が明けて鳥が鳴いているが、日は暮れて、またはかなく無常な一日が過ぎるということ。
第三問〔漢文〕
次の文を読んで、あとの設問に答えよ。
[書き下し文]
人(ひと)恒(つね)に執着を病(うれ)ふ。然(しか)れども亦(ま)た
a 不レ 可二 概 論一。
良(まこと)に学(がく)は好むを以(もっ)て成(な)り、之を好むの
極(きょく/きわみ)を着(ちゃく)と名(な)づくるに繇(よ)る。
羿(げい)は射に着し、遼(れう)は丸に着し、連は琴に着するかな。
《注…羿は弓、遼はお手玉、連は琴の名人として知られる》
夫(そ)れ弈(えき)《注…囲碁》に着する者は、屏帳垣牖(へいちょうえんゆう)
《注…牖は窓》皆森然(しんぜん)として《注…びっしりと》黒白勢を成(な)
すに、書(しょ)に着する者は、山中の木石(ぼくせき)尽(ことごと)く黒なるに
至(いた)り、馬を画(えが)くを学ぶ者は、馬現(あら)はるるに牀榻(しょうと
う)《注…ベッド》の間に至(いた)る。
夫(そ)れ然(しか)る後に其(そ)の芸を以て天下に鳴りて
b 声二 後 世一。
c 何 独 於二 学 道一 而 疑レ 之。
《注…学道はここでは仏道を学ぶこと》
是(こ)れの故に参禅(さんぜん)の人は、茶に茶を知らず、飯(はん)に飯を知ら
ず、行きて行くを知らず、坐(ざ)して坐するを知らず、筐(はこ)を発(ひら)き
て扉(とざ)すを忘れ、厠(かわや)を出て衣を忘るるに至る。
念仏の人は、目を開き目を閉(と)づるも、観(かん)前(まえ)に在(あ)り《注…
仏などを観想すること》心を摂(おさ)め心を散らすも念(ねん)恒(つね)に
一(いつ)なるに至る。
良(まこと)に情(なさけ)極(きは)まり志(こころざし)専(もっぱ)らにして、
功深く力(ちから)到(いた)るに繇(よ)りて、
d 不レ 覚 不レ 知、
忽(たちま)ち三昧(ざんまい)《注…深く集中した境地》に入るなり。
亦(ま)た燧(ひ)《注…火打ち石》を鑽(き)る者の、之を鑽(き)りて已(や)まず
して焔(ほのほ)を発し、鉄を煉(れん)する者の、之を煉(れん)して已(や)まず
して鋼(こう)を成(な)すがごときなり。
概(がい)して其(そ)の着(ちゃく)せんことを慮(おもんぱか)りて悠悠(いう
いう)蕩蕩(たうたう)《注…ゆったりと気ままなさま》、
e 如ク二 水ノ 浸スガ一レ 石ヲ、
年刧(ねんごふ)《注…長い年月》を窮歴(きゅうれき)すとも、何(なん)の益
(えき)か之(こ)れ有(あ)らん。
是(こ)の故に
f 執 滞 之 着ハ 不レ 可カラレ 有ル、 執 持 之 着ハ、
不レ 可カラレ 無カル。
[現代語訳]
人は常に執着(してしまうこと)を心配する。
しかしながら、また、
a 不レ 可二 概 論一。
(なぜなら)まことに、学問というものは好むことによって成し遂げられ、学問を好むことの究極を執着と呼ぶことに依(よ)るからです。
羿(げい…人名)は弓を射ることに執着し、遼(涼…人名)はお手玉に執着し、連(れん…人名)は琴に執着したことだなあ。
そもそも、囲碁に執着する者は、仕切りや垣根、窓などすべてに、びっしりと黒と白(の囲碁の石)の形勢を成しているように至り(=そのように見えるようになり)、書道に執着する者は、山中の木や石がことごとく(墨で書いた書の)黒に見えるようになり、馬を描くことを学ぶ者は、寝台の間(=夢)に馬の姿が現れるに至るのです。(=それほどまでに専念するものなのです)
そもそも、こうした後に初めて、その技芸によって天下に名声を鳴り響かせて、
b 声二 後 世一。
c 何 独 於二 学 道一 而 疑レ 之。
《注…学道はここでは仏道を学ぶこと》
そういうわけで、禅を学ぶ人は、お茶を飲んでいてもそのお茶を知らず(知覚せず)、ご飯を食べていてもそのことを知らず、歩いていても歩いていることを知らず、座っていても座っていることを知らず、箱を開けて閉ざすのを忘れ、便所から出て衣を(直し)忘れるに至るのです。(=それほどに禅に没入するべきなのです)
念仏を唱える人は、目を開けていても閉じていても、眼前に仏を観想《=対象に心を集中し、静かに思いをこらすこと》し、心を治めていても散漫になっても、その念は常に(念仏)一つに至るのです。
まことに、感情が極まって志が一つに専念して、修行の功が深まり、力が(十分に)到達することによって、
d 不レ 覚 不レ 知、
たちまちに三昧《ざんまい=深く集中した境地》に入るのです。
(これも) また、まるで火打石を打つような者が、火打石を打つのを止めずに炎を起こしたり、鉄を精錬する者が、鉄を精錬するのを止めずに鋼を生成したりするようなものです。(一心に専心することで物事が成就することの喩えか?)
一般的に(総じて)、自分が執着してしまうことを思案して(心配して)、のんびりゆったりと気ままに(仏道を)学ぼうとするのは、
e 如ク二 水ノ 浸スガ一レ 石ヲ、
長い年月を極め尽くしたとしても、何の利益があるだろうか。いや、まったく利益は無い。
こういうわけで、
f 執 滞 之 着ハ 不レ 可カラレ 有ル、 執 持 之 着ハ、
不レ 可カラレ 無カル。
設問
(一) 傍線部a・b・dを平易な現代語に訳せ。
a
Aさん⇒ 一概には言えない
b
Aさん⇒ 後世に名声が伝わる
d
Aさん⇒ 何も思われず、何も考えず
(二) 「何 独 於二 学 道一 而 疑レ 之」(傍線部c)を、「之」の内容がわかるように、現代語訳せよ。
Aさん⇒ どうして仏道を学ぶことにおいてのみ、好いていることを極めて名声を得るということを疑うのか、いや、疑う必要はない。
(三) 「如二 水 浸一レ 石」(傍線部e)とはどういうことか、簡潔に説明せよ。
Aさん⇒ 理科にこの設問はありません。
(四) 「執 滞 之 着 不レ 可レ 有、執 持 之 着
不レ 可レ 無」(傍線部f)とはどういうことか、本文の趣旨を踏まえて説明せよ。
Aさん⇒ ただ執滞してゆったりときままに過ごすことは良くないが、好むことに執着して極めることは良いことだ。
(この記事続く)