《 漢 文 背 景 知 識 》


― №1 儒教・天命・諫言 ―





 


 儒教のテキストを
四書五経(ししょごきょう)と呼びます。四書は『大学』『論語』『孟子』『中庸』の4種類の書物、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の5部の経書です。

 そこに書かれる内容はおおむね古代の聖人の記録ですが、宗教的な意味での聖人ではなく、儒教における聖人とは『
古代の理想的な政治家』のことです。儒教ではこれが価値の基準、行動の根拠になります。つまり、理想的な古代の政治に基準を置き、それを現在に再現しようとする尚古主義(しょうこしゅぎ)的な考え方が儒教の中心的な発想です。

 したがって、儒教が扱う領域は政治的な統治のあり方や、そこから派生される自己の処世のあり方といった領域に限られます。経験を超えた超常的領域、例えば、死後の世界などについて儒教は何も語りません。

 さて、古代の聖天子として重要なのは、漢単A面にも載っている「
尭(ぎょう)」と「舜(しゅん)」です。尭は王となり政治を機能させ、立派な政治を行い、人々を文明状態に引き上げました。その尭が歳をとって死にそうになると、自分の子ではなく、舜という臣下を後継者に指名しました。このように、自分の子ではなく、能力主義で王位を譲ることを『禅譲(ぜんじょう)』と言います。

 その舜も歳をとって死にそうになると、禹(う)という優秀な部下に王位を譲ります。つまり、禅譲が二代続いたわけです。その後、禹が死にそうになると、禹の息子が王の位を継ぎました。このように
王の子どもが王位を継ぐことを『世襲』と言います。これによって夏(か)王朝が開かれ、以後代々、中国の王朝は世襲制となりました。
つまり、儒教は禅譲を理想としつつも、現実には君主(王や皇帝)の位は世襲されるのがよいとする考えです。

 血縁の近さという取替可能性が乏しい基準によって王位継承される方が、つねに能力主義で勝負するよりも相対的に王権は安定しますから、統治の安定性といった観点からは、世襲の方が望ましいのでしょう。

 しかし、世襲の場合、世襲した王が必ずしも有能であるとは限りません。おバカな王が現れれば治世は乱れてしまいます。
 ではどうすればよいか?というと、君主の手足となって働く行政官僚が、主君と一体となって、つまり、トップリーダーとブレーンが一体となって有能ならばそれで良しとするのが儒教の考えです。

 そして、その
有能な行政官僚を養成するのが儒教の役割というわけです。

 この行政官僚には官僚のトップとしての
宰相(さいしょう=漢単B32=天子を補佐して政治を行う人)も含まれます。宰相は君主からある程度の権能を移譲されて具体的政務を行う重臣ですが、臣下であることには変わりなく、基本的には天子・皇帝・地方国家の君主などに政策提言する立場の有能な『士』の範疇に入ります。


 そう考えれば、例えば
漢単B20』の定義が “ (儒教などの)徳学を修めた立派な男子 “ となっていることや、『士君子の賢なる者、或いは四方より来たり、或いは境内に居らば、宜しく礼待を加へて、以て吾が仁(じん)を輔(たす)けしむべし。』〈朱逢吉「牧民心鑑〉というように、君主が賢なる士を礼遇し臣下に加え、自身の仁政を補佐させるといった話の背景がよく理解できると思います。

 ただし、仁政を行う主体はあくまで君主です。士君子は基本的にそれを補佐する立場ですから、士の登用の決定権は君主にあります。ここから、
有能な士を登用して用いることが、即ち賢明な君主のあるべき姿とする考え方が生じました。

「苟(いやし)くも其の人の才徳学識、人に過ぐる者あらば、当(まさ)に挙げて之を上(しょう=天子)に薦めて、以て国家の用と為すべし。(これ)尤も至公の論なり。而して人も亦た我の(=天子自身の)賢を称(=賞賛)せん。」〈牧民心鑑〉というわけです。

 士を迎える言葉に『一沐(いちもく)に三たび髪を握り、一飯に三たび哺(ほ)を吐く』というのがあります。これは、周の文王の子である周公が、一回の洗髪の途中3回も中止して髪を握ったまま賢者である士を出迎え、一回の食事の途中3回も中止して口中の食物を吐き出して士を出迎えたという故事からきています。





 ところで、儒教の大事な概念に『
忠(ちゅう)』と『孝(こう)』の二つがあります。
『忠』とは、簡単に言えば、君主への忠誠と献身を意味する言葉です。『孝』は狭義には父母を敬い、よく仕えることですが、広義には親族内の年長者への服従・先祖崇拝も含まれます。

 ですから、士もまた儒教的『忠』の概念に従えば、君主の思惑どおりに忠実に動いていれば問題は無さそうですが、実はそうではありません。受験漢文でおなじみの ”
諫言(かんげん)もの ” をいくらかでも解いたことのある人ならすぐに理解できるはずです。

 
漢単A14に載せられている『諫言(かんげん)』とは、臣下が主君に対して忠告し、いさめることです。『直諫(ちょっかん)』とは臣下が主君に対して遠慮なくその非を挙げて忠告し、いさめること、『諷諫(ふうかん)』は遠回しにほのめかすように忠告し、いさめることですが、こうした用語が使われる背景には、天子(=皇帝)や地方国家の君主の逆鱗に触れることを恐れず、率直に実直に国家のことを思って君主に抗言できる臣下こそが、真の忠臣であるとする考え方があります。

 これを、
社稷の臣(=しゃしょくのしん=国家の存亡を一身に受けて事に当たる重臣)という言葉で言い換えたのがH26東大漢文でした。 この逆が、諛臣(ゆしん=君主におもねったり、へつらったりする臣下)です。

 先ほど、中国の統治権力は血縁の正当性によって世襲されていくと書きましたが、儒教はその一方で、基底にあるローカルな農民血縁集団から政府の官僚機構によじ登るパイプを用意していました。農民のうちの上昇志向の強い有能な人間を官僚に加える制度が、あの有名な
『科挙』の制度です。

 つまり、血縁主義と能力主義を二元的に上手く組み合わせるのが儒教の統治戦略ですから、君主に登用された士はいわばエリート農民の代表として王の施政にコミットメントすることがもとより求められていたと言うこともできます。

 ところで、なぜ忠臣による諫言が王権の維持のためにそれほど重要なのかと言えば、儒教は
易姓革命(えきせいかくめい)を認めるからです。易姓革命とは、天子は天命(てんめい)を受けて天下を治めるが、もしその王朝の家(姓)に不徳のものが現れ出れば、別の有徳者が天命を受けて新たな王朝を開くことができるという考え方です。

 中国の天子(皇帝)にあたるのは、日本では天皇ですが、不徳な天皇が現れれば天皇制を廃して別な王朝を立てよといった発想は日本の歴史には一度も現れたことがありません。

 この点において中国の人々はまったく容赦がないように見えます。中国の歴史はいわば王朝の交代の歴史、革命の歴史です。このような革命を儒教は承認すると『孟子』という本にはっきりと書かれています。
 ですから、国家安泰の根本は有能な士を人材として得ることにあり、それが出来なければ王権が滅びるという考えが徹底しているわけです。

 しかもその評価は、諫言を為す臣下の側にも、それを受け入れる君主の側にも、相互的な評価として描かれるのが常です。つまり、直諫を為す臣下を真の忠臣として称揚すると同時に、
臣下が遠慮することなく実直に諫言できる状態を許し、そのような真の忠臣を抱え持っていること自体が、賢明な君主であることの証であるといった具合に評されます。





 例えば、H26の東大漢文には次のような問題が出題されました。

○ 上(しょう=唐の太宗)嘗て朝(朝廷)より罷(か)へり、怒りて曰く、「会(かなら)ず

須らく此の田舎翁を殺すべし」。后誰と為すかを問ふ。上曰く、「魏徴(ぎちょう=臣

下の名)毎廷我を辱(はずかし)むと」。后退きて、朝服を具(そな)へて庭に立つ。

上驚きて其の故を問ふ。后曰く、「妾聞くならく主明(賢明)なれば臣直(実直)なり

と。今魏徴の直なるは陛下の明なるに由(よ)るなり。
妾 敢 不 賀」。上乃ち悦(よ

ろこ)ぶ。


(問) 后はどのようなことについて「 妾 敢 不 賀 」と言ったのか、簡潔に説明せよ。『縦13.5㎝×横0.9㎝の枠1.5行〉

 「
賀(が)」は ” 喜びを述べて祝すこと ”の意であり、動詞化すれば「賀ス」です。白文の読みは『妾(しょう)敢えて賀せざらんや』→(私は自ら進んで喜びを述べて祝さないということができましょうか、いや、祝さないわけにはいきません)。
 つまり、設問の主旨は「どのようなことについて后は太宗に喜びを述べ祝しているのか」ということになります。これまでの説明で解答の方向性はもうお分かりですね。

答え→魏徴が太宗に直諫できるのは、それを受ける太宗が賢明な君主であることの証であるということ。





 最後に、天命によって統治権力を与えられた人が天子(皇帝)となるという場合の、『天』とは何なのかについて述べてみましょう。中国にはキリスト教的な意味での神(God)はいません。そのかわりに『天』があるのですが、神(God)と違って『天』には人格がありません。

 キリスト教のような意味での人格神ではないがゆえに、「
天命」「天帝」「上帝」などという言葉があるにも関わらず、『天』の意思も思惑も究極的には不確定なものです。
 結局、成り行きによって天下の覇者となった者が、事後的にそのこと自体を具象化して「天は我をして王たらしめんとす」と、あたかも自分が『天』によって委託を受けたかのように転倒して受け取っているようなところがあります。

 しかも、中世ヨーロッパの王権神授説などでは王権は神に対して責任を持ち、キリスト教の原理原則に従う責任を持ちますが、中国の場合、天命によって統治権力が与えられもキリスト教的な意味での審判やチェックがあるわけでもありません。

 結局のところ、大きな自然災害や農民の反乱などのない治世が長く続けば、それによって天子の天命は保たれていると判断されますし、逆に各地で農民反乱が起きたり天変地異が現れれば、皇帝の天命もすでに尽きたのではないかと人民によって忖度されるといった、すでに成り行きとして ”ある状態 “への人間の側の心理の反映のようにも見えます。

 『
孟子』という本には、「天」の実体は結局のところ農民の総意であって、政治がうまくいっていて、農民の支持が調達される限り、王権の正統性は証明されたことになる、などと書かれていて、漢文における『天』の概念はいわゆるキリスト教的な意味での「天」のイメージとはかなり異質なものです。

 ところで、
為政者の天命が尽きると人心が乱れ、自然現象さえもうまく機能しなくなるといった話題は、漢文にも古文にも出てきますから覚えておくと良いでしょう。

 例えば次の問題を解いてみて下さい。『天災』という語句の意味が現代語の " 自然災害一般 " といったニュアンスとはかなり違っていることがわかるはずです。





* 開元の初め、山東大いに蝗(イナゴ=大量に発生し農作物に害を与える昆虫

)あり。

姚元崇(ようげんすう=唐の宰相)使(つかひ)を分遣し蝗(イナゴ)を捕へ之を埋めん

ことを請ふ。

上(しょう=玄宗皇帝)曰はく、「
蝗は天災なり。誠に不徳に由りて致せり。卿(け

い=あなたが)蝗を捕ふるを請ふも、天に違ひて義を傷(そこ)なふこと無きを得ん

や」と。
                        「開天伝信記」による

 傍線部A「蝗 天 災 也」とあるが、玄宗がそのように述べる理由を簡潔に説明せよ。

[答] イナゴは皇帝としての徳に欠ける自分を諫める為に天がもたらしたと考えたから。

 最後の一文は「天の意向に違いて義をそこなうことが無いということが出来ようか→(つまり、今ここでイナゴを捕らえて埋めたりすれば、それは)天の意向に違いて義をそこなうことになるのではないか、の意」



 また、古文においても天命思想が出てくることがあります。



 例えば、源氏物語「明石の巻」には、都で引きつづく凶事や、自身の目の患いに動揺する朱雀帝が、源氏の都への召還を考え始める場面がでてきますが、あれなどはまさに天変地異や人心の乱れを "
為政者への天の諌(いさ)め " と受け止める感受性の現れです。

東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

 この歌は、太宰府へ流される際の菅原道真の離京の歌として有名ですが、ここにも天命思想の側面があります。

 天命を受けた天子(日本においては天皇)の統治に誤りが有れば、天の諭(さと)しとしての天変地異が生じるわけですから、道真が去れば梅は咲かなくなるという前提には、おのずと無実の左降を主張する含意があります。

 ただ、道真はそうした前提が実現化するのを禁じる方向で、慰撫する方向で歌を詠むことによって、都に残る妻子を慰め、同時に自分にも都の春を偲ばせよといった深い感慨をこの歌に込めているように感じます。

 ところで、
漢文の記述答案において「天子・皇帝」と書くべきところを、日本風に「天皇」と書いてしまうのは誤りですから注意して下さい。

 日本の「天皇」は中国的な意味での皇帝なのか、それともそれ以前のものなのか、これは江戸時代にも儒学者と国学者のあいだで論争になりました。

 儒学者は日本にも当然、天がなければならず、儒教原理に基づいた統治組織がなければならず、と発想していくわけですが、一方の国学者はいわゆる「漢心(からごころ)批判」によって中国の儒教文化で日本を理解するな!と主張します。(古文背景知識No.11 江戸国学思想を参照)

 結局、漢字が日本に入ってくる以前の無文字社会から天皇は存在したのだから、日本の天皇は儒教の派生物ではない、という説が優勢になって、中国の天子・皇帝とはちがってはいるけれども、それと同格に置かれるような「天皇」という言葉が使われるようになったようです。


【 天の辞書的な意味 】


⑴自然の摂理

⑵上帝・万物の造物主

⑶天の意思・めぐりあわせ





          
             
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