《 古文の背景知識  7 》


宿世思想と追善供養について教えてくださ〜い!

  
 宿世(すくせ)とは、簡単に言って前世から決まっている宿命的な運命の意です。伝統的な仏教の生死観では、人間は得度(とくど)して自ら仏に生まれ変わらないかぎり、天道・人道・修羅道(しゅらどう)・餓鬼道(がきどう)・畜生道・地獄道の六つの世界を永遠に輪廻転生(りんねてんしょう)するという認識があります。

 つまり、我々はこの現世に生きる前に前世があったわけで、来世で仏に生まれ変わらないかぎりは、六道のうちのいずれかの世界に生まれ変わるわけです。(ここで、天道=天国、なんて考えないようにね。天人の五衰(ごすい)といわれるように、たとえ天人に生まれ変わっても死の苦しみは存在するのです。)

 ところで、また一方、仏教には
因果応報(いんがおうほう)という概念があります。前世で何をしたかによって現世が決まる、という因果律です。
 ということは、前世の行いを現世に生まれた我々が変えることはできませんから、必然的にその考え方は
宿命論になってしまいます。

 つまり、現世で起こることのすべては
前世の縁によって決められているわけで(これを契りともいいます)、それを変えることはできないのだ、というわけです。

 宿命論というとなんだか、消極的で否定的な考えのようにも思えますが、つらいことが起こってもそれを自分のせいにしなくてもよい、という点ではかえって健康的なのかもしれません。

 光源氏に言い寄られた姫君が、光源氏のプレーボーイとしての頼みがたさを憂慮しつつも、結局押し切られてしまったときなど、あきらめ半分に「これも前の世の契りにや」などとつぶやくのですが、これなどがまさに宿世思想です。

 この
宿世思想は、注意してみていけば、王朝物語や日記文学・説話などに極めて頻繁に登場します。時には男性の求愛の文句として用いられ、「君とこうなるのは前世から決められていた運命なんだ」なんて都合よく説得する例も見受けられます。

 また、政治的な挫折や失脚に直面したとき、それを運命として受け入れよう、などという文脈もよく「
さるべきなんめり」とか「さるべきにや」とか「これも前の世の」とか「いかなる宿世ありけむ」などのようなフレーズで頻出します。

 又は、神社仏閣の建立譚(こんりゅうたん)などにも、因縁めいた機縁として語られることもあります。たとえば、「ここに伽藍が建てられるのも、前世からの定められた宿縁によって導かれたのだ」という考え方です。(H18年早大・一文にまったく同一内容が出題)

 この手の問題は、センター試験では全体の正誤問題として文脈をどうとらえるかといった問題で、選択肢に文章化されることも多いので、ちょっとした背景知識を知っているか知らないかで7点〜8点を左右することにもなる、結構大切なポイントです。

 たとえば、平成8年センター国語本試『栄華物語』の問4では、本文の「さるべきなめり」の説明として「それは運命としてあきらめようと決意した」と表現されています。もちろん、これが正解です。



 ところで、現世の運命は変えられないとしても、来世でどう生まれ変わるかは、現世での過ごし方いかんです。そこで人々は生きている間に
功徳(くどく)来世で極楽往生するための現世でのよい行いを積み、ひたすら来世での極楽往生の実現を願います。
 
 それでも、極楽往生の功徳が足りずに死んでしまう人の場合、救済の方法はないのでしょうか?

 大乗仏教では、その点に関して面白い救済法があります。たとえば、一般にキリスト教においては、その人が死んだのちに天国に行くのか、地獄に行くのかは完全にその人個人の責任です。イエス・キリストによる裁きに周りの人間は口を出すことができません。
 
 ところが、日本で発展した大乗仏教の考え方では、人間はたとえ死後、前世の報いで地獄道に落ちたとしても、この世に生き残った子孫や他の人々があとから
功徳を積み、亡き人の菩提(ぼだい)を弔う(とむらう)ことによって、亡くなった人の罪も軽くなるという考え方があります。
 いわゆる、「これであ人も浮かばれる」とか「こんなことじゃ、死んだ人も浮かばれない」というときの、あの「浮かぶ」のニュアンスです。
 
 残された人々が、亡き人のために後から善を追加することによって、その人の罪が軽くなり、極楽往生へと浮かびあがっていくといった考え方です。このような考え方を
追善供養(ついぜんくよう)といいます。

 王朝物語では、たとえば夫の死後、残された北の方(正妻)が「様を変へたまひて、後の世をだにおこなひたまふ」などというフレーズが出てくることがありますが、夫の死後、その正妻が出家をする動機は
夫の魂の追善供養とみるのが常識です。
 この場合の「後の世をだに」とは、不幸にも死んでしまった亡き夫が、せめてあの世では極楽往生できるようにという願いが込められています。

 また、同様に、亡き父の追善供養のために息子や娘が出家し、父の菩提を弔うといった場合もありますし、逆に自分の死期を悟った人が残された者に、自分の死後の追善供養を頼むといった文脈も見られます。「後世(ごせ)を導き給へ」とか「念仏申して弔はせ給へ」などと他者に頼むフレーズがそれにあたります。

 ちなみにも出家までいかなくても、亡き人の供養のために、残された人々が喪(も)に服すこともありますが、この際、よく出てくる用語に
墨染(すみぞめ)という言葉があります。
 これは出家者の衣や喪服を意味する言葉です。類似表現に
藤衣(ふじごろも)苔の衣(こけのころも)などがあります。

 センター試験の正誤問題などに文章化される場合は、追善供養的行為は
菩提を弔うとか冥福(めいふく)を祈るとか来世を弔うなどといったフレーズで選択肢に出てきますので、この点も気をつけて下さい。

 こうした来世での極楽往生を願うといった祈願の方向でなく、現世での利益(りやく)を祈願するといった方向もあります。観音信仰がその代表で、観音菩薩(かんのんぼさつ)を祀った石山寺(いしやまでら)・清水寺(きよみずでら)・長谷寺(はせでら)などへの参籠は、来世への極楽往生を願うというより、
現世において実現されるべき御利益を願うといった傾向が強いようです。

 たとえば「わらしべ長者」といえば、一本のわらしべがもとになって、順ぐりに高価な物の交換していき、ついに長者になるというお話ですが、実はあのお話も、もともとは長谷寺霊験記の一つです。観音信仰の現世利益の功徳というものがよくわかるお話ですね。

 ところで古来女性は五障の一つとして仏になることが難しいとされてきました。そんなこともあってか、来世での成仏は望めなくても、せめて現世での御利益だけでも得たいと、多くの女性たちの信仰を集めたのも、この観音菩薩信仰でした。王朝物語における姫君の参籠といえば、たいてい先の三つの寺が挙げられます。

 また衆生(しゅじょう)救済のために神仏が形を変えて人間としてこの世に現れることを「
化身(けしん)」といいますが、特に観音菩薩には化身譚が数多く見られます。
 源氏物語を書いたかの紫式部も石山寺縁起の中では、衆生に愛欲のむなしさを諭すための観音菩薩の生まれ変わりとして描かれています。



 

                       
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