《 古文の背景知識  8 》


歌論対策について教えてくださ〜い!(平安末〜中世編)

  
 歌論対策といっても平安時代のものと、中世のものと、近世のものとでは、形式も内容もかなり違っていますから、それぞれ区別して考えなければ意味を成しません。
 
 たとえば、平安時代の歌論(『俊頼髄脳(としよりずいのう)』など)
では、評論というより和歌を巡る説話のような形式ですから、一般の説話文学を読むとの同じような感じです。
 つまり、一つの和歌を巡るエピソードから作者の主張を読み取るということになります。

 ただし、平安末の『俊頼髄脳』を著した源俊頼(としより)や、その息子で東大寺の僧で俊恵(しゅんえ)、またその弟子であった鴨長明の『無名抄』(むみょうしょう)などは、ことさらな感情表現を和歌の中に詠み込むことを排し、情景をありのままに詠むといった写生という理念で一貫していますから、これらの作品が出題された場合には、あらかじめそのような読みの方向性を持つと読解がスムーズだと思います。

 また、平安時代の和歌をめぐる対立項として代表的なものは、
結局、歌はそこに込められた心が大事なんだよ!という論調と、いや、やっぱり歌は流麗で典雅な言葉そのものが大事なんだよ!という論理の対立です。

 歌は「心=実(み)」なのか、「言葉=花(はな)」なのかというとらえ方は、平安時代の歌論や和歌説話に多く見られる問題意識です。
 たとえば、古今集の仮名序に「今の世の中、色に付き、人の心、花に成りになるより不実(あだ)なる歌、儚(はかな)き言のみいでくれば」とあって、これなどは、当時の華美な言葉ばかりを重視し内実の伴わない歌の詠み方を批判したものです。

 さて、注意すべきは中世以降の歌論です。中世は和歌が王朝的な日常性(その場面に応じた和歌を、即興的に当意即妙に詠むような和歌の日常性)から離れて、プロの歌人による芸術性が追及される時代です。

 また、平安末期から新しい歌詠みのスタイルとして
幽玄という理念が生まれてきた時代でもあります。幽玄というのは簡単に言えば奥深い言外の余情といった概念です。



 たとえば、万葉集の春の歌に「
岩走る垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春になりにけるかも」〔志貴親王〕という歌があります。

 この歌に込められた生き生きとした春の躍動感が、新古今集の春の歌になると「
山深み春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水」〔式子内親王〕といった感じで、雪解けのしずくをじっと見つめる人の繊細さが、静寂な趣をかもし出しています。同じ春の歌なのに、式子内親王の歌は、しーんとした趣に引き込まれるような感じです。
 一般にこのような
静謐な言外の余情を幽玄といったようです。(ただし、時代により、また人や作品により幽玄のとらえ方にはやや幅があります。)

 こうした奥深さをかもし出す技法の一つに
本歌取り(ほんかどり)があります。本歌取りとは、有名な古歌の一部を利用して、そこに新しい趣向を加味して歌を詠む技法のことで、歌の用語はもとの歌のまま使ってもよいが、そこに込められた趣向は新たなものに転換しなければならない、というのがルールです。

 たとえば、もと歌では男が女に会えない歌であったとすれば、その本歌取りでは趣向を変えて、逆に女が男に会えない歌にする、といった具合にそのモチーフを変えなければなりません。

 これは、たとえば平成14年センター国語TU追試問4に本歌取りの和歌の全文解釈として出題されています

 ちなみに、古歌の一部を引用することによって婉曲に意をほのめかす
引き歌(直単E歌12)の技法と、もと歌を土台にしながらもそこに新たな趣向を加味して歌を創作する本歌取り(直単E歌14)とは、本質的に違います。市販の参考書には、こうした区別を曖昧にしているものも多く見受けられますから注意が必要です。

 つまり、本歌取りの幽玄の歌は、かなり伝統的な和歌の教養の上に成り立っているわけで、それが
幽玄歌を時には独りよがりな難解な歌と見せてしまう原因でもあったようで、旧派の歌人たちは、自分だけが達観しているような幽玄歌をだるま歌(まるで禅問答のような歌)と揶揄したほどです。

 実際に、幽玄歌まがいの、ホントにわけもわからないような歌も数多く詠まれたようで、幽玄を提唱する歌人たちの側からも、そのような二流作品には気をつけろ!なんてことを歌論に書いています。

 たとえば、平成13年センター国語TU本試『和歌庭訓』の問5に「幽玄の姿は及ばぬままに詠まれはべらねば、化物を信仰するにこそ」などという問題として出題されています。

 とにかく、ポスト古今の時代として平安末から鎌倉時代にかけて登場した新しい歌の理念である幽玄という概念は、その登場にあたってさまざまな議論を巻き起こしたこと、とくに旧派の歌人たちからひどく論難された、といったトピックは知っておくべきです。

 また、こうした議論に筋道を立てようとして書かれたさまざまな歌論書の文章も、本来幽玄とは何なのか?という問いに、これまた比喩や抽象的な文言を使って説明しようとしますから、受験生の目にはなおさらわかりにくくなってしまいます。

 たとえどのように表現されていたとしても、方向としては、まず
言葉に表わせない奥深い言外の余情といった方向であることはまちがいないと思いますから、そういった方向で見当をつけながら読んでみて下さい。

 ところで、中世には、和歌がプロ集団による専門職の歌人たちによって担われるわけですが、そこでは
流派の正統性ということがよく問題になります。(日常性をなくした時に専門職の流派が現れるのは、現代の着物文化も同じで着物が日常性をになくしたあとに○○流着付け教室なんてのが現れるわけです。)

 流派の正統性を証明するものには、口伝や秘伝といったものがあります。そこから古(いにしえ)の大歌人の正統を
口伝や秘伝で受け継いだ者の意見が和歌の本流である、とする一種の権威主義のようなものが生まれました。
 歌論の文章の中にやたらと「父はこのように申しておりました」とか「〜と私は聞いております」といった表現が多く見られるのは、
和歌の奥義というものは決して文字化されず、口頭で教え授けられるものだという認識が当時の人々にはあったからです。
 
 また、和歌の批評においては、それ自体の和歌の芸術性というよりも、そのような発想や用語を用いた古歌が勅撰集の歴史の中に存在したかどうかが問題となります。このような歌の正統性を証明する歌を
証歌(直単E歌9)といい、証歌を出されると相手も反論できなくなる、といった場面もよく見受けられます。

 また、一口に歌集といっても、勅撰和歌集を意味する場合と、個人和歌集を意味する場合とがありますから、注意が必要です。一般に勅撰和歌集の場合は
「集
とか「撰集」と表現され、個人和歌集の場合には「家集」と表現されますから、表記の違いに気をつけて下さいね。
 

 

                      
もどる