《 古文の背景知識  10 》



 軍記の背景



保元の乱(保元物語)

 
都が平安京に遷されて364年、とにかくも表向きには平和が続いてきた平安時代に、ようやく大乱の兆しが現れてきました。それが保元(ほうげん)元年(1156年)七月に起こった内乱、保元の乱です。皇室内部では崇徳(すとく)上皇(第75代天皇であった上皇)と、後白河(ごしらかわ)天皇(第77代天皇)との対立が激化し、崇徳側には源為義(ためよし)や、その子の源為朝(ためとも)などがつき、後白河側には平清盛(きよもり)や源義朝(よしとも=為義の子)がつきました。

 源氏と平氏がそれぞれの身内で敵味方に分かれて戦ったのがこの乱の特徴で、特に苦しい立場に置かれたのが源義朝(よしとも)です。

 崇徳側についた源為義(ためよし)は、後白河側についた源義朝(よしとも)の父であり、源為朝(ためとも)は義朝(よしとも)の弟でした。結局、崇徳側は敗れ、義朝(よしとも)は父の為義(ためよし)や弟たちを処刑しなければならなくなります。これは同じく後白河側についた平清盛が、もともと仲の悪かった叔父の忠正(ただまさ)を処刑すればよかったことに比べて、対照的であったと言えます。

 H23年のセンター古文にはこの『保元物語』が出題され、後白河側の源義朝が崇徳側の父源為義を斬罪しなければならない苦悩が描かれています。

 ところで、軍記ものの表現の特徴の一つに、
同一人物の呼称がさまざまに呼び名を変えて頻出する点があげられます。H23のセンターの場合、源義朝は「左馬頭(さまのかみ)」「義朝」「頭殿(かうのとの)」と三つの呼称で呼ばれており、かつ、それらが混在してあらわれるので、人物関係を示す最初の補注をうっかり読み落とすと、あとの人物関係がすっかりわからなくなってしまいます。氏名と姓名と官職名の関係を、補注をしっかり見て、同一人物であるか否かを確認しつつ読み進める作業が必要です。

 さて、戦いは崇徳側が立てこもる白河北殿(しらかわほくでん)に、保元元年(1156年)七月二日に源義朝・平清盛に率いられた二千七百騎あまりが夜討ちをかけたところから始まり、それからわずか四時間後の午前八時ごろには戦いは終わりました。

 このとき崇徳側で大活躍したのが、義朝の弟・鎮西八郎源為朝(ちんぜいはちろうみなもとのためとも)で、彼の強弓のあまりのもの凄さに、平清盛などはいったん逃げ出してしまったほどです。

 しかし、後白河側が白河北殿に火をかけたことにより、崇徳側も白河北殿を守りきれず、結局は惨敗してしまいます。崇徳上皇は配流、源為義(ためよし)は斬罪、強弓の猛者(もさ)であった源為朝(ためとも)は腕の腱を切られて伊豆大島に流されてしまいます。
 この一連の戦いにおいて、平清盛はあまり戦さ上手ではなかったようで、むしろ手柄を立てたのは源義朝(よしとも)の方でした。にもかかわらず、朝廷の褒美(ほうび)は平清盛の方が上であり、清盛は義朝よりもたくさんの褒美をもらい、なおかつ正五位下になった源義朝よりも上の位である正四位下の位を与えられています。

 これは、平清盛が祖父の代から蓄えていた莫大な財力をもとに、後白河天皇に強く結び付くといった政治的な手腕のうまさによるところが大きいと言われています。

 こうした戦後処理に対し、源義朝はもちろん不満です。その不満が高じて、やがて源平二氏を代表する武将である源義朝(よとしも)と平清盛は、次第に対立するようになっていきます。そして、ついに保元の乱から三年後の十二月に再び戦いが始まってしまうのです。


平治の乱(平治物語)

 1159年平治元年十二月九日、平家の一門が熊野詣で(くまのもうで)のために都を留守にしている隙をついて、日ごろ清盛に不満を持つ源義朝は、後白河上皇のいた三条烏丸殿(さんじょうからすまでん)に押し寄せ、上皇とその子の二条天皇を内裏に押し込めてしまいます。急いで都に帰ってきた平清盛も、上皇・天皇を押さえられていては手出しもできず、しばらくは膠着状態が続きました。

 しかし、事件が起こってから二十日あまり経った12月26日に清盛は密かに上皇や天皇と連絡を取り、二人を大内裏から脱出させることに成功します。そして一挙に反撃に出たのです。

 この日の朝、内裏に立てこもる源義朝の軍に対して、平清盛の子、平重盛(しげもり)が三千の兵を率いて攻め寄せました。戦いは、朝から夕方にかけて激しく続きましたが、平家方が内裏に攻め寄せた兵をわざと引き上げさせて、義朝の軍を内裏から外におびき出すといった作戦が成功し、こののちの六条河原の戦いにも負けた源氏は、散り散りになって逃げまどい、源義朝ものちに捕らえられて殺されてしまいます。これがいわば、源平争乱の第一回戦の結末です。

 そして、このときの戦後処理が、平治の乱から約二十年後の源平争乱の第二回戦の結果に大きく影響することになります。というのも、平治の乱で負けた源義朝には、正妻との間に
源頼朝(よりとも)、また妻妾の一人常盤御前(ときわごぜん)との間に、今若(いまわか)・乙若(おとわか)・牛若(うしわか)などの子供たちがいました。

 このうち、源頼朝(よりとも)は父と共に東国に逃げる途中で道に迷っているところを、平氏方に捕らえられ(その時14歳)、平清盛の母、池禅尼(いけのぜんに)の嘆願により死罪を免れ、東国の伊豆に流されることとなりました。一方の今若以下の三人の幼児も、今若・乙若の二人は僧となり、牛若(その時2歳)もやがて僧になるために、京都の鞍馬寺(くらまでら)に預けられました。

 これらの
源頼朝牛若(のちの源義経よしつね)、さらに頼朝のいとこにあたり木曾に預けられた木曾義仲(きそよしなか)などがのちに成長し、平家打倒のために活躍することになるのは、それから約二十年後の展開となるわけです。




源平争乱


 平治の乱で平氏が勝利をおさめてから、わずか七年あまりの1167年(仁安一)には、平清盛はついに太政大臣にまでのぼりつめ、自分の娘・平徳子(たいらのとくこ=建礼門院)を高倉(たかくら)天皇の后にするなど、皇室との結び付きを強めます。これは、本来武士の家柄であった清盛が、
天皇の外戚(がいせき)となることを意味しますから、時の貴族たちは、清盛のこうした専横な振るまいに強い反感を持つようになります。

 その不満の中心になったのが後白河法皇でした。こうして1177年(治承一)に「
鹿ケ谷(ししがたに)事件」が起こります。
 
 この事件は、後白河法皇の側近たちが東山鹿ケ谷にあった俊寛(しゅんかん)の山荘に集まり、平氏を倒す相談をしたというものでした。しかし、密告により一味の者はみな捕らえられ、処刑または流罪となり、後白河法皇も清盛によって鳥羽殿に押し込められてしまいます。

 ところで、清盛の出自を飾ろうとした作為であったのかもしれませんが、「清盛は白河上皇の御子らしい」といううわさがありました。それによると、白河上皇は祗園女御(ぎおんにょうご)を寵愛していたが、清盛の父忠盛(ただもり)の手柄をたたえて、その女性を忠盛の妻にさせた。そのとき祗園女御のお腹にはすでに白河上皇の御子が宿っており、それが清盛だったのだ。≠ニいうのです。(このエピソードはなぜか数年ごとに主要大学で出題されているのを見かけます。)

 ともかく、「平氏にあらずんば人にあらず」と権勢を誇った清盛の栄華は、1180年(治承四)に高倉天皇が退位し、徳子の生んだ御子が三才で即位することで(安徳=あんとく天皇)、その頂点を迎えます。

 しかしながら、それは平家の勢いが衰え始めるはじまりでもあったのです。その年の四月には源頼政(みなもとのよりまさ)が後白河法皇の御子・以仁王(もちひとおう)と相談し、「平氏を討て」という命令を諸国の源氏に伝え謀反(むほん)を起こします。「
以仁王の乱」です。

 乱そのものはすぐに平定されましたが、以来平家打倒の声が全国に高まることになるのです。また同年の四月に清盛は突然都を現在の神戸市福原(ふくはら)に遷すことを発表します。時の権力者の命令には逆らえず、不満や反対の声が高まる中で移転を強行しました。

 その間の人々の困惑や戸惑いの事情を
鴨長明(かものちょうめい)は随筆『方丈記』の中で五大災厄の一つとして伝えています。
 
 そのことからもわかるように、鴨長明という人物は、平安末期から鎌倉初期を生きた人で、ちょうどこの源平争乱の一部始終を見ていたことになります。また、彼と同時期の有名な文学史上の人物には、新古今和歌集の編者であった
藤原定家や、建礼門院平徳子にお仕えした建礼門院右京太夫(けんれいもんいんうきょうだいぶ=女房名)などがいます。右京太夫の書いた『建礼門院右京太夫集』という作品は、多くの記述がこの源平争乱期の歌日記ととして描かれているわけです。

 さて、さらに同年八月には伊豆に流されていた源頼朝(よりとも)が兵を挙げ、翌九月には木曾(きそ)の山中で育った源義仲(木曾よしなか)が平家打倒の旗揚げをします。こうした中であわただしく福原遷都は取り止めとなり、清盛は十一月にはもとの京に帰るという命令を出しています。

 同じ年の十二月には反平家の側に立った奈良の興福寺を攻めるために、清盛は平重衡(しげひら)を大将軍として出発させますが、激しい激戦の末、東大寺大仏殿に避難していた千七百人あまりの僧侶を、大仏もろとも焼いてしまうという蛮行に、平家の評判はさらに地に落ちてしまいます。その翌年平清盛は、「わが枕元に頼朝の首を持って来い」という遺言を残しつつ、熱病に苦しみぬいて死んでゆくのです。

 その後、いよいよ木曾義仲が北陸道から都を目指し、くりから峠の戦いで勝利すると、たちまち京の都に迫り、清盛亡きあとの平家一門は安徳天皇を奉じて西海へと落ちのびて行く、これが
平家都落ちです。

 しかし、都に入った木曾義仲の軍は、規律も悪く、どうしようもないほどの田舎者で乱暴でもあったので、都に残った後白河法皇や公卿たちの信任を急速に失ってしまいます。

 結局、後白河法皇の命を受けて源頼朝が差し向けた源範頼(のりより)と源義経(よしつね)の軍によって、木曾義仲は滅ぼされ、範頼・義経の軍は、さらに西海に逃れた平氏が再び勢いを盛り返し都を目指して進んでくるのを向かい討つために、
一の谷→屋島→壇ノ浦と転戦し、平氏を完全に滅ぼしてしまいます。(合戦のシーンそのものは、あまり入試問題にとられないのであっさり省略します。)

 さて、壇ノ浦では平家の敗北が決定的となったとき、「波の下にも都の候ふぞ」と、わずか八歳の安徳天皇をいざなう二位尼(にいのあま=清盛の妻)が壇ノ浦に入水し、天皇の母である建礼門院も身を投げますが、黒髪を源氏の兵に掴まれ船上に引き上げられ、身内がすべて死んでしまった中で、建礼門院だけが生きて都へ護送され、洛北の大原にある寂光院(じゃっこういん)に幽閉の身となります。

 『平家物語』の最後の巻「
大原御幸(おおはらごこう)」は、この寂光院を平家打倒を命じた側の後白河法皇が訪れる場面を描いています。人の世のむなしさを観じ、勝者も敗者もなく共に盛者必衰のことわり、世の無常に思いをいたし涙するというくだりで、この長い長い『平家物語』は幕(まく)となるのです。



          
             
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