《 古文の背景知識  12 》


不浄観・隠徳聖ってなんですか〜?

  
 不浄観の説明のベースは、背景知識bPの「空の思想」で説明した、この世の現象に対する一切の執着を離れるという考え方にあります。
 
 般若心経の有名な一節に
色即是空(=しきそくぜくう色即ち是れ空なり)とありますが、この場合、「色」というのは、この世の視覚的現象のすべてをあらわします。
 つまり、この世はすべて仮象のものであり、実体がないのだから、そのようなものにとらわれてはならない、という教えで、いわば
大乗仏教の根本思想のようなものです。

 ところで、こうした世の無常を衝撃的に悟らせてくれる出来事には、人の死というものがあります。人間は死ぬものだと知識ではわかっていても、特に肉親や親しい人の死に直面したときの悲嘆や動揺は、誰しもが感じるところです。

 そういう意味では人の死というものを知識としては分かっていても、その現実を悟って心安らかに受け入れられるかというのはまた別な話です。人間はなかなかそういう達観した気持ちにはなれません。

 仏教説話の一つのジャンルをなすのが
不浄観説話ですが、人間は死を逃れられず肉体の崩壊から逃れることはできない、したがって人間の肉体の存在が避けがたい不浄を抱えているという苛烈な人間認識を通して、ようやく世の無常を心から悟るといったパターンの話です。

 たとえば、これはセンターの過去問ではありませんが、平成14年の九州大学『閑居の友』には「宮腹の女房の、不浄の姿を見ること」という話が出題されています。
 ある 美しい女房が言い寄った僧都に対して、自らの真実の不浄の姿を見せることにより、俗心のあった僧都を改心に導くというストーリーが描かれています。

 又、平成15年の広島大学には同じ『閑居の友』
「あやしの僧の、宮仕への ひまに不浄観をこらすこと」という話が出題され、こちらは比叡山の僧が夜な夜な墓場に出かけては放置され腐乱した死体を見て、世の無常を悟り、さめざめと泣いていた、というすごいお話です。
 この僧は不浄を観ずることがよほど深かったのか、手にしたお茶碗の白米までも「みな白きうじ虫にぞなりてける」というすさまじさです。

 ところが、中世の人々にとって、このような不浄を感ずる僧は尊敬の対象であったらしく、気味の悪い話にも関わらず、
一般に感動的な口調で語られるのが常です。

 入試問題では、不浄を観ずる人よりも、それを見ている傍聴者がどのように感動したか、というふうに心情説明を求めてくるものが多いので、不浄観の理念を知らないと、なかなか正答を導けずに、とんでもない解答を書いてしまう学生も多いものです。

 不浄観を広義にまとめれば、
肉体や俗世の汚らわしさを見ることによって無常を感得し、逆にその対極としての清らかな仏の世界を心に思い描くということになります。



 さて、そういう不浄観の方向から
隠徳聖という中世独特の奇行の僧の説話が派生します。隠徳とは読んで字のごとく、徳を隠すの意です。

 空の概念は一切の
名利みょうり(栄達や誉れ)・名聞みょうもん(世間の評判)から離れることを要求しますが、そのような名利・名聞を捨てて、徳高い僧となり人々の尊崇の対象となってしまうことが、また一方では名利・名聞になってしまう、という矛盾に陥ってしまいます。

 真の仏道者は、そのような名利・名聞の中に安穏としているわけにはいきませんから、そういう名利でさえも捨てなければなりません。

 じゃあどうするのかというと、
あえて狂気を演じ、不浄の中に身を置くいっかいの乞食僧の姿で俗世の底辺に生きていくとか、またはあえて僧侶が守るべき戒(かい)をやぶる破戒僧(はかいそう)のふりをしてまでも、名利への執着を捨て切ろうとするわけです。

 このような人々のことを一般に
隠徳僧(いんとくそう)または隠徳聖(いんとくひじり)といいます。平成3年センター追試『閑居の友』には、そうした隠徳聖の話が紹介されています。

 ですから、一般に仏教説話で、とんでもない乞食僧や奇行の僧の話が始まったら、実は結末では隠徳聖であることが露見し、人々が彼の生き方に感動した、という展開になるのではないか、という見通しを持って読んで差し支えないと思います。(隠徳だと思っていたのに、正真正銘のバカだったという話はありません。)

 ところで、隠徳聖の話というのは、逆に言えば、隠徳に失敗した僧の話、つまりバカな乞食と同じように見えて、ひょっとした拍子に実は徳高い尊い僧なのではないか、と思わせる行動をとってしまうお話です。

 それはたとえば、天台宗の難解な教理を見事に解き明かすとか、世の無常めいた言葉をさらりと言ってのけるとか、
最後は西方浄土のある西に向かって死んだとか、死に際に紫雲たなびいて仏の来迎があったとか、そんなふうな結末になっていて、それに対する説話作者の感動が述べられます。

 平成3年のセンター追試の問5の解答は、「乞食の生涯に徹し、
仏道のことさえ何も知らないようなふりをしたところに、恩愛の情や名誉欲までも捨て去った真実の仏道修行者の姿を見出して、きっと極楽往生を遂げたとこであろうと考えている」となっていますが、これなどは隠徳の概念がわかっていれば、すぐにパターン化されますから、簡単に即答できると思います。


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