《 漢 文 背 景 知 識 》



ーNo.4日本と中国の隠者・仏教の「空」の概念と老荘思想の「無為自然」の概念についてー

  
 有名な空論のお経に『般若心経(はんにゃしんぎょう)』があります。わずか266文字の短いお経ですが、仏教徒でなくても、そこに書かれた透徹な認識論には深遠な印象を受ける人が多いのではないでしょうか。私の勝手な抄訳で紹介すればこんな感じでしょうか。

シャーリプトラよ、あらゆる存在に実体はない。これを名付ければ「空(くう)」である。

また、あらゆる存在は変化を繰り返す。これを名付ければ「無常」である。

存在には「変化」があるだけで、生まれもしなければ死にもせず、増えもしなければ減りもしない。

「自分」という存在もまた空である。自我にとらわれるな。

あらゆるものは有るようで無いのだ。

存在の真実を見抜きなさい。

この存在の真理を深く悟る者だけが、自由で心安らかでいられる。

世界と自分を隔てていた虚構が崩れ去る認識は、なんとすがすがしいことか。

しかし、その真理を知ろうとせず、不変を求め、不変なるものが存在すると錯覚するところに苦が生じるのだ。


 仏教的な「空(くう)」の概念では、この世界の一切は因縁(いんねん)によって仮に存在しているに過ぎないと考えます。つまり、すべては固有の本質をもたず、変化しうる存在なのであり、固定的な実体はなく、そのような仮象の幻にとらわれるところに人間の苦があると説きます。

 例えば、30年前に『あなた』はどこに存在していたのでしょうか? 若い人であれば、30年前の『あなた』は存在していなかったでしょう。
しかし、今の『あなた』の体を構成する分子や原子に印を付けることが出来て、その来歴を遡ることが出来れば、その微細な粒子は30年前には、ロッキー山脈を流れる渓流の水の分子であったかもしれません。それがこの世界で生々流転を繰り返して、今、『あなた』という個体を形作っている。

 そのように考えれば、確かにこの世界は、自身も含めて変転する仮象の相にほかなりません。その仮象の世界を実体があるもののごとく追求するのは、虚しく、その執着心から苦が生じると仏教はおしえます。


 従って、すべての執着を捨て去さることが究極の目的となるわけですが、この執着を離れた諦観の態度は、老荘思想の「無為自然」とも一脈通ずるようにも感じられないでしょうか?

 「無為自然」とは、「老子」に見られる語で、老子はことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとしました。何もせずにぶらぶらするという意味ではなく、「宇宙のありかたに従って、自然のままであること」といった意味です。
何事にも争(あらが)わず、人為を配して手を加えず、水が高いところから低いところへ自然に流れるように、ありのままに生きる生き方といった意味合いもあります。

 「自分」などというものをすべて忘れて、天地自然のままに生きられたら、それは人間にとって最も幸せな生き方なのだ、という老子の教えです。 老子はこの原理原則を『道(tao)』という言葉で表しました。英語ではタオイズムと呼ばれます。

 この「無為自然」の反俗性、自我を放擲するような態度には、仏教的な「空」の概念による執着を離れた諦観のありかたと一脈通ずるものがあるように感じられませんか?

 実は、中国の歴史でも、三国時代・晋・南北朝時代には仏教が中国に流入してくるのですが、その時代には、格義(かくぎ)仏教と呼ばれる老荘思想を媒介とした仏教解釈が広まりました。
 格義とは仏教用語を老荘思想の言葉に置き換えて解釈することです。例えば、悟りの境地を意味する仏教の「涅槃(ねはん)」は老荘思想の「無為」、悟りを求める者を意味する仏教の「菩提(ぼだい)」は老荘思想の「道(tao)」と同じものとして解釈されました。

 やはり、当時の人々にとっても両者の概念は非常に似通ったものとして捉えられていたようです。

では、両者は正確にはどう違うのでしょうか?

 端的に言えば「空論」は世界をどう認識するかの認識論であって、その論理的帰結は現世の否定です。'' 仮そめの世への執着を捨てよ '' という教えはまさに現世の否定ですし、例えば「諸行無常」と並んで仏教が標榜する根本命題の一つに「一切皆苦」があります。この世は苦しみに満ちており、心に平穏を得るためには一刻も早くそのような苦から逃れなければならないというわけです。これもまた現世を否定します。

 一方の「無為自然」は世界でどう生きるかを論じる処世論であって、処世とは「この世で生きてゆくこと」の意ですから、決して現世の生を否定しません。むしろ、あるがままの現実を絶対的に肯定しようとする達観主義にほかなりません。 中国由来の禅宗なども、現実を絶対的に肯定しようとする点で、実は仏教の皮をかぶった老荘思想の達観主義なのではないか、と私は密かに感じることがあります。

 だとすれば、仏教的隠者と老荘思想的隠者の違いも、現世否定の立場に立つか、現世肯定の立場に立つか、の違いであると言えるのではないでしょうか。

老荘思想的隠者の場合、確かに禁欲的な単独生活を送りますが、無常観に拠ってそうするのではなく、むしろ外物に左右されず自由に生きるために隠遁しているようなところがあり、無為を旨(むね)としながらも、詩文などを楽しみつつ、酒も飲めば、友を迎えて清談を交わしたりと、気ままに生きる自由人的隠者といった趣きです。
その根底にあるのは、 あるがままの現実を絶対的に肯定して生きる達観主義です。

 これに対して、日本の古典作品に多くみられる仏教的隠者の場合、程度の差はあれ、より現世否定の色あいが強くなります。山林に籠って念仏修行し聖(ひじり)と崇められたような出家者の中には、極楽往生の様を見せるため信者の目前で焼身したり入水したりする者まで現れます。
つまり即身成仏という究極の現世否定まで進んでしまう場合もあるわけです。その根底にあるのは、仏教的無常観による現世よりも来世を期待する態度です。

 一般に、仏教的隠者の清閑の暮らしぶりは清澄な宗教的精神の現れとして好ましく描かれますが、それでさえも現世が肯定されているわけではありません。「後の世もいと頼もしき」といった具合に、来世での極楽往生が期待されるという点で好ましいわけです。隠者として清閑の暮らしをしていても、現世は「諸行無常・一切皆苦」であることに変わりはありませんし、現世でそのまま極楽浄土のような暮らしができるというわけではないのです。

 ただし、「般若心経」が空の讃歌であったように、空の概念は虚無主義(ニヒリズム)ではありませんから、現世の否定とはいっても彼らが自身の生に絶望しているわけでありません。
仏道修行の専念の中に極楽往生への確かな希望を持ち、それによってはかない現世での生に充実を感じるという一面もあるのです。


 ところで、老荘思想的な達観主義をよく伝えていると私が考える夏目漱石の文章を紹介しておきます。漱石晩年の『則天去私(そくてんきょし)』の境地を陶淵明の漢詩を引き合いに語ったものです。

廬(いおり)を結んで人境(じんきょう)に在り
而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問ふ何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと
心遠ければ地自ら偏(へん)なり
菊を東籬(とうり)の下に采(と)り
悠然として南山を見る
山気(さんき)日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥(ひちょう)相与(とも)に還る
此の中に真意有り
弁ぜんと欲すれど已に言を忘る


 《ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから、所謂(いわゆる)詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。〔中略〕
うれしい事に東洋の詩歌にはそこを解脱したのがある。『菊を東籬の下に采り、悠然として南山を見る』只(ただ)それぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景がでてくる。垣の向こうに隣の娘が覗いている訳でもなければ、南山に親友が奉職しているわけでもない。超然と出世間的に利害得失のあせを流し去った心地になれる。》


 この老荘思想的達観を題材にした2020年センター漢文の一節に、『靡迤(びい)として下田に趨(おもむ)き、迢逓(てうてい)として高峰を瞰(み)る』とあり、そこに込められた気分は、この陶淵明の詩の「悠然として南山を見る」の気分に重なるものです。


【軽井沢や八ヶ岳の別荘で薪を割るのは世俗の営みか? それとも世俗を超えた風情ある野趣か?】


 禅宗のお寺では、庭掃除から軽い農耕作業まで、寺の維持に必要な一切の仕事を修行僧が行います。この作業を作務(さむ)と言います。
作務は世間で言う労働とは少し違って、生活のためではなく、あくまで修行のためにするものです。

 ところで、定年でリタイアした人が、喧騒に満ちた都会を離れて、例えば、軽井沢や八ヶ岳の麓にログハウスなど建てて、自然の中で無心に薪を割ったりなどしながら余生を送るといった行為の裏側には、伝統的な隠棲思想が反映しているように見えます。

 それは、生活の糧を得るために迫られてする労役ではなく、むしろ、その行為自体の中に安寧の境地を見出す点で、禅宗の作務に近いものではないでしょうか。
先に私は、禅宗には老荘思想的な匂いがすると書きましたが、老荘思想においては人為的な作為は否定されますから、労役に対しても、あるがままの自然体でなければなりません。
菊を東籬の下に采り、悠然として南山を見る」の境地も、効率優先の必死の労働であっては成立しませんし、がんばって来年は菊の作付けを2倍にしよう、などと気負ってはいけないのです。

 そういう意味では、田園生活の清貧に甘んじた陶淵明とはいっても、あくまで貴族社会の相対的な清貧であって、大地に這いつくばって必死に生きる赤貧の農民とは立場が違います。

 2020年のセンター漢文に出題された五言詩においても農耕を描く部分がありますが、『欲を寡(すくな)くして労を期せず、事に即して人の巧(こう)罕(まれ)なり。…(注)人の手をかけ過ぎない 』とあるのは、老荘思想的な作為の否定と読めます。
つまり、この五言詩の作者においては、農耕は生活に窮してなすものではなく、むしろ、田園の自然美の中での晴耕雨読的な脱俗の営みの一つであるというふうに解釈できます。

 その2020年のセンター漢文の問5 ⑤には、「田畑を耕作する世俗のいとなみが」と書かれており、作者の農耕を俗事と見なしている点で、私はすぐに違和感を覚えました。
結局、'' 適当でないもの '' として、この⑤が正解なのですが、それは私に老荘思想的隠者の背景イメージがあるからであり、そうした知識のない一般の受験生が、与えられた詩句のみを手掛かりにして、はたしてこの違和感に行き着くものだろうか?という疑問は残ります。

欲を寡(すくな)くして労を期せず、事に即して人の巧(こう)罕(まれ)なり」から、労務に執着しない態度は読み取れても、それをもとに『作者にとっての農耕は世俗のいとなみとは言えない』と、キッパリ断ずるには、やはり、前提としての ''老荘思想的隠者 '' のイメージが必要であるようにも感じます。

2022年共通テスト漢文にも荘子の“ 胡蝶の夢 ”を思わせる老荘思想的内容の出題がありましたので、以下に紹介します。


第4問(漢文)

清の学者・政治家阮元(げんげん)は、都にいたとき屋敷を借りて住んでいた。その屋敷には小さいながらも花木の生い茂る庭園があり、門外の喧騒(けんそう)から隔てられた別天地となっていた。以下は、阮元がこの庭園での出来事について、嘉慶(かけい)十八年(1813)に詠じた【詩】とその【序文】である。

【序文】

 余(よ)旧(もと)より董思翁《とうしをう…明代の文人》の自ら詩を書せし扇を

蔵(ぞう)するに、「名園」「蝶夢(ちょうむ)」の句有り。

辛未《しんぴ…年号・嘉慶十六年》の秋、異蝶の

園中に来たる有り。識者(しきしゃ)知りて

太 常 仙 蝶(だいじょうせんちょう)

と為(な)し、之を呼べば扇に落(お)つ。

(ア)

之(これ)を瓜爾佳氏《くわじかし…満洲族名家の姓》

の園中に見る。

 客 有 呼 之 入 匣 奉 帰 余 園 者、

園に至(いた)りて之を啓(ひら)くに、則(すなは)ち

空匣(くうかふ)なり。

壬申《じんしん…年号・嘉慶十七年》の春、蝶

ふたたび余(よ)の園の台上に見(あらは)る。

画者(がしゃ)祝(いの)りて曰(いは)く、

 苟 近 我、 当  之。

蝶其(そ)の袖に落ちて

(イ)

視(み)ること良(やや)久しくして、其(そ)の形色を

(ウ)得、

乃ち従容《しょうよう…ゆったりと》として、

翅(はね)を鼓(う)ちて去る。

園故(もと)名無し。是(ここ)に於いて始めて

思翁の詩及び蝶の意を以て之(これ)に名づく。

秋半ばにして、余(よ)使(つか)ひを奉(ほう)じて、

都を出で、是(こ)の園も又他人に属す。

芳叢(はうそう)を回憶(かいおく)すれば、真に夢のごとし。

【詩】

春城(しゅんじょう)花事(かじ)小園多く

幾度(いくたひ)か花を看(み)て幾度か[ X ]

花は我が為に開きて我を留(とど)め往(とど)め

人は春に随(した)がひて去り

  春 何

思翁(しをう)夢は好(よ)くして書扇を遺(のこ)し

Ⅱ 仙 蝶(せんちょう)

図(ず)成りて袖羅(しゅうら)を染む

他日(たじつ)誰(た)が家か還(ま)た竹を種(う)ゑ

輿(こし)に座して子猷(しゆう)の過(よぎ)るを許すべき

       (阮元『揅経室集』による)



現代語訳

 私は旧(もと)薫思翁(とうしをう…明代の文人)が自(みずか)ら詩を書した扇(おうぎ)を所蔵していたのだが、 (その扇の面には)「名園」「蝶夢」の句が書かれてあった。
辛未(しんぴ…清・嘉慶十六年)の秋、ふつうとは異なってすぐれて美しい蝶が、私の庭園にやってくることがあった(=飛んで来た)。
識者(=知識ある者)が、(その蝶を)

太 常 仙 蝶(だいじょうせんちょう)

と判断し、蝶を呼ぶと、ひらりと扇に落ちてとまった。
 それから、ふたたび(この蝶を)瓜爾佳氏(くわじかし…満洲族名家の姓)の庭園に見た(=現れた)。

 客 有 呼 之 入 匣 奉 帰 余 園 者、

私の庭園に至って、この匣(=箱)を開くと、空の箱であった(=蝶の姿が消えていた)。

壬申(清・嘉慶十七年)の年の春、蝶はふたたび私の庭園の高台(こうだい)の上に現れた。
画家が祈って言うことには、

 苟 近 我、 当  之。

蝶はその画家の袖にひらりと落ちてとまり、(画家は)

(イ)

観察することやや久しくして、その蝶の形色を手に入れて(描くことができ
た)、すると、蝶はゆったりと羽ばたいて飛び去った。

私の庭園には、もともと名前がなかった。
そこではじめて、薫思翁(とうしをう)の詩と蝶の思いによって、これを名づけた。
秋の半ばになって、私は使者(としての使命を)奉じて都を出て、この庭園も他の人に属することとなった。芳(かん)ばしい草むら(叢…草むら)を思いめぐらせば、まことに夢のようである。


ー万物斉同(ばんぶつせいどう)・胡蝶の夢ー

 不思議な文章だなぁ、というのが最初の読後感です。魅惑的な蝶は変幻自在に現れては消えます。呼べば扇にフワリと落ちてとまる蝶は、他家の園中に現れたかと思えば幻のようにかき消え、数年後には、ふたたび阮元の園に現れます。扇に書かれた「蝶夢」という語句自体が、荘子の有名な ” 胡蝶の夢 " を思わせて暗示的です。この蝶の実存は、まるで現実と幻の境を変幻に揺れ動いているようです。
 そもそも、この文章は単なる備忘録に漢詩を付したものに過ぎないのか。それとも、はかなく消えてしまう蝶の話には、荘子の “ 胡蝶の夢 “を思わせる老荘思想的寓意が込められているのか。全体に恬淡(てんたん…あっさりとして執着がないこと)な筆致なので、どう受け取るかは、結局、読み手次第なのでしょうが、とにかく、印象深く心に残る詩文です。

 荘子の哲学を簡単にまとめますと、「人が考えだした様々な束縛を忘れて、世界の姿をありのままに受け入れよう」という考え方です。「是と非、生と死、大と小、美と醜、無と有」などの現実に相対しているかに見えるものは、人間の「知」が生み出した人為的な結果であり、荘子はそれを「ただの見せかけに過ぎない」とします。認識や分別といった人為的な「知」こそが相対を生み出しているのであって、人為をなくせば全ては同一である、というわけです。これを万物斉同(ばんぶつせいどう)と言います。

 二つの対立する要素が無いのですから、物事は全て一つであり「無為」の状態になることが必要であると荘子は説きます。何事も人為にとらわれず、世界をそのままに、あるがままに受け入れて生きよという、あのいわゆる「無為自然」の生き方になるわけです。
さらに、荘子にとっては、「無と有」という対極でさえ「人為」ではないかと考えます。有ることと無いことが同一であるという言説は、ひどく我々の思考の土台を揺るがして、深遠すぎて訳がわからない感じになりますが、荘子に言わせれば、有ると考えるのも人間の側の人為的な概念に過ぎず、無いと考えるのもまた然りであって、「無為」の視点からは全ては一つである、という解釈になるようです。
 一見、荒唐無稽な考えにも見えますが、現代物理学の先端でも『シュレーディンガーの猫』という、物理学的実存をめぐる有名な思考実験があって、観測者が箱を開けるまでは、猫の生死は決定しておらず、生きている猫と死んだ猫の状態が重なり合って存在している、と解釈されるそうですから、荘子の哲学も意外な先端性を示しているのかもしれません。

 今回の詩文に即して言えば、魅惑的な蝶は果たして存在したのか、それとも、最初から非存在の幻であったのか、そのような問いかけ自体が人為のなせるわざであり、本質において蝶の「有」も「無」も変わりがないという究極の達観主義をさりげなく寓意化したお話のようにも見えます。しかし、それが私の深読みに過ぎず、これが単なる備忘録であるのなら、捕まえた蝶はただ箱の隙間から逃げたということになるのでしょう(笑)。

 少なくとも、阮元(げんげん)は清朝末期の政治家でしたから、政務に疲れた身を、一時的にでも脱俗の境地に遊ばせることで精神的保養を図ろうとしたとは言えるのかもしれません。
リード文にある「小さいながらも花木の生い茂る庭園があり、門外の喧騒から隔てられた別天地となっていた」は、人為を離れ、原始的で小規模な農村生活を理想とした老荘思想の理想郷と重なります。荘子のいう ” 逍遥遊 " の世界に遊ぶといった境地であったのでしょう。

 漢詩の第三句「人は春に随ひて去り、春を如何(いかん)せん」という表現も、日本の古典和歌の「過ぎゆく春」というモチーフであれば、どことなく憂愁のかげを帯びるものですが、ここでは、もう少し乾いた達観、何事にもとらわれない心を言っているように感じます。

これを読む皆さんは、この恬淡な味わいの阮元の詩文に何を思われるのでしょう?
私には、『心はいかにして自由になれるのか』という問いに対する中国哲学の達した頂点を、さりげなく示しているようにも感じますが、私の深読みが過ぎるのかもしれません。





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